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「国家悪」という本があった。ばいきんまんってなぜひらがな?

2018-08-05 03:08:15 | 日記
A.「にっぽん」「にほんじん」
 いまぼくは猛暑の中、定期試験の答案を採点しているのだが、記述式の設問で日本の近代文学、詩や小説が人々の感受性や価値観にどういう影響を与えたか、という問題を自由に書けばいいのだが、多くの学生が「価値観」を「価値感」と書いている。世界をある視点からviewするとは考えず、ただ周りの雰囲気を即自的にfeelするのが「価値感」だと信じて疑わないのだろう。そのような若者たちにとって「国家」や「歴史」や「政治」はもっともイメージすることの難しい、近寄りにくい話題のようだ。だから、答案のなかに頻出する「日本人は」という言い回しが、ぼくには気になる。「日本人は~だ」というとき、外国人留学生なら当然それは、自国の文化から見て「日本人は」こう見えるという対象化が働いている。でも、自分が日本人であるという意識を自明の前提にしている「日本人学生」にとっては、ある意味で抽象的概念的な「日本人」を切り取ってきて、それを凡庸でステレオタイプな色で塗りこめる。
 たとえば、「日本人は勤勉だと言われる」「日本人は自己主張を控える」「日本人は空気を読む」といった命題を出しながら、自分はその日本人に属していることを認めつつ、なぜ日本人がそのような傾向を示すのか、それが世界の中でどんな意味を持つのか、そもそも日本人とか、日本とかについてまともに考えたことがあるのか、きわめて怪しい。怪しいから気軽に「日本人」を乱発し、「にっぽん凄い!」「日本人の誇り」をなにかポジティヴな観念として語るのだ。さすがにそういう軽薄な話は、無視してもいいが、「国家」という厄介な問題を、あえて考えないようにしてきた戦後の日本への批判は、なかったわけではない。

 「江藤(淳)は昭和七年(一九三二年)生まれで、大正三年(一九一四年)生まれの丸山より一世代以上下にあたる。また江藤は文学者であり文芸評論家である。こうした違いはある。しかし、両者の見方の違いを、世代と学問分野の相違に解消することは適切ではない。わたしには、丸山よりさらに年長である経済学者の大熊信行の次のような議論は大変説得力をもって響くからである。大熊は明治二十六年(一八九三年)に生まれて昭和五十二年(一九七七年)に亡くなった経済学者であり評論家であるが、彼は一九六〇年前後に次のようなことを書いていた。

 国家意識という言葉で、私は国家主義を意味するわけではない。人間の存在形式が国家的であることの自覚、というぐらいの意味である。国家に対する評価のプラス・マイナスを問うのではない。国家否定の思想さえも、実は強力な国家意識のじとつなのである。ところが戦後日本はそういう国家意識を喪失してしまった。ここで国家意識の喪失とは国家の存在と自己の存在との緊張関係についての意識の喪失である。  (「国家悪」)
 
 つまり、戦後日本では、人びとが国家というものに向き合うことをやめてしまった、というのである。国家と自己との関係を自覚的に捉えようとしなくなった。戦前には、国家はあまりに強力で個人という存在の前提となっていたためにそれを対象化できなかったとすれば、戦後には、それは逆にあまりに無自覚にそこにあるものなので、もはや自覚的に対峙する必要がなくなった、ということであろう。
そこで彼はいう。戦後の日本人は非常に大きな精神の空白に陥っているのだが、「日本国民については、その精神の空白は国家意識の喪失にある、というえば済む。しかし、日本の知識人にとってはそういっただけでは足りない。致命的なのはその問題意識、問題を喪失した点にある。革命主義も平和主義もナショナリズムも市民主義も、これら戦後思想は全部共通の刻印を帯びている。その共通性とはそれらの思想が全部精神の空白の産物である」ことだという。
  これは厳しい見方である。だが正鵠を射ていると思う。
  では何がこの「精神の空白」をもたらしたのか。それについて大熊は四つの原因が考えられるという。 
第一に、「大東亜戦争についての日本人の反省の仕方がいささか性急で、しかも表面的であった。戦争の原因とか責任を天皇に押し付けてしまって、天皇制を実際に支えている国家機構そのものについての理解、追及、分析、そういうものがなかった」。
 第二に、戦後における戦争責任論は敗戦や戦犯裁判、そういうものと切り離すことはできない。しかし、その場合に戦争についての個人の責任ばかりを追及した。個人の責任を追及するに急で、戦争と個人を結びつけた中間項としての国家の存在についてはほとんど問われることがなかった。国家とは一体どういうものなのか。ある状況のなかで国家はどうして戦争にいたるのか、そういう問題意識がなかった。
第三に、日本の非軍事化を目的としたアメリカの占領政策には民主主義はいかにあるべきかという教育はあったが、民主主義国家はいかにあるべきか、という教育はなかった。戦後アメリカが日本に与えたのは民主主義についての教育であって、民主主義国家という国家への意識は抜け落ちていた。
第四に、「日本国憲法で第九条が交戦権を否定して戦力を保持しないというふうに規定したことによって、おしょそ近代の国家主権中の最も生命的な部分を日本は放棄してしまった」。要するに、平和憲法によって、国家主権の中核を失ってしまったというのである。
  ここでの大熊の分析はおおよそ的を射たものであろう。彼は、戦後の日本が、結局、「国家」なるものに直面することを避けてきた、という。そして、この四つの分析は、ほとんど丸山政治学にあてはまるものなのである。
  大熊が戦後日本の「国家意識」の喪失を論じてから約五十年が経過する。丸山が戦後日本の民主化運動の啓蒙を引き受けたのが、その十年ほど前であった。江藤が戦後日本を「ごっこの世界」と呼んだのが、大熊の議論のほぼ十年後である。大熊は格別に「国家意識」をもつことこそが肝要だと述べているわけではない。「国家」というものの危険と抵抗し難い巨大さとを認識した上で、それといかに対峙するかを考えねばならない、という。それこそが、日本が戦争に敗れたということの意味なのだ、という。
 ところが「戦後」という時空は、日本にあって、こうした問いをたちまち風化していった。丸山は、おそらく後のいわゆる進歩派などと呼ばれる世代よりもはるかに戦後民主主義の蒙昧を知っていたと思われる。なぜなら、彼は日本の近代化の問題を、ただ戦後のアメリカ的民主化に求めるのではなく、明治以降の日本の歴史そのものに見ていたからである。「日本におけるナショナリズムの考察は特殊の困難性を包含している」。なぜなら、それは「結局日本の近代国家としての発展自体の特異性に帰せられるであろう」からである。それは煎じ詰めると、西欧近代国家をモデルとした「上からの近代化」ということであった。国民の中に本当に近代化を求める意識が育たなかったのである。彼のもともとの問題意識がこのようなものであったとすれば、問題は戦後の民主化によって解消するような簡単なものではないことは明らかである。明治以降の日本の近代化というプロジェクトそのものにあったはずだからである。
 そしてその長いプロジェクトの内に「戦後」という時空もまた位置づけられるべきであろう。戦後になって、戦前の体制が大変革を起こしたというわけのものではない。大熊が述べるように、戦前はすべてが国家に取り込まれていたために「国家」へ直面することができなかった。戦後はあたかも国家が後景へ姿を隠してしまったためにまた「国家」に直面することができなくなった。そこで、民主主義もナショナリズムも実体感のない「ごっこ」とならざるをえない。丸山は、戦前のウルトラ・ナショナリズムと、戦後の一気に脱力したような脱ナショナリズムは、実際には同質のものだという。彼はそれを「下からの民主化」に失敗したからだ、というが、それは、大熊流にいえば、どちらも本当の「国家」に直面していなかったからだ、ということになろう。
 戦後についていえば、それでも、江藤が「ごっこの世界」と呼びえた偽装が、七十年代まではまだ偽装として視覚化できた。その後、八〇年代のポストモダン・ブームと、サブカルチャー、さらにはブランド的消費ブームの中で、すべてが文字通りに「ごっこ」化していった。われわれの日常生活そのものがどこかリアリティを失って、むしろ「ごっこ」を楽しむようになってゆく。ポストモダンというすべてを遊戯化するという時代風潮の中で、消費マーケットも「ごっこ」を付加価値にして商品化していったのである。その延長上に香山の「ぷちナショナリズム」もある。サッカーにせよ、映画にせよ、ポップスにせよ、「ぷちナショナリズム」そのものがサブカルチャーの消費アイテムとなっている。
 われわれはどうもそのような時点から出発しなければならないのであろう。この中で、では「本物のナショナリズム」など存在するのであろうか。そのように問わねばならないのである。この時代状況にあっていえば、われわれの課題は、「本物のナショナリズム」の登場を恐れることではなく、どこに「本物のナショナリズム」の痕跡を見出すかなのである。それは今、目の前にあるものではない。われわれはその痕跡を、記憶を探し求めるほかないだろう。われわれが怯えている、あるいはコミットしようとしているナショナリズムなど「偽りのナショナリズム」である、と気づくとすれば、それは本物の「痕跡」を前にしたときだけであろうから。」佐伯啓思『日本の愛国心 序説的考察』中公文庫、2015. (原著2008.刊)pp.81-86.

 江藤淳が『成熟と喪失』という評論で、まだ日本では知る人の少なかったエリクソンをとりあげ、アイデンティティ論を文学に導入したとき、ぼくはそれを読んで、「母なるものの喪失」という主題は、「国家」の喪失に心情のレベルで結びつけられていることを独創と思ったが、どうして国家などを自己同一の対象にしたいのか理解できなかった。日本人にとっての国家が、いわゆる近代国民国家ではなく、神話的な理念の共同体であり、家父長的プレモダンでしかないと感じていたからだ。しかし、21世紀の現代にとって、問題はもう一度「国家」あるいは「国家悪」を理念のレベルで考え直す必要があるのではないか、と思い始めた。安倍晋三の周辺に寄り集まる復古的保守派のなかにも、大半は語る価値もない妄言を弄する輩だとしても、少しは論ずるに足る見解があるとすれば、この自立した国家が掲げるべき積極的価値がなんなのか?それはアメリカに同調するだけでは出てこないものなはずだ。



B.ばいきんまんはどうしてひらがな
 戦争や競争というものには、勝者と敗者がある。負けると思う戦争をするのは愚かだが、やってみなければ勝敗はわからないと思えば、やってみる価値があると考える政治指導者はどこにでもいる。経済も競争であり戦争だと思えば、全力を傾けて勝者になろうとする。ただ、武器暴力で戦う戦争とは違って、経済戦争は構成要素が多く複雑で、単純な勝敗では語れない。ある時点、ある局面では勝っていても、時間を長くとると負けているということもある。今の日本経済は好調だといっているが、金融財政、企業収益、労働市場、国民生活それぞれの指標をどうみるかで評価は当然同じではない。勝利にはヒーローが生まれるが、ヒーローが際立つためには悪役も必ず用意される。

「金融緩和の転換点:日銀は7月30日、31日の金融政策決定会合で、現在の強力な金融緩和を長期的に維持することを決めた。しかし、市場の関心は日銀が長期金利の上昇を容認するかどうか、株の買い入れが変わるかどうかだ。
 結果から言えば、長期金利については目標水準をゼロ%に維持しながら、ある程度の金利上昇を容認することになった。また、株の購入については構成銘柄数の多い東証株価指数(TOPIX)連動型の上場投信(ETF)の購入割合を増やすことになった。これらはいずれも直前に予想されていたため、今回の発表による大きな市場の動揺はひとます避けられた。
 しかし、今後日銀がどの程度の金利上昇を容認するのか、また、ETF買い入れ総額が減るのではないかなど、金融緩和の転換をめぐり市場は疑心暗鬼に陥っている。疑心が生まれる背景の一つは米国が世界を相手に仕掛ける貿易戦争だ。トランプ米大統領は米国への輸入品に関税をかけるだけでなく、輸出国の為替が安すぎると非難している。今のところターゲットは中国の人民元かもしれないが、その矛先が日本や欧州に向けられる可能性は否定できない。
 実際この数年の日本経済の好調さを支えたのは円安だ。ところが円安でもうけている大企業はもうけを社内に留保してベースアップや設備投資などに使いたがらない。その結果、物価上昇は限定的だ。金融緩和が物価上昇につながらないうちにその限界が見えてきてしまった。
 金融緩和転換を求める声は国内の銀行業界からもあがっている。銀行は今のような低金利環境では融資を行っても高い経費をまかなえないからだ。後から見れば今が金融緩和の転換点になるのかもしれない。 (義)」朝日新聞2018年8月2日朝刊10面金融情報欄、経済気象台より。

 超低金利を続けるというのが、黒田アベノミクスの基本政策だったが、大企業の利益は積み増しされても賃金増加には回らずインフレは起きず、長期的には国民資産は借金返済に費やされる危険が高い。おまけにトランプの利己的なアメリカは、負担を押し付ける。永遠に富が増大する経済などありえない。正義と善意で世界経済が調和ある発展をとげるなどと、誰も思っていないだろう。パワーのありそうなのはいつも悪役である。

「ばいきんまん なんと1位!:アンパンマンの「総選挙」 夏休み一緒に遊びたいのは?
 夏休みに一緒に遊びたい「アンパンマン」のキャラクターは――?アニメの放送開始から30年を記念して聞いたところ、主役のアンパンマンを差し置いて、衝撃の結果が出た。1位がなんと、ばいきんまんだったのだ。ハヒフヘホ~!次々と悪事を働いては痛い目にあってばかりのばいきんまんが人気のわけとは。
 7月中旬、アニメ版を放送している日本テレビの情報番組が生放送でアンパンマンを特集。視聴者にスマートフォンなどを使って参加を呼びかけアンパンマンの「総選挙」を開いた。作中に出てくる人気キャラクターのうち「夏休み一緒に遊びたいのは?」と聞くと、主役のアンパンマンはなんと2位(159万1927票)。1位に輝いたのが、ばいきんまんだった。159万5077票を集めた。
 ツイッター上では「嫌われてるかと思ってた」、「正義は勝つとは限らないという現実を知った」などの投稿が。番組関係者は「はじめはアンパンマンが好きな子どもも物心がついてくると、なぜか悪役のばいきんまんを好きになるんです。1位をとったのは意外だったが、うなずける結果でもあります」と語る。
 6月公開の映画最新作「それいけ!クルンといのちの星」も、ばいきんまんに大きく注目した作品だ。ばいきんまんの発明品が乱した宇宙の秩序を、アンパンマンが正していく物語ではあるが、アンパンマンと対峙する中で、ばいきんまんは自身の生い立ちちや生きる目的と向きあう。1988年のアニメ第1話で描かれたアンパンマンとばいきんまんの誕生シーンを盛り込むなど、「2人の関係を描く原点回帰の物語になっています」と映画版の宣伝担当者は解説する。
 なぜ人は悪役・ばいきんまんに惹かれるのか、この夏、「悪」をテーマにした企画展をプロデュースした渡辺晃・太田記念美術館主幹学芸員は、「人は誰もが善と悪の心を持っている。社会の建前や倫理観にとらわれている善ばかりのキャラクターよりも、本能や本音に従って行動する悪役の方が魅力的にうつるのだろう」とみる。
 懲らしめられてもめげずにアンパンマンに挑むばいきんまんの姿は、「いたずらで、人を困らせてみたいという子ども心をくすぐるのかもしれません」と渡辺さんは言う。
 ばいきんまんの存在の大切さについては、原作者のやなせたかしさんもかつて自著「アンパンマン伝説」の中で言及している。「光に対する影 影がなければ光もない」「アンコに塩味、料理にスパイス アンパンマンにはばいきんまん」 (真野啓太、矢田萌)」朝日新聞2018年8月4日夕刊、3面文化欄。

 アンパンマンやドキンちゃんはカタカナなのに、ばいきんまんはひらがなで表記される。バイキン星の自称「天才」科学者のばいきんまんは、自ら発明したメカでアンパンマンに戦いを挑むが、いつも返り討ちに遭う。作者やなせたかしの本では、ばいきんまんのモデルはハエだそうで、UFOに乗るため背中の羽が退化した。別れの挨拶は「バイバイキーン」。
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