gooブログはじめました!

写真付きで日々の思考の記録をつれづれなるままに書き綴るブログを開始いたします。読む人がいてもいなくても、それなりに書くぞ

ドイツはどうなる?負けた国の革命  教育の「社会的」役割

2017-11-22 12:46:08 | 日記
A.負けた国ドイツの革命
 9月に行われたドイツ総選挙は、メルケル率いるCDU・CSU(キリスト教民主同盟・キリスト教社会同盟)が議席を減らし、新興右翼政党AfD(ドイツのための選択肢)が第3党に進出した。少数与党政権を避けるため、EDP(自由民主党)やGrunen(緑の党)と連立交渉をしていたメルケルは、FDPの離脱で交渉決裂。やむなく第2党のSPD(社会民主党)との連立を探ったが拒否されたため、メルケルは少数与党で行くか、再選挙にいくかに追い込まれたという。
  CDUとCSUは、戦後ドイツで保守政党の多数派として、リベラル政党を代表するSPDと2大政党の形で政権を交代する歴史を続けてきた。CSUは南部バイエルンに拠点をおく地域性の強い保守政党で、実質的にCDUと一体化する立場。SPDはドイツ帝国時代に結成されたドイツ社会主義労働者党にはじまり、第二インターナショナルの中心となり、戦前からの左派政党の流れを汲みつつ共産党とは一線を画す中道路線をとる。SPDは欧州社民政党の中核として、戦後も、ブラント、シュミット、シュレーダーとFDPや緑の党と連立することで長期政権を作った。しかし東西統一後、混乱するCDUコール政権から政権を奪ったSPDシュレーダーも21世紀に入ると低迷し、2005年にはCDUとの大連立に走って、結局メルケルに道を譲る結果となった。
  今また、危機に直面する欧州で、一番頼りになるとみられたドイツが、どうやらメルケル政権への国民の支持も揺らいでいるようだ。第2党のSPDが3度目の大連立を選ばないのは、シュレーダーのときの経験を失敗と考えているからだろうか。二度の世界大戦に敗北したとき、ドイツで何が起こったか、振り返ってみることは今も意味がある。それは、同じ敗北した国家、日本にもいろいろと参考になるはずだ。

「ドイツ革命:ロシア革命は、西欧諸国とちがう「社会主義」の方向を打ち出したが、同じ敗戦国であったドイツとオーストリアは、それぞれどのような方向を求めたのだろうか。
「提督たちの反乱」とよばれた大戦末期のドイツ大洋艦隊の無謀な出撃作戦は、水兵らの阻止行動で中止された。しかし、水兵の行動は当局の弾圧に反発して、キールでの蜂起と兵士評議会(レーテ)結成に発展し、運動は講和達成をめざして、将校団さらには軍事体制打倒、皇帝退位要求に向かった。一八年十一月はじめから「兵士の革命」は、陸軍兵士を巻きこんで、キールから北ドイツ、西ドイツ各都市へ拡大し、さらに首都ベルリンに迫った。
 この間兵士だけでなく、労働者大衆、独立社会民主党や社会民主党、労働組合も運動に加わり、労働者・兵士評議会(以後、労兵評議会と略記する)が成立し、各地で権力を握った。南ドイツの邦バイエルンの伝統を誇るヴィッテルスバッハ朝が、即興的ともいえるデモ隊の登場であっけなく退陣に追い込まれて共和国になったように、軍などの既存の支配層や市民層からの抵抗はほとんどなかった。敗戦によって帝制維持の最後の既往を失った支配層が途方に暮れ、講和を切望した国民が帝制を見限って新時代を期待していた状況が、ドイツ革命を事実上無血革命にした。
 十一月九日、ベルリンで労働者・兵士の大規模なデモが起きると、マックス宰相は十月改革路線での政治を断念し、皇帝の返答を待たずにその退位を発表して、社会民主党のエーベルトに後をゆだねて辞職した。この日国会議事堂前に集まったデモ隊に、社会民主党のシャイデマンが共和国を宣言した。エーベルトはその独断を非難したが、もはやほかの選択肢はなかった。エーベルトは独立社会民主党に政府結成を呼びかけ、十一日、労兵評議会の委任を受けた両社会民主党からなる人民委員政府が成立した。
 人民委員政府には、連合国との休戦協定の締結とその規定履行、数百万の兵士の復員事業という内外の難問が待ちかまえていた。
 十一日に調印された休戦協定は、内容からすれば事実上降伏協定に等しいもので、大量の武器や艦船、鉄道車両の引き渡し、占領地からの早期撤退をドイツに命じた。新政府が旧来の外務官僚、軍指導者を継続させたのはこの外的条件が大きかった。軍部は新政府への協力を条件に将校団を維持することに成功し、ヒンデンブルクもその地位にとどまった。国内では、各地の労兵評議会が復員・治安・食糧配給任務に忙殺された。
 軍の復員と戦時経済から平時経済への転換に準備があったのは、工業界であった。戦争末期には、工業界は戦時統制経済から逃れ、平時への移行を円滑におこなうために、政府ではなく、労働組合と手を組むことを決め、組合の地位承認、現経済体制の維持と引き替えに、労使の共同体を作る協定を締結した。帝制下で工業界から敵視されていた労働組合は、対等のパートナーになる協定を歓迎した。労使双方は革命とは無関係に、資本主義体制の継続で一致したのである。革命後、八時間労働制導入と出征前の職場への復帰を認める処置によって、一八年中に数百万の兵士が社会に復帰し、労働者の急進化を阻止した。
  独立社会民主党やそれに加わりながらローザ・ルクセンブルクやカール・リープクネヒトの指導のもとに独立組織として活動していたスパルタクス団は、革命を社会主義の方向に導くために、本格的な行動を開始した。
 しかし、それによって官僚・軍・経済界と結んだエーベルトらの社会民主党の現状維持派と、十二月下旬に人民委員政府から離脱した独立社会民主党や、スパルタクス団の革命派との対立がドイツを覆ったわけではない。敗戦からの移行期の中心問題は、社会主義かブルジョワ民主主義かという選択ではなく、旧体制勢力の統制と新たに得た民主主義がどこまで広げられるかにあった、というのが近年の研究の結論である。十二月の労兵評議会全国大会も急進的な革命を望まず、憲法制定国民議会開催を承認し、みずからを暫定的な移行機関とみていたし、独立社会民主党も反戦という共通目標を失って内部分裂し、ドイツ共産党に発展したスパルタクス団も少数派にとどまった。
 社会民主党と労働組合指導者は、労兵評議会をロシア革命のソヴィエトのイメージでとらえて、「ボリシェヴィズムか民主主義か」をスローガンとして掲げ、そのため労兵評議会にあった民主化志向を汲み取れず、かえって民主主義の幅を狭めることになったし、軍や行政官僚の統制にも失敗した。
 十二月には、早くも軍部は反革命の企てを開始して、旧軍将校を中心に義勇軍を組織し、保守・市民政党は新たに「国民」「民主」などの名をつけた新政党に再結集して、「スパルタクスの脅威」を宣伝した。「ドイツに革命はなかったが、反革命はあった」という批評家トゥホルスキの辛辣な指摘は、ある真実を突いていた。
十九年一月、初の男女普通選挙権と比例選挙による国民議会選挙が実施された。社会主義政党の過半数制覇はならなかったが、社会民主党は共和国を支持する自由主義左派の民主党、カトリック中央党とともに議会の三分の二を占める安定連立政権を形成し、エーベルトが大統領に選ばれた。
 しかし、十九年一月から五月にかけて、国民議会と並行して、ベルリン、ルール地方、中部ドイツ、バイエルンなど各地で、「新時代」の現実に失望し、大戦中押さえられていた労働条件の改善を要求する労働者のストライキや左翼急進派の蜂起が続いた。政府は義勇軍を使って力ずくでおさえこんだが、革命を憎悪しながら、同時に政府をも軽蔑して、その統制を無視する義勇軍は、ルクセンブルクやリープクネヒトを惨殺するなど、逸脱行動をくり返した。
 国民議会はベルリンを避け、中部ドイツのワイマールで開催された。憲法草案は最初国制に関わる簡単なものであったが、最終的には労働者の要求などを考慮して、さまざまな社会権を含む、当時もっとも民主的といわれた内容をもつものになった。しかし、それが公布された十九年八月には、社会民主党の抑圧策や義勇軍の行動に反発した工業労働者の多くは、社会民主党を離れて独立社会民主党や共産党に移り、一方市民層は労働者の攻勢に脅威を感じ、ヴェルサイユ条約に憤激して、新生共和国に敵意を示すようになっていた。ワイマール憲法は誕生直後から捨て子になった。
 国民議会選挙では、国民の過半数は帝制への復帰を拒否して、共和国をともかくも受けいれた。それから半年で、共和国は「愛されない」国家になった。もちろん、これで共和国の運命が決まったわけではないが、重い負担をもつ出発になったことはまちがいなかった。」大村靖二・柴宜弘・長沼秀世『世界の歴史26 世界大戦と現代文化の開幕』中公文庫、2009.pp.185-190.

  百年前の歴史を子細にみれば、人間が平和安全に暮らすために作っているはずの国家が、いつのまにか人間の暮らしを破壊する凶暴な世界を出現させるものになり、いったん破壊と暴力への反省の念が人々に抱かれるが、ふたたび生活が始まると憎悪や抗争が始まることがわかる。人々の考えていることは多様だが、大きく見れば右か左か、つまり過去の栄光を価値として国家と軍隊の力で国民をけん引しようと考える立場が右派、伝統的価値よりは未来指向の新しい理念を立てて、国民の公共の福利を第一に公平なやり方で合意形成を目指すのが左派、といちおう考えてもいい。ワイマール憲法は、敗戦国が帝政を配し、民主的共和国として再出発するために、理想的な憲法を作ったものだとされる。しかし、歴史のゆくえをぼくたちは知っているから、この憲法が当時の世界で優れた内容を持っていたとしても、国民多数派は当初からこれを左に寄り過ぎている、と感じ、やがて実質的に左右の対立がヒトラーを生んでいくことを知っている。ぼくたちが今、日本国憲法の行方を左右する場所にいることは、いやでもワイマール憲法の命運を想起させる。



B.誰の義務なのか?
 先日、ある小論文の採点をしたときに、ちょっと気になったことがあった。それは日本の高等教育の学生一人当たりの教育費が、世界各国と比べて高いのに、奨学金などが乏しく、学費を負担するのは主に保護者であることを問題文中のデータで提示してある。それを踏まえて、子どもを大学にやるのは「私事」であり、公的な支援はあくまで本人と親の自己負担・自己責任の範囲内でいいと政府が考えている、としたらあなたはどう考えるか、という課題である。
  これに対して、答案の半数以上は「日本は中学までは義務教育だから国が負担するが、高校以上は行きたい人が望んで進学するので、費用負担も本人と親がするのは当然」と政府も国民も考えていると書いてある。次に問題点として、親(保護者)が経済的に苦しく学費負担が難しい場合、学力が高くても進学を諦めるということについては、それはよくないから給付型奨学金などを増やすことで改善されるだろうという答であった。それはいいのだが、ぼくが気になったのは「義務教育Compulsory education」という言葉を、誰に対する義務なのかという点で誤解しているらしい学生が垣間見られたことだ。「義務教育」は、国・政府そして国民、直接には保護者が子ども(広い意味では自分の子どもだけとは限らない)に教育を受けさせなければならない、という教育制度である。「義務」なのは大人たちであって、子どもが学校に通う義務のことではない。これは義務教育制度が定着する以前の、親が子どもを年少時から労働させ教育を受けさせないような時代に、親への「義務」として法制化した。しかし、今の学生の中に、子どもは義務として学校に通って教育を受けなければならないのが「義務教育」と思っている人がいて、高校や大学はもうその義務はないのだから、行きたい人が高校や大学に行くのは自己責任・自己負担は当然である、と考える。
  学校教育法上の義務教育は、6歳に達した子どもで、日本国内に在住し(住民票があり)、保護者が日本国籍であることを要件としているから、外国籍である親の子どもや、外国で中学段階までの教育を受けた帰ってきた日本人の子どもは、「義務」ではない任意就学者として扱われる。
 「社会的」ドイツ語でSozialゾツィアールということばは、いわゆる社会のもつ集合性、共同性、公共性などという意味の他に、社会的連帯という理念につながる、つまり人々がお互いに分け隔てなく助け合うという意味を含んでいる。ナチスというのもNationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei (国家社会主義ドイツ労働者党)の略であって、このsozialisticsheが国家社会主義Nationalsozialismusという理念になっているのは、いわゆるマルクス主義的左翼的社会主義ではなく、国家の力で優秀なアーリア民族の伝統を継ぐドイツ人を栄光の地位につけるのを目指し助ける、という思想である。これも「社会的」ではあるが、助けるのはドイツ人だけで多民族は「分け隔て」ている。この自民族中心主義と武力侵攻主義を否定して、人々を分け隔てなく助け、その幸福追求の後押しをする理念が真に「社会的」だとすれば、子どもの教育という仕事の場合、国家の力をどう使うかが問題だ。
 今の日本で言えば、少子化対策をあれこれ政府は言っているが、まず制度として子どもを大切にしているだろうか?「社会的」に子どもたちが安心して教育を受けられる条件を整備するなら、実質的に義務教育と同様の就学率をもつ後期中等教育、つまり同世代人口の大部分が高校に進学する国で、その学費が無償化されておらず、結果的に家庭の経済力によって望ましい教育を子どもに受けさせるチャンスにかなりの格差がある現実を、改善するべきだろう。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ボルシェビキ革命と民族主義... | トップ | 江戸の「美人」はスマート ... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

日記」カテゴリの最新記事