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ボルシェビキ革命と民族主義 革命家の矜持

2017-11-20 03:01:08 | 日記
A.革命のなかの政治
 とりあえず苦境を脱するために、あんまり褒められる策ではないが、力に任せたあっと驚く強硬方針をあくまで一時的に採用し、落ち着いてきたらもっとみんなが満足する形にもっていく、というやり方を、政治の世界では追い込まれた権力者がしばしば採る例は多い。先頃の総選挙で民進党がまるごと他の政党に合流するという策に失敗して分裂してしまったのなども、お粗末な思いつきで笑えるほどの短期的奇策だったが、これに関わった政治家たちは、自らの政治行動の決断が来年どころか三日先のことしか考えていないことを天下に露見させた。
 ロシア革命は、それに比べればはるかに巨大な歴史の実験で、個々の局面で指導者たちが何を考え、どういう行動をしたかが問われるが、多くの決定はやはり目先の半年、せいぜい1年くらいの政治状況の目まぐるしい転変に対処していただけで、多くの策はとりあえず一時的にやってみて、長期的戦略は後で考えようとして、ほとんど失敗に終わったようだ。しかし、それを正直に言ってしまうと人民も世界も、ずっこけて失望してしまうから、表向き「輝かしい革命の勝利!偉大な指導者の成果」と讃美し、幹部たちの内部では、激しい権力闘争に明け暮れていたわけだ。革命初期にすでにこうした「戦時共産主義」の弥縫策が現れた。

「内戦が展開されるなかで、ソヴィエト政権は国内秩序を維持するために、戦時共産主義とよばれる経済政策を採用することになる。都市部にしか権力基盤をもっていなかったこの政権に、春から重大な食糧難が諸都市で生じた。農民たちは「土地布告」によって細分化された土地の分配を受けた。内戦のなかで農業生産は低下していたうえに、農民たちも以前とはちがって十分に食事をとるようになっていた。さらに、食料の流通・輸送が滞ったことも、都市の食糧問題に拍車をかけた。
 一八年五月、ソヴィエト政権は食糧問題がさらに深刻になることを見越して、国家が穀物を独占することのできる「食糧独裁令」を交付した。これは戦時共産主義の主要な柱であった。翌六月には、穀物調達を円滑に進めるため農村に貧農委員会が設置され、富農に食糧の供出を強制しだ。こうして、食糧割り当て徴発制が実施され、農民は余剰穀物を国家に引き渡すことが義務とされた。しかし、このような政策は農民のはげしい反発を招き、春から夏にかけて各地で多くの農民反乱を引き起こした。
 戦時共産主義のもう一つの柱はすべての工業の国有化であった。この政策も効果はあがらず、二〇年には工業生産が戦前の七分の一にまで落ち込んでしまった。極度の国家統制のなかで、商品経済は封じ込められてしまう。経済面にとどまらず政治面でも、内戦期に重大な枠組みが築き上げられた。共産党と国家が一体化した一党国家体制、ソヴィエトと党機関による二重行政、チェカーによるきびしい監視体制がそれである。その後のソ連社会を特徴づける基本的な枠組みが内戦期につくられたのだが、これが「戦時」の偶然の産物であったのか、ボリシェビキの本質にもとづくものだったのかは議論の分かれるところである。たんなる偶然でないことだけはたしかであろう。
 一八年一月に成立した「ロシア連邦共和国」の正式名称は、ロシア・ソヴィエト連邦社会主義共和国」であった。ソヴィエト政権下のあらたな国家は「連邦国家」とされたのである。多くの民族地域をかかえる広大な領土に、どのような連邦制がしかれていたのだろうか。
ロシア革命が労働者・兵士によるボリシェビキ革命、農村における農民革命および民族地域における民族革命の複合体として進展したことはすでに述べた。しかし、革命後はこれら三要素が相互に対立することになる。とくに民族革命はソヴィエト政権と激しく対立した。革命後の民族地域の動きを概観してみると、国際世論の圧力や住民の根強い反ソヴィエト闘争があったバルト海沿岸のエストニア(リトアニア、ラトヴィアとともに、一九二〇年に独立)を除き、ウクライナ、ベラルーシからザカフカス、ムスリム地域、中央アジアにいたるまで、最初はそれぞれの地域の民族派の政権が成立したことがわかる。しかし、それは結局赤軍によって打倒され、ソヴィエト政府が樹立されるという経緯をたどっている。
 一九年三月に開催された第八回ロシア共産党大会の決議は、これら民族地域の共和国と連邦の関係や共産党と国家の関係を規定していて興味深い。それによると「ロシア連邦共和国」を構成する西部のウクライナ、ラトヴィア、リトアニア、ベラルーシの各ソヴィエト共和国は形式的には、主権をもった独立共和国であった。しかし、各国の共産党は独立した組織ではなく、ロシア共産党の一支部にすぎないとされる。一党国家体制が築かれており、中央集権的組織の共産党が国家より大きな権限を有していたことから、共和国間の関係より等関係のほうが実質的な意味をもっていた。ロシア共産党が連邦を牛耳っていたのであり、実際には中央集権的な統治がおこなわれていた。「連邦国家」とは名目にすぎなかった。
 同様のことは、一九年三月に各国共産党を指導する機関として創設されたコミンテルン(共産主義インターナショナル)にもあてはまる。コミンテルンが世界党とされ、各国共産党はその支部と規定された。次第に、コミンテルンの利害はソ連の利害と重なっていく。コミンテルンを指導するロシア共産党は国家と一体化していたから、これは当然のなりゆきであったが、このために各国共産党は多大な影響を受けることになった。
 戦時共産主義のもとで、極度の国家統制による経済政策がとられたが、干魃による凶作にみまわれ、これが軌道に乗らず穀物の収穫は激減し、二一年には数百万人が餓死している。そのため、二一年春には新経済政策(ネップ)への転換がおこなわれた。新経済政策の主要なものは、農民が嫌悪していた食糧割り当て徴発制度の廃止と現物税制度の導入である。これは農民に好意的に受けいれられ、その結果、農民反乱は沈静化した。
 もう一つは、英ソ通商協定にみられるように、資本主義諸国と経済関係を結んで経済復興に役立てようとした。さらに、経済の専門家集団を中心としたゴスプラン(国家総合計画委員会)が設置され、混合経済が支配的になった。経済政策の転換にともない、「連邦国家」の実質化の動きも見られた。
 連邦と共和国との関係は条約によって規定されるべきであった。二〇年から二一年にかけて、アゼルバイジャン、ウクライナ、ベラルーシ、グルジア、アルメニアの各共和国が「ロシア連邦共和国」と個別に同盟条約を結んだ。新経済政策が動き出していた二二年になると、ウクライナ共和国は「ロシア連邦共和国」が中央集権的な越権行為をくり返し、ウクライナの主権を侵害しているとして抗議した。
 ソヴィエト政権は「ロシア連邦共和国」と独立した諸共和国とのあらたな関係を築き直す必要性を認め、八月にはロシア共産党組織局がこの問題に関する委員会を発足させた。翌九月、この委員会の中心メンバーであったスターリンは独立した主権共和国を廃止し、それらを自治化して「ロシア連邦共和国」に編入し、新しい連邦の名称を「ヨーロッパとアジアのソヴィエト共和国」とするという「自治化案」を提起した。
 この「自治化案」に対して、グルジアとウクライナは反対の立場を表明した。レーニンは「自治化案」には「大ロシア排外主義」の傾向が強くみられるとして、反対の立場をとり、連邦の名称として「社会主義ソヴィエト共和国連邦」を提唱した。十月には、レーニンの修正を受けいれた連邦形成案がロシア共産党中央委員会総会で採択された。この結果、ソ連邦はロシア共和国、ウクライナ共和国、ベラルーシ共和国、ザカフカス共和国(実際には、アゼルバイジャン、グルジア、アルメニアの三つの独立共和国からなっていた)の四ソヴィエト共和国によって形成されることになった。これら四共和国は対等な共和国としてソ連邦を形成し、連邦から離脱する権利をもつとされた。
 ザカフカスがひとつの共和国とされたことに対しては、グルジアがはげしく反発した。これは「グルジア問題」として、グルジア党指導部とロシア共産党との激烈な政治対立となっただけでなく、病気療養中のレーニンとスターリンとの対立をも引き起こした。この「レーニン最後の闘争」は、二三年三月にレーニンが政治活動不能となり(二四年一月に死去)、スターリンが勝利をおさめることになる。二二年十二月、第一回ソ連邦ソヴィエト大会で、四共和国からなるソヴィエト社会主義共和国連邦の結成が宣言された。」大村靖二・柴宜弘・長沼秀世『世界の歴史26 世界大戦と現代文化の開幕』中公文庫、2009.pp.179-185.

 21世紀に生きているぼくたちは、百年前の革命などもはやすべて終わった過去の歴史知識でしかないが、少なくとも20世紀なかばに生きていた人にとって、ロシア革命がもたらしたソヴィエト連邦という国の与えた衝撃は、いろんな意味で人生に影響をもっていたと思う。東西冷戦が終わるまで、世界のあちら側にこちらとは別の原理と目的をもつ社会があって、あっちのほうがこっちよりいいとは思えないが、確かに世界には大きな価値観がふたつあって、互いに批判し対立しているということを、ぼくたちは常に意識していた。実はふたつどころか価値観はいろいろあるのだが、ソ連が崩壊して多様化したといいながら、今の若い世代はそもそも複数の対立する価値観・世界観のあることすら知らないのではないか。資本主義国家と社会主義国家が争っていた時代は、お前はどちらにつくのかと迫られた。政治路線の違いで憎み合い殺し合うほどのこともあった。しかし、21世紀の今はそのような構図が見えなくなって、ただ感情的にあいつらは嫌いだ、俺たちは素晴らしい国にいる、という素朴で強迫的な好悪だけで政治を眺め、社会革命のシナリオなど考えたこともない人間が政治家になってしまう。これもあっち側の社会が崩壊してしまった結果だろうが、百年経ってロシア革命の結果を冷静に判断しておく必要はあると思う。



B.「戦争から革命へ転化する」ことの恐怖
日本共産党はロシア革命の5年後、1922(大正11)年7月に堺利彦・山川均・荒畑寒村ら明治以来の社会主義者を中心に創立。設立時の幹部には野坂参三、徳田球一、佐野学、鍋山貞親、赤松克麿らがいた。コミンテルンで活動していた片山潜の援助も結成を促した。11月にはコミンテルンに加盟し、その日本支部・日本共産党となった。この時、コミンテルンから「22年テーゼ(日本共産党綱領草案)」が示されたが、日本での議論がまとまらず、結局草案のまま終わった。ロシア革命の衝撃は、日本でも尖鋭なアナキスト、社会主義者、労働運動指導者などの間で広まり、「いよいよこれからは社会主義革命にむけて世界は前進する」というコミンテルンの方針がインテリ層に強い反響を呼んだ。しかし、22年テーゼがそのまま受け入れられなかったのは、日本社会が前近代的天皇制を維持した「遅れた社会」であり、まずブルジョア革命を経て社会主義に至るとするかどうかをめぐって、共産党内部の路線対立(労農派対講座派)があったからだ。そして、当局の弾圧のなかで人民大衆が服属する天皇制への態度に直面して「転向」者が相次ぐことになる。
共産党に残って検挙された宮本顕治ら獄中組は、戦争が終わりGHQ占領下に合法政党として活動を再開し、「唯一戦争に反対した党」として再び社会主義革命を目指すが、スターリンが敷いたコミンテルンの方針に振り回され内部分裂を繰りかえす。野坂、宮本の後を継いで共産党のトップにいた不破哲三氏のインタビューがあった。

「ロシア革命100年 世界揺さぶった社会主義の現実化 独裁と大国主義も:インタビュー 日本共産党前議長 不破哲三さん
ロシア革命から100年。労働者による革命で社会主義を打ち立てようというマルクスの思想が、ソ連という国家の形で実現し、世界は大きく揺さぶられた。だが、国際社会を二分する冷戦を経て、ソ連は1991年に消滅する。革命は世界をどう変えたのか。いま社会主義とは何か。日本共産党の不破哲三前議長にきいた。」
――ロシア革命を今日、どう評価しますか。
「20世紀初頭は、資本主義が全世界を支配していた時代でした。その時、資本主義に代わる新しい社会を目指す革命がロシアで勝利した。マルクスの理論の中でしかなかった社会主義が現実化し、世界に大きな衝撃を与えたのです。社会党などがあった国では、左派が共産党に発展する。日本のように社会主義者はいるが、政党がなかった国にも共産党が生まれた。影響は世界に広がり、第2次世界大戦後には、中国やベトナムなどで革命が起きた」
「もうひとつ大事なことは、ロシア革命が起点となって、民主主義の原則が新たな形で世界に定着したことです。のちに社会的権利と呼ばれる労働者の権利が、革命後の人民の権利宣言で初めてうたわれた。男女平等を初めて憲法に盛り込んだのもソ連の最初の憲法でした。革命は第1次世界大戦中に起きたが、革命政権は、大戦終結の条件として、民族自決権の世界的確立を求めた。これは国連の植民地廃止宣言に実りました。世界の民主的国際秩序の先駆けとなる原則を打ち立てました」
――ロシア革命の功罪のうちの「功」ですね。では、「罪」はどうでしょうか。
「ソ連が積極的役割を果たしたのは革命後の短い期間、レーニン(1870~1924)が指導した時期でした。それをどんでん返しにしたのがスターリン(1879~1953)です。晩年のレーニンはスターリンの大国主義など危険性に気づいて闘争を開始したが、その途中で病に倒れた。スターリンは、一連の内部闘争を経て30年代には共産党と政府の絶対的な支配権を握り、社会主義とは本来無縁の独裁者になってしまった」
――スターリンの負の側面が暴かれたのは56年のフルシチョフによる批判以降です。それ以前の、例えば不破さんのスターリン観は。
「ソ連は革命後の困難を乗り越えて、第2次世界大戦で米英と組んで勝利したのだから、スターリンは凄い人物だと思い、スターリン全集なども全巻読んで研究したものです。ソ連で起こったスターリン批判はまだごく部分的なものだった。私は、1964年、党本部に入って理論部門を担当して、ソ連の『悪』にぶつかり、スターリンの指揮でソ連が日本共産党に内部干渉して、党を一時分裂させた歴史も知った。日本の革命は日本の党自身で考えて答えを出すという『自主独立路線』はこの痛苦の歴史から確立したものです」
「スターリンについては、コミンテルン(共産主義インターナショナル)書記長ディミトロフが詳細な日記を残しており、私は最近、これらの内部資料を使って全6巻の『スターリン秘史』を書き上げました」
――何がわかりましたか。
「スターリンは、第2次世界大戦でヒトラーを破ったが、戦争の始まる瞬間まで、ヒトラーと組んで世界を再分割する夢に酔っていた。戦争の時期にも、大国主義の野望は捨てない。東欧を支配し、対日参戦の条件に領土を要求する。今の中国にもその危険があるが、過去に覇権を握った歴史を持つ国は、新政権ができても大国主義が復活しやすい」
■        ■ 
 —―現代の世界についてはどう見ているのでしょう。
 「21世紀ほど貧困と格差がひどくなった時代はないでしょう。さらに資本主義による最大の害悪は、地球温暖化だと思います。エネルギー消費量がケタ違いに増えてこれほど環境を破壊するとは、誰も予想しなかった。この問題を解決できるかどうかで、資本主義の、人間社会を担う力が試されると言ってもよい」
 —―それを解く力が社会主義にあるということですか。社会主義も現実には、統制経済の破綻など失敗の連続ではありませんか。
 「マルクスの考えは、十分な生産力が発達し、自由な人間関係が生まれる経済的基盤があって初めて社会主義が生まれるというものです。しかし、現在までに革命を成功させた国は、欧米の先進国ではなく、ロシアやアジアなど発展の遅れた国でした。社会主義に到達した国は世界にまだ存在しないのです」
 —―マルクス主義の可能性はまだあると。
 「マルクスの理論は、長く誤解されてきました。本当に自由な社会をつくるのが、社会主義の根本論なんですよ。政治的自由だけでなく、生活が保証された上で、自由に使える時間があり、人間の能力を自由に発展できる社会を目指していた。資本主義の段階で生産力をそこまで発展させるのが大前提でした。日本ぐらいの生産力があれば、人間の自由を保障することは十分できる。資本主義に取って代わる社会像に向けての変革の運動とその成功の条件は、資本主義自体の中から生み出されると思います」
■        ■   
 —―不破さんは日本政治の変遷を見てきました。政治はどう変わりましたか。印象に残る人物は。
 「80年に一部の野党が『共産党を除く』という原則を唐突に打ち立てました。戦前の抑圧とは違うが、共産党排除という異様な政治体制が34年続きました。それ以前はマスコミでも、ひとつの政党として自然体で見られていました」
 「60年代、私が国会議員になる前に新聞の企画で、幹事長時代の田中角栄さんと顔を合わせました。政治家としてなかなか面白かった。彼が首相の時に、私が書記局長で国会論戦もずいぶんやったけれども、石油ショック後の物価高のこと、米軍の原子力潜水艦の入港の際の放射能監視のでたらめさなど、問題を指摘するとしっかりと認めて、『自分の責任でやる』と言って、実行するだけの幅がありました。今の安倍晋三首相は野党との論戦に応じようとしない。自民党は劣化したんだと思いますね」
 —―なぜ劣化したのでしょう。
 「自民党政治の中身は財界密着と対米従属で、昔から変わりませんが、今は『戦前回帰』というウルトラ右翼の潮流が加わった。それに小選挙区制の問題もあります。党本部が候補者を選ぶので、派閥をこえて総裁が体制をがっちりと握っている。かつて『三角大福中』が首相の座を競い合ったような活力はない。さらに秘密保護法をやり、上級官僚の人事をすべて官邸が行う。政治私物化の道具立てがそろってしまった」
 「野党が憲法に従って臨時国会を要求したり、遅らせて、いざ開くとなったら冒頭解散。選挙まで私物化した。自信のなさの裏返しではないか。昔の自民党の方が強かったのではないでしょうか」
■         ■ 
 —―今回の総選挙で共産党は大幅に議席を減らしました。過去にもブームがありましたが、ある地点で壁にぶつかります。
 「日本共産党が前進したときには、必ず反攻作戦が組織されるのが、戦後政治の一つの特徴で、先ほどの『共産党を除く』の壁もその代表的な一つでした。それに負けないで前進する条件をつくってきたのが、私たちの歴史だった。今度の党自身の後退は、『市民と野党の共闘』をめぐる状況の突然の変化の中で起こったことで、『壁』の再現とは位置づけていません」
 —―共産党と他の野党との協力は野合だと批判されました。
 「綱領の一致は政党の『合同』の条件であって、『共闘』の条件ではない。綱領の違う政党が当面の国民的重大問題で一致してたたかうのが、共闘の本来の精神です。選挙中も訴えたことだが、第2次世界大戦でヒトラーがフランスを占領した時、宗教界から『神を信じる者も信じない者も』という声が上がり、これが抵抗運動・レジスタンスの精神になりました。今、日本の『市民と野党の共闘』を支えているのは、まさにこの精神だと思います」
 —―共産党という名にアレルギーがある人もいます。より広い層に訴えるために、党名変更すべきだという議論があります。
 「いわゆるアレルギーの大もとには、いろいろな誤解があります。例えば、ソ連型、あるいは中国型の社会を目指している、という誤解。今度の選挙戦の教訓からも、そういう誤解を取り除いてゆく日常的な努力を全党を挙げて強めるつもりでいます。日本共産党は、戦前から95年、この名前で活動してきたが、将来的には、21世紀から22世紀をも展望しながら、日本に理想社会をつくるために活動する政党です。党名には、その目標が体現されています。誤解を取り除く本格的努力をしないで、名前だけかえて当面を糊塗するといったやり方は、日本共産党の辞書にはありません」 (聞き手・三浦俊章、池田伸壹)」朝日新聞2017年11月7日朝刊17面、オピニオン欄。 

 ぼくは日本共産党に同調することには、ある個人的な体験から拒否してきた。中学生の時出会った教師から、社会システム全体の革命をめざす共産主義の理想を教えられ、強く共感した。しかし、その理想を語る人々が現実の政治活動のなかでやっていることに矛盾と欺瞞を感じた。共産党の歴史はこの人類解放の高邁な理念と、エゴイスティックな権力闘争の血塗られた泥沼の連続である。それでも、ぼくにとって今も心に残っているのは、革命家という人間は、この世の世俗的成功も名誉も権威もかなぐり捨てて、ただ名もなき人民の幸福ために理想社会を実現する、という情熱と、それを可能にするには冷静でときには妥協もすれば人も殺すリアリストになる覚悟が要ることだ。
 そして、この世に生きる人間には、私的利害を超えて真剣に考えるべきことと、基本的にど~でもよいことがあると思うのだ。この点で、ぼくより10歳ほど下の人たちがこだわっている「サブカル」おたく文化が問題にする、表層の戯れには興味は持てない。もっと若い人にはさらに、時代にとって重要な課題があるのに、考えていることといえば、どうしたら自分が人の目に魅力的に映るか、どうしたら人に無視されないで安全にいられるかなど、世界にも時代にも無関係な些末なことばかり気にしている。もちろん革命家は、世界の現状と政治的力関係を熟知するだけの知力と胆力を備えているはずだし、革命が成功するかどうかは一種の賭けである。レーニンはその賭けに1917年秋に勝ったけれども、身内から出てきたスターリンに成果を棚上げされて亡くなった。
 政治で世の中を根本的に変革するには、最終的に暴力を使うしかないと考える権力は後を絶たない。日本共産党の歴史にも、路線対立で同志を排除し、強権をもって粛清することもなかったとはいえない。だからぼくの立場は世界の、あるいはせめて日本一国の人民が公平平等に、幸せを感じる社会にすると約束するのが真の政治家だと思う。
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