宇治拾遺物語(74)その1
これも今は昔。
堀河天皇の御時、陪従に家綱と行綱という兄弟がいた。
『*陪従というやからはそんなもんだといいながら、家綱・行綱兄弟の金玉の話は世に比べるものがないほどの**猿楽そのものだった。何のことやら分からない。まあ、先を焦らずに話を聞け。』
―横柄な言い草だ。まあ、御簾の中にいるのが大納言とは思わないだろう。
それに、こちらが引っ張り込んだのだからそれも仕方があるまい。―
『あれは恐ろしいほどの寒い夜だったが、家綱・行綱兄弟には一生に一度の晴れ舞台だった。』
―ぼろぼろの単衣を羽織っただけの、殆ど裸同然の坊主が菓子の代わりに酒を乞い、ちびりちびりと飲みながら話し始めた。
なんだか奇妙な気配がした。松脂の匂いがする。体がうっすらと燃えている。
このくそ暑いのに……。こいつは人間ではない。俺は初めて気づいた。
俺の目の前を通り過ぎていくのは人間だけではないのだ。―
『***内侍所の御神楽の夜、天皇から「今夜は珍しい猿楽をせよ」との仰せがあった。
「どんなことをしたら良いだろう」
と、家綱は思案して、弟、行綱を部屋の片隅によんで、
「珍しい猿楽をせよと承ったのだが、私が考えたことはあるのだが、どんなもんだろう」
と言ったので、
「どんなことをなさるつもりです」
と訊くので、
「かがり火が煌々と燃えているところに袴を高く引き上げて細脛(ほそはぎ)を出して、
「よりによりに夜の更けて さりにさりに寒きと ふりちうふぐりを ありちうあぶらん」
と言ってかがり火の周りを三遍ほど走り回ろうと思う。どうだろう言うので、
行綱が答えて、
「そうですね。ただし、天皇の御前で細脛かき出だして 、金玉を炙らんなど仰るのはまずいんじゃないですか」
と言えば、家綱、
「たしかにおっしゃるとおり。さればちがうことをしよう。相談してよかった」
と言った。』
―「お顔が真っ赤」と下女が耳元で言うので、燃えているのじゃなくて単に酔っているだけかも知れない。
―ろれつも少し怪しくなった。―
『殿上人など天皇の仰せを聞いていたので、
「今宵はどんなことをするのだろう」と注目して待っていると、舞人の長が家綱を召す。
家綱がでてきて、たいしたことのない内容で引っこんでしまったので、天皇以下が期待外れだとがっかりしているところに、
舞人の長が再び出て来て行綱を召す。
行綱は実に寒そうな様子で膝を股までかき上げて細脛(ほそはぎ)を出して、
がたがた震えて寒そうな声で、
「よりによりに夜の更けて さりにさりに寒きと ふりちうふぐりをありちう あぶらん」
と言ってかがり火の周りを十遍ほど走り廻ったので身分の高い人から低い者まで一斉にどよめいた。』
―俺は思わず噴き出した。
坊主もキャキャと笑った。
だが一番笑ったのは下女だった。小便をちびるほど笑った。―
*陪従(べいじゅう):賀茂・石清水・春日の祭りのときなどに,舞人とともに参向し管弦や歌の演奏を行う地下 (じげ)の楽人。→大辞林
**猿楽(さるがく)→平安時代の芸能。滑稽な物まねや言葉芸が中心で、相撲の節会や内侍所御神楽の夜などに演じた。→広辞苑
***宮中の賢所(かしこどころ)の別名。神鏡を安置し、内侍がこれを守護したからいう。平安時代には温明殿(うんめいでん)にあり、毎年12月、吉日を選んで、その庭上で神楽(かぐら)が催された。→広辞苑
以下次回。
To be continued
これも今は昔。
堀河天皇の御時、陪従に家綱と行綱という兄弟がいた。
『*陪従というやからはそんなもんだといいながら、家綱・行綱兄弟の金玉の話は世に比べるものがないほどの**猿楽そのものだった。何のことやら分からない。まあ、先を焦らずに話を聞け。』
―横柄な言い草だ。まあ、御簾の中にいるのが大納言とは思わないだろう。
それに、こちらが引っ張り込んだのだからそれも仕方があるまい。―
『あれは恐ろしいほどの寒い夜だったが、家綱・行綱兄弟には一生に一度の晴れ舞台だった。』
―ぼろぼろの単衣を羽織っただけの、殆ど裸同然の坊主が菓子の代わりに酒を乞い、ちびりちびりと飲みながら話し始めた。
なんだか奇妙な気配がした。松脂の匂いがする。体がうっすらと燃えている。
このくそ暑いのに……。こいつは人間ではない。俺は初めて気づいた。
俺の目の前を通り過ぎていくのは人間だけではないのだ。―
『***内侍所の御神楽の夜、天皇から「今夜は珍しい猿楽をせよ」との仰せがあった。
「どんなことをしたら良いだろう」
と、家綱は思案して、弟、行綱を部屋の片隅によんで、
「珍しい猿楽をせよと承ったのだが、私が考えたことはあるのだが、どんなもんだろう」
と言ったので、
「どんなことをなさるつもりです」
と訊くので、
「かがり火が煌々と燃えているところに袴を高く引き上げて細脛(ほそはぎ)を出して、
「よりによりに夜の更けて さりにさりに寒きと ふりちうふぐりを ありちうあぶらん」
と言ってかがり火の周りを三遍ほど走り回ろうと思う。どうだろう言うので、
行綱が答えて、
「そうですね。ただし、天皇の御前で細脛かき出だして 、金玉を炙らんなど仰るのはまずいんじゃないですか」
と言えば、家綱、
「たしかにおっしゃるとおり。さればちがうことをしよう。相談してよかった」
と言った。』
―「お顔が真っ赤」と下女が耳元で言うので、燃えているのじゃなくて単に酔っているだけかも知れない。
―ろれつも少し怪しくなった。―
『殿上人など天皇の仰せを聞いていたので、
「今宵はどんなことをするのだろう」と注目して待っていると、舞人の長が家綱を召す。
家綱がでてきて、たいしたことのない内容で引っこんでしまったので、天皇以下が期待外れだとがっかりしているところに、
舞人の長が再び出て来て行綱を召す。
行綱は実に寒そうな様子で膝を股までかき上げて細脛(ほそはぎ)を出して、
がたがた震えて寒そうな声で、
「よりによりに夜の更けて さりにさりに寒きと ふりちうふぐりをありちう あぶらん」
と言ってかがり火の周りを十遍ほど走り廻ったので身分の高い人から低い者まで一斉にどよめいた。』
―俺は思わず噴き出した。
坊主もキャキャと笑った。
だが一番笑ったのは下女だった。小便をちびるほど笑った。―
*陪従(べいじゅう):賀茂・石清水・春日の祭りのときなどに,舞人とともに参向し管弦や歌の演奏を行う地下 (じげ)の楽人。→大辞林
**猿楽(さるがく)→平安時代の芸能。滑稽な物まねや言葉芸が中心で、相撲の節会や内侍所御神楽の夜などに演じた。→広辞苑
***宮中の賢所(かしこどころ)の別名。神鏡を安置し、内侍がこれを守護したからいう。平安時代には温明殿(うんめいでん)にあり、毎年12月、吉日を選んで、その庭上で神楽(かぐら)が催された。→広辞苑
以下次回。
To be continued