■たかが殺人じゃないか/辻真先 2021.7.5
2021年版 このミステリーがすごい! 国内編第1位
推理小説であるから、先ず、犯人探しはする。
小説の舞台、登場人物から、犯人は誰なのか、予測はつく。
しかし、その犯人とおぼしき人物が好人物で、しかも、愛すべき人物だったら、想像の世界でも、何とも落ち着かなくなって心乱れる。
この時代、謄写版はもっとも簡便な印刷装置であった。自作の推理小説をプリントするため、勝利は部屋で原紙を切る作業に励んでいた。
今の若者には、この文章を読んで、どういうことかよく理解できないのではないか。
理解できた方、あなたは、“アプレゲール” すなわち 「おじさん、おばさん」ですね。
この推理小説の舞台は、ぼくと10~15年ほどのずれはありますが、幼い頃の体験は、ほぼ同世代。
ぼくの小中の頃は、どこの学校でも「印刷室」という名の独立した部屋があったと思う。
部屋にあるのは、謄写版のみ。
謄写版印刷は、とにかく汚い。
印刷するための油性インキが、辺り一面そこら中に飛び散って汚れる。
謄写版は、大がかりな印刷装置ではない。
長さ、幅は、わら半紙大。厚さは、10cmほど。台と網戸のようなスクリーンを張った上下にパッタンパッタンできる木枠からなる2層構造。
ロウ原紙を、このスクリーン下に挟んでインキをたっぷりつけたローラーでスクリーンを上からなぞる。すると文字が印刷される。ローラーからはインクが飛び散る。
学校では、一日中パッタンパッタン。
試験問題、家庭への連絡、職員会議資料、修学旅行のしおり、部活動の台本やクラス文集。様々な印刷物全て。
今のようにパソコンで原稿を作成して、プリンターに送る。という簡単なものではなかった。
試験の前日には、猛者どもが印刷室に忍び込んで原紙を回収。
広げて紙に抑えて転写した。とかの噂もチラホラと漏れ聞こえた。
大きくなっては、アジビラ。
ビラを作成している友達を部屋に訪ねると、天井から自転車のチューブが下がっている。
その先端は、謄写版のスクリーン枠に繋がっている。
ローラーで一刷して、ローラーをあげると枠はチューブに引っぱられて自動的に浮き上がる。
やおら謄写版脇の助手くん、紙を捲る。また、ローラーで押さえて、一刷り。
パッタンパッタン、日柄一日、パッタンパッタン。
彼らのビラは、二色刷り。 “撃沈”“鉄槌をくだす”は赤字で。
それにしても彼らは、原紙を切るのが速くて、うまかった。
板鑢のうえにロウ原紙を載せて、鉄筆で原紙を切る。
ぼくがやると画数の多い漢字などは穴が空く。文字通りの伏せ字。
学校の先生には、印刷屋さんに頼まれて夜なべの内職に励まれた方もあった。
当時はアルバイトではなく内職。時代を感じますね。
いろいろ懐かしい思い出とともに、この推理小説を楽しませてもらった。
のんびりとある意味豊かで懐かしい昭和の時代であった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/68/ba/90e3bd217341c7e2ea90f43607f1f758.png)
「言葉はともかく、死ぬほど腹が減った体験も忘れますかね」
「当然だ。人間誰だってイヤなことは忘れる、都合の悪い事実はなかったことにする。そんな人間ほど、堂々と生きてゆけるんだから。……忘れてはならないことまで、しっかり忘れる。その方が生きるのにラクなんだよ」
「郡司氏の警防団も便乗して、徳永先生による米英撃滅講演会を聞いただろうね」
「そんな草の根運動が、郡司団長の地方選挙の地盤造りに役立ったのさ」
「英米撃滅の講演が、民主運動の票集めになったんですか」
礼子が笑うと一兵もほろ苦い笑顔になった。
「看板なんて書き換えるだけですむ。看板描きの俺がいうんだ、間違いない」
「有権者の大人たちはコトバの裏を読むべきだよ。候補者の戦争中の言動を……」
さかしらな口をきく勝利に、大杉が水を浴びせた。
「日本人がそんなに賢けりゃ、あんな戦争はさせないさ。戦争前にも選挙はちゃんとあったんだ」
「あいにくだが、徳永先生も郡司さんも、本気で日本が勝つと思っておいでだった。……くり返すうちに、ご本人もその気になったらしい」
郡司に比べてもずっと若い恩地院長は、そういった。
「だからおふたりとも敗戦を、あの日の夕方までご承知なかった」
間をもたせるつもりか、刑事はタバコをくわえながら、
「女の子だろう、あんた。アプレゲールかね」
このころの流行語のひとつが“アプレゲール”(戦後派)だ。それまで存在しなかった価値観の生み出した非常識な----あるいは新鮮な常識に則る若者を一括して、マスコミはそういい習わした。多分に批判的な意味合いをこめて、であったが。
女は魅力的で、女は怖い。
勝利が男女共学から得た貴重な教訓だったが、共学を知らない夏木先生は女に弄ばれている。
『 たかが殺人じゃないか/辻真先/東京創元社 』
2021年版 このミステリーがすごい! 国内編第1位
推理小説であるから、先ず、犯人探しはする。
小説の舞台、登場人物から、犯人は誰なのか、予測はつく。
しかし、その犯人とおぼしき人物が好人物で、しかも、愛すべき人物だったら、想像の世界でも、何とも落ち着かなくなって心乱れる。
この時代、謄写版はもっとも簡便な印刷装置であった。自作の推理小説をプリントするため、勝利は部屋で原紙を切る作業に励んでいた。
今の若者には、この文章を読んで、どういうことかよく理解できないのではないか。
理解できた方、あなたは、“アプレゲール” すなわち 「おじさん、おばさん」ですね。
この推理小説の舞台は、ぼくと10~15年ほどのずれはありますが、幼い頃の体験は、ほぼ同世代。
ぼくの小中の頃は、どこの学校でも「印刷室」という名の独立した部屋があったと思う。
部屋にあるのは、謄写版のみ。
謄写版印刷は、とにかく汚い。
印刷するための油性インキが、辺り一面そこら中に飛び散って汚れる。
謄写版は、大がかりな印刷装置ではない。
長さ、幅は、わら半紙大。厚さは、10cmほど。台と網戸のようなスクリーンを張った上下にパッタンパッタンできる木枠からなる2層構造。
ロウ原紙を、このスクリーン下に挟んでインキをたっぷりつけたローラーでスクリーンを上からなぞる。すると文字が印刷される。ローラーからはインクが飛び散る。
学校では、一日中パッタンパッタン。
試験問題、家庭への連絡、職員会議資料、修学旅行のしおり、部活動の台本やクラス文集。様々な印刷物全て。
今のようにパソコンで原稿を作成して、プリンターに送る。という簡単なものではなかった。
試験の前日には、猛者どもが印刷室に忍び込んで原紙を回収。
広げて紙に抑えて転写した。とかの噂もチラホラと漏れ聞こえた。
大きくなっては、アジビラ。
ビラを作成している友達を部屋に訪ねると、天井から自転車のチューブが下がっている。
その先端は、謄写版のスクリーン枠に繋がっている。
ローラーで一刷して、ローラーをあげると枠はチューブに引っぱられて自動的に浮き上がる。
やおら謄写版脇の助手くん、紙を捲る。また、ローラーで押さえて、一刷り。
パッタンパッタン、日柄一日、パッタンパッタン。
彼らのビラは、二色刷り。 “撃沈”“鉄槌をくだす”は赤字で。
それにしても彼らは、原紙を切るのが速くて、うまかった。
板鑢のうえにロウ原紙を載せて、鉄筆で原紙を切る。
ぼくがやると画数の多い漢字などは穴が空く。文字通りの伏せ字。
学校の先生には、印刷屋さんに頼まれて夜なべの内職に励まれた方もあった。
当時はアルバイトではなく内職。時代を感じますね。
いろいろ懐かしい思い出とともに、この推理小説を楽しませてもらった。
のんびりとある意味豊かで懐かしい昭和の時代であった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/68/ba/90e3bd217341c7e2ea90f43607f1f758.png)
「言葉はともかく、死ぬほど腹が減った体験も忘れますかね」
「当然だ。人間誰だってイヤなことは忘れる、都合の悪い事実はなかったことにする。そんな人間ほど、堂々と生きてゆけるんだから。……忘れてはならないことまで、しっかり忘れる。その方が生きるのにラクなんだよ」
「郡司氏の警防団も便乗して、徳永先生による米英撃滅講演会を聞いただろうね」
「そんな草の根運動が、郡司団長の地方選挙の地盤造りに役立ったのさ」
「英米撃滅の講演が、民主運動の票集めになったんですか」
礼子が笑うと一兵もほろ苦い笑顔になった。
「看板なんて書き換えるだけですむ。看板描きの俺がいうんだ、間違いない」
「有権者の大人たちはコトバの裏を読むべきだよ。候補者の戦争中の言動を……」
さかしらな口をきく勝利に、大杉が水を浴びせた。
「日本人がそんなに賢けりゃ、あんな戦争はさせないさ。戦争前にも選挙はちゃんとあったんだ」
「あいにくだが、徳永先生も郡司さんも、本気で日本が勝つと思っておいでだった。……くり返すうちに、ご本人もその気になったらしい」
郡司に比べてもずっと若い恩地院長は、そういった。
「だからおふたりとも敗戦を、あの日の夕方までご承知なかった」
間をもたせるつもりか、刑事はタバコをくわえながら、
「女の子だろう、あんた。アプレゲールかね」
このころの流行語のひとつが“アプレゲール”(戦後派)だ。それまで存在しなかった価値観の生み出した非常識な----あるいは新鮮な常識に則る若者を一括して、マスコミはそういい習わした。多分に批判的な意味合いをこめて、であったが。
女は魅力的で、女は怖い。
勝利が男女共学から得た貴重な教訓だったが、共学を知らない夏木先生は女に弄ばれている。
『 たかが殺人じゃないか/辻真先/東京創元社 』
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