保津川下りの船頭さん

うわさの船頭「はっちん」が保津川下りの最新情報や、京都・亀岡の観光案内など、とっておきの情報をお届けします。

角倉了以没400年記念企画「了以伝」・其の参 「土倉業としての角倉家」

2013-06-24 17:22:36 | 角倉プロジェクト・世界遺産事業
了以の父・宗桂は二度、明に渡り医学を極めた、京の都に聞こえた名医だったが、
生来、医師の家風が肌に合わないと感じていた了以は、成人すると
吉田(角倉)家のもう一つの家業であった土倉の仕事に関わるようになる。
父も可愛げのない無骨な性格でわんぱく小僧だった了以には医師を継がせる気はなく、
土倉をやらせる心つもりだったようだ。

ここで土倉という事業について説明する必要があるだろう。
土倉とは、今でいうと金融業で、質屋である。
質物を保管する蔵を持っていたところからその名が付いた。
お金の貸主は貧しい農民庶民から武士、公家までの広い範囲におよび、
当時の足利幕府の経済基盤を左右するほどの力があった。
また、応仁の乱以後、幕府の租税が減少したため、土倉と酒屋からの課税収入が重要になり、
幕府末期は将軍家の生計も支えるほどにまでなっていた。
まさに室町幕府の維持に欠かせない存在にまで影響力を増していた。
さらに土倉はたいてい酒屋も兼業しており、その酒の製造販売は京都でも相当の数量に迄び、
その売上を活用して金融業の資金としていた。

了以が住んでいた嵯峨では当時16軒もの土倉があり、天龍寺から臨川寺付近に多く軒を連ねていた。
角倉(吉田家)の土倉は嵯峨の大覚寺の境内で営まれていた。
創業は了以の祖父・宗忠だといわれる。寺は土倉の賃貸料を徴収し、寺の維持に当てていた。

日本は南北朝の時代から、物々交換経済から貨幣経済に移行する時期に入り、
自給自足していた農民も金銭の必要に迫られることが多くなり、田畑を抵当に入れ、
土倉からお金を借りなければならなくなってきた。
また武家も物価高や政治動乱で資金が不足し、武具など私財を質入れる者も増えた。
さらに社寺も荘園制度の崩壊から年貢が上がらず困窮する事態が起こっていた。

田畑を失い作物も収穫できなくなった農民は生活の困窮に陥り、集団化して
一揆を起こす事件が増えだす。暴徒と化した農民集団は土倉に借金を棒引きするよう、
幕府に迫り、徳政令を無理やり出させ、過激な者は土倉を襲撃する武力行使にも出たりもしていた。

幕府にはこの一揆を鎮圧する力はすでになく、また武士も自分の借財も帳消しにできるので、
一揆をけしかける者も少なくなかった。
その結果、多くの土層業者が多大な損害を受け、商売を廃業するところも出てきた。
土層からの課税を頼りにする幕府の財政も打撃を受け、衰退の一途をたどることとなる。

土倉業者は自身で店を防衛する必要性に迫られていた。
了以の父、宗忠は防衛策として、嵯峨で信仰を集めていた愛宕神社との関係強化を図る。、
進んで寄進や灯明費を負担するなど神社との関係を深めることで、徳政令から除外される特別待遇を得る策だ。

当時の嵯峨では、いかに愛宕神社の山岳信仰は畏怖され、神威が強かったということがわかる。
神社も強力なスポンサーとなる角倉家との関係強化は願ってもないことだった。

こうして愛宕神社の威光を背景に、室町末期の動乱を生き抜いた角倉家の土倉業は
大覚寺境内だけでとどまらず、次々に一族系列の店舗を増やし、嵯峨で独占的な勢力となる。
吉田本家宗忠の子・与左衛門からその子の栄可へと引き継がれる。
そして、了以は、この栄可8従兄弟)の娘と結婚することで、
土倉角倉の中心的人物に成長し、歴史の表舞台に姿を現すのである。


師匠をたずねて。保津・船頭の里へ。

2013-06-15 07:43:07 | 船頭
407年続く保津川下りには、その伝統を受け継ぎ、守ってきた船頭たちが住む村「保津の里」があります。
昨日は所要で保津の里を訪れる機会があったので、久しぶりに私に保津川下り舟の操船技術を教えて下った「師匠」の家を訪ねてまいりました。

師匠はおん歳82。お父さんもおじいさんも保津川の船頭だったという、根っからの船頭一家で育たれた方です。

さすが、長年、保津川で心身を鍛え上げた方です、顔艶もよく、まだまだご健勝のこと。
今も田や畑に精を出されているようです。

久しぶりに顔を見せた私に「お前、今、舟の専務になったんやってな~えらくなったな~」と笑顔で出迎えて下さいました。

新人船頭で入った時は、技術、精神とも厳しく指導され、怖くて顔をまともに見れない日もあったほどの方でしたが、
今では温厚ないいおじいさんって感じで、褒めて下さいました。

保津川下りの舟は、407年前に瀬戸内水軍の旗頭・来住一族のよりすぐりの船頭が保津川にやって来て
開発した操船技術を今に伝えているもので、いわゆる免許・資格といわれるものは存在しません。
エンジン等の動力は櫂漕ぎと竿で流す、世界に一つしかない川舟の技術です。
その中で「一人前」と評価する免許皆伝は、指導し連れて行く師匠が下す事になります。
師匠は長年のキャリヤと熟練の技術を備えた者が責任をもって一人の新人を指導し、一人前に導かねばならのいです。
その為、新人の2~3年間は毎日、師匠に付いて川を下り、技術を指導されるシステムで
400年以上、この川下り技術を継承してきたのです。


師匠に一人前にしてもらった私は、師匠が定年退職されるまでの約10年、舟に連れっていって貰いました。
また、ご一緒にテレビ朝日の「人生の楽園」に出演したり、お宅で櫂ひもの編み方を教わったりと、
本当に多くの思い出があります。
久しぶりの再会は、昔話や今の遊船の話をするなど、心和む時間を過ごさせていただきました。

別れ際に「遊船を頼むぞ!」と師匠が仰いました。その目は現役当時の鋭い「保津川の船頭」の目でした。
今でも、保津川下りを愛されているのだと強く感じました。

私は保津出身の船頭ではありませんが、この里に訪れると、修行時代のなんとも懐かしい匂いを感じます。

私にとって「保津・船頭の里」は、保津川400年の歴史と伝統に心からつながることができる大切な場所なのです。