A.元老の役割
一国の政治権力の総攬者が、特定の個人、王様とか皇帝とか(世襲的であってもなくても)であり、その自由意志で権力を行使できる体制を、「親政」あるいは「独裁」と呼ぶなら、日本の歴代天皇に関する限り「親政」をした天皇はいない、ともいえる。聖徳太子や中大兄皇子など、積極的に政治的行動を先導した例もあるが、中臣鎌足などの側近の存在が大きく、天皇即位後の単独政治ではなく、院政時代や後醍醐天皇のような「親政」に近い形態も、実際は政治の実務を握る側近あってのものだったと考えられる。とすれば、明治の天皇制は西洋の絶対君主を真似た天皇親政を謳っていたけれど、実際は維新の功臣に担がれていただけで、天皇個人の意志で政治を行っていたとはとても言えない。
昭和の大戦争も、天皇の名において開戦したはずだったが、ヒトラーやムソリーニのように独裁者の決断とはみなされず、昭和天皇の責任は不問に付されたのは、ある意味で天皇個人の意思が政治的決定の主動力になりえない体制であったとみなせるからだった、かもしれない(アメリカの占領統治に天皇を利用できるとマッカーサーが考えたことの方が大きいだろうが)。
でも、なにもできないし、なにもしようともしない人物が代々、最高の「治天の君」の地位に就くとはどういうことなのか、考えてみればふしぎだ。大澤真幸氏がこれをどう説明しているのか。
「ここで確認すべきことは、明治天皇を含む戦前の天皇たちも親政したとは見なしがたい、ということである。このことは、明治政府の中に、平安時代における摂関家にあたるものが、あるいは鎌倉幕府の(将軍に対するところの)執権にあたるものが、存在していた、ということである。それは何か。元老(元勲)である。元老とは、明治維新に功績があったとされている、九人の男たちである。伊藤博文、黒田清隆、山縣有朋などが含まれていた。元老は、天皇に総理大臣を推薦する権利をもっていた。彼らは、誰を次の総理大臣にするかを決定する。天皇はその決定を聞知し、承認するだけだ。
元老は終身であり、そして、その地位や職務については、何の法的な根拠もなかった。憲法を含むいかなる法にも、元老の規定はない。それは、非公式のポジションだ。明治政府の後任の組織図の中には、元老はない。しかし、述べたような関係を理解すれば直ちに明らかなように、実際には、元老は絶大な権力をもっていた。問題は、――明治維新は一度だけの歴史的な出来事なのだから――元老の後任はありえないことだ。摂関家や執権とは違って、元老には後継者がいない。したがって、元老は、中の誰かが死没するために少なくなっていく。そして、「最後の元老」と呼ばれた西園寺公望が、1940年に九十二歳(かぞえ年)で亡くなった。
その後はどうしたのか。幸か不幸か、西園寺が亡くなったのは、太平洋戦争の混乱期に入る頃である。そこで、とりあえず、「軍部」が、元老の代わりになったのだが、それは不十分なものだった。
元老の不在が真に問題化するのは、だから、戦後である。戦後の日本社会では、誰が、あるいは何が、元老に対応する機能を担ったのか。それとも、戦後には、もはや、そのような契機は存在しないのか。かつて、朝廷は、実質的な執政の任務を、武家政権に外注した。このことを思い起こそう。実は、戦後の日本人は、戦前の元老的な任務を、大きく外注しているのだ。どこに?もう説明を要しないだろう。アメリカに、である。
アメリカは、戦後の「元老」である。日本人は、長い歴史的習慣に基づく無意識から、はっきりと自覚することなく、元老の仕事をアメリカに託している。アメリカの方も、気づかぬうちにそのような役割を担わされている。まず、アメリカの政府や指導者が、日本に関して最も重要なことを決定する。それを受けて、日本政府が、日本人を「きこしをす(統治する)」。このような関係が、戦後七十年間、続いている。明治の元老と違って、アメリカは死んでしまうことがない。とすると、この関係は永続するのだろうか。
ともあれ、本来の疑問に戻ろう。天皇と重臣、天皇と幕府、将軍と執権……といった同型の二元的な関係が、日本社会の中で繰り返し再生産されてきた。なぜ、このような関係が、常に、そして到る処に再現されるのだろうか。
天皇をめぐる折口信夫の洞察が、ヒントになる。折口の天皇論は、「大嘗祭の本義」という、講演をもとにした論文に最もよく現れている。折口は、これを、昭和天皇の即位を同時代的に目撃しつつまとめた。この論文で折口が述べている重要なことは、二つにまとめられる。第一に、天皇の権威の源泉は「天皇霊」なる実体である。第二に、天皇がその身体に天皇霊を受け入れるための装置として、真床襲衾(まとこおふすま)がある。真床襲衾とは、寝具のことである。天皇の身体は、天皇霊という魂を受け入れる容器である。天皇霊の受け入れにおいて、天皇はいったん象徴的に真で復活してくるのだが、それは、同時に天皇が、天皇霊と「寝る」ことだ。つまり、折口が婉曲的な表現でほのめかしていることを、あえて明示してしまえば、即位の儀礼の中で、天皇は、天皇霊と交接するのである。天皇霊が男で、天皇自身は女のポジションを占める。
折口は、天皇の誕生=即位を、言語の発生と関係づけて論じている。天皇霊と、「神の聖なる言葉」、すなわち「ミコト」は同じものである。天皇霊をその身体に受け入れることは、「神の聖なる言葉」を自身のうちに保持すること。つまり「ミコト」を「モツ」ことでもある。「宰」の字があてられる、「ミコトモチ」とは、このような現象を指している。「神道に現れた民族論理」で、折口は次のように語っている。
まづ祝詞の中で、根本的に日本人の思想を左右してゐる事実は、みこともちの思想である。みこともちとは、お言葉を伝達するものであるが、其お言葉とは、畢竟初めて其の宣を発した神のお言葉、即「神言」で、神言の伝達者、即みこともちなのである。祝詞を唱へる人自身の言葉其ものが、決してみことではないのである。みこともちは、後世に「宰」などの字を以て表されてゐるが、太夫をみこともちと訓む例もある。何れにしても、みことを持ち伝へる役の謂であるが、太夫の方は稍低級なみこともちである。此に対して、最高位のみこともちは、天皇陛下であらせられる。即、天皇陛下は、天神のみこともちでおいであそばすのである。
このように、折口の考えでは、天皇は、ミコトモチとして、言語的な表現を人間の世界にもたらす。この直感は、ミコトモチとしての天皇と、漂白の芸能民としてのホカヒビトとは表裏一体の関係にあるとする。彼の洞察に直結している。折口よりもずっと後に、網野善彦が、遍歴する職人や芸能民はしばしば、供御人(天皇の直属民)であったと論じている。このことを考慮すると、折口の「ミコトモチ=ホカヒビト」という説は、実証的な史学によっても裏付けられる妥当なものだと言えるだろう。
特に、能の「翁」こそは、折口によれば、原初の舞台、原初の演劇であり、ホカヒビトの本来のあり方をよく再現している。つまり、それは、芸能の発生そのものを擬態する芸能である。「翁」では、まず、白い翁面をつけた翁が、ゆっくりとした祝福の舞を見せる。その後、今度は、黒い翁(三番叟)が登場し、激しく舞う。後者の舞は、前者の舞の模倣(もどき)であると解釈される。白い翁の静かな舞を、黒い翁が激しさを加えて繰り返しているのである。
ここで、次のような対応があると考えてよい。白い翁は、マレビトであり、天皇霊やミコトモチと結びついている。それに対して、黒い翁は、土地の神であり、また天皇やミコトモチに対応していると見ることができる。
以上のような折口信夫の議論は、ここまでの考察とどう関係しているのか。折口の考えでは、天皇は、その身体そのものを容器として使って、「天皇霊」なる超越的実体を受け取ることによって、支配者としての権限を得ている。天皇霊と天皇その人との関係は、いましがた紹介した「翁」を参照すると最もよくわかる。黒い翁は、白い翁を模倣する。同じように、天皇は天皇霊を模倣し、再現しなくてはならない。あるいは、こう言ってもよい。天皇は、天皇霊に発する「ミコト(聖なる言葉)」を自らが「モツ(持つ)」ことを示すことによって、君臨するのだ、と。
このことを踏まえると、どうして、天皇の機能が、「知る」ことにあったのかが分かる。つまり、政治の実務にあたるものが、どうして、庶政について天皇に奏上し、天皇に聞知させる必要があったのかが、説明できるのである。このとき、天皇霊と天皇との関係に相当するものが、天皇と具体的な執政の担当者―-たとえば重臣――との間に形成されていた、と考えるとよい。天皇そのものが天皇霊の位置を占め、天皇霊との関係で自らが占めていたポジションに重臣が入るのである。つまり、
天皇霊:天皇=天皇:重臣
となる。「神道に現れた民族論理」の、先に引用した部分のすぐ後に、折口も、こう付け加えている。「だから、天皇陛下のお言葉をも、みことと称したのであるが、後世それが分裂して、天皇陛下の御代わりとしてのみこともちが出来た。それが中臣氏である」。ここに、天皇霊(ミコト)と天皇(ミコトモチ)の関係が、天皇と(藤原摂関家の祖先である)中臣氏との関係に転移したことが示唆されている。
重心が奏上し、天皇が聞知するという操作は、何を意味しているのか。何のために、この操作が不可欠なものになっているのか。客観的には、天皇は、奏上によって、初めて、どのような政治的決定がくだされたのかを知ることになる。だが、聞知した天皇が、これをだまって肯定する操作は、この客観的な事実とは異なる解釈を許容する。天皇が聞知した決定をそのまま承認したということは、その決定が、天皇がもともと欲していたことと合致していた、ということを含意する、と。ほんとうは、天皇は、具体的には何も欲してもいなければ、決断もしていない。しかし、天皇が、重臣たちの決定に関して聞かされ、これを単純に肯定したとき、重臣たちの決定は、天皇がもともとから欲していたことの再現であった、という体裁を整えることができるのだ。黒い翁が白い翁の舞を繰り返したように、重臣の決定は天皇の意志を再現している(ことになる)。あるいは、重臣たちの決定は、天皇の本来の意志を表現している「ミコト」を媒介する者であり、彼らが、ミコトモチになる。
この関係は、「重臣」に相当する項が、摂関家やあるいは幕府に置き換わったとしても、基本的には変わらない。日本の政治が、「天皇」を省略することができない原因は、ここにある。聞知してくれる天皇がいなければ、そこに帰属していた意志の「再現」という体裁を構成することができなくなってしまう。
だが、なお疑問は残るだろう。どうして、天皇の意志の再現であることを示さなくては、政治的な決定が実効的なものにならないのか。第Ⅱ省の最後に導き出した「革命の一般範式」を応用することで、この疑問を解くことができる。われわれは、中国と西洋の対照的な革命を比較することで、革命を可能にする条件を定式化したのだった。共通の意志が、人民に分け持たれているという事実だけでは、革命は生じない。変化は、その意志が、人民に外在する〈例外的な一者〉に帰せられる意志として解釈されたときに初めて、実現する。その〈一者〉に対応しているのが、中国では「天」であり、西洋では、(変数化された)「唯一神」である。われわれはこのように論じた。
天皇は、この〈例外的な一者〉に類比的な機能を、日本社会で担っている。つまり、天皇は、ただ聞き知るという空虚な身振りによって、臣下たちの欲望や願望を、ひとつの意志へと転換する装置だったのではないか。天皇の身体を通過することで、それらは、政治的に有効な決定になる。
一方で、天皇は、ほとんど何もしない。ただ臣下たちの決定や行動を、そのまま追認しているだけである。つまり、天皇はただ「きこしをす」のみだ。これだけを見ると、天皇はまことに無力にみえる。しかし、他方で、天皇は、この追認によって、追認された判断に、これは私の意志である」「これは私の意志だった」という形式を加える。この形式が加えられたからといって、与えられた判断の内容には、いささかの変更も加えられはしない。しかし、この形式が付加されなくては、臣下たちの判断や行動は、政治的な実効性をもたない。この点に着目すれば、天皇の力は絶大だ、とも言える。
中国の易姓革命や西洋型の革命において機能していた、外的な<一者>の意志の内容を可能な限り空虚なものへと還元したらどうなるか。つまり、与えられた決定の内容を追認・承認するということ以上のことを、その<一者>がなさないとしたら。そうすると、「天皇」が得られるのだ。
このとき、中国や西洋では、革命の可能性の条件となっていた原理が、逆に、日本では、革命の不可能性の条件へと転化してしまう。どうしてなのか。天皇が、中国や西洋の<一者>とは、ひとつの点で決定的に異なっているからだ。
中国・西洋の<一者>の根本的な条件は、人民に対する超越的な外部性である。ある欲望は、人民の外部に帰せられた意志として現れたときに、逆に、その欲望に駆り立てられた変化が、人民によって内部化・主体化されるのだった。しかし、天皇は、社会システムに外在した超越者ではなく、そこに内在する人間である。折口信夫の言うところの「天皇霊」は超越的な実体かもしれないが、それは、天皇の身体という容器の中でしか働かない。とすれば、結局、「天皇霊」の超越性は無化されてしまう。それゆえ、厳密には、天皇という人間には、二重性が宿っている。社会システムに対して外的でありかつ内的である、という二重性が、である。社会システムに有効な政治的な決定をもたらすために通過しなければならない例外的な一点であるという意味では、天皇は外的だが、それは、社会システムの他のメンバーと同質の人間であるとすれば、内的である。
<一者>にあたる要素が――超越的な外部性ではなく――内在的な人間であることの代償は、次のことである。社会システムをある意志によって主体化する「決定」の操作が、「すでにあること」「与えられたこと」をただ追認するという空虚な身振りへと転換すること、これだ。それは、「天」や「神」のような、現状に抗すること、現状を否定したり改変したりすることを求める意志の帰属点としては、機能しない。これでは、絶対に革命は起きないだろう。」大澤真幸『日本史のなぞ なぜこの国で一度だけ革命が成功したのか』朝日選書、2016年。pp.138-148.
臣下たちの決定や行動を、ただ「きこしをす」のみで、けっして拒否したり否定しない(ということは積極的に肯定してもいないが)天皇という存在は、あった方がよいのか、なくてもよいのか?という問いには、革命があった方がよいのか、ない方がよいのか、という問いと並行する。中国の革命は、悪政をする王朝は倒れてよいが天命は次の王朝を用意するから、皇帝という制度は維持される。西洋の革命は王様や独裁権力者はない方がよい、という論理に立つので、王政自体を人民が廃棄する。とすれば、日本の天皇制は、天皇親政はできないのだから、悪政もできない。倒すべきは「君側の奸」だ、という論理になってしまう。昭和維新の北一輝は、天皇の名で革命をやろうとしたわけで、日本ではこういう形で革命は可能かもしれないが、成功はしない。では、北条泰時はなぜ成功したのか?が、この本の結論になってくる。
B.新徴組の記憶
山形県庄内地方は、穏やかな田園と日本海、出羽三山や鳥海山がみえる平野で、そこにぼくが月一回通うようになってもう5年を過ぎた。幕末動乱のなかで、庄内藩酒井家は譜代大名家として徳川のために働こうとしたが、会津の松平家が京都守護職に任じられて政局の中心で活躍し、その会津藩が京都の治安維持を託した「新選組」は、昭和の小説や映画でとりあげられ、近藤勇、土方歳三、沖田総司などヒーローを生んだ。でも、「新選組」の誕生は幕府が将軍家茂上洛にともない、警護の浪士を募集して京都に送った浪士組に発していた。その発案者・庄内出身の清河八郎は、京都に着くと将軍警護などやめて攘夷の軍に切り替えると朝廷に願い出て、幕府の金で集めた浪士隊を江戸に引き返すという。このとき将軍のために京都に残ると言った少数派が「新選組」となり、江戸へ帰った多数派は惨殺された清河から庄内藩が引き受けて、江戸の市中警備隊として屋敷を与えられて「おまわりさん」になった。結局幕府崩壊後は、庄内藩について鶴岡に引揚げ戊辰戦争を戦うことになった。歴史の片隅で忘れられているが、鶴岡でも「新徴組」のことはあまり知られていない。
「幕末志士と癒やした湯:知られざる「新徴組」の浪漫 「江戸の御回りさん」山形県・湯田川温泉
幕末の江戸で組織され、14代将軍家茂と共に上洛した浪士組のうち、京都に残ったのが「新選組」。一方、江戸に戻った集団は「新徴組」となり、江戸市中取締役だった庄内藩主・酒井忠篤の指揮下で江戸の警備を担った。当時の江戸は盗賊が横行するなど治安が悪化しており、隊士らは昼夜交替で市中を巡回した。
その効果は絶大で、江戸市民から「酒井なければお江戸は立たぬ、御回りさんには泣く子も黙る」とうたわれるようになったという逸話もあるほどだ。「御回りさん」とは、見回りを続ける隊士たちの呼び方。現在も主に地域を巡回する警察官の愛称として残っている。
戊辰戦争が始まると、新徴組は庄内藩士とともに江戸を引き払って鶴岡(山形県)に入り、東北各地で新政府軍と戦った。彼らが鶴岡で最初に滞在したのが、JR鶴岡駅から南西に約8㌔の山あいにある湯田川温泉。隊士たちは鶴岡とは無縁だったので住む家はなく、隊士とその家族合わせて約400人が温泉街の宿や民家に分宿した。
小さな温泉地に突然、大勢が移り住んだのだから、ずいぶんにぎやかになったことだろう。藩が現在の鶴岡市街地付近に新徴屋敷と称する家を建て、そこに移動するまでの2年余り、隊士たちは湯田川で暮らした。
湯田川温泉で新徴組の本部が置かれたのが、温泉街の中ほどにある「隼人旅館」だ。玄関前には「本部跡」の碑が立ち、館内には新徴組が残した弾薬庫や書簡、関連資料が展示されている。ときどき、新徴組を調べている人や、子孫だという人が泊まりに来るという。そうした人々が書いた本なども置かれている。
温泉街には現在も大型旅館はない。民家に交じって8軒の旅館と「正面の湯」「田の湯」という2軒の共同湯、足湯が1カ所あるだけの素朴な温泉地に過ぎないが、どこも源泉かけ流しなのが自慢だ。隼人旅館でも湯舟には惜しみなく源泉が投入され、24時間、常に新鮮な湯で満たされている。ドボンと入ると、縁からジャーッと大量の湯が流れ出るのが気持ちいい。新徴組隊士らもこの温泉に浸かり、日々の疲れを癒したことだろう。
新徴組は新選組に比べて格段に知名度が低く、地元の人にさえあまり認知されていない。隼人旅館のご主人、庄司庸平さんも鶴岡市出身だが「ここに婿入りするまではまったく知らなかった」と話す。近藤勇や土方歳三のような突出したヒーローがいなかったのが理由の一つだろうか。新選組で活躍した沖田総司の義兄・沖田林太郎の名が知られている程度で、新徴組を取りあげた小説やドラマもごくわずかだ。
戊辰戦争が終わると、もともと関東出身者が多かった新徴組隊士らの多くは鶴岡を去った。湯田川温泉滞在中に亡くなった隊士とその家族20人ほどの墓が残っているが、参る人もほとんどないのか、粗末な墓石が乱雑に並んでいるだけだ。
幕末の動乱に翻弄され、その存在も忘れられつつある新徴組。湯田川温泉に行った際は、そんな彼らの生涯にも、少し思いを寄せてほしい。」東京新聞2024年6月10日夕刊3面。
この記事は、温泉観光士や温泉ソムリエの資格を持つフリーライターの滝野澤優子さんが、幕末志士ゆかりの湯を紹介している。温泉にまつわる歴史を掘り起こす企画で、ほほえましいが、新徴組のことはぼくも、気になっていて、評論家で武道化の内田樹氏は、たしか祖父が新徴組隊士だったとかで、鶴岡の寺に内田家の墓があるという。今度、市内に残っている新徴組の遺跡を見てみようと思う。今検索したら、新潮文庫に佐藤賢一という人が「新徴組」という小説を書いているようだ。今度、読んでみよう。
一国の政治権力の総攬者が、特定の個人、王様とか皇帝とか(世襲的であってもなくても)であり、その自由意志で権力を行使できる体制を、「親政」あるいは「独裁」と呼ぶなら、日本の歴代天皇に関する限り「親政」をした天皇はいない、ともいえる。聖徳太子や中大兄皇子など、積極的に政治的行動を先導した例もあるが、中臣鎌足などの側近の存在が大きく、天皇即位後の単独政治ではなく、院政時代や後醍醐天皇のような「親政」に近い形態も、実際は政治の実務を握る側近あってのものだったと考えられる。とすれば、明治の天皇制は西洋の絶対君主を真似た天皇親政を謳っていたけれど、実際は維新の功臣に担がれていただけで、天皇個人の意志で政治を行っていたとはとても言えない。
昭和の大戦争も、天皇の名において開戦したはずだったが、ヒトラーやムソリーニのように独裁者の決断とはみなされず、昭和天皇の責任は不問に付されたのは、ある意味で天皇個人の意思が政治的決定の主動力になりえない体制であったとみなせるからだった、かもしれない(アメリカの占領統治に天皇を利用できるとマッカーサーが考えたことの方が大きいだろうが)。
でも、なにもできないし、なにもしようともしない人物が代々、最高の「治天の君」の地位に就くとはどういうことなのか、考えてみればふしぎだ。大澤真幸氏がこれをどう説明しているのか。
「ここで確認すべきことは、明治天皇を含む戦前の天皇たちも親政したとは見なしがたい、ということである。このことは、明治政府の中に、平安時代における摂関家にあたるものが、あるいは鎌倉幕府の(将軍に対するところの)執権にあたるものが、存在していた、ということである。それは何か。元老(元勲)である。元老とは、明治維新に功績があったとされている、九人の男たちである。伊藤博文、黒田清隆、山縣有朋などが含まれていた。元老は、天皇に総理大臣を推薦する権利をもっていた。彼らは、誰を次の総理大臣にするかを決定する。天皇はその決定を聞知し、承認するだけだ。
元老は終身であり、そして、その地位や職務については、何の法的な根拠もなかった。憲法を含むいかなる法にも、元老の規定はない。それは、非公式のポジションだ。明治政府の後任の組織図の中には、元老はない。しかし、述べたような関係を理解すれば直ちに明らかなように、実際には、元老は絶大な権力をもっていた。問題は、――明治維新は一度だけの歴史的な出来事なのだから――元老の後任はありえないことだ。摂関家や執権とは違って、元老には後継者がいない。したがって、元老は、中の誰かが死没するために少なくなっていく。そして、「最後の元老」と呼ばれた西園寺公望が、1940年に九十二歳(かぞえ年)で亡くなった。
その後はどうしたのか。幸か不幸か、西園寺が亡くなったのは、太平洋戦争の混乱期に入る頃である。そこで、とりあえず、「軍部」が、元老の代わりになったのだが、それは不十分なものだった。
元老の不在が真に問題化するのは、だから、戦後である。戦後の日本社会では、誰が、あるいは何が、元老に対応する機能を担ったのか。それとも、戦後には、もはや、そのような契機は存在しないのか。かつて、朝廷は、実質的な執政の任務を、武家政権に外注した。このことを思い起こそう。実は、戦後の日本人は、戦前の元老的な任務を、大きく外注しているのだ。どこに?もう説明を要しないだろう。アメリカに、である。
アメリカは、戦後の「元老」である。日本人は、長い歴史的習慣に基づく無意識から、はっきりと自覚することなく、元老の仕事をアメリカに託している。アメリカの方も、気づかぬうちにそのような役割を担わされている。まず、アメリカの政府や指導者が、日本に関して最も重要なことを決定する。それを受けて、日本政府が、日本人を「きこしをす(統治する)」。このような関係が、戦後七十年間、続いている。明治の元老と違って、アメリカは死んでしまうことがない。とすると、この関係は永続するのだろうか。
ともあれ、本来の疑問に戻ろう。天皇と重臣、天皇と幕府、将軍と執権……といった同型の二元的な関係が、日本社会の中で繰り返し再生産されてきた。なぜ、このような関係が、常に、そして到る処に再現されるのだろうか。
天皇をめぐる折口信夫の洞察が、ヒントになる。折口の天皇論は、「大嘗祭の本義」という、講演をもとにした論文に最もよく現れている。折口は、これを、昭和天皇の即位を同時代的に目撃しつつまとめた。この論文で折口が述べている重要なことは、二つにまとめられる。第一に、天皇の権威の源泉は「天皇霊」なる実体である。第二に、天皇がその身体に天皇霊を受け入れるための装置として、真床襲衾(まとこおふすま)がある。真床襲衾とは、寝具のことである。天皇の身体は、天皇霊という魂を受け入れる容器である。天皇霊の受け入れにおいて、天皇はいったん象徴的に真で復活してくるのだが、それは、同時に天皇が、天皇霊と「寝る」ことだ。つまり、折口が婉曲的な表現でほのめかしていることを、あえて明示してしまえば、即位の儀礼の中で、天皇は、天皇霊と交接するのである。天皇霊が男で、天皇自身は女のポジションを占める。
折口は、天皇の誕生=即位を、言語の発生と関係づけて論じている。天皇霊と、「神の聖なる言葉」、すなわち「ミコト」は同じものである。天皇霊をその身体に受け入れることは、「神の聖なる言葉」を自身のうちに保持すること。つまり「ミコト」を「モツ」ことでもある。「宰」の字があてられる、「ミコトモチ」とは、このような現象を指している。「神道に現れた民族論理」で、折口は次のように語っている。
まづ祝詞の中で、根本的に日本人の思想を左右してゐる事実は、みこともちの思想である。みこともちとは、お言葉を伝達するものであるが、其お言葉とは、畢竟初めて其の宣を発した神のお言葉、即「神言」で、神言の伝達者、即みこともちなのである。祝詞を唱へる人自身の言葉其ものが、決してみことではないのである。みこともちは、後世に「宰」などの字を以て表されてゐるが、太夫をみこともちと訓む例もある。何れにしても、みことを持ち伝へる役の謂であるが、太夫の方は稍低級なみこともちである。此に対して、最高位のみこともちは、天皇陛下であらせられる。即、天皇陛下は、天神のみこともちでおいであそばすのである。
このように、折口の考えでは、天皇は、ミコトモチとして、言語的な表現を人間の世界にもたらす。この直感は、ミコトモチとしての天皇と、漂白の芸能民としてのホカヒビトとは表裏一体の関係にあるとする。彼の洞察に直結している。折口よりもずっと後に、網野善彦が、遍歴する職人や芸能民はしばしば、供御人(天皇の直属民)であったと論じている。このことを考慮すると、折口の「ミコトモチ=ホカヒビト」という説は、実証的な史学によっても裏付けられる妥当なものだと言えるだろう。
特に、能の「翁」こそは、折口によれば、原初の舞台、原初の演劇であり、ホカヒビトの本来のあり方をよく再現している。つまり、それは、芸能の発生そのものを擬態する芸能である。「翁」では、まず、白い翁面をつけた翁が、ゆっくりとした祝福の舞を見せる。その後、今度は、黒い翁(三番叟)が登場し、激しく舞う。後者の舞は、前者の舞の模倣(もどき)であると解釈される。白い翁の静かな舞を、黒い翁が激しさを加えて繰り返しているのである。
ここで、次のような対応があると考えてよい。白い翁は、マレビトであり、天皇霊やミコトモチと結びついている。それに対して、黒い翁は、土地の神であり、また天皇やミコトモチに対応していると見ることができる。
以上のような折口信夫の議論は、ここまでの考察とどう関係しているのか。折口の考えでは、天皇は、その身体そのものを容器として使って、「天皇霊」なる超越的実体を受け取ることによって、支配者としての権限を得ている。天皇霊と天皇その人との関係は、いましがた紹介した「翁」を参照すると最もよくわかる。黒い翁は、白い翁を模倣する。同じように、天皇は天皇霊を模倣し、再現しなくてはならない。あるいは、こう言ってもよい。天皇は、天皇霊に発する「ミコト(聖なる言葉)」を自らが「モツ(持つ)」ことを示すことによって、君臨するのだ、と。
このことを踏まえると、どうして、天皇の機能が、「知る」ことにあったのかが分かる。つまり、政治の実務にあたるものが、どうして、庶政について天皇に奏上し、天皇に聞知させる必要があったのかが、説明できるのである。このとき、天皇霊と天皇との関係に相当するものが、天皇と具体的な執政の担当者―-たとえば重臣――との間に形成されていた、と考えるとよい。天皇そのものが天皇霊の位置を占め、天皇霊との関係で自らが占めていたポジションに重臣が入るのである。つまり、
天皇霊:天皇=天皇:重臣
となる。「神道に現れた民族論理」の、先に引用した部分のすぐ後に、折口も、こう付け加えている。「だから、天皇陛下のお言葉をも、みことと称したのであるが、後世それが分裂して、天皇陛下の御代わりとしてのみこともちが出来た。それが中臣氏である」。ここに、天皇霊(ミコト)と天皇(ミコトモチ)の関係が、天皇と(藤原摂関家の祖先である)中臣氏との関係に転移したことが示唆されている。
重心が奏上し、天皇が聞知するという操作は、何を意味しているのか。何のために、この操作が不可欠なものになっているのか。客観的には、天皇は、奏上によって、初めて、どのような政治的決定がくだされたのかを知ることになる。だが、聞知した天皇が、これをだまって肯定する操作は、この客観的な事実とは異なる解釈を許容する。天皇が聞知した決定をそのまま承認したということは、その決定が、天皇がもともと欲していたことと合致していた、ということを含意する、と。ほんとうは、天皇は、具体的には何も欲してもいなければ、決断もしていない。しかし、天皇が、重臣たちの決定に関して聞かされ、これを単純に肯定したとき、重臣たちの決定は、天皇がもともとから欲していたことの再現であった、という体裁を整えることができるのだ。黒い翁が白い翁の舞を繰り返したように、重臣の決定は天皇の意志を再現している(ことになる)。あるいは、重臣たちの決定は、天皇の本来の意志を表現している「ミコト」を媒介する者であり、彼らが、ミコトモチになる。
この関係は、「重臣」に相当する項が、摂関家やあるいは幕府に置き換わったとしても、基本的には変わらない。日本の政治が、「天皇」を省略することができない原因は、ここにある。聞知してくれる天皇がいなければ、そこに帰属していた意志の「再現」という体裁を構成することができなくなってしまう。
だが、なお疑問は残るだろう。どうして、天皇の意志の再現であることを示さなくては、政治的な決定が実効的なものにならないのか。第Ⅱ省の最後に導き出した「革命の一般範式」を応用することで、この疑問を解くことができる。われわれは、中国と西洋の対照的な革命を比較することで、革命を可能にする条件を定式化したのだった。共通の意志が、人民に分け持たれているという事実だけでは、革命は生じない。変化は、その意志が、人民に外在する〈例外的な一者〉に帰せられる意志として解釈されたときに初めて、実現する。その〈一者〉に対応しているのが、中国では「天」であり、西洋では、(変数化された)「唯一神」である。われわれはこのように論じた。
天皇は、この〈例外的な一者〉に類比的な機能を、日本社会で担っている。つまり、天皇は、ただ聞き知るという空虚な身振りによって、臣下たちの欲望や願望を、ひとつの意志へと転換する装置だったのではないか。天皇の身体を通過することで、それらは、政治的に有効な決定になる。
一方で、天皇は、ほとんど何もしない。ただ臣下たちの決定や行動を、そのまま追認しているだけである。つまり、天皇はただ「きこしをす」のみだ。これだけを見ると、天皇はまことに無力にみえる。しかし、他方で、天皇は、この追認によって、追認された判断に、これは私の意志である」「これは私の意志だった」という形式を加える。この形式が加えられたからといって、与えられた判断の内容には、いささかの変更も加えられはしない。しかし、この形式が付加されなくては、臣下たちの判断や行動は、政治的な実効性をもたない。この点に着目すれば、天皇の力は絶大だ、とも言える。
中国の易姓革命や西洋型の革命において機能していた、外的な<一者>の意志の内容を可能な限り空虚なものへと還元したらどうなるか。つまり、与えられた決定の内容を追認・承認するということ以上のことを、その<一者>がなさないとしたら。そうすると、「天皇」が得られるのだ。
このとき、中国や西洋では、革命の可能性の条件となっていた原理が、逆に、日本では、革命の不可能性の条件へと転化してしまう。どうしてなのか。天皇が、中国や西洋の<一者>とは、ひとつの点で決定的に異なっているからだ。
中国・西洋の<一者>の根本的な条件は、人民に対する超越的な外部性である。ある欲望は、人民の外部に帰せられた意志として現れたときに、逆に、その欲望に駆り立てられた変化が、人民によって内部化・主体化されるのだった。しかし、天皇は、社会システムに外在した超越者ではなく、そこに内在する人間である。折口信夫の言うところの「天皇霊」は超越的な実体かもしれないが、それは、天皇の身体という容器の中でしか働かない。とすれば、結局、「天皇霊」の超越性は無化されてしまう。それゆえ、厳密には、天皇という人間には、二重性が宿っている。社会システムに対して外的でありかつ内的である、という二重性が、である。社会システムに有効な政治的な決定をもたらすために通過しなければならない例外的な一点であるという意味では、天皇は外的だが、それは、社会システムの他のメンバーと同質の人間であるとすれば、内的である。
<一者>にあたる要素が――超越的な外部性ではなく――内在的な人間であることの代償は、次のことである。社会システムをある意志によって主体化する「決定」の操作が、「すでにあること」「与えられたこと」をただ追認するという空虚な身振りへと転換すること、これだ。それは、「天」や「神」のような、現状に抗すること、現状を否定したり改変したりすることを求める意志の帰属点としては、機能しない。これでは、絶対に革命は起きないだろう。」大澤真幸『日本史のなぞ なぜこの国で一度だけ革命が成功したのか』朝日選書、2016年。pp.138-148.
臣下たちの決定や行動を、ただ「きこしをす」のみで、けっして拒否したり否定しない(ということは積極的に肯定してもいないが)天皇という存在は、あった方がよいのか、なくてもよいのか?という問いには、革命があった方がよいのか、ない方がよいのか、という問いと並行する。中国の革命は、悪政をする王朝は倒れてよいが天命は次の王朝を用意するから、皇帝という制度は維持される。西洋の革命は王様や独裁権力者はない方がよい、という論理に立つので、王政自体を人民が廃棄する。とすれば、日本の天皇制は、天皇親政はできないのだから、悪政もできない。倒すべきは「君側の奸」だ、という論理になってしまう。昭和維新の北一輝は、天皇の名で革命をやろうとしたわけで、日本ではこういう形で革命は可能かもしれないが、成功はしない。では、北条泰時はなぜ成功したのか?が、この本の結論になってくる。
B.新徴組の記憶
山形県庄内地方は、穏やかな田園と日本海、出羽三山や鳥海山がみえる平野で、そこにぼくが月一回通うようになってもう5年を過ぎた。幕末動乱のなかで、庄内藩酒井家は譜代大名家として徳川のために働こうとしたが、会津の松平家が京都守護職に任じられて政局の中心で活躍し、その会津藩が京都の治安維持を託した「新選組」は、昭和の小説や映画でとりあげられ、近藤勇、土方歳三、沖田総司などヒーローを生んだ。でも、「新選組」の誕生は幕府が将軍家茂上洛にともない、警護の浪士を募集して京都に送った浪士組に発していた。その発案者・庄内出身の清河八郎は、京都に着くと将軍警護などやめて攘夷の軍に切り替えると朝廷に願い出て、幕府の金で集めた浪士隊を江戸に引き返すという。このとき将軍のために京都に残ると言った少数派が「新選組」となり、江戸へ帰った多数派は惨殺された清河から庄内藩が引き受けて、江戸の市中警備隊として屋敷を与えられて「おまわりさん」になった。結局幕府崩壊後は、庄内藩について鶴岡に引揚げ戊辰戦争を戦うことになった。歴史の片隅で忘れられているが、鶴岡でも「新徴組」のことはあまり知られていない。
「幕末志士と癒やした湯:知られざる「新徴組」の浪漫 「江戸の御回りさん」山形県・湯田川温泉
幕末の江戸で組織され、14代将軍家茂と共に上洛した浪士組のうち、京都に残ったのが「新選組」。一方、江戸に戻った集団は「新徴組」となり、江戸市中取締役だった庄内藩主・酒井忠篤の指揮下で江戸の警備を担った。当時の江戸は盗賊が横行するなど治安が悪化しており、隊士らは昼夜交替で市中を巡回した。
その効果は絶大で、江戸市民から「酒井なければお江戸は立たぬ、御回りさんには泣く子も黙る」とうたわれるようになったという逸話もあるほどだ。「御回りさん」とは、見回りを続ける隊士たちの呼び方。現在も主に地域を巡回する警察官の愛称として残っている。
戊辰戦争が始まると、新徴組は庄内藩士とともに江戸を引き払って鶴岡(山形県)に入り、東北各地で新政府軍と戦った。彼らが鶴岡で最初に滞在したのが、JR鶴岡駅から南西に約8㌔の山あいにある湯田川温泉。隊士たちは鶴岡とは無縁だったので住む家はなく、隊士とその家族合わせて約400人が温泉街の宿や民家に分宿した。
小さな温泉地に突然、大勢が移り住んだのだから、ずいぶんにぎやかになったことだろう。藩が現在の鶴岡市街地付近に新徴屋敷と称する家を建て、そこに移動するまでの2年余り、隊士たちは湯田川で暮らした。
湯田川温泉で新徴組の本部が置かれたのが、温泉街の中ほどにある「隼人旅館」だ。玄関前には「本部跡」の碑が立ち、館内には新徴組が残した弾薬庫や書簡、関連資料が展示されている。ときどき、新徴組を調べている人や、子孫だという人が泊まりに来るという。そうした人々が書いた本なども置かれている。
温泉街には現在も大型旅館はない。民家に交じって8軒の旅館と「正面の湯」「田の湯」という2軒の共同湯、足湯が1カ所あるだけの素朴な温泉地に過ぎないが、どこも源泉かけ流しなのが自慢だ。隼人旅館でも湯舟には惜しみなく源泉が投入され、24時間、常に新鮮な湯で満たされている。ドボンと入ると、縁からジャーッと大量の湯が流れ出るのが気持ちいい。新徴組隊士らもこの温泉に浸かり、日々の疲れを癒したことだろう。
新徴組は新選組に比べて格段に知名度が低く、地元の人にさえあまり認知されていない。隼人旅館のご主人、庄司庸平さんも鶴岡市出身だが「ここに婿入りするまではまったく知らなかった」と話す。近藤勇や土方歳三のような突出したヒーローがいなかったのが理由の一つだろうか。新選組で活躍した沖田総司の義兄・沖田林太郎の名が知られている程度で、新徴組を取りあげた小説やドラマもごくわずかだ。
戊辰戦争が終わると、もともと関東出身者が多かった新徴組隊士らの多くは鶴岡を去った。湯田川温泉滞在中に亡くなった隊士とその家族20人ほどの墓が残っているが、参る人もほとんどないのか、粗末な墓石が乱雑に並んでいるだけだ。
幕末の動乱に翻弄され、その存在も忘れられつつある新徴組。湯田川温泉に行った際は、そんな彼らの生涯にも、少し思いを寄せてほしい。」東京新聞2024年6月10日夕刊3面。
この記事は、温泉観光士や温泉ソムリエの資格を持つフリーライターの滝野澤優子さんが、幕末志士ゆかりの湯を紹介している。温泉にまつわる歴史を掘り起こす企画で、ほほえましいが、新徴組のことはぼくも、気になっていて、評論家で武道化の内田樹氏は、たしか祖父が新徴組隊士だったとかで、鶴岡の寺に内田家の墓があるという。今度、市内に残っている新徴組の遺跡を見てみようと思う。今検索したら、新潮文庫に佐藤賢一という人が「新徴組」という小説を書いているようだ。今度、読んでみよう。
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