■バサジャウンの影/ドロレス・レドンド 2017.7.31
ベラギレ(belagile) 悪魔のような女、不思議な力を持った女。魔女。
『バサジャウンの影』に出てくる女性たちは、いずれも逞しく、賢い。
男は、揃いもそろってなさけなく、女々しい。愚者ばかり。
「訳者あとがき」に、こう書かれていた。
ウィキペディアには「バスク人のディアスポラ」という項目があるほど、バスク人の多くは故郷を離れ、帝国の植民地事業などに参加してきたという。男性が長いあいだ家を空けることが珍しくなかったたために、留守をあずかるのは女性の役目とされてきた。一家を守る女は、強くなくてはならなかったのだ。それは今日でも変わらない、と作者は語っている。
面白い作品とは思うが、話が進むに従って、犯人を段々と追い詰めていくミステリとはいささか趣を異にしている。
母と娘の問題や夫婦間の愛情の事など、そちらの展開が濃密で執拗です。
おもしろいが、異色のミステリ。心の問題が多く、少々おもたい。
ぼくには、後味の良くない作品でした。
「あなたの言うとおりね。でも泣き暮らした時期は、もう過ぎてしまった。彼のいびきを聞きなから泣いてばかりいたから、涙は涸れ果てちゃったわ。自分か情けなくて、彼を情けなく思うのも情けなくて、隣にいるこの人を尊敬することは決してできないと思いながら、泣いていたら、あるとき私の中でなにかが砕け散ってしまった。そのときまでは夫婦の関係を修復したいと思って流していた絶望の涙が、彼を拒絶する叫びに変わって、心の底から湧きあかってきたのね。ほとんどの人は、愛が終わればすぐに憎しみに変わると思っているけど、それは違うわ。愛は心臓が破裂するみたいにして終わるものだと思っている。私の場合はそうじゃなかった。愛はすぐに壊れたりしなかったわ。ただ、サンドペーパーで削り取るみたいにしてゆっくりと、毎日ゴシ、ゴシ、ゴシと削られていることに気がついてからは、どんどん壊れていった。そしてついに、もうなにも残っていないことに気づかされたのね、あの日に。ずっと前からそこにあった現実を目の前に突きつけられたようなものだわ。心が決まったことで長いあいだ忘れていた自由を感じることができた。
タロットとか魔女とか、中世的な雰囲気を物語りのなかに上手く取り入れています。
スペインやバスク地方から連想される雰囲気なのでしょうか。
タロット占いは、自分で自分を占ってはいけない。
「どうして自分で占ってはいけないんだろう?」
「自分自身を解釈しようとすると、客観性を失ってしまうものでしょ。不安や願望や先入観に邪魔をされて、正しい判断か曇っちゃうの。そんなことをすると不幸を引き寄せてよくないことか起きるとも言われているわ」
魔女が実存すると広く信じられていたのは、それほど遠い昔の話ではない。世の中を混乱させて破壊の種をまき、邪魔者を片づけてきた、邪悪な存在だった。
アマイアはホセ・ミゲル・バランディアランの『魔女と妖術』をまた手にとった。バスク州とナバラ州を中心に北部一帯に広く浸透している俗信では、全身にシミやほくろがひとつもなければ魔女であるのは間違いないとされてきた、と著者ははっきり書いている。
こんな笑えるような話も
あたしには、バサジャウンだったことがわかっていた。
その次の日曜日には、教会の告解室で、神父にそのことを打ち明けた。当時の神父はイエズス会のドン・セラフィンというとんでもない人でね、天使のような存在とはとうてい言えないのは確かだった。あたしを大嘘つきの恥知らず呼ばわりして、それだけじゃ足りないというように、告解室を出てくるとあたしに涙が出るくらいのゲンコツを食らわせた。そしてそんな話をでっちあげるのがどんなにいけないことかをお説教されて、家族にもだれにも二度とこのことは口にしないように言いわたされたうえに、罰として主の祈りアベマリアの祈りと使徒信条の祈り、それに回心の祈りをやらされることになったから、それを全部やり終えるのに何週間もかかってしまったよ。
『 バサジャウンの影/ドロレス・レドンド/白川貴子訳/ハヤカワ・ミステリ 』
ベラギレ(belagile) 悪魔のような女、不思議な力を持った女。魔女。
『バサジャウンの影』に出てくる女性たちは、いずれも逞しく、賢い。
男は、揃いもそろってなさけなく、女々しい。愚者ばかり。
「訳者あとがき」に、こう書かれていた。
ウィキペディアには「バスク人のディアスポラ」という項目があるほど、バスク人の多くは故郷を離れ、帝国の植民地事業などに参加してきたという。男性が長いあいだ家を空けることが珍しくなかったたために、留守をあずかるのは女性の役目とされてきた。一家を守る女は、強くなくてはならなかったのだ。それは今日でも変わらない、と作者は語っている。
面白い作品とは思うが、話が進むに従って、犯人を段々と追い詰めていくミステリとはいささか趣を異にしている。
母と娘の問題や夫婦間の愛情の事など、そちらの展開が濃密で執拗です。
おもしろいが、異色のミステリ。心の問題が多く、少々おもたい。
ぼくには、後味の良くない作品でした。
「あなたの言うとおりね。でも泣き暮らした時期は、もう過ぎてしまった。彼のいびきを聞きなから泣いてばかりいたから、涙は涸れ果てちゃったわ。自分か情けなくて、彼を情けなく思うのも情けなくて、隣にいるこの人を尊敬することは決してできないと思いながら、泣いていたら、あるとき私の中でなにかが砕け散ってしまった。そのときまでは夫婦の関係を修復したいと思って流していた絶望の涙が、彼を拒絶する叫びに変わって、心の底から湧きあかってきたのね。ほとんどの人は、愛が終わればすぐに憎しみに変わると思っているけど、それは違うわ。愛は心臓が破裂するみたいにして終わるものだと思っている。私の場合はそうじゃなかった。愛はすぐに壊れたりしなかったわ。ただ、サンドペーパーで削り取るみたいにしてゆっくりと、毎日ゴシ、ゴシ、ゴシと削られていることに気がついてからは、どんどん壊れていった。そしてついに、もうなにも残っていないことに気づかされたのね、あの日に。ずっと前からそこにあった現実を目の前に突きつけられたようなものだわ。心が決まったことで長いあいだ忘れていた自由を感じることができた。
タロットとか魔女とか、中世的な雰囲気を物語りのなかに上手く取り入れています。
スペインやバスク地方から連想される雰囲気なのでしょうか。
タロット占いは、自分で自分を占ってはいけない。
「どうして自分で占ってはいけないんだろう?」
「自分自身を解釈しようとすると、客観性を失ってしまうものでしょ。不安や願望や先入観に邪魔をされて、正しい判断か曇っちゃうの。そんなことをすると不幸を引き寄せてよくないことか起きるとも言われているわ」
魔女が実存すると広く信じられていたのは、それほど遠い昔の話ではない。世の中を混乱させて破壊の種をまき、邪魔者を片づけてきた、邪悪な存在だった。
アマイアはホセ・ミゲル・バランディアランの『魔女と妖術』をまた手にとった。バスク州とナバラ州を中心に北部一帯に広く浸透している俗信では、全身にシミやほくろがひとつもなければ魔女であるのは間違いないとされてきた、と著者ははっきり書いている。
こんな笑えるような話も
あたしには、バサジャウンだったことがわかっていた。
その次の日曜日には、教会の告解室で、神父にそのことを打ち明けた。当時の神父はイエズス会のドン・セラフィンというとんでもない人でね、天使のような存在とはとうてい言えないのは確かだった。あたしを大嘘つきの恥知らず呼ばわりして、それだけじゃ足りないというように、告解室を出てくるとあたしに涙が出るくらいのゲンコツを食らわせた。そしてそんな話をでっちあげるのがどんなにいけないことかをお説教されて、家族にもだれにも二度とこのことは口にしないように言いわたされたうえに、罰として主の祈りアベマリアの祈りと使徒信条の祈り、それに回心の祈りをやらされることになったから、それを全部やり終えるのに何週間もかかってしまったよ。
『 バサジャウンの影/ドロレス・レドンド/白川貴子訳/ハヤカワ・ミステリ 』