保津川下りの地元・保津小学校では、保津川開削400年を記念して、
「英国・エリザベス女王」を保津川下りに招待しようとビデオレターを製作、
昨年12月に英国に送付したところ、この度、英国王室から直に返事が届きました。
その返事の手紙には、な、なんと!
「来年、王室の一員が日本に行く可能性があるので、
もう一度年末に手紙がほしい」と書かれてあったというのです!
この手紙は英国王室の「調整・研究部」の担当官名で送られてきたもので、
内容の中に「女王陛下はビデオを興味深く受け取られた」とも記されてあり
小学生の熱い思いが、英国のエリザベス女王に届いたのです!
これは凄い!!ことです!
この手紙が直に英国王室から届けられたことで、来年以降に
エリザベス女王やロイヤルファミリーが保津川下りをされる可能性が
高まり、俄然、現実味を帯びてきたということを意味します。
保津川下りと英国王室のとの関係は、大正11年にまでさかのぼります。
当時、日英同盟の締結により、英国と日本間が親密になり
大正11年、英国王室から若きプリンス・ウェールズ皇太子を
日本に初めてお迎えしました。
その時に京都にも立ち寄られ、私達の「保津川下り」を楽しまれました。
そして、英国王室は、今の保津川遊船が大手資本から
独立するのに、深くかかわったというエピソードもあるのです。
昭和44年当時、保津川下りはある関西系の大手鉄道資本の関連会社で
あったが、船頭の賃金や労働条件の相違から長期のストライキに入っていました。
会社側との最後の団体交渉に決裂した船頭側は、自らの技術をよりどころに
自主運航に踏み切ることになったのです。
その微妙な時期に、英国のアレキサンダー王女が来日され
「是非、この機会に保津川下りをしたい!」という名指しでの
申し入れが、宮内庁から京都府を通じて、会社側に伝えられました。
会社側は「今、スト中なので、万が一の場合社会的責任は負えない」という
理由で王女の来訪を断られました。
しかし、京都府はこの会社側内部の都合での返答を認めず、運航するのか、
しないのかの是非を明確に問うかたちで会社側に迫りました。
本来、労働争議中に国賓クラスの訪問などありえない話なのですが、
この府の強硬な態度の裏には王女の強い希望があったといいます。
大正11年に保津川下りをされた英国皇太子の孫にあたる王女は、
その祖父から「日本の保津川下りはとても楽しかった~」
といつも聞かされていたというのです。
京都府としても万全の受け入れ態勢を整える必要があり、
会社側に営業再開の是非の選択を強く迫ったというのです。
この英国ならび国、府の圧力に屈するかたちで会社側は
「営業廃止」という方の判断を下しました。これは事実上
会社側の遊船事業撤退を意味し、今の保津川遊船企業組合
の基礎となる‘自主運航’が行われる流れをつくったのです。
その後、自主運航を後ろ押しするかたちで、昭和45年に
マーガレット王女と夫のスーザン卿も保津川下りを訪れられ、
企業組合の知名度も高まり、運営も軌道に乗り始めたと聞いております。
このようにみると、英国王室の訪問が結果的には、今の保津川遊船を
つくったともいえなくなもなく、大功労者なのかも知れないという
かなり因縁深い関係なのです。
この英国王室の方々を是非、保津川開削400年の記念の年に
招待し、新世紀保津川の門出を祝っていただければこんな素晴らしい
ことはない! そんな思いを保津小学校の生徒達がビデオレターという
かたちで行動を起こしてくれ、そしてその思いが女王陛下の目に止まり、
丁重なお返事までいただいた。
「僅かな可能性に賭けた子供達の思い、夢が英国女王の心を動かせた」
これだけでも本当に快挙です!
改めて自分たちが従事している保津川下りの知名度また角倉了以翁の偉大さを
再認識し、ますます気を引き締めて仕事にかからねばと意を強くするところです。
「英国王室を保津川下りへ」 今後も皆様のご声援よろしくお願いします。
*写真は大正11年の英国皇太子をお迎えした時のものです。
「英国・エリザベス女王」を保津川下りに招待しようとビデオレターを製作、
昨年12月に英国に送付したところ、この度、英国王室から直に返事が届きました。
その返事の手紙には、な、なんと!
「来年、王室の一員が日本に行く可能性があるので、
もう一度年末に手紙がほしい」と書かれてあったというのです!
この手紙は英国王室の「調整・研究部」の担当官名で送られてきたもので、
内容の中に「女王陛下はビデオを興味深く受け取られた」とも記されてあり
小学生の熱い思いが、英国のエリザベス女王に届いたのです!
これは凄い!!ことです!
この手紙が直に英国王室から届けられたことで、来年以降に
エリザベス女王やロイヤルファミリーが保津川下りをされる可能性が
高まり、俄然、現実味を帯びてきたということを意味します。
保津川下りと英国王室のとの関係は、大正11年にまでさかのぼります。
当時、日英同盟の締結により、英国と日本間が親密になり
大正11年、英国王室から若きプリンス・ウェールズ皇太子を
日本に初めてお迎えしました。
その時に京都にも立ち寄られ、私達の「保津川下り」を楽しまれました。
そして、英国王室は、今の保津川遊船が大手資本から
独立するのに、深くかかわったというエピソードもあるのです。
昭和44年当時、保津川下りはある関西系の大手鉄道資本の関連会社で
あったが、船頭の賃金や労働条件の相違から長期のストライキに入っていました。
会社側との最後の団体交渉に決裂した船頭側は、自らの技術をよりどころに
自主運航に踏み切ることになったのです。
その微妙な時期に、英国のアレキサンダー王女が来日され
「是非、この機会に保津川下りをしたい!」という名指しでの
申し入れが、宮内庁から京都府を通じて、会社側に伝えられました。
会社側は「今、スト中なので、万が一の場合社会的責任は負えない」という
理由で王女の来訪を断られました。
しかし、京都府はこの会社側内部の都合での返答を認めず、運航するのか、
しないのかの是非を明確に問うかたちで会社側に迫りました。
本来、労働争議中に国賓クラスの訪問などありえない話なのですが、
この府の強硬な態度の裏には王女の強い希望があったといいます。
大正11年に保津川下りをされた英国皇太子の孫にあたる王女は、
その祖父から「日本の保津川下りはとても楽しかった~」
といつも聞かされていたというのです。
京都府としても万全の受け入れ態勢を整える必要があり、
会社側に営業再開の是非の選択を強く迫ったというのです。
この英国ならび国、府の圧力に屈するかたちで会社側は
「営業廃止」という方の判断を下しました。これは事実上
会社側の遊船事業撤退を意味し、今の保津川遊船企業組合
の基礎となる‘自主運航’が行われる流れをつくったのです。
その後、自主運航を後ろ押しするかたちで、昭和45年に
マーガレット王女と夫のスーザン卿も保津川下りを訪れられ、
企業組合の知名度も高まり、運営も軌道に乗り始めたと聞いております。
このようにみると、英国王室の訪問が結果的には、今の保津川遊船を
つくったともいえなくなもなく、大功労者なのかも知れないという
かなり因縁深い関係なのです。
この英国王室の方々を是非、保津川開削400年の記念の年に
招待し、新世紀保津川の門出を祝っていただければこんな素晴らしい
ことはない! そんな思いを保津小学校の生徒達がビデオレターという
かたちで行動を起こしてくれ、そしてその思いが女王陛下の目に止まり、
丁重なお返事までいただいた。
「僅かな可能性に賭けた子供達の思い、夢が英国女王の心を動かせた」
これだけでも本当に快挙です!
改めて自分たちが従事している保津川下りの知名度また角倉了以翁の偉大さを
再認識し、ますます気を引き締めて仕事にかからねばと意を強くするところです。
「英国王室を保津川下りへ」 今後も皆様のご声援よろしくお願いします。
*写真は大正11年の英国皇太子をお迎えした時のものです。