gooブログはじめました!

写真付きで日々の思考の記録をつれづれなるままに書き綴るブログを開始いたします。読む人がいてもいなくても、それなりに書くぞ

憧れのパリに行った日本人画家はどうなった? Revisionistとの闘い

2017-11-30 22:50:50 | 日記
A.パリに憧れた人びと
  明治以降の日本の若い画家たちが、西洋絵画とくに19世紀後半のパリに次々と現れて当時の「現代絵画」と言われた新傾向の絵画(たとえば印象派)を、これこそ世界の最先端だと思い込んで、なんとかそれに近づき、自分も新しい絵画の担い手の一人になろうと考えたのは無理のないことだったと思う。そのためには日本にいてはダメで、「本場」のパリに行かなければならないと考えたのも当然だっただろう。しかし、明治時代には、何十日も船に乗ってパリに行くこと自体たいへんな事で、絵を学びに留学するなど格別に恵まれた地位と資産のある人間の息子にしか可能ではなかった。薩摩出身の黒田清輝すら法律の勉強をするという目的でパリに行ったのだった。
  しかし、1918(大正7)年ロシア革命に続き第1次世界大戦がドイツの降伏で終結する頃には、日本の大衆にも西洋文化や芸術が上澄みとはいえ徐々に定着し始め、画家を志す若者がパリに留学する機会も増えていた。しかし、憧れだけでパリに行ってもほとんどの画家の卵は、現地で評価されるレベルには至らす、結局は日本に戻って教師になるか、絵筆を捨てるか、自分たちで固まって自己満足していた。結核など病を得て志半ばで死んだ人も少なからずいる。例外的な成功者として藤田嗣治がある。

 「第一次大戦後にパリに滞在していた日本人画家の数は、ときに五百人にも上ったと伝えられ、エコール・ド・パリの一翼を担うはずであった。その帰国者によって一九二六年に結成された一九三〇協会はコロー、ミレー、ドーミエなどの一八三〇年代のフランス画家たちへの敬意をこめて未来を創ろうとした、と言われる。しかし佐伯祐三(1898-1928)にとっては、パリの街風景を描いていたヴラマンクやユトリロが重要であり、彼のパリへの憧れを満たす題材を提供していた。しかしそれは「模倣」画と受け取られざるをえなかったのである。
 しかしその中で唯一、藤田嗣治(1886-1968)だけは日本的な技法を維持しながら、西洋の時代意識を捉えた画家と評価されるのである。彼は美術学校卒業後、一九一三年、二十七歳でフランスに渡ったが、パリに着くとすぐピカソを訪ねたというのもこの画家の積極性を語っており、最もパリの環境に溶け込むことが出来た日本人であった、と考えられる。そのとき第一次世界大戦が始まり、送金も途絶えるという困難な状況になった。帰国勧告が出たにもかかわらず、藤田が留まり、フランスのために兵隊に志願しさえした。ここでの貧しい生活は、まさに西洋を肉体で経験することを可能にしたように思われる。一時ロンドンに渡ってそこの日本舞踊の一座に加わり、素人ながら舞台に立ったという。しかしその給金も絶え、パリでは無料食物支給所でパンとスープを得るという有様であった。
 それでも彼は絵を描き続け、一九一七年六月シェロン画廊で水彩画の個展を開いた。彼は一躍、その独自性を認められたのである。一九一九年サロン・ドートンヌで六点全部が入選した。それは白地の上に日本画的な細い線によって輪郭を与えられた裸婦像で、モノトーンに近く藤田独特のものである。西洋画に日本画の筆を使い、墨によって微細な線を描くという工夫を行なうことにより、エコール・ド・パリの中心の一人となった。ここにあるのは西洋と日本の折衷ではなく総合といってよく、その総合はそれまで西洋で体験した彼の苦労がその表現に日本人にしては稀な強さと構成力を与えたといってよい。
 世界大恐慌の年の一九二九年に一旦帰国し作品展を開いて滞納していた税金の支払いをはかり、一九三〇年に北米経由でパリに帰った。放埓な夫人ユキと別れ、カジノの踊り子マドレーヌとともに南米を旅行し、一九三三年に帰国。しかしマドレーヌは一九三五年に急死し、一九三九年に新たに渡仏するまで日本にいた。その間一九三七年秋田の平野邸で『秋田年中行事大平山三吉神社祭礼の図』の大作を描き、一九三八年には海軍省の依頼で中国に渡り、漢口攻略戦に従軍して『南昌飛行場焼打ちの図』を描いた。この頃から彼のエコール・ド・パリの颯爽とした女性像の日本画的な単純化がなくなり、描き込み過ぎの写実力がまさっていった。
 一九三九年渡仏したが、その年第二次世界大戦が勃発し、彼は今度はパリに留まらず日本に帰って来た。第一次世界大戦の時はまだ無名であったが、今度は名高い画家として日本に迎えられ、彼は戦争画を描いたのである。
 それらは無残なほど、筆力に任せた写実性の強いものだった。そのことは彼の中の日本人意識の目覚めであり、彼の絵画の日本的なものの単純化、純粋化の傾向を意味していたはずのものが、今度は西洋人的な徹底したリアリズムによってそれに報いたのも皮肉である。彼は《ドラクロワ、ベラスケスの様な》作品を描かなければならないとさえ言っている。『ソロモン海戦における米兵の末路』(一九四三年)のような図は荒れる海の上のボートで苦しむ米兵たちの姿である。それは無残なアメリカ兵のはずだが不思議に白人憎しという情景ではない。『サイパン島在留邦人玉砕の図』(一九四五年)の日本人の顔とさほど違いがないように見える。結局彼が責められるのは、そうした民族主義の問題ではない。十九世紀初めのジェリコーに戻ってしまったような緻密な描写――それは戦後「通俗アカデミズム」と批判された――そのものが問題なのである。それは自分自身、二十世紀の画家であることを忘れたことによるといってよい。彼は戦後、戦争責任の追及を受けるが、芸術家藤田が責めを負うべきなのは戦争協力ではなく、その点である。彼が戦争画に類するものをすべて庭先ですべて焼いてしまったとき、その「通俗アカデミズム」を焼くべきだったのである。
 彼は戦争責任から逃げるように一九四九年、戦後のパリへ渡る。以後日本に帰らないのは、そのあまりの冷やかさによるものだっただろう。西洋で成功したことへの日本人の嫉妬は、人々の憧憬が強かっただけに倍加していたとも言えよう。しかし自分の絵画自身が自負出来るものであったなら、それに耐えられたはずなのだ。フランスでも批判を受けざるをえない。フランスでその芸術を育てられた人間が、危機になると日本に帰り、日本が敗北するとフランスに帰って来る、とくに枢軸国の側の戦争に協力した敵である、と。しかし亡命者に寛容であったパリは、日本よりもよかったであろう。藤田は《夢見るような顔の、目の大きな、ものさびしげにほほえむ子どもたち》(『モンパルナス・ヴィヴァン』)を描き出す。それはセンチメンタリスムの傾向を持っていたが、しかしその筆力はやはり日本人には見られない堅固なものであった
 彼は七十三歳、一九五九年にカトリック信者になり、レオナルド・ダ・ヴィンチにあやかりレオナルドという洗礼名を名乗った。さらに八十歳、一九六六年からパリの北東、ランスの礼拝堂に宗教画を描きはじめる。壁画だけでなくステンドグラスや石の構成まで行なった。たしかにそのキリスト教宗教画にはレオナルド的な女性像の面影は見えるが、十五世紀が今日蘇ることのないようにその深さはない。彼の写実的な描写は彼の戦争画を思い出させるし、その愛らしさは通俗的で二十世紀のものではないといってよい。しかしそれでもなお、この藤田の絵画はひとつの日本と西洋の総合であったことは確かである。彼は日本に帰ることなく、一九六八年、八十二歳で死去する。そのときもなお藤田流の芸術家の範囲ではあったが、日本人でありながら、それを拒否しようとした普遍的な画家の一人となったのである。
 国吉康雄(一八八九‐一九五三)が、藤田嗣治の絵を見たかどうかはわからないが、というのも彼は十七歳の時にアメリカに渡り、そこで学んでいたからである。一九二二年にニューヨークで最初の個展を開いており、ややプリミティフなお伽話のような画面から、社会的な主題の中で暗い抒情性のある作品に移っていき、『誰かが私のポスターを破った』(一九四三年)のような、振り向く女性の服の軽い陰影のつけ方は一九二〇年代の藤田を思い起こさせる。やはり彼も日本人的な繊細な線で藤田と同じ傾向をもっている。」田中英道『日本美術全史』講談社学術文庫、2012.pp.535-539.

 藤田嗣治がパリで成功し、日本人として本場の高い評価を得たということは、日本では非常に誇らしいことと自慢の種にされるのだが、そのことが逆に戦争協力という負の評価によって戦後日本が彼を追い出すような結果になったのは皮肉である。しかし、田中英道先生は、藤田が政治的な無自覚によって戦争画を描いたことにではなく、彼の絵画自体が、パリにいて西洋油画の土俵の中で日本絵画の持つ特殊な技法を生かした才能を、逆に日本に戻ったときにフランスでも前時代のロマン派絵画、あるいはもっと昔の宗教画や歴史画の世界に本家帰りしてしまったことを失敗とみる。
  藤田の生涯は一種の悲劇となってしまったが、アメリカへの移民として岡山からカナダ経由でシアトルに渡った国吉康雄の場合は、人力車夫の息子としての出自からも、恵まれた境遇での留学とはまったく違う画家への道だった。移民の少年は肉体労働で稼ぎながらロサンゼルスで学校教育を受け、アメリカ人としてニューヨークに行って1917年、アメリカの前衛画家が集まったペンギン・クラブに出品しデビューを飾った。アメリカン・モダニズムの若手として注目され、評価を高めていくと同時に日系アメリカ人として、日本の戦争には批判的な態度をとり、日米戦争には明確にアメリカを支持すると表明して活動した。結局、アメリカ市民としての日系人の名誉と権利向上に尽くした国吉は帰化法が改正され、日系移民一世にもアメリカ国籍が認められる直前に、日本国籍のまま世を去った。
  2012年春に国吉康雄の回顧展が横須賀美術館で開かれた。ぼくも見に行って、国吉の作品をひととおり見ることができた。アメリカ20世紀美術の流れの中にある絵画で、一見日本を感じさせるものではないが、パリに憧れた日本人画家とは異なる独自性があった。それは日本の美術学校が伝統的な日本絵画と西洋美術の融合、それも西洋の歩む近代化を目標にしていた教育とは、有吉の場合にはまったく無縁だったことも大きいような気がした。しかし同時に、アメリカの現代美術が第2次大戦後、目覚ましい発展を遂げていく中で、世界中から有為な才能を集めて戦前のパリを凌駕していったプロセスには、もう有吉の絵は過去のものになっていたということも事実だろう。



B.ウソをまことしやかに語るリヴィジョニスト
 世の中には根拠の不確かな「ウワサ」や「ウソ」の類が出回る。それは今に始まったことではないし、情報メディアの未発達な時代なら逆にその弊害も大きなものではなかった。怪しげな情報に惑わされ騙される人がいたとしても、何万人何百万人に伝染するのに時間がかかったから、まもなくウソはばれるし、噂も消えてしまった。しかし、現代はSNS、Webによって情報は一瞬に世界を駆け巡る。それがウソかホントか確かめる前に、事態がそれで影響を受け変わってしまう。これは昔では想像できない驚異的な現実である。もし、人々が常識と信じていたことを、意図的に別の方向にもっていきたいと考える人が、ニセ情報をいかにもホントらしい作為を加えて誰でもアクセスできる場所に流したとしたら、その影響は計り知れない。
 とくに、歴史の評価、50年、百年昔の出来事、歴史上の事実として確定していたはずの出来事を、もう直接の体験者・記憶者があの世に逝ってしまったことをいいことに、「実はそんなことはなかったのだ。後で誰かが捏造したのだ」というウソを無知な人々に刷り込もうとする人たちがいる。それは歴史の改変によって、ただ過去に対する見直しにとどまらす、新たな未来にもって行こうという思想運動なのだと主張する。だが、そのようなやり方自体が、歴史の捏造であり誤った妄想なのだということを、歴史家は自分の知的使命として闘うべきだ、と考えた女性歴史学者のインタビューが載っていた。

「フェイクとどう闘うか 歴史のねじ曲げ 著作の出典精査し 巧妙なウソ暴いた:歴史学者 デボラ・E・リップシュタットさん
 「ポスト真実」の時代と言われる。事実より心情や感情へ訴えるウソの方が世論形成に大きく影響するといわれる状況に、どう立ち向かえばいいのか。ホロコースト(ユダヤ人虐殺)否定者と法廷で闘った回顧録を映画化した「否定と肯定」の日本公開を機会に来日した、米国の歴史学者、デボラ・E・リップシュタットさんに聞いた。

 ――ユダヤ人虐殺はなかったと主張するホロコースト否定者たちをどう認識していましたか。
 「彼らの主張は地球が平らだと言っているのと同じです。最初は、真剣に向き合うべきものとは思えませんでした。ところが、しばらくして世の中を見ると、『否定者の言うことに一理があるかも』という人たちが出てきました。否定者がどんな戦略で、ふつうの人たちの意識を引き込んでいるのかに興味をもちました」
 「1993年に『ホロコーストの真実 大量虐殺否定者たちの噓ともくろみ』を出版しました。否定者たちに『あなた方は間違っている』と言うためではなく、彼らに説得されてしまうかもしれない人たちのやり口を知ってもらうために書きました。ホロコーストに限らず、歴史的な出来事は体験者から直接話を聞けなくなると、遠い過去の昔話になり、否定や作り替えの入りこむ隙間が多くなります」
 「彼らは証拠をねじまげ、記録や発言を文脈からはずして部分的に抜き出し、自分の主張と矛盾する証拠の山は切り捨てます。彼らは『羊の皮をかぶったオオカミ』です。見た目はいかにも立派な学者さながらに振る舞い、研究所を作り、機関誌も出しています。『私たちは修正主義者だ。我々の目的は誤った歴史認識を修正することだ』と言う。が、よく調べると、ヒトラーや反ユダヤ主義、人種差別を賞賛する人たちでした。彼らのもくろみは、『見解』を装って事実をゆがめることです」
 —―著書で批判したホロコースト否定者の一人、英国の歴史著述家デイビッド・アービング氏に96年に名誉棄損で訴えられました。
 「『相手にするな』と学者仲間からは言われましたが、英国の法律では被告である私に立証責任があります。もし闘わなければ、私は負け、彼は『名誉毀損が成立した。私は否定者ではない。私の説が正しい』と言うでしょう。これを黙認したら、ホロコースト生存者やその子孫に顔向けできません。歴史学者として失格です」
 「裁判費用は200万㌦(約2億3千万円)かかりました。弁護団に恵まれ、多くの人が支援してくれましたが、600万人が虐殺されたホロコーストの実在をめぐる、あまりにも重大なことを争うもので、怖くて眠れませんでした。訴えられて約3年かけて準備、法廷は2000年1月11日から32日間開かれ、4月に全面勝訴の判決が出ました。判決はアービング氏がウソつきで人種差別主義者で、反ユダヤ主義者であることを認めました。偏向した歴史観をもち、意図的にウソを述べ、真実をゆがめた、と」
 「裁判にあたり、私たちは、彼が描いた著作の脚注をたどり、出典を精査しました。すると、彼はわざと間違って引用したり、半分だけ引用したり、事件の発生の順番を入れ替えたり、ドイツ語の原文をあえて間違った英語に訳したりして、結論を彼らの都合のよい方向にもっていっていました。出典の情報を少しづつ変えていく彼の戦術は、とても巧妙で、ふつうの人は信じてしまいます。
 —―映画の原作になった回顧録は10年以上前に書かれましたが、現代に通じるものがあります。
 「これほど現代性をもつとは想像していませんでした。SNSは多くの恩恵を与えてくれましたが、客観的な事実とウソの違いがわからなくなり、それらを同列にしてしまいました。SNSはナイフのような存在です。外科医の手にあるナイフは人の命を救います。ですが殺人者の手にあるナイフは命を奪います。どうやって利用するか、人類は学ばなくてはなりません」
 「米国では実際に起きている地球温暖化を全く認めようとしない人たちがいます。歴史的な事実でいえば、ホロコースト否定だけでなく、オスマン帝国でのアルメニア人虐殺事件も否定者がいます。トルコの人たちにとっては、虐殺したことなんて認めたくありません。『不都合な歴史』ですから。そんなことは起らなかったという方が都合がいい。日本の慰安婦問題や南京大虐殺はなかったという論も同じではないでしょうか」
 —―当たり前だった歴史を揺るがそうとする動きがある中、私たちは歴史にどんな目を向ければいいのでしょうか。
 「米国の作家フォークナーがこんな言葉を残しています。『過去は死なない。過ぎ去りもしない』。歴史は古い事実だけではありません、起きたのは過去かもしれませんが、現代性のあるものです。もし、私たちの歴史のなかで悪いことがあれば、重要なのはそれを認識することです。同じぐらい大切なのは、そのことについてウソをつかないこと。歴史のひとつの側面を好き勝手に操ってしまえば、他の側面も操られます」
 「ヒトラーの風評を変えようとしたアービング氏ら否定者は歴史に関心を寄せたいのではなく、現在を変えたいのです。彼らがやろうとしているのは、歴史を改めて違う形にすることで、今と未来を変えようとしているのです」
 「いま、歴史家はとても重要な責任を負っています。未来のことは予言できませんが、危険信号に注意を引きつける役割を果たすべきです。私自身は将来を照らす灯台のような存在でありたいです。たとえば、トランプ大統領は批判的なことを伝える報道に対して『フェイクニュース』『ライイング(ウソをつく)』と言います。『ライイングプレス』というのは、ヒトラーが使った言葉です。私は大統領がヒトラーと同じだと言っているのではありません。でも、同じ言葉を使っていることは指摘したい。それを示すのも歴史家の役割だと思います」
 —―ホロコースト否定者の発言を法的に規制すべきだとの意見もあります。
 「その意見には反対です。私は言論の自由を信じています。自由によって煽動することは間違っていますし、街角で黒人を殴ることは許されません。ですが、言論の自由はとても大切です。何を言っていいか、いけないかを政治家が決めるのは絶対に違います」
 —―いまは声の大きな人の言葉が真実のように扱われる時代です。私たちはどう向き合っていけばいいのでしょうか。
 「とても難しい。特に、政府のリーダーが真実をねじ曲げることに関与していると、本当に難しいです。今の米国がそうです。先日も大統領の側近がある除幕式でとんでもないスピーチをしたと攻撃しました。それに対して、新聞が除幕式の様子が録画されたビデオを見つけ、実際はそんなスピーチはなかったことを伝えました。報道がなければ、みな側近の言うことを信じたでしょう。私たちにはファクトチェック(事実を確認)してくれる存在が必要です。独立し、事実を追求し、精査できる活力ある報道が必要なんです」
 「いまは非常に多くの政治的なリーダーがでっち上げをして、まるで真実のように言い募る時代です。我々は、国の中で一番偉い人にでも、世界一偉い人にでも『証拠を示せ』『事実を示せ』と言い続けることが大切です。私たちにできることは、根拠を要求すること。今は善き人ほど沈黙してはいけない時代だと思います」
 「私たちは、何でも議論の余地があると習いました。しかし、それは間違いです。世の中には紛れもない事実があります。地球は平らではありませんし、プレスリーも生きていないのです。ウソと事実を同列に扱ってはいけません。報道機関も、なんでも両論併記をすればいいということではありません」
 —―私たちは具体的にどうすればいいのでしょうか。
 「一人一人が、注意深くならなくてはいけません。SNSで何かを共有する前に、『これは事実?』と考え、信頼できる情報源が言っていることか精査することが大切です。私自身、フェイスブックで好ましく思っていない右翼政治家がとんでもない人種差別発言をしているという投稿を目にしたとき、ツイートしそうになったことがあります。ですが、ちょっと待てよ、と考え、事実ならばほかのメディアも記事にするだろうと考えて、ネットで調べました。誰も知らない媒体がひとつだけ発信していた情報でした。私は疑念を感じ、ツイートしませんでした」
 「疑念をもって出典を精査することが重要です。私たちはカメラや車を買うときと同じように、すべての情報に対しても健康的な疑念をもった消費者になるべきだと思います。いまは真実と事実が攻撃されています。私たちに迫ってきた困難は重大です。今行動しなくては手遅れになります」
 (聞き手・編集委員・大久保真紀)」朝日新聞2017年11月28日朝刊17面オピニオン欄。

  たくさんの人間が殺されたという事実を、ただのウソ、なかったことにしようと考える人たちは、いったいどういう動機でそんなことを熱心にやっているのだろう?ホロコーストをなかったというアービング氏の動機は、ヒトラーのナチズム思想を正しかったと考え、ユダヤ人虐殺を悪とする常識を壊し、人々をもう一度ナチズムに親近感を抱くような状況にもっていきたいということのようだ。これはどうみても、歴史の真実をわざと歪めて社会や国家を危険な方向に誘導しようとする行為である。言論の自由だからほっといてよい、という限度を超えている。しかし、リップシュタット氏は同時に、そのような誤った言論でも、権力によって法的に禁じるという対策はとるべきでないと言う。言論の弾圧はそれこそヒトラーなどの独裁権力者がやってきたことと同じだ。言論の自由が真に意味をもつのは、公共に開かれた場でさまざまな主張や見解が自由に開陳されることによって、それらが確かな根拠に基づく正しい情報なのか、あやしげな誤った情報なのかをぼくたちが知り考えることが可能な社会かどうか、なのだ。
 日本の場合、リップシュタット氏も触れているが、歴史修正主義者による「そんなことはなかったことだ」という主張はだいぶ前から一部メディアを中心に、かなり深刻な段階になっている。いわゆる嫌韓・嫌中世論を煽る言論は、慰安婦問題にしろ南京大虐殺にしろ「左翼のでっち上げ」と考えて否定することに熱中している。歴史の事実を歴史学者は客観的実証的に確かめるのが仕事だが、歴史の細部は分かることと分からないことが混在する。とくに日本の軍部が行なった戦争がらみの出来事は、肝心の記録が焼却されたり隠蔽されたりして確かめられないことも多い。そこにつけこんで、都合のよい記録や証言だけをつないで「そんなことはなかった」と言ったり、捏造した記録を使ったりして歴史の見直しを訴える。それを見て「そうなのか」と信じる人も増えてくる。
 日本のリヴィジョニストたちは、結局どういう動機からそんなことを熱心に繰り返すのか?ほんとうに歴史的事実として「なかった」と信じているんだろうか?右であれ左であれ、確かなものだけを根拠にする学問的に誠実な歴史学者は別として、多くの論者は結局歴史の「そのままの真実」を知りたいのではなく、自分の望む「あるべき歴史」「こうあってほしい歴史」を現実の歴史を無視して脚色して語っているだけだと思う。ある意味、ふつうの人にとって歴史とは「ロマン」や「ドラマ」であるほかないし、「いやな歴史」「見たくない事実」よりは「輝く歴史」「元気の出るおはなし」を聞きたいと思うのは自然である。でも、それはフィクションであってそこにはウソやウワサが多く含まれている。フィクションだと思って楽しむのは結構だが、それを事実だと思い込んで現在に投影すると、とんでもない世界が出現する。
  リヴィジョニストがいうことはほとんどいつも同じである。「大日本帝国がやった戦争は正しい目的で日本人は立派に戦ったが、戦力と作戦が失敗したから敗れたに過ぎない」「戦勝国と共産主義者の陰謀で、日本は悪者にされおかしな憲法を押しつけられた」「中国や韓国はありもしない事件をでっちあげて事あるごとに日本を非難しては利益を得ている」といった一連の言説を展開している。無知な若者はこれを読んで「そうなのか、知らなかった」と思ったり、「なるほど、でもこれもちょっとうそっぽいぜ」と感じたり、「なんかへんなことにこだわるオヤジいるんだな」と思う人もいる。科学というものは、レベルの低い議論をしているといつまでたっても進展せず、かえって巻き込まれた人たちのレベルが低下する。歴史についても同様に、かつて左翼右翼のイデオロギー対立が不毛だったように、あやしげな歴史観で論争してもさらに言論が怪しげになるだけだ。歴史家は、しっかり確定した根拠を示して、若者になにが考えるに値する問題かを示してほしいし、ぼくもそうしたい。
コメント (1)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 日本絵画の近代化は結局西洋... | トップ | 169年前の革命のこと 100年... »
最新の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (Unknown)
2018-10-02 15:09:19
強制連行や従軍慰安婦などは結局なんだったのですかね。子どもが中学生の時、PTA活動時熱心な先生に誘われ慰安婦の方の講演を聞いたり、女性基金の活動を行っておりましたが、今ではなぜ詳しく調べずして感情のまま活動をしていたのかと後悔しきりです。彼女たちにも辛い思い出が存在するのでしょうが・・・。慰安婦の方の語る時代背景や年齢が合わず千変万化する証言。朝日新聞などの戦時中から変わらない捏造と虚実ないまぜの報道。戦時中は同胞だったのだからと韓国北朝鮮に阿ったり無償支援する無責任な政治家。事なかれ主義の官僚。 私が歴史修正主義者と呼ばれるならそれでいいと思います。嫌韓新時代などと最近呼ばれるリヴィジョニズム、ゼノフォビアは、一度2000年代あたりに韓国などを好きになったり詳しく調べた者たちの末路でもあります。 あなたのいうリヴィジョニストの根底は失意であります。
返信する

コメントを投稿

日記」カテゴリの最新記事