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日本史における真の革命家? 6 西洋の革命  金融と財政の癒着の結果

2024-06-09 20:59:12 | 日記
A.(続)反復の反復?
 イエス・キリストの磔刑はなぜ起きたのか?といえば、旧約聖書に書かれたユダヤ教の教えとそれを守る律法学者たちを批判し、正しい神の言葉を伝えると言って人々を扇動したから、統治者のローマ帝国はイエスを捕らえて処刑した。つまり神は唯一なのだが現行の体制は間違っていると主張したわけで、これは革命である。とすれば、西洋一神教の世界では、神に対して別の異端の神が登場するのではなく、神から預かった言葉(それを述べるのが預言者)を正しく理解しない者が支配する世界を否定するには、神の言葉を新たに読み直すということになる。そして、これはイエスよりずっと前にも起きていて、そうした神の言葉の読み直しは、繰り返し反復されるのだと考える。そのパターンは近代の革命にもあてはまると、大澤真幸はいう。つまり、西洋の革命とは、イエスによるキリスト教の革命運動を反復している。だとすれば、中国の易姓革命とは違うものになり、革命はないとする日本の場合はどうなるのか?とりあえず、西洋の繰り返された革命の例として、前回の続きである中世の叙任権闘争とその後の解釈者革命を検討する箇所を読んでみる。

「要するに、叙任権闘争は、ローマ教皇と神聖ローマ皇帝の間の戦争である。ところで、ローマ教皇は、どうやって戦ったのか。つまり、教皇は、どんな軍隊をもっていたのか。神聖ローマ皇帝は、世俗の王だから、当然、軍隊をもっている。ローマ教皇も、これに匹敵する軍隊をもっていただろうか。
 ローマ教皇には自前の軍隊はまったくなかった。今しがた略述したグレゴリウス七世とハインリヒ四世との争いの中にも示されているように、教皇側は、彼らの方に正当性があると確信し、彼らのもとに軍隊を連れて馳せ参ずる王や諸侯を必要とした。そこで、教皇側は、彼らの正統性の根拠となる法を見出だそうとした。ここで、われわれは気づかなくてはならない。世俗の権力者が、何らかの法に教皇側の主張の正統性の根拠を見て、教皇側に付いたとすると、このとき、その世俗の権力者は、すでに法の支配に従っているのである。彼は、教皇の軍事力に威嚇されたわけではないのだから(教皇の方にはいかなる軍事的な裏付けもなく、むしろ、軍事力の点では世俗の権力者の方が強い)。
 教皇庁による、法のこうした探求の中で、解釈者革命のきっかけとなる出来事が起きる。11世紀末に、イタリア北部ピサの図書館で、「ユスティニアヌス法典」、別名「ローマ法大全Corpus Iuris (Juris) Civilis, Body of Civil Law」が発見されたのだ。この出来事は、軍隊の動員ということをはるかに超えた意義、法の支配の全般を基礎づける運動の起点としての意義を担うことになった。
 ユスティニアヌス法典は、六世紀の東ローマ皇帝ユスティニアヌス一斉の命令で編纂され、公布された法典である。全体が四部からなり、きわめて洗練されている。四部の中で最も重要なのが、身分関係、不法行為、不当利益、契約、賠償問題等をあつかった「学説彙纂(がくせついさん)(ラテン語ではigesta ギリシア語ではPandectae)」で、ここには、「古法学者」と呼ばれる四十名の重要な学者の学説がまとめられている。この学説彙纂が、12世紀のヨーロッパにおいて、法学者の徹底した解釈の対象となった。
 ローマ法のこうした復活と並行して、法学が、新たな学問として確立した。今日に連なる大学が誕生したのは、このときである。ボローニャ大学が、最初の大学で、ヨーロッパの全体から数千人の学生が集まり、熱心に学説彙纂の講義などを聴いたという。パリやオックスフォードやハイデルベルクなどのヨーロッパの他の大学にも、法学部が設置された。それらの大学に集まった学生たちは、市民法の知識をもって故郷に帰り、それぞれの社会のモデルとして、これを活用した。
 解釈者革命は、二段階で進行する。まずローマ法大全の発見直後の最初の世代は、「注釈者glossator」と呼ばれており、彼らは、簡単に言えば、ローマ法そのものを構築することに力を注いだ。より後の世代は、もっと過去にまで、たとえば古代ギリシアにまでさかのぼって法の根拠を探りあてようとした。この後の世代の中には、たとえばトマス・アクィナスも含まれる。また、法の根拠の中で、最も重要な源泉は、もちろん、アリストテレスだった。こうして古代の原典に通じた法律の専門家が生み出され、教会も、また世俗の権力者も、政治的な決定を下すにあたっては、こうした法律の専門家の知識に頼ることになった。解釈者革命でいう「解釈者」とは、このように、ローマ法やその他の古代の文献の解釈や注釈を通じて、実質的には、中世の法を刷新した者たちである。
 市民法(大陸法、ローマ法)におけるこうした動きと対応するように、教会法も整備された。かつては、つまりグレゴリウスの教会改革の前は、教会法とは、教会から――あるいは教会の代わりに王や皇帝から――発せられる布告や文書のことを指していて、それらは、無政府的で、相互の間の調和や整合性について、十分に考え抜かれていなかった。だが、ローマ法の研究が進むにつれ、聖職者の中にも、法の専門家が増えてきた。そのような専門家のひとり、修道士のヨハネス・グラティアヌスは、それまでの何世紀にっもわたって発せられてきた布告を取り集め、矛盾を取り除き、大きな整合的な体系にまとめあげた。その成果が、1140年頃に、『矛盾教会法令調和集Concordia discordantium canonum』, Concordance of Discordant Canons』(別名、『グラティアヌス教令集Decretum Gratiani』)として出版された。グラティアヌスは、法に、神定法/自然法/実定法/慣習法という序列を与え、この順序が、法令の間の矛盾を解消する最も重要な根拠となる。次のおよそ百年の間に、教会法は、さらに拡大し、さまざまな主題、つまり刑罰、家族、所有権、契約、遺言などの主題を含むものに、つまり刑法や民法の一般と言ってもよいようなものになっていった。ローマ法の解釈に触発されて、教会法のテクストを整備し、体系化したグラティアヌス等も、「解釈者」に含まれる。
 解釈者革命は、近代的な「法の支配」の端緒を開いた革命であると言える。
 解釈者革命と申命記革命は、驚くほど似ている。まず、最も肝心なとき、まさにそれが必要とされているときに、権威あるテクストが発見される。革命は、そのテクストの解釈を通じて進められる、解釈者革命は、まさに申命記改革の(反復の)反復である。
 だが、同時に、二つの革命の類似性のゆえに、はっきりとした疑問も出てくる。ヨシヤ王が発見したのは、神との契約の内容を記したテクストである。それが大きな権威をもち、人々を拘束するのは、このテクストが神の言葉を刻んでいるからである。だが、ユスティニアヌス法典は、神との契約と何の関係もない。どうしてそのようなテクストが権威をもつのか。なぜ、そのようなテクストに基づいて成立した法に、拘束力があるのか。なぜ、そうしたテクストに基づいて、法が創造されなくてはならなかったのか。なぜ、いきなり、無から法を想像してはならなかったのか。
 これらのなぞを解く鍵こそ、反復の反復、二重の反復である。つまり、西洋の革命は、古代の申命記改革の直接の反復ではない。媒介として、「イエス・キリスト」が入っているのだ。前節で見た易姓革命は、古代の聖人や有徳な人物が行ったことの直接の反復として遂行されている。易姓革命は、湯武放伐やあるいは堯・舜・禹の間の禅譲の、直接の反復と解釈されてきた。それは、反復の反復―-つまり二重の反復―-ではない。それに対して、西洋の革命は、イエス・キリストの活動という第一段階の反復を前提にした反復だったのではないか。このことを考慮すると、なぞが解明される。
 次のように説明してみよう。まず、原点に申命記改革がある。このときには、神の命令(原申命記)Dの発見という形式で革命が遂行された。このDの部分が、神とは直接には関係がない法J―-ユスティニアヌス法典―-に置き換えられたとき、解釈者革命になるのだった。しかし、D→Jという置き換えは、一足飛びにはいかない。媒介としてイエス・キリストが入らなくてはならなかったのだ。
 先に述べたように、キリスト自身が、申命記改革(D)をモデルとして意識していたと考えられる。キリストによって、旧約から新約への更改が生ずるのだが、それは、神から与えられていた法Jを無化することに相当する。この法の無化を、同時に、キリストは法そのものの成就と見なしていた、という先に述べたことを思い起こしてもらいたい。どうして、法を廃棄したことが、同時に法の完成ともなりうるのか。次のように理解したらどうだろうか。イエスがなしたことは、Dの内容を排除し、Dが占めていた場所を、どのような具体的な法も入ることができる空白のマスに置き換えたのだ、と。数学的な比喩を使えば、イエス・キリストは特定の値Dを、変数Xに置き換えたのである。法は、内容としては排除されているが、形式としては維持されている。だから、法をキャンセルすることが、法の完成とも言われたのである。
 一旦、変数Xへと転換すれば、そこには、Dに限らない、さまざまな特定値を代入することができる。たとえば、Xには、(キリスト教徒は直接のつながりをもたない)ユスティニアヌス法典を代入することもできる。イエス・キリストの運動を媒介にすることによって、さまざまな具体的な法を代入しうる空白のマス、変数Xが用意されたのではあるまいか。そして、この変数Xに、さまざまな具体的な値、つまり具体的な内容をもつ法や政治的宣言を代入することこそ、西洋における革命だったのではないか。このような仮説をここで提起しておこう。
 今、われわれは、論を急いで展開させるために、申命記改革との類似性が最も顕著な事例を用いて説明してきた。だが、このXの位置に、「ユスティニアヌス法典」ではなくて、たとえば「憲法」を、あるいは「人権宣言」や「独立宣言」を代入したらどうであろうか。それこそ、まさに市民革命や民主化革命になるであろう。ここでは、われわれの関心の中心は、「日本的革命」にあるので、詳しく説明する余裕はないが、解釈者革命よりも後の西洋の革命、もっと世俗化された革命もまた、以上と同じ論理の延長上で説明できるだろう、という見通しだけを述べておこう。例えば、フランス革命は、宗教(キリスト教、とりわけカトリック)を拒絶する革命として理解されている。もちろん、その通りなのだが、それは、DをXへと置き換えたときに、すでに予想されていたことである。
 中国の易姓革命と改めて比較しておこう。易姓革命は、革命を否定する革命、持続の帝国を結果する革命であった。どうしてそうなるのか。天命は不可知だが、原理的には、特定の人物を皇帝として指名するだけで、それ以上の内容をもたず、また固定的だと解されているからである。天命は、「皇帝の姓」(父の名)を別にすると、永遠に変わらない。
 さらにつけ加えておけば、天命には、それ以上の内容はないので、先にも示唆したように、皇帝位に即いた人物の命令は、そのまま、法としての効力をもつ。したがって、ここには法の支配はない。皇帝は、天(命)には支配されるが、法には支配されない。というか、天命の支配は法の支配の否定である。
 西洋においては、神の命令、神との契約の内容が、どのような具体的な命令をも代入しうる変数Xになっている。西洋の革命が、中国の易姓革命とは異なり、実際に社会の基本的構造を変えうるのは、神の命令が、変数Xに転換されているからである。その転換の起源を見出すとすれば、それは、イエス・キリストの運動、律法を廃棄することによって成就したイエス・キリストの革命運動だということになるのではあるまいか。これが、われわれの仮説である。
 このような革命の論理の下では、法の支配が実現する。法の支配が成り立つためには、あるアンチノミー(二律背反)を解決しなくてはならない。一方で、人は、必要や状況に応じて自由に法を創造したり、改変したりできなくてはならない。他方で、どんな有利な立場にあったとしても、人は、法に定められた規定に従わなくてはならない。要するに、人は法を変えることができなくてはならず、かつ、法を変えてはならないのだ。これは、まったく矛盾した要請である。一般には、二律背反を構成する二つの条件のうち、一方だけが満たされる。中国は、前者の条件を基礎においており、イスラーム社会は、後者が基礎になる(イスラーム法を人間が変えることはできない)。ちなみに、御成敗式目について北条泰時は、一方では、弟に宛てた書状や式目条文の後ろにつけた起請文の中で、判決が、訴訟当事者の力の強弱や身分の上下、当事者に対する評定者の親疎によって影響されないように(つまり人の支配に堕することがないように)、法を定めたと言い、他方では、やはり、書状の中で、必要があれば後に追加法を書き足していけばよいとも語っている。これこそ、まさに法の支配を構成する二律背反的な条件であろう。泰時は法の支配の理念を謳い、のみならずこれを実行したのだろう。彼が、同時代の人々や後の世代の歴史家から絶賛されたのはこのためだ。いずれにせよ、御成敗式目や泰時については次章で立ち返ることにする。ここでは、西洋の法の支配にまずは注目しておきたい。
 西洋では、どうして、法の支配が首尾よく確立したのか。結論だけ述べれば、人は法に支配されている。しかし、一定の手続きさえ踏めば、人は、Xに任意の内容を充填することができる。つまり、内容的には、人は自由に法を創造したり、改変したりすることができる。こうして、内容を充顚された法が実定法である。正統であると社会的に承認された「手続き」が、その手続きを媒介にしてもたらされた「内容」がまさにXに代入されたものであることを保証する。」大澤真幸『日本史のなぞ なぜこの国で一度だけ革命が成功したのか』朝日選書、2016年。pp.92-102.

 この論法で行くなら、日本にも少なくとも一回、革命はあったし、恣意的な権力者の支配を脱して実定法を成立させた北条泰時がいた、といってもよくなる。では、明治の帝国憲法や、戦後の日本国憲法の場合は革命が生んだものと呼べるのか?それは確かに法の支配ではあるが、結局法があってもいつのまにか人の支配へとなし崩される恐れはないか。


B.癒着で腐る財政と金融 政府と日銀
 日本の国際残高は今年1068兆円になる見込みで、この膨大な国債、つまり借金をどうするのかは、あまり考えたくないが、この金を積み上げて何に使ったのか?安倍政権ができたとき、まず日銀総裁と内閣法制局長官の首をすげ替えたことは記憶にある。これで好きなだけ金を積める資金ができるとばかりアベノミクスをやりまくったが、結局それで日本は健全で豊かな国になってとはとてもいえない。政権を支え続けた黒田日銀総裁はやめたけれど、その功罪はきちんと歴史に書かれなければならない。やってはいけないことをやってきたのではないか。事態はさらに悪化して、財政破綻がいつ起きても不思議でないような状態を、自民党ではもう救えず、身動きもできない。

「一体化状態を解消し、あるべき姿に  慶応大学名誉教授 金子 勝
 財政政策と金融政策は本来、別々のもの。それが今、一体化してしまった状態だ。
 財政法では、国の歳出は原則、公債や借入金以外の歳入を財源にすると定めている。新規発行の国債を、銀行など金融市場を介さずに日銀が直接引き受けてはならない規定もある。日銀が国債を直接買う行為は、政府への資金提供に当たる。財政規律を失わせ、通貨の増発やひどいインフレを招きかねない。
 太平洋戦争の際、戦費調達のために大量の国債が発行され、日銀の直接引き受けが行われた。それが戦後のハイパーインフレにつながった反省から、財政政策をつかさどる政府と、金融政策を担う日銀の癒着はやめようということになった。中央銀行は政府から独立した存在であり、中立でなくてはならない。日銀法でも、日銀の目的は物価の安定と、金融の信用秩序を保つことだと掲げている。日銀が行う金融精査悪の自主性の尊重も記している。
 しかし、日銀は大規模な禁輸緩和策として、市場を介しているとはいえ、大量の国債を買い入れ、金利を低く抑えてきた。その結果、日銀が政府の資金調達を事実上支えており、あるべき姿からかけ離れている。金融政策の集成で金利が上がり、日銀の保有国債の価格は下がって、含み損を抱えている。日銀の財務の健全性が疑われれば、日本経済へのリスクになる。
 無駄な政策を見直し、必要なところに予算を充てる、本来の財政に立ち返るのも必要だ。防衛費の膨脹が止まらず、それを日銀が支える構図は、本来の姿から外れている。予算を投じるべきことは他にある。例えば、教育への公的支出は他国に比べて少ない。これで子育て政策が充実していると言えるのか。円安進行で、輸入の多い資源や食品の価格が高騰している。家計への打撃を抑えるため、再生可能エネルギーへの転換や、食料自給率を上げる方策も考えるべきだ。」東京新聞2024年6月9日朝刊、日曜版8面。
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