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ロシア革命100年。続き・・・・・ 鵜山仁さんのこと

2017-11-18 03:46:24 | 日記
A.ロシア革命100年(続き)
 リアルタイムで経験した大きな出来事、たとえば戦争とか革命とかを実際に現場で体験した人には、歴史の書物には出てこない細部の具体的な記憶が鮮明に残っているのかもしれない。ぼくは、20世紀の大戦争が終わった後で生まれた世代なので、子どもの頃に親たちが実際に体験した戦争の話を聞いてもただ架空の物語のように聴いて、とくにその戦争の意味と痛みのようなものを考えようとはしなかった。しかし、ぼく自身が20歳前後にリアルタイムで経験した70年安保や大学紛争のことは、いまも忘れ得ぬ記憶として残っている。残ってはいるが、そのことの歴史的意味をちゃんと考えるのが少々怖い。そう思うと、たぶんあの戦争を生きて過ごした多くの人が、正面から戦争の意味を問うのは少々怖いかもしれなかったのだなと思う。100年前のロシア革命を実際に経験した人はもうこの世にいないはずだ。でも、あの時にペトログラードやモスクワにいて、革命の推移を見ていたとしたら、いったい百年後何が起きているか想像もつかないだけでなく、その当時も何が起きているのか誰もわかっていなかっただろうと思う。
 実際にあった歴史的出来事を、歴史家ならさまざまな資料からある整合的なストーリーを描けるだろう。しかしそれは、その歴史家の固有の視点に制約されて、個別の事件についても、そこで大きな役割を演じた人物についても、好悪を含む毀誉褒貶の評価がなされることはやむをえない。ロシア革命によって成立したソヴィエト連邦の最初の段階には、どんな評価があるかについても、レーニン、トロツキー、スターリンという立役者の評価も、100年で定まったといえるのだろうか?

「武装蜂起:これに対して、臨時政府は軍事革命委員会に反撃を試みたが、十月二十四日(新暦十一月六日)、ソヴィエト派の労働者と兵士からなる「赤衛隊」が首都を制圧した。この夜、レーニンが首都に戻り、武装蜂起を直接指揮することになる。当時、ペトログラードにいた前述のアメリカ人ジャーナリストのジョン・リードが、「世界を揺るがせた十日間」と表現した十月革命はこうして始まった。
 翌二十五日、ネヴァ川沿いにあるスモーリヌイ女学校の建物に拠点を置いた軍事革命委員会は、ケレンスキー首相が執務に使っていた冬宮と「予備議会」が開かれていたマリア宮殿周辺を除く、すべての拠点を制圧した。午前十時、軍事革命委員会は臨時政府が打倒され、国家権力を掌握したとの声明を出した。午後一時、ついにマリア宮殿が包囲され「予備議会」は解散させられた。臨時政府の閣僚は冬宮にこもっていたが、二十六日未明にはここも襲撃され、大臣たちは逮捕された。ケレンスキーは二十五日のうちに、女装して市外に逃亡した。
 一方、二十五日夜には、スモーリヌイで第二回ロシア労働者・兵士ソヴィエト大会が開催された。革命に反対するメンシェビキと社会革命党右派は大会から退場した。ボリシェビキが圧倒的多数を占め、このほかに、都市の知識人層を中心とした社会革命党左派やウクライナ社会民主党などが残った。この大会は二十六日朝まで続けられ、ソヴィエト権力の樹立を宣言した後、この日の夜に再開された。ここで採択されたのが、人々の強い願望の表現でもある「平和に関する布告」と地主による土地所有を廃止する「土地に関する布告」である。
 このあと、政府の構成に関して、社会革命党左派は入閣を拒否したため、ボリシェビキの単独政権が作られる。憲法制定会議が招集されるまでの暫定政府である人民委員会議が成立した。大臣職は人民委員と称された。議長にはレーニンが、外務人民委員にはトロツキーが、民族問題人民委員にはスターリンが就任した。ボリシェビキ以外の勢力はすべての社会主義党派からなる政府を主張したが、ボリシェビキは数でこれを押し切ってしまった。
 このように、十月革命には、二月革命時に街頭にあふれた数十万にも及ぶ労働者や兵士の熱狂した姿はみられない。十月革命は、反議会主義・反自由主義の立場をとるボリシェビキが設置した軍事革命委員会による「静かな」武装蜂起であった。
 休戦協定 
 首都ペトログラードにつづき、モスクワでも十月末にソヴィエト政権が勝利をおさめた。十一月になると、ロシアの中心部に限りほとんどソヴィエト政権の支配するところとなった。しかし、ソヴィエト政権がロシア全土を覆ったわけではなく、ボリシェビキによる武装蜂起に反対する動きが顕著となった。ペトログラードでは、人民委員会議の成立を認めない勢力のはげしい抵抗が生じた。これに対して、人民委員会議は諸党派の機関誌や新聞を反革命的だとして、発禁にする措置をとった。こうした措置をめぐって、ボリシェビキ指導部は分裂し、カーメネフやジノヴィエフが党中央委員を辞任しただけでなく、人民委員四人も辞職した。
 十一月十日(新暦十一月二十三日)、第二回全ロシア農民ソヴィエト大会が開催された。農民ソヴィエトの主導権を握っていたのは社会革命党左派であったが、この大会で労働者・兵士ソヴィエトとの合同が決定された。相変わらず強硬な姿勢を貫いていたレーニンは、社会革命党左派とは連立を組めると考え、空席になっていた人民委員会議の農業人民委員などのポストに社会革命党左派の人物を推薦した。人民委員会議に加わった社会革命党左派は、十二月には独立した左派社会革命党を結成する。ともかく、人民委員会議は翌十八年まで、ボリシェビキと左派社会革命党との連立政権となったのである。
 このソヴィエト政権が取り組むべき課題は、軍隊の民主化や企業の管理を労働者に任せる労働者統制などが多かったが、まず最初に着手したのは平和の問題、つまり休戦協定の締結であった。何をおいても休戦に持ちこまなければならない背景が存在した。人民委員会議は臨時政府が設定した憲法制定会議の選挙(十一月中旬から)を実施して、憲法制定会議を招集することを公的に認めてきた。この期日が迫っていたが、農民には社会革命党が圧倒的な影響力をもっており、選挙でボリシェビキが勝利をおさめられる確証はなかった。そのため、人々が切望する戦争の停止を実現することがどうしても必要であった。
 連立政権となった人民委員会議は連合国側の抗議をはねつけて、ドイツに休戦交渉を申し出た。十一月二十二日、ドイツとロシアとの休戦協定が調印され、さらに十二月十五日にはドイツ、ハプスブルク帝国、オスマン帝国、ブルガリアの同盟四カ国とも休戦協定が締結された。ようやく、平和が訪れたのである。
 これと並行して、ロシア史上はじめての普通選挙である憲法制定の選挙は、予定通り十一月中旬から実施された。休戦協定の締結は平和を望む兵士や農民たちに歓迎され、この選挙にも影響を与えた。しかし、ボリシェビキと左派社会革命党が第一党を確保することはできなかった。
 第二党のボリシェビキを支持したのは都市部の労働者や守備隊の兵士たちであり、地域的には首都をはじめとするロシア中心部であった。第一党は社会革命党中央派であり、その支持基盤は農民であり農業地帯であった。一方ウクライナ、カフカス、中央アジアでは民族主義政党が圧勝した。とくに、ウクライナの民族革命はソヴィエト政権と決定的な対立を引き起こすことになる。
 一九一八年一月五日(新暦一月十八日)、タヴリーダ宮殿で憲法制定会議が開催された。社会革命党中央派が議席の過半数を占めており、当然、ボリシェビキの路線と対立した。人民委員会議が提案した宣言は否決され、社会革命党中央派が土地基本法などを提出したが、翌六日に憲法制定会議は人民委員会議によって解散させられた。この結果、ロシアの議会主義運動は終わりを迎えることになる。
 この四日後の十日に、同じくタヴリーダ宮殿で第三回全ロシア労働者・兵士ソヴィエト大会が開かれ、十三日(新暦一月二十六日、なお、一月二十四日の法令により新暦が採用されるので、二月以後の叙述には新暦を用いる)に開催された第三回全ロシア農民ソヴィエト大会と合同した。ここで、ロシアが「社会主義ソヴィエト共和国」であることがはじめて宣言された。
 この時期、レーニンはドイツとの講和問題に関して、重要な提案をおこなっている。同盟諸国とロシアとの休戦協定が結ばれたあと、ドイツはブレスト=リトフスクでの講和交渉には応じたが、「平和の布告」にもりこまれた無併合・無賠償の原則は認めず、領土に関しても厳しい条件をつけた。一月中旬、レーニンは単独講和の即時締結を提案したが、ボリシェビキ指導部にはヨーロッパでの社会主義革命を期待する傾向が強く、受けいれられなかった。レーニンは講和交渉引き延ばしの方針で党内の合意をはかった。
 しかし、二月に入るとドイツ軍は攻撃を再開し、十二月末の講和提案より厳しい、ウクナイナとバルト地方の独立や巨額の賠償金支払いを内容とするあらたな講和提案を打ち出した。ボリシェビキ指導部の対立は、このドイツ案を受けいれるか否かをめぐり再燃したが、レーニンが党中央委員会で強く受諾を迫り、受け入れが決められた。この結果、三月三日、講和条約がブレスト=リトフスク市で締結された。これに抗議して、ブハーリンらは党や政府の職を辞任し、左派社会革命党の人民委員は政府から離脱した。
 ソヴィエト政権にとって、ブレスト=リトフスク講和条約は苛酷なものであったが、これによって完全に戦争状態から脱することができた。国内の混乱はなお続いていたにせよ、第一次世界大戦という戦争のさなかで生じたロシア革命は大きな転機を迎えたのである。」大村靖二・柴宜弘・長沼秀世『世界の歴史26 世界大戦と現代文化の開幕』中公文庫、2009.pp.130-137.

 十月革命を成功させ、ボルシェビキの権力を確立するために、指導者レーニンは対戦国ドイツとの停戦講和を推進した。このことだけについても評価は難しいが、当時のロシア人民の戦争への疲弊した態度から旧帝政時代に引き戻そうとする保守派や、革命への干渉戦争に動いた外国との政治的構図の中で、圧倒的多数派である農民と兵士と都市の知識人層とがレーニンを支持したのは、なるほど理解できる。しかしそれが直ちに革命の司令塔ボルシェビキ内の対立抗争を引き起こし、さらに戦争で荒れ果てた西欧で社会主義革命が起きることを期待した勢力は、結局挫折することになった。革命の理念を語ることは得意でも、混迷する政治状況のなかで権力を使って人民を救うというコミュニズムは、よほど巧妙な政治的駆け引きを成功させないと潰れてしまう。

「一九一八年三月のブレスト=リトフスク講和条約によって、ソヴィエト政権は戦線を離脱した。人々が強く望む平和が到来するはずであった。しかし、今度はボルシェビキ中心のソヴィエト政権に対する内戦が生じ、連合国による干渉戦争が始められた。この内戦と干渉戦争が生じ長期化した背景としては、連合国の支援を受けた反ボルシェビキ勢力が軍事的に強大であったことだけでなく、ボリシェビキ政権が広大な領土に権力を行使できていなかったことも考慮する必要がある。農民出身の兵士の多くは一七年末に同盟四カ国との休戦が成立すると、復員を待ちきれずに脱走する始末であった。ボリシェビキはまだ統治機構を確立しえていなかったし、農村には権力基盤をまったくもっていなかった。都市にのみ権力を行使しえていたにすぎない。こうした状況において、内戦と干渉戦争が展開されたのである。
 十八年一月、ロシア帝国軍の将軍コルニーロフやデニキンが、ロシア南西部のドン川とクバン川周辺地域でコサック軍を率いて、十月革命時に労働者の武装組織として創設された赤衛隊と衝突した。ソヴィエト政権は一月末、赤衛隊に変わる軍隊として、布告に基づき志願制による赤軍の組織化に着手した。三月には、トロツキーが軍事人民委員に就任し、夏には赤軍が徴兵制に切り替えられた。シベリア鉄道沿線のチェコスロヴァキア軍団がソヴィエト政権と対峙するにいたり、「チェコスロヴァキア軍団の救出」を口実として連合国側の干渉戦争が本格化することが、この背景にあった。
 すでに三月には、イギリス、フランス軍がフィンランド(一九一七年十二月に独立)に近いムルマンスクに上陸して反ボリシェヴィキ政権を擁立していた。さらに八月には、日本とアメリカがシベリア出兵を宣言し、極東のウラジオストクに進駐した。これと時を同じくして、イギリス・フランス軍も白海に面したアルハンゲリスクに大軍を進めた。ソヴィエト政権は赤軍の組織化を思うように進めることができず、これらの勢力に押されて、モスクワを中心とするロシアの中央部の地域に包囲されてしまう。
 これもロシア帝国軍の将軍であるコルチャーク将軍が、十八年十一月に反ボリシェビキ勢力の中心となり、日本軍の支援を受けていたシベリアの勢力を勢力下においた。コルチャーク軍は満を持して、十九年三月に西シベリアのオムスクから西に向けて総攻撃を開始したが、撤退せざるをえなかった。シベリアの農民は穀物の挑発をおこなう赤軍を嫌っていたものの、地主制を復活しかねない帝政派の勝利を恐れて背を向けたからである。
 北部のバルト海沿岸地域を占領していた勢力もペトログラードを攻略できず、南部のドン川周辺やウクライナを拠点としていたデニキン軍も十月以降、退却を重ね敗退した。二〇年一月、連合国によるソヴィエト政権包囲網はようやく解けた。もっとも、日本はこの年の三~五月にニコラエフスク・ナ・アムーレ(尼港)で多くの日本人が殺害されたことを理由として、七月に北サハリンへ出兵している。日本がシベリアから撤兵したのはニ二年十月であり、北サハリンから撤兵したのはニ五年一月のことであった。
 しかし、内戦が完全に終わったわけではなかった。二〇年四月、国境画定問題をめぐり不満をもっていたポーランドがソヴィエト政権に宣戦し、ソヴィエト=ポーランド戦争が開始された。この戦争のさなか、ロシア南部でウランゲリがデニキン軍の残党を再組織して、ピウスツキ率いるポーランド軍と結ぶ動きをみせた。だが二〇年十月、リガで両国間に予備講和が調印され休戦が成立するのと時を同じくして、ウランゲリ軍は敗北した。
 このように展開された内戦とは、強固に組織化された軍隊同士の正面戦であったのではなく、流動的なゲリラ戦であった。そのため、戦場となった地域の農民がどちらの側につくかによって、勝敗が大きく左右されたのである。この点で、明確な土地政策を示していた赤軍は有利だった。
 しかし、ウクライナなどのロシア周辺部の民族地域においては、赤軍が積極的に支持されたのではなく、帝政の復活を恐れた農民が土着の運動を展開したのであった。また、帝政派の勢力はこれら民族地域に拠点を築いていたが、相互の協力関係がなかったことも、赤軍を勝利に導いた要因であった。
 ソヴィエト政権はブレスト=リトフスク講和条約によって、バルト海沿岸地域、ウクライナ、ザカフカスといった、ロシア帝国の興業や農業生産の約半分を担っていた西部と南部の地域を失ってしまった。ドイツ軍がこれらの地域を占領下においたため、一九一八年一月に「ロシア連邦共和国」の成立を宣言していた人民委員会議は、三月中旬、首都をペトログラードからモスクワに移さざるをえなかった。
 この時期、暫定政府の役割を果たしていた人民委員会議はロシア共産党と改称したボリシェビキと一体化していたが、広大なソヴィエト・ロシアをどう統治するのかという現実の問題に直面していた。それまで、ボリシェビキはヨーロッパでの社会主義革命を期待する傾向が強く、ロシア革命がヨーロッパ全域に拡大して資本主義を終わらせ、真の社会主義の到来を招くものと考えていた。しかし、一八年に入っても第一次世界大戦は終わらず、社会主義はやって来なかった。人民委員会議はヨーロッパ、とくにドイツの革命に期待をかけるのではなく、みずからの力で社会主義を実現しなければならなくなる。
 人民委員会議にとって、解体してしまった軍隊を再編成し統治能力を強化すると同時に、国内の秩序を回復することが緊急の課題であった。先にみた赤軍の組織化は、このためのものであった。十月革命直後の一七年一月、ソヴィエト政権の国家保安機関であるチェカー(正式名称「反革命・サボタージュ取り締まり全ロシア非常委員会」。二二年には廃止され、これに代わり内務人民委員部内に国家政治局〔GPU〕を設置。二三年には独立した統合国家政治局〔OGPU〕となるが、三四年に内務人民委員部〔NKVD〕に改組された)はすでに設置されていた。チェカーは内戦の過程で、その性格を一変させ、警察力を行使して政敵を一掃する政治テロをおこなうにいたった。一八年七月に、最後の皇帝ニコライ二世とその家族が銃殺されたのはこうしたテロの先駆けをなすものであった。チェカーは、この年の夏に各地で起こった農民反乱の鎮圧にも積極的にかかわった。」大村靖二・柴宜弘・長沼秀世『世界の歴史26 世界大戦と現代文化の開幕』中公文庫、2009.pp.173-179.

 「ソ連邦結成直前の二二年十二月、レーニンは病をおして口述筆記させた「大会への手紙」のなかで、ロシア共産党の分裂を招きかねない危険な要素として、スターリンとトロツキーとの対立をあげている。スターリンはこの年の四月に党の書記長に就任しており、党のすべてのポストを掌握できる書記長の地位を利用して党組織に影響力を拡大し、多大な権力を振るうようになっていた。理論的には、社会主義は一国でも建設可能だとする一国社会主義論を唱えるスターリン、ブハーリンと、世界革命論を唱えるトロツキー、ジノヴィエフを対立軸として、ロシア共産党内の主導権争いが展開された。
 二二年末、スターリンは同じく、党の最高の政策決定機関である政治局員のジノヴィエフ、カーメネフと「トロイカ(三頭立ての馬車)」体制を組み、党員のあいだに強い影響力を保持していたトロツキーに対抗した。「トロイカ」は二三年四月に開催された第十二回党大会を乗り切ったが、この年の夏には、トロツキーが指摘した「鋏状価格差」(工業製品が高く、農産物が安くなること)が拡大し、経済恐慌が生じた。農業生産の回復が早かったことに加え、政府の穀物買い上げ価格が安かったのに対して、工業の復興は遅れ、流通のマージンが高かったため、工業製品価格が上昇したのである。」大村靖二・柴宜弘・長沼秀世『世界の歴史26 世界大戦と現代文化の開幕』中公文庫、2009.pp.296-297.



B.文学座、老舗の新劇
 いろいろあるカルチャーの世界で、西洋近代演劇を手本としてやってきた新劇の世界は、日本という社会全体からみればいまもなお特殊でマイナーな世界でしかない。しかし、新劇の世界から出発した演劇人は、広く深く芝居の文化をこの国で普及するのに大きな貢献をした。演出家鵜山仁という名前も、いまの日本では知る人ぞ知る売れっ子である。

「一語一会:私は皆がいいっていう芝居をやったことはないわよ 演出家 鵜山仁さん
「皆が一様に面白いって言う劇はつまらないですよ。矛盾をはらみながらも批判を含めていろんな意見が出る劇の方が面白いんじゃないか」
 年間10本以上の劇を手掛ける超多忙な演出家だ。本質を象徴的に見せる手法や、ウィットに富む演出に定評があり、哲学的で深遠な言葉は「鵜山語」とも言われる。
 34歳の時、フランスの劇作家マリボー作「愛と偶然の戯れ」を上演後、文学座の大先輩の俳優、故杉村春子さんから始めて声をかけられた。「評判いいみたいじゃない」。「でも、いろいろ言われるんです」と答えると、「私は皆がいいっていう芝居をやったことはないわよ」。
 その後も度々、思い出す。万人を魅了する美人女優ではなかったが、芸の高みを目指した役者の本音があった。杉村さんは「女の一生」(森本薫作)を39歳だった第2次大戦中の1945年から、84歳の90年まで947回主演。最後まで主人公の16歳の娘時代も演じた。文学座の代表作だが、「古臭い」「いつまで続けるのか」「娘時代は違う女優にしたら」と批判も出たという。「嫉妬や色眼鏡も乗り越え、演じ続けた杉村さんと役の人生が重なりました」
 万人受けを求めない姿勢は、自身の演出家人生にも重なる。2007年9月に新国立劇場の演劇芸術監督に就任したが、1年足らずで交代が決定。1期3年で退任した。不透明な人事との批判も噴出したが、「たとえお客さんが入らなくても、いろいろ実験しようという僕の姿勢が理解されなかった部分もあります」。
 手掛ける作品は、人気俳優を主役に据えたエンタメ重視の商業演劇とは違う路線だ。生や死を掘り下げた作品は重苦しいこともある。「全員とはいかなくても、せめて3割を超えるお客さんに本当に気に入って頂ける作品が作れたら」と3割超えで高打率とされる野球になぞらえる。
 置いた名優とどう向き合うか、マンネリをどう脱するか、表現手法が違う役者同士にどう働きかけるか。稽古場では格闘する。髪をかき、靴のかかとを踏みつぶし、台本は駄目出しの目印につける折り目でかさばる。「杉村さんの言葉は多様な価値観を大切にするという意味だと思うのです。変化という化学反応をどうエネルギーに変えるか。日々、発見があります」(山根由紀子)
 鵜山仁:1953年、奈良県生まれ。慶応大卒業。77年に文学座付属演劇研究所に入所。80年に演出家デビュー。代表作は「父と暮らせば」、「ヘンリー六世」三部作など。来春の文学座公演「真実」で仏語の翻訳を担当。」朝日新聞2017年11月16日夕刊5面。
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