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世界から見た日本と東洋の美 3 アルカイズム・クラシシスム云々  都知事選の焦点

2024-06-30 07:10:14 | 日記
A.飛鳥時代、白鳳・天平・奈良時代、貞観・藤原・平安時代の美術
 美術といっても、古代の作品で今に残っているのは、壊れにくい彫刻と建築がほとんどで、絵画はかろうじて残った壁画などを除けば、消失している。日本でも絵巻物などが残るのは、平安時代以降だろう。田中英道『日本美術全史』の方法論は、西洋美術史の「様式」論で日本美術史を分析するということと、歴史資料として諸作品を広く見渡すのではなく、そのなかで最も優れた作品とその作者に注意を集中することにある。それは確かに存在し今に残っている、と見ればそこに様式の変遷も見ることができる、ということになる。
 まずは、アルカイスム様式に始まり、日本では飛鳥時代の作品に現れるという。説明を聞こう。

「アルカイスム時代――七世紀、飛鳥時代の美術
 まずいわゆる「アルカイスム」様式はその特徴として、単純性、正面性、アルカイック・スマイル、生硬さ、触覚値、などが、新しい表現意志の中に示される。ギリシャの「アルカイスム」彫刻に似た正面性が強く、形自身は単純であるが、そこに清新な表現意欲が込められている作品群として示される。
 飛鳥時代の彫刻、とくに法隆寺の『百済観音』や法隆寺金堂の『四天王像』が代表作である。中国や挑戦から入ってきた「渡来人」の作が多いとされるが、すでに独自な表現が備わっており、芸術作品として生硬さを払拭されているので、自立した流れを作り出していると考えるべきであろう。『百済観音』は微笑を湛えた顔、ほっそりとした七頭身の身体、肩にかかる垂髪の洗練された波、ここには「アルカイスム」でありながらその最高の生きた表現がある。「百済」の名は明治以後つけられたもので、クスノキで造られている点でも日本での制作である。
『救世観音』も、その正面性、単純性、アルカイック・スマイルとともに、生硬さや「触覚値」といってもよい形象が見られる。朝鮮とまったく同じ様式といわれる半跏思惟像の場合もあるが、優れた者も多いことから、日本の文化土壌の中でそれが生まれたことを重視すべきであろう。
 法隆寺金堂の『釈迦三尊』の光背の銘文に作者として「司馬鞍作首止利(しばのくらつくりのおびととり)」の名が堂々と残されていることは、作家そのものも無名ではなく、高く評価されていたことを示していると思われる。この時代の絵画が残っていないので、この面では述べられないが、『玉虫厨子』(法隆寺)の台座絵は当時の絵画表現の高さをよく示しており、この表現の本格的な絵画作品が残っているならば、ジョットの絵画に匹敵するものとさえ想定できる。
 
「クラシシスム」時代――七世紀末-八世紀、白鳳、天平または奈良時代の美術
 美術史を「様式史」として最初にとらえたヴィンケルマンは、ギリシャの「クラシシスム」に《高貴なる単純と静かなる偉大》という言葉を与えたが、まさにそれにふさわしいのがこの時代の美術である。それは平面的であるが絶対的明瞭性をもち、かつ彫塑的である。この典型として東大寺法華堂(三月堂)の諸仏、とくに『日光・月光菩薩』があげられるであろう(東大寺ミュージアム)。また戒壇堂の『四天王像』も、興福寺の『阿修羅像』などの『八武将』や『十大弟子像』もその中に入る。また「絶対的明瞭性」をもち、その彫塑性により、周囲にわずかな空間を作り出している。
 ただギリシャ彫刻は人間の裸体像を中心としたプロポーションの「美」を重要視するし、日本美術では十五、六世紀のイタリア彫刻はそこにより複雑な人間の諸表情を表現するが、日本美術では人間の我執を取り去った超越性を表現している。背後には聖武天皇を中心とする仏教国家としての自覚と正当性が生き渡っていたと見るべきであろう。
 また動きや感情表現も充分見られる。たとえば戒壇堂の『増長天』は槍を持って立ち、右足で邪鬼の顔を踏みつけているが、抑制された動きとなっている。その怒りもオリンピアのゼウス神殿破風彫刻の、ケンタウロスとラピタイ族の激しい戦いに、抑制して横を向いているだけのアポロの立ち姿を思い起こさせる。『阿修羅像』も銭湯の像として三面六臂も姿が不可思議だが、そこには「高貴なる単純」が見出される。怒りといってもそこには「静かなる偉大さ」が感じられるのである。
 この「クラシシスム」に属する作品は白鳳時代から見られる。当麻寺の『四天王像』の雄直な像にも、喜怒哀楽を率直に表した「法隆寺五重塔塑像群」にも、その要素が充分見られる。東大寺の大仏が残っていたら、大きさにおいても「偉大さ」を示していたであろう。その荘厳さは公麻呂が造った『不空羂索観音』によく表されている。また戒壇堂の『四天王像』との形態的関連では新薬師寺の『十二神将』も、さらに動きを示しているものの、基本的な形態では同じものをもっている。また肖像では『鑑真像』や『行信像』もその品格のある表現は同じ厳しい人間表現を保持している。そこには節度のある理想主義がある。
 絵画では残されているものが少ないので残念であるが、『法隆寺金堂壁画』がある。戦後焼失したが、残されていたら世界的に貴重なものとなったであろう。その釈迦浄土・阿弥陀浄土と三尊の輪郭線は同じであるが、それぞれ異なる筆致で描かれている。線的、平面的であるが、決して三次元を失っているわけではない。とくに釈迦像の十大弟子の顔はそれぞれ理知的で誠実な人柄が表現されている。これらが唐から来た技術といえども、ここにはそれと異なったあらたな生命観が賦与されており、日本美術の表現となっていることを認めるべきであろう(本文第3.4章参照)。
「マニエリスム」時代――九・十一世紀、貞観、藤原または平安時代の美術
 これまで東大寺司を中心に活発な造像の時代が八席半ばまで続いたが、760年代に東大寺の造営は終わり、すでに仏教と造仏の精神的な共同作業は失われていた。八世紀の後半には確かに天災、疫病、飢饉ばかりでなく、律令体制の乱れが顕著になってきた。権力をめぐる争闘と迷信のはびこる宗教的な危機は、ちょうど「宗教改革」にいたる「カトリック」教会の乱れと免罪符の乱発による十六世紀初めの西洋の危機と類似している、と考えることも可能である。奢侈と浪費は国家の財政を疲弊させ、次第に国家としての造仏の動きが減り、自営の工房による小規模な動きにならざるをえなかった。仏教そのものの退廃は、その表現におおらかさを失わせ、造形に小手先の技術が多く用いられることになる。
 平安遷都の後、九世紀に入ると、最澄や空海がもたらした天台、真言の新仏教は新たに密教美術を生み出したものの、その新しい図像学は美術を煩瑣な表現に追いやり、冷たさやときには妖艶さを与えこそすれ、自然な生命感を失わせていった。この過程は1527年の「ローマ略奪」の後のイタリア美術の状況と遠いものではないと思わせる。美術を包む精神的環境が変わり、共通な人文主義が失われるとともに、美術家たちがばらばらになっていったのでる。「トレント宗教会議」による、教義の美術への介入は、その表現に自然さを失わせていった。
 東寺(教王護国寺)の諸仏像を見よう。空海の指導で造仏がなされ、そこに知的な理論が存在している。講堂の中央仏壇には五仏、東方には五菩薩、西方には五大明王、檀の四隅には四天王と梵天と帝釈天を配し、真言密教の中心的な教義を表したものといわれる。修復が多いが『梵天』の姿は、これまでになかったふくよかさを持っており、またある種の冷たさがあることを否定できない。これは表現過剰と反自然主義を示しており、「マニエリスム」の特徴といわなければならない。
 『不動明王』を取り囲む『四大明王』はそれぞれ違いはあれ両手がいずれも前に組まれ、中腰で姿がやや前かがみになり、その怒りがまるで内向してしまうように造られている。これは天平期「クラシシスム」の時期にはなかった姿勢であり、八本の手にある数々の武器の動きとともに、異様にグロテスクな雰囲気を醸し出している。単に彼らがヒンズー教のシバ神などの異教の神だからという説明以上に、これらの中に発散しない非合理的な衝動といったものが感じられるのである。
 空海帰朝の後盛んになったと言われる「如意輪観音」信仰が、観心寺の「如意輪観音」のような妖艶な女性の姿を生み出したが、六臂の右の手が如意宝珠を胸に抱き、もうひとつの手を頬にあて、三つ目の手で念珠を持ち、左手の方は台座に触れ、蓮華をとり、金輪を持ち、体をくねらせているように見える。これは「マニエリスム」の形態的特徴である「セルペンティナーダ」(蛇上人体)の感覚に近く、これまでの「クラシシスム」の真直ぐ立つ姿と異なっている。
 一方絵画でも「仏画」においては平安後期には『仏涅槃図』(金剛峯寺)や『釈迦金棺出現図』(京都国立博物館)のような秀作があるが、いずれも人物像の豊かさ、くうかんの構成など秀逸である。とくに後者の釈迦が出現し光を放ち、それに狂喜する菩薩や羅漢など、『法隆寺金堂壁画』と異なった様式を示している。一人ひとりの彫塑的な表現ではなく、半自然主義的な「マニエリスム」の特徴を示しているのである。また藤原氏全盛時代は、その雅やかな宮廷を背景に、洗練された定朝様の様式による仏像が風靡した。一方で『源氏物語』に象徴されるように、貴族の愛の物語の極度に限られた世界の表現は、その美術的表現として「引目鉤鼻」や「吹抜屋台」といった形式主義を生み出し、写実よりも様式を重んじたものとなったということが出来る。
 定朝様式が洗練された様式として風靡したのも、これがひとつの「マニエラ」として親しみ易かったのであろう。宇治平等院の『阿弥陀如来像』がその典型であるが、同じ鳳凰堂に飾られた『雲中供養菩薩像』の五十二体は自由な姿態で音楽を奏でており、「マニエリスム」の傑作のひとつとなっている。洗練された表現は同時に「形式性」の危険を常に持っており、それは宮廷の文化の通弊である。院政の豪奢ぶりが、多くの造寺造仏により装飾性を呼びこんだ(本文第五章参照)。
「バロック」時代――十二-十四世紀、平安末-鎌倉時代の美術
 次に十二世紀以後の「様式」として「バロック」について考えたい。「バロック」とはポルトガル語の「不整形な真珠」から来たといわれるが、その言葉によって象徴される美術とは、動勢、曲線、装飾性、強烈なコントラスト、律動感、感動表現などを一般的な特徴とさせる空間美術である。触覚的、彫塑的な形態に対し、空間的、絵画的なのである。ヴェルフリンがいう五つの項目、「絵画的」「奥行的」「開かれた形式」「一元的統一」「相対的明瞭性」にあてはめられる表現と考えられるであろう。十七世紀の西洋美術でいえば、カラヴァッジオやレンブラントの明暗法の強いリアリズムの世界や、動勢の強いルーベンス、ベルニーニなどの形象表現が典型である。
 こうした「バロック」美術が生まれた背景としては、洗練された「マニエリスム」への批判、「反宗教改革」の精神と要求、地動説の主張や現世的な思想などがあげられる。このような「バロック」的な常数は、やはり「クラシシスム」「マニエリスム」の時代を経てきた日本の平安末から鎌倉時代にかけての絵画、彫刻に見出されるように見える。それは『信貴山縁起』や『伴大納言絵巻』などの動勢の激しい「絵画的」表現、1180年(治承四年)の東大寺や興福寺の消失により、翌年からはじまった再建による運慶一派の彫刻のリアリズムと空間的表現にその典型が見られる。彼らは天平の「クラシシスム」の彫刻に親しみ、その技量を摂取するとともに、あらたな「様式」を生み出した。
 この新しい芽生えは何といっても、武士の勃興が背景にあるであろう。貴族の争いに源氏、兵士の武士たちが参加し、代わって権力を握ることになる。そこには同時に庶民の勃興がある。文学でいえば『源氏物語』の宮廷の雅やかな世界から、庶民の粗野な生活ぶりを正直にとらえた『今昔物語』の世界への移り変わりがある。十二世紀に絵巻物が出現し、その世界が見事にとらえられる。
 とくに十二世紀中ごろからその変化は一層明確になり、「バロック」的な動勢のある写実主義的な表現が多くなる。『信貴山縁起』の「飛倉の巻」では、長者の倉が持ち上げられ飛んで行く情景を俯瞰法で描いている。そこには動きと絵画的な奥行きが示され、この時代の絵画の特徴がよく示されている。『伴大納言絵巻』の応天門の火事にも、物見高い群衆がやって来ている。それぞれの社会階層の人間が描き分けられ、絵画的である。この赤い炎を噴き上げる火事の場面は、『平治物語絵詞』にも見られ、その絵画性が画家たちを魅了したのであろう。この『平治物語絵詞』は、絵巻物の傑作であるばかりでなく、その構図の秀抜さ、長刀に結わい付けられた信西の首を描く、ピトレス口な表現は、世界の絵画の中でも白眉の出来である。のっけから「三条殿夜討巻」のように突っ走る公家や殿上人の馬や牛車が描かれるのも「バロック」的特徴をよく示している。」田中英道『日本美術全史 世界から見た名作の系譜』講談社学術文庫、2012年、pp.38-46. 

 こうして具体例をあげて見比べてみると、なるほど、アルカイスム、クラシシスム、マニエルスム、バロックとそれぞれに該当しそうな作品が、確かにありそうで、とくに仏像は形態が明確で様式論が適合しそうだと思える。でも、十二世紀に絵巻物が出現し、絵画作品についても、非常に優れた表現が注目される。これをバロック様式と見ることによって、新たな時代、つまり武士の世を牽引した人々の美的精神のありようが、そこに示されたと見ることも可能だ。では、その次はどうなるのか…。


B.選挙の頽落
 今回の都知事選で、今までにはなかったような選挙活動が起こっている。泡沫候補が出て、自分のわけのわからない主張を政見放送でしゃべるようなことは、これまでも多々あったけれども、たぶんそれとは違う、もちろん当選など予期していなくても、選挙という活動自体をビジネスや自己利益の手段として活用してやろうという連中が出てきたと見られる。これは、おそらくさらに派手にやるだろうし、規制を強める公選法の見直しにまで行くだろうと思う。現在の選挙制度への批判としての「棄権」ではなく、ゲリラ的「攻撃」なのかもしれないが、その結果、さらなる選挙への拒否が拡がるのは、憂慮すべき事態だと思う。
 とりあえず都知事選についての毎日新聞の評から。

「都知事選で論争を「出生率低下対策」 小堀 聡 京都大准教授(日本経済史)。1980年生まれ。
 先月の本欄で森健も論じたように、今年4月、民間の有識者グループ「人口戦略会議」が744の消滅可能性自治体リストを公表した。今回注目したいのは、あわせて選定されたブラックホール型自治体だ。
 これは、出生率が低く、かつ人口流入が多い自治体のこと。全国25のうち16を東京都特別区が占め、ほかの京都市・大阪市などが並ぶ。地方から人々を吸い取るブラックホールに、大都市を見立てたのだ。
 全国的な人口減少の主要因を大都市の側に求める議論には、異論もある。とはいえ、東京に象徴される今の大都市が、結婚・出産・育児をちゅうちょしがちな空間なのは確かだろう。東京都の合計特殊出生率が昨年、0.99を記録したのは衝撃的であった。
 出生率の低下は、子育て支援だけでは解決できまい。たとえば、いくら現金給付を増やしたところで、不安定雇用や残業、満員電車など、育児を阻害する今の働き方は、そのまま残される。
 事態を動かすには、もっと幅広い施策を行うこと、その上で国や経済界にもっともの申すことが必要だろう。1967~79年の美濃部亮吉都政は、非自民勢力に支えられつつ、さまざまな環境行政を実施した。これが自民党政権や大企業も動かし、公害を改善させたのは、確かな事実である。
 出生率の急速な低下は、アジア各国に広がる問題だ。東京がその対策に奏功すれば、国際貢献にもなろう。まずは都知事選で、世界有数のメガシティーにふさわしい政策論争が行われることを期待したい。」毎日新聞2024年6月27日朝刊11面オピニオン欄、持論フォーラム。

「ネット戦略による変化 「都知事選」 森健 ジャーナリスト。1968年生まれ。
 東京都知事選(7月7日投開票)の選挙ポスターが大量に張られた。風俗営業ふうの男性、アイドルふうの女性、動物のイラスト……。主導した政党の党首は「問題提起できた」と語っているが、そういう話ではないだろう。
 警視庁は党首に警告したが、公職選挙法に詳しい片木淳弁護士も「公選法が想定した選挙のあり方ではない」と指摘している。
 根深い問題も垣間見える。今回の候補者には、先述の党も含め、他党への妨害行為や奇抜なパフォーマンスなどネットで耳目を引く活動をしてきた人が少なくない。ネットの表現ないしは収益活動の一環として選挙を利用しているように映る。
 一方、主力候補たちもネットを都合よく使っている。3選を狙う現職都知事は公約発表にオンラインを使った。かねて真実性に疑いのあるカイロ大学卒業について刑事告発もされた。その直後だけに厳しい質疑を避けたかったのではと見られている。また、地方の元首長から転身を図る候補は地方議会とやりあう様子を動画サイトに投稿し人気を得たうえで今回の出馬に至った。
かつてマックス・ウェーバーは政治を職業とするには、政治「のために」生きるか、政治「によって」生きるか、のどちらか、あるいは両方だと述べた。今の候補者の中には、政治「を利用して」生きる向きがあるように映る。もとより人気と権力を得るのが政治家だが、その地盤がネットになりつつある。この変化を前に有権者は誰を選ぶのだろうか。」毎日新聞2024年6月27日朝刊11面オピニオン欄、持論フォーラム。
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