保津川下りの船頭さん

うわさの船頭「はっちん」が保津川下りの最新情報や、京都・亀岡の観光案内など、とっておきの情報をお届けします。

川で生きるもののアイデンティティ~清滝川と私~

2012-01-26 01:02:03 | 船頭の目・・・雑感・雑記
皆さま、お久しぶりです。

書き上げなくてはならない原稿が3つも重なるというハードな日々の
お蔭でブログを更新する時間が取れず、更新が滞ってしまいました。

やっと、すべて目途が立ったことで、2週間ぶりの書き込みです。

先日、少し時間ができたので嵯峨清滝という愛宕山麓の小さな集落へ
遊びに行ってきました。

この集落を象徴するのが山間の谷を流れる清滝川です。

その名前の通り、透明度の高い澄んだ清らかな水が流れる川です。

そして、この川こそ、私が泳ぐというファーストコンタクトを体験した川でもあります。

まだ、小学生にもならない頃のある夏の日、この集落で生まれ育った父に
この川岸に連れてこられ、パンツ一丁で川に放り込まれたのです。

放り込まれた瞬間の水の冷たさと川底まで見えた透明さの感覚と記憶は、
今でも鮮明に覚えています。

手足をバタバタさせながら、流されまいと必死で泳ぎました。
とはいえ、水泳などしたことがなく、泳げるわけはないのですが
体は流れに乗り、自然と浅瀬へ運ばれ、足を川底に付け、立ち上がることができました。

立ち上がるとすぐに「なんということをするのか!」と一瞬、
父の行動が信じられない気持ちになりましたが、そこはここで育った人です。
初めての泳ぐ子でも、ここが安全な場所であることを熟知していたのですね。

普段は温厚で優しい父ですが、こんな荒っぽい方法で水泳を教えるとは、
さすがは山峡の里で育ってきた者独特の野生の教育方法です。
今から思うと、この時の思考の中に、この山峡の地で300年暮らしてきた
一族のアイデンティティとそこで育ってきた男の一面を垣間見せたのだという気がします。

父曰く「我が家の子どもは代々、こうして川に馴染み、泳ぎを覚えた」
ということらしく、泳ぎ方も知らないうちに川に放り投げて、
「生存本能を刺激することで泳ぎを覚える」というやり方でした。

この時の川中の風景を私は忘れることができません。
保津川で洪水の後に行う川作業で、石を撤去したり川底を整える為に
川底へ潜ると、その時の風景が瞬間的にフラッシュバックする時がありました。
初めての水とのふれあいは、私の潜在意識の中にしっかり埋め込まれたようです。

こうして清滝川で「泳ぐこと」と出会った私は、小学生になると
独自の水泳術を継承している京都踏水会の夏期講習を毎年受け、
琵琶湖遠泳も経験し、川と湖という自然の水環境の中で水泳を学びました。

それらの経験は、川のよさを知ると同時に、川や湖などの強大で得体のしれない
自然環境の「不気味さ」と「怖さ」を、直に「触れる」という体験の中で、本能的に
感じることでことができる回路も自分の中に植え付けていったと思っています。

でも「川は怖い」という感覚だけでなく「川は楽しい」という思い出もあります。
中学の時に学校の友達6名と自転車を漕いで清滝川へやって来て、
水中メガネとお手製の銛を持って、川へ素もぐりして
川魚を捕獲し(今から考えると違反行為…)川辺で串に差して
焼いて食べた楽しい思い出もあります。

そんな子供時代を過ごした私が今は、船頭という「川で生きる」職業を
選んでいることに何とも言えない因縁と必然性のようなものを感じる次第です。

清滝川は私にとって特別な川です。

そして今、私は再びこの川と深いかかわりを持つことになります。

ここにきて、川で生きるアイデンティティが益々研ぎ澄まされていく、
そんな予感を感じる今日この頃です。



君は角倉了以・素庵親子を知っているか?第5話 高瀬川開削の巻

2012-01-14 02:25:00 | 角倉プロジェクト・世界遺産事業
角倉了以と素庵親子が,近世の京都の町づくりに寄与した事業に
洛中の中に開削した運河・高瀬川があります。

高瀬川は鴨川の水を導き整備された人口河川で今も京都有数の繁華街・木屋町に流れを残しています。

文豪・森鴎外が小説「高瀬舟」を書いて一躍、全国的に有名になった川なので、
御存じの方も多いと思います。
開削工事は慶長16年(1611)に幕府の許可を得て着手、同年19年(1614)に完成しています。

今の二条木屋町から伏見港を結ぶ延長1.5㎞で、保津川を下る舟のように一方通行ではなく、
船頭が下流から綱で舟を曳き上げる「登り舟」もあり、回航型で舟が行き来したのです。
川筋は二条から東九条の西南でいったん鴨川と合流させ、再び竹田から伏見港へ入り、
宇治川と合流するルートで付けられましたが、大きな川との合流は水位調整が
必要となることから、かなり高度な土木技術が施されたことがわかります。

工事は3区間に分けて進められ、川幅の平均四間(約7m余り)の運河であった為、
荷物の積み下ろし場や舟の方向転換の場として「舟入」という浜を9か所整備、
また方向転換専門の舟廻しを2か所設置されました。
この姿が今、二条木屋町西詰にある「一ノ舟入」(史跡指定)だけが現存しています。

工事総費用は総額七万五千両(150億円以上)で、そのすべてを
了以・素庵親子の角倉家が出資しました。
完成後は「角倉申請書」や「京都御役向大概覚え書」などの古い資料によると
「全舟数百五九隻を回航させ、舟一隻一回に二貫五百文を取った」と書かれ、
うち一貫文は幕府へ、二百五十文は舟加工代へ、残りの一貫二百五十文が角倉家の利益でした。
単純計算して一日二百貫文(五十両)の収益があり、当時の平均年間所得が四両と
いわれていたことを考えると、相当、おいしい商売だったことがわかります。(京都の歴史4巻を参照)

登り舟には主に米が運ばれ、高瀬舟一隻に三十俵から四十五俵の米が積まれたそうです。
あとは酒や醤油、油、塩、砂糖といった食品からたばこや薬品などの物資も積まれていました。
また、下り舟には大八車や大長持、たんす、持仏堂など大きな荷物と
筆や竹皮などの物産が多くかったようです。

高瀬川沿いにはこれらの商品をあつかう商店が立ち並び、
近世京都の経済発展に大きく貢献する事業を起こしたのでした。

高瀬川を開削工事にも了以の豪胆な男気が見て取れる話があります。

開削工事に着手することを聞いた沿岸住民は開削で田地が損失する
不安や用水欠乏などを懸念する声が上がると「そのすべての責任は私が取る!」
と誓約書までかわし、なんともし事業が休止した時の補償まで行うと誓い、
住民を納得させています。

今の時代に一番求められる人物像ではないでしょうか?
角倉家は明治政府に移行するまで、この高瀬川と保津川の権利を持ち、
さらに淀川の通行管理も幕府から請け負うなど、
子々孫々が潤う経営基盤を確立していったのです。


君は角倉了以・素庵親子を知っているか?第四話 角倉素庵の巻

2012-01-11 14:27:00 | 角倉プロジェクト・世界遺産事業
桃山時代から江戸時代初期の角倉家の台頭をみるとき、当主だった了以にばかり
スポットが当たりますが、当時の角倉家の事業に子・素庵の存在を無視することはできません。

角倉素庵・・・本名・与一(よいち)
了以の17歳の時の子で、元亀2年(1571)に生まれていますから、
父と年の差がない上、了以が朱印船貿易に乗り出した年齢が50歳で
あったことを考えると、実際に現場を仕切っていたのは素庵であることは
想像に難くないと思います。

事実、保津川開削工事の許可を江戸にもらいに行くのも、また富士川などの
開削工事を依頼される窓口はすべて素庵が行っています。
こうしてみると、事業の実働は素庵が取り仕切り、了以は
陰で総合的な指揮をとっていたのではないでしょうか?

まさに、二人三脚で時代の変動期を生き抜いた角倉了以・素庵親子ですが、
最初からすんなりこの親子関係が出来ていたというわけではないようです。

剛毅闊達な了以の性格に比べ、素庵は母親似だったのか、おとなしく体の弱い体質で、
学問をこよなく愛し、朱子学の大家・藤原惺窩(せいか)や
書家で芸術家の本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)に入門していました。

自分の事業の跡を素庵に継がせようと思っていた了以は、学問にふける素庵を叱り飛ばし、
学者になる夢を絶たせて実業の世界へ引っ張ったのです。
了以自身も医者だった父の跡を継ぐのを拒み、実業の世界を歩んでいたので、
その心中は複雑なものがあったのではないでしょうか?

しかし、保津川の開削工事の際の許可申請時にみられるように、
その学問で培った人脈と教養はその後、実業の世界に大いに生かされました。

師匠・藤原惺窩にお願いしてまとめてもらった「舟中規約」は
異国人や芸術・芸能家など多種な人種が乗り込んでいた角倉朱印船の
乗船者に遵守させる規則で、長い航海での船内秩序を維持するのに役立ちましたし、
角倉家商売の精神ともいえる「人を捐(す)てて己を益するに非ず」という
「他人に損失を与えて、自分の利益を得ようとしない」という商道徳を掲げ、
近代的な企業モラルの確立により、明治期まで盤石の企業体をつくりあげたのでした。

その後、素庵は伏見港から淀、枚方を経て大阪までの淀川の水運事業を管理する
過書奉行を幕府より任命され、淀川を運航する川船の運上銀の徴収や役船の調達などの
業務を代々世襲にて行い、一族の子々孫々まで盤石な経済基盤を気付いたのでした。

また、素庵は琵琶湖を大坂と結ぶ水運ルートを企画した最初の人物でもあります!
慶長19年(16141)9月23日付の幕府(林羅山・儒学者)から角倉素庵に宛てた書状によると
「瀬田川、宇治川を利用し瀬田~宇治間の舟運を開きたいという計画を徳川家康に言上した」
という内容で、素庵の計画を聞いた家康は上機嫌で
「舟が上下できれば良く、もし出来なくても湖水の低下で6、7万石の上田が生まれる
湖水が2、3尺も引き下がれば近江で20万石の新田開拓が可能である」と
計画実現を期待するものだったといいます。

さらに、北国などの物貨を琵琶湖から瀬田川、宇治川経由で伏見へ送り、
開削した高瀬川を利用すれば、京へ運び込める舟運ルートもでき、また
舟の運航のみでなく工事で、琵琶湖の水位低下で広大な新田開発もできるという
一石二鳥という壮大な事業計画だったのです。
海外貿易で有した財力と河川工事の高い技術力を持つ、角倉家が本気で着工すれば、
実現も不可能ではなかったかも?しれません。
しかし、同計画に関わる史料はこの書状だけで、その後に着工された
形跡も残されていないのは少し残念な気がします。

時は経て、明治時代、琵琶湖疏水開削事業の立役者である工学者・田辺朔朗氏と
角倉一族とのゆかりもあるのですが、その話は後日に回すとして、
スケールの大きさという点でも、父了以に匹敵する気質を持っていたことがわかります。

素庵は隠居後、生来、希望していた学問・芸術の世界へ戻ったらしく、
嵯峨を拠点に出版業を立ち上げ、本阿弥光悦、俵谷宗達らの協力を得て
史記や方丈記、徒然草などを編集した「嵯峨本」といわれる書籍群を創刊しました。
手書きの味わいを最大限に引き出した活版印刷で、装飾にも芸術性を重視した、
日本印刷史上、有数の美しさを持つ本といわれています。

角倉了以の陰に隠れ、知る人ぞ知る、存在の素庵ですが、父了以同様、
日本の産業経済史に残る実業家であり、且つ当時の最高峰の教養人たちと
交流し、自らも芸術・文化などの面でも優れた美意識と高い教養を有する
日本芸術文化史に残る一流の教養人であったという点では、
父了以をも凌ぐ、稀代の経済人だったといえるのではないでしょうか。


君は角倉了以・素庵親子を知っているか?第三話 角倉朱印船の巻

2012-01-09 15:15:43 | 角倉プロジェクト・世界遺産事業
今回は少し原点に戻って、角倉了以・素庵親子の朱印船について目を向けてみましょう。

代々医師家系で名医を父に持つ了以でしたが、生来、腕白で手に負えない子供だったことから、
父も医師にすることをあきらめ、もう一つの家業であった土倉業(金融、質屋)を
継がせることにしました。了以も真面目で堅苦しい父を避けて、土倉業に専念します。
その屋号として「角倉」を名乗ったのでした。

しかし、父の影響を全く避けていたか?といえばそうではなく、
宗桂が明に留学で渡航した際に持ち帰った交易品を売りさばく事業を
了以が請け負うという関係でした。
宗桂が乗り込んだ船は嵯峨の天龍寺が仕立てた船でその名も「天龍寺船」といい、
渡航費や積荷の交易品は角倉一族で受け持っていたというから、
了以たち角倉の貿易事業はもう、その頃から始まっていたといってもいいと思います。

そして正式に角倉船を仕立て、貿易事業に乗り出したのは文禄元年、
豊臣秀吉の許可により始められました。

船は長崎から出航するのが常で、冬の北風を活かし安南(ベトナム)やカンボジア、
ルソン(フィリピン、)シャム(タイ)などアジア諸国をめざし、
翌年の春から夏にかけて南風を受け帰国するコースをとっていました。

朱印船の船体は白色で、長さ20間(約36m)、横幅9間(約16m)で帆は舳先から4枚設置され、
最高乗船人数は397人との記録もあり、推定トン数で700トンという
当時では最大級の規模の船だったといわれています。(天竺徳兵衞物語)

輸出品は銀や銅、硫黄などのほか絹織物、刃物、甲冑、屏風などの工芸品で、
輸入品は薬の原料や漆、生糸、象牙、絨毯、鹿皮など。
輸入品だけで諸経費を引いても10割の利益があった(オランダ商館日記)というからまさにドル箱船ですね!

船員には日本人だけでなく、操縦技術に優れていたヨーロッパ人を先頭に、
黒人やインド人など航海経験豊かな外国人を多数雇用し、国際色豊かな日本の船でした。
了以や素庵たちは、時代を先取り、すでに国際化を進めたのですね。
その先見性には感服いたします。

そして、当時の角倉朱印船の姿を詳しく教えてくれるものに、
清水寺に奉納されている絵馬があります。

この絵馬は角倉了以の子・素庵が江戸時代・寛永11年(1634)に
渡航安全に感謝して角倉船を描いた絵馬を奉納したもので国の重要文化財として、
今も清水寺の賽蔵殿に収蔵されています。

ちなみに清水寺と角倉家のつながりは深く、江戸時代に荒廃していた同寺を
三代将軍・家光が再興を決意、その経済的援助を角倉家などの豪商に依頼して
当時の建物をそのまま造立したといわれています。
歴史家の奈良本辰也氏は「清水寺の桃山風の雅な建築は、御朱印船による海外貿易で、
はるか遠くのジャワやマラッカのあたりまで船を出し、外国人との接触で
自覚した「日本」を意識することになる彼ら豪商の、新時代を担う気概が、桃山のおおらかで、
しかも優雅な世界をつくりあげたものだ」と著書で述べており、京都を象徴する清水寺建築に、
角倉など豪商たちの影響力が相当あったことを強調しています。

海という国境を越えた世界に身を置いた角倉了以・素庵親子は、国に先駆け、国際化を進め、
その利益を、外国人との接触の中で認識した「日本人として自覚」の上から
清水寺など仏閣の再興に還元し、今の京都の風景や文化を構築するのに
大きく寄与した人物なのです!

この偉大な日本人にして、実業家だった角倉了以が創設したもう一つの事業であり文化が
私たちの保津川下りであるということは、この上ない誇りであると思うのです。


君は角倉了以・素庵親子を知っているか?第二話 保津川舟運の誕生。

2012-01-08 12:01:29 | 角倉プロジェクト・世界遺産事業
角倉了以とその子素庵により保津川が開削され舟が通行できるようになったのが
今から406年前の慶長11年(1606)の8月でした。

了以たちの事業にとって海外貿易は一回の渡航で巨額の富が手に入るという点では
魅力的な事業ではあったのですが、リスクの高いものでした。
了以が他の豪商たちと違う点は、その半博打的な事業で満足するのではなく、
子々孫々まで収入が入る商売の仕組みを考えていたとこでしょう。
利益は薄くても長期的に安定した収益があがる事業として目を付けたのが
生まれ育った京都の嵯峨を流れる大堰川(保津川)でした。

大堰川…統一した名称は桂川といい、嵐山から上流の保津峡の間を保津川と呼ぶ。

この保津川では延暦3年(784)から始められた長岡京遷都の造営時に
さらに奥地の京北黒田(現在の京都市右京区京北)から山国庄(南丹市日吉)
保津(現在の亀岡市保津)などを経由して嵐山まで筏に組まれた材木が
流されたと記録されています。この筏探しは、延暦13年(794)平安京の造営時
には、数が増やされ都建築の用材として‘京都’の形成に寄与していました。

嵯峨に住まいをしていた了以は、ひっきりなしに上流から流れてくる筏を
見て知っていたことは想像に易く、おそらく彼のビジネスセンスなら、この川を
使用した物資輸送の重要性を熟知しており、以前から目を付けていたと思われます。

その了以の思いが事業化のイメージとして現れたのは、朱印船の港を視察した
帰りに寄った岡山県北部(美作国)を流れる和気川(現吉井川の支流)を行き来する
高瀬舟を見たことによるといわれています。
嵐山の中腹に建つ角倉了以のゆかりの大悲閣・千光寺にある林羅山(蘭学者)
が書いた「吉田(角倉の本姓)了以碑銘に「凡そ百川、皆以て舟を通すべし」と
保津川へ舟を通す決意が詳しく記録されています。

丹波地域の豊富な木材や薪炭、米や野菜などの物産を、効率よく運ぶには
丹波から京都へ向かって流れている保津川に舟を流すのが最適であり、
そうすれば京都と丹波の双方の利益となるという発想を思い立ったという訳です。

思い立つと行動するのも早いのが、いつの時代もできるビジネスマンに共通するところ。
了以は早速、川の実施調査をして事業化の確信を深め、
息子素庵を徳川家康がいる江戸に派遣して、幕府より
「古より未だ船を通せざるところ、今開通せんと欲す。これ二国(山城・丹波)の幸いなり」
という開削許可を得たのです。

保津川の開削は慶長11年(1606)の春とされ、8月までの約5ヶ月で
完成させるという当時では最も早い工程で仕上げたのです。
とはいえ、保津川が流れる保津峡という渓谷は、巨岩が奇岩がむき出しと
なる狭くて流れが渦巻く複雑な河川形状で、筏流しでも‘自然の要害’と
いわれた場所で、舟を通すのは容易ではないところ。
先の碑文によれば「大石あるところは轆轤(ろくろ)索を以て之を牽(ひ)き、石の水面に
出づるときは則ち烈火にて焼砕す。瀑(たき)の有る所は其上をうがって準平にす」と
記してあり、大石を大勢の人で引き動かし、水面に出て航行の邪魔になる石は焼き砕く
などの難工事を施したのです。

そんな複雑で難しい河川開削工事を繰り返しながら、僅か5ヶ月で丹波から嵐山までの
舟の航路を開き、物資輸送の舟運を整備した技術は、当時の土木技術では最先端のもの
であり、日本土木史に燦然と輝く画期的な工事だったことは間違いありません。

この自然の要害・保津川の開削工事の成功は幕府をも驚かせ、角倉一族の施行技術の
高さを見込み、その後、駿河の富士川や岐阜の天竜川の開削工事を依頼したほどです。
富士川は規模の流れも保津川よりあり、難工事だったが慶長13年(1608)に
完成させ舟運を開いています。この成功には家康自らが現地に視察いくほどの事業でした。

また、慶長16年(1611)了以は京都の洛中に鴨川の水を引いた人工運河として
高瀬川の開削工事に着手し、3年後の慶長19年(1614)に京都二条から伏見の港
まで工事を完成させます。高瀬川開削と舟運開通により、京都二条から伏見、そして
淀川を経由して大坂までの舟運ルートを成立させたのです!
これがどれだけ画期的なことであったか!強調しても強調し過ぎることはないでしょう。

丹波から生活基盤の物資が京の都へと運ばれ、都市機能整備の需要材の調達と
景気、物価の安定を支え、天下の台所・経済の中心地大坂をつなぐことで
最先端技術や異国文化の導入により発展させる、丹波―京都―大坂を結ぶ舟運による
物資流通ルートを整備したことを意味します。
その恩恵を受けることで、政治の中心が江戸に移り、地盤沈下が杞憂された
当時の京都も衰退することなく、文化都市として発展していった、その礎を
角倉家が築いたといっても言い過ぎではないと思います。

多くの京都人がこの了以たちの事業価値をあまりご存じないのは残念なことですが・・・
という京都人だった私も、保津川下りに関わるまでは了以のことを知らなかったのです・・・

角倉了以とその子素庵は朱印船貿易の大商人であり、国内では河川開削の技術集団を
組織し、舟運を開き利益を得るという手法を編み出した初の事業家で、日本産業経済史
の流れからみても極めて重要な人物であることは間違いないと思います。

海外貿易と河川開削による舟運事業という先見性、事業の合理性と計画性の高さ、
そして何より冒険心と志に裏付けられた意志の高さと強さ、スケールの大きさは
現在の企業家たちにも多くのヒントを与えてくれるのではないかと思います。

現在社会でいえば大手商社と大手ゼネコンを兼ね備える財閥や総合企業グループ
の総帥と呼べるのが角倉了以・素庵親子なのです。

角倉家は、3代将軍・家光の鎖国政策により朱印船貿易が禁止された後も
保津川を通行する舟からの通行料を徴収することで、明治時代まで継続性
のある経済的利潤を確保することに成功し、水利長者として栄えました。

この稀代の人物に創設され、現在も当時の姿を変えることなく現存している保津川下り。

この川には世界文化遺産に匹敵する要素が詰まっていると私自身は確信しています。

明日の「日本テレビ放送の「遠くへ行きたい」に原田龍二さんが出演されます!

2012-01-07 22:28:43 | 原田龍二さん
明日の朝7時30分から日本テレビ系列で放送される
「遠くへいきたい」に俳優の原田龍二さんが出演されます。

今回は伊達藩を歩く気分は江戸時代」ということで
宮城県白石市~七ヶ宿街道を訪ねる旅。

白石市は伊達正宗の懐刀といわれた片倉小十郎が治めた城下町。

二代目小十郎重長の鉄砲隊を再現した「片倉鉄砲隊」の面々に会い、
甲冑姿でメンバーとともに街を歩きながら白石城を目指すというもの。

また宮城県無形文化財である刀匠親子に、刀の魅力を教わられるらしく、
これは時代劇で殺陣や武士術に造詣の深い龍二さん好みの旅じゃないですか!

さらに江戸初期から伝わる手漉き和紙「白石和紙」を作る工房で和紙で織った
「紙布(しふ)」という布を見学したり、紙布でできたわらじで七ヶ宿街道を歩いたり
ご当地のそば屋を食べたりと、学びと食の魅力満載の旅になったようです。

ぜひ、少し早起きをしてご覧下さい!


「遠くへ行きたい 伊達藩を歩く 気分は江戸時代」
―宮城県 白石市~七ヶ宿街道―
放送;日本テレビ系列 1月8日(日)7:30~8:00 放送
旅人:原田龍二。

新春企画 君は角倉了以・素庵親子を知っているか?第一話

2012-01-07 02:39:44 | 角倉プロジェクト・世界遺産事業
角倉了以・・・安土桃山時代から江戸時代初期にかけて京都を拠点に
活躍した豪商にして私達、保津川下りの創設者・初代社長ともいえる存在。

その志の高さとスケールの大きさでは当時の豪商の中でも、際立つ存在である。

近世初期から活発化した朱印船貿易で活躍する一方、徳川家康の命を受け、
いくつかの河川を切り開いた最先端土木技術を有する技術者の一面も持つ実業家だ。

注目したいのは、そのどちらも「船」という乗り物がキーワードになっているところ。

ここが了以のビジネスセンスをみる時に見逃せないところで、
当時​、台頭してきた他の豪商たちとは大きく異なる点だといえる。

了以の本姓は吉田といい、近江出身の医術者の家系に生まれている​。
吉田家は医術で室町幕府のお抱え専属医である一方、土倉(金融​業も兼業しており、
京の嵯峨を中心に活躍していた。
了以の父・​宗桂も医師で、明(中国)に留学経験を持つ最先端の医療知識を持っていた。

了以は18歳の時に家督を継いでいるが、医術の道には進まず実業の道を選び、
50歳の時に朱印船貿易に着手した。
この発想は父か​ら海外の情報を聞いていたことが大きな起因になったといわれている。

角倉の朱印船貿易の先は、安南国(ベトナム)が中心で
北部のトンキンを渡航先にしており、航海には片道約一ヶ月以上は
かかったといわれている。

航海中に難破したり、海賊船に襲撃されたりする危険もはらんだリスクの大きい事業であったが、
一回の渡航に成功した時の利益は10億円単​位ともいわれ、危険性はあっても
誠に魅力のあるビジネスだったことは間違いない。

時は十六世紀半ば、当時の強国スペインやポルトガル、スペインにオランダなど
世界中が大航海時代を迎えていた頃。その大航海時代の潮流に乗り、
東南アジアという海外に打って出た日本で初めての大貿易商人といっていいだろう。

その冒険心溢れる商魂で、通算航海数17回という
当時では最多の航海に挑んだ稀代の起業家であった。

そんな了以が、息子・素庵と一緒に、次に目を付けたのが保津川だったのある。

(つづ​く)

平成24年、保津川下りは今日から運行を開始いたします!

2012-01-05 09:16:49 | 保津川下り案内
2012年に年が変わり早、5日。

巷でもそろそろ初仕事を始められた方も多いことと思います。

保津川遊船は本日の5日から今年最初の営業を始めます。

‘冬’の保津川下りは、その他の季節のような賑やかさは影をひそめ
静かな時が流れ、凛とした空気に包まれた渓谷を縫いながら流れていきます。

静寂の渓谷に舟の櫂を引く音だけが「ギィ~ ギィ~」と響き渡ります。

‘自然の中で生きている’ということを人に‘実感’させる
空間がそこにある‘冬’の保津川下り。

ポカポカ暖房船に揺られながら2時間の船旅。

暫し、日常の暮らしや街の喧騒から離れ、大自然の静寂の中、
冬の自然に癒しを感じてみてはいかがでしょうか?


今年も皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。


平成24年度  保津川遊船企業組合 船士 はっちんこと豊田知八

新年あけましておめでとうございます。

2012-01-01 00:25:03 | 船頭
「保津川下りの船頭さんブログ」をご覧の皆様。

新年明けましておめでとうございます。

旧年中は、我がブログならびに保津川下りに一方ならぬ
ご厚誼を賜り、誠にありがとうございました。

今年も「ブログ」を通じて、自分自身の歩いてきた足跡と存在の記録を記しながら
自分らしく‘京都の香り‘をご覧下さる皆様にお届けできればうれしく思います。

皆様には「保津川下り」と「保津川下りの船頭さんブログ」に
変わらぬお付き合いの程、何卒宜しく御願い致します。

本年も皆様方の一層のご指導並びにご鞭撻を賜りながら、
「今、生きている」喜びと人生のロマンを胸に、熱く生き、歩んでいきたいと思います。

何卒、ご愛顧のほど、よろしくお願い申し上げます。

      
      平成二十四年  元旦  船頭 はっちんこと豊田知八