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江藤-蓮實対談・・・世代論の構図と時代  大江健三郎の異質。

2018-07-28 15:20:22 | 日記
A.世代意識と個人意識
 誰でも自分がある日この世のどこかに生れたわけで、その生まれた時代と場所のもつ意味、自分がどういう時代のなかに生まれ、どういう場所で成長したかは、後でだんだんわかってくるだろうが、そこを生きている現時点ではわからないし考えられない。とくに小学校に入るまでの幼児期は、個人としての自分も、周囲の人間関係も、「社会」という概念はまだないから、時代も世代もイメージしていない。ただ、自分よりずっと年長の大人たちのなかで、可愛がられたり、怒られたり、教えられたりして過ごす。実はその幼児期をどう過ごしたかは、ずっと後になって自分がどういう人間かを考えたとき、いろいろな影響を蒙っていることに気づく。まずは親、兄弟姉妹、親族、そして交際のある人々。一緒に遊ぶ友だちは、ほぼ同じ地域の似通った環境にある子どもたちで、それが上の学校に行くにつれて、多様化するとは限らない。時代の特徴は学校における同世代、つまり同級生とか同期生の共通体験になるから、「ある世代」というものが共通意識を形成して、「上の世代」や「下の世代」との意識の差異を強調することにもなる。
 バブルに向かう豊穣な1985年4月に行われた江藤淳と蓮實重彦の1泊2日の対談記録、『オールドファッション』にも大学教師として学生に向き合った世代論の部分がある。

 「蓮實 三十五くらいまでの連中はどっかで、この野郎と思っているのがわかったんです。ところがいまの学生たちは、この野郎とかいう、そういう挑戦みたいなものを、いつごろかわかりませんけれども、それをごく簡単に共通一次の世代だというふうには言いたくありませんけれどもね、教師は教師なんだという制度性をかなり安易に認めているという感じがして、それがちょっとぼくは‥‥‥。
江藤 なるほどね。それはやはり東大の駒場で教えていらっしゃるからということもあるんじゃないでしょうか。つまり、将来専門を同じくしようとする学生は、当然昔から先生に対する、さっきおっしゃった愛憎、ないあわされた感情をもつに決っている。先生をなんとかこえなきゃならない。しかしできるからあの人は先生なんだというというものがあったと思うんです。わたしのいる場所はちょっとまた特別で、つまり理工系の学生しかいないというのは、そういう意味では条件が違うんですね。つまりこっちからしてみると、数学や物理で学生と競争する意味が、はじめからないんですね。それはもうお互いにわかりきったことで、もうその問題は終わっちゃっているわけですよ。しかし、逆にいうと語学や文学でくれば、少なくとも役割の定義上われわれのほうが圧倒的に強いことになっている。そこでは、それぞれ相互に問題がはじめから解決されてしまっていて、コンプレックスの生じる余地がないんです。これはある意味ではとても居心地のいい環境です。もっともある意味では危険で、緊張感を持ちつづけていないと、無限に安易になれる可能性もある。わたしは今年で十五年目になるわけですけれども、そのうちの、そうですね、はじめの三分の一くらいは、この危険をしょっちゅう感じてました。自己規制していないと、とんでもないことになる。なにを言ったってみんなほんとだと思って聞いているんですからね。それはたいへんなことで、文科系のよくできる学生を相手にしているとき以上に、こちらがしょっちゅう自分を律しながらやっていかないと、無責任になってしまう恐れがあるんですね。ですからなんといったらいいんでしょうね。つまり彼等がわたしの授業をとらなければ一生絶対体験しないであろうことを、どれだけ一生懸命やるようにしむけるかという術が無視できなくなってくるんですね。まァどんな学生に教えるときでもそうでしょうけれども、力を入れるというか、一生懸命教えると、やはり通じるものだなという感じがしてきたのは、最近四、五年でしょうかしらね。その通じかたが多少とも深まってきたような気がするので、教師というものは、これは三日やったらやめられないものかなと、(笑)わたしは自分がこんなに教師業が好きだとは思っていなかったんです。だけれども、どうも好きであるかのようですね。少なくとも工業大学の教師は、大変気に入っておりますね。
蓮實 でも、いいことでした。(笑)
江藤 まァね。でも、それとは別に、蓮實さんのおっしゃることは、分かるような気がします。なんというのかな、そういう屈折した思いがなくなって、制度としての教師を無抵抗に、一方的かつ安易に認めてしまうところはあると思います。おそらく一般学生、東大の学生にいちばんあらわれているのかもしれないけれども、それはあるでしょうね。
蓮實 まァ中学高校、小学校以来ですけれども、とくに中学で、われわれのころは教師は当然敵であるわけですね。親父が敵であったり、年長者が敵であったりするのと同じような形で。いまでも、たとえば校内暴力というような形で反発があったりはしても、どうも余裕のある軽蔑を教師に対してしていないと思うんです。これはいつごろからのことかわかりません。たぶん三十五、六の人たちもそうなのかもしれない。その関係をみてますと、どうも文化一般にもそういうことが現われていて、もっと下の連中になっちゃうと価値の相対観みたいなものがかなり大幅に植えつけられていて、もう軽蔑すらしないと。
江藤さんはこの前二人の若い批評家と対談なさっていましたね。あれをちらちら読んでいまして、あの人たちは軽蔑を知らないんですね。彼らは別に学生ではなくてかなり年なんですね。なにか自分の思っていることを正確に相手に伝えて真剣に相手と向かい合うと、そのままでコミュニケーションが成立すると思っているんですね。
江藤 そうです、そのとおりです。
蓮實 そら恐ろしいといえばそら恐ろしいんですが、正当な思想を正当に表現しあっただけでは絶対に伝わらないなにかがある。とりわけ文学なんていう概念はですね。自分をわたしですということだけではだめなんで、それを否定するところからはじまるわけですね。そこを非常に素直に自分をわたしですと。わたくしが江藤さんについてこう思っていますという、まァ素直といいますかね、頭だってあまりいいとはいいかねるような、そういう対応の仕方をしていますね。戦略なしといえば戦略なしなのか、誠実といえば誠実なのか。しかしそれでは文学という芸が生まれる余地がないではないか。
江藤 ぼくもそう思います。
蓮實 おそらく、かなり正当に自分を読んでくれるなというふうにお感じになったにしても、あれじゃァ面白くないんじゃないかという気がするんです。
江藤 おっしゃるとおりなんですね。つまり人間同士で話をしているという感じが、目の前に確かに二人、若い批評家が座っているのだけれども、その感じが伝わってこないんですよ。なにかブラウン管が二つおいてあって、等身大の人の形が二つ映っている。そこから声が出ていて、いろいろ名論卓説が聞こえて来るのだけれども、いったい全体自分のことなのかなァという感じで、切実な言葉が聞こえないんですね。それに対してこっちもなにかしゃべっているのですが、どんなシステムを通じて先方に伝わっているのか、もう一つ得心が行かない。これはどうも人間同士が対坐して、普通の会話をしているというようなこととは、ちょっと違うんじゃないか。したがって、あまり面白くないし、とまどいもするし、くたびれもする。わたしは、お二人とも、それぞれ戦術もたてていたんだろうと思うんですね。話の途中で一服することになり、中座してちょっと手洗いに立ったんですよ。そしたら、手洗いのなかで雑誌の編集長とその二人のうちの一人が相談しているんだ。(笑)これからどういうふうにもっていこうかってやっているんで、(笑)こっちは大変まずいところへ入っちゃったような気がしてね、失礼といって別の手洗いに逃げたんですよ。(笑)
蓮實 配慮を示されたわけですね。
江藤 だから戦略も戦術もおそらくあるんですね。ただないのはなにかといったら、なんていったらいいのかな、これは言葉が適切かどうかわからないけれども、礼儀がないんですね。礼儀というのは、つまり律義にまじめにしゃべったら相手に通じるとは限らないということを悟ることがまず礼儀で、つまり言葉の不完全性については、先刻わたしも承知してますよというところを見せないと、相手に気持ちが伝わらないんですね。それがないんだと思う。この頃は流行らなくなったけれども、大学紛争時代に活動家の諸君が、いまやァーわれわれはァーなんとかでェーかんとかだァーキャァーってやっていましたね。あれをそのまま会話のレヴェルに下した話し方なんですね。全共闘と関係があったのかどうか知らないけれども、あそこにあった一種の言語上の病理が、そうとは知らぬ間に、若い知識人のなかに沁み込んでいるんですね。だから礼儀と常識ですね。いちばんくだらないことで、知的でないことのように聞こえるかもしれないけれども、それがないと、知識も知も発展していかないようなところが、人間にはどうもあるんじゃないかと思いますね。ぼくははっきり言って、なんでも申し上げるけれども、柄谷君の欠点はそこだと思う。あの人は礼儀も常識もなくて単に頭がいいだけだと思う。(笑) 
蓮實 (笑いながら)‥‥‥フーンという以外ないな。(笑)
江藤 別に、(笑)おっしゃって頂かなくても。‥‥‥だから、それじゃァ、やはり文化にならないんですね。無限に痩せ細っちゃうと思うんですね。
蓮實 わかりますね。わかります、というのは、いま文化にならないとおっしゃったのは、江藤さんが、やはり文化になさりたいわけですね。
江藤 そうですね。
蓮實 それは非常にぼくもよくわかるんです。ですからサーヴィスなさるわけでしょう。
江藤 ええ、まァそうでしょうね、きっと。」江藤淳・蓮實重彦『オールド・ファッション 普通の会話 東京ステーション・ホテルにて』中央公論、1985.pp.204-210 .

 この会話の行なわれた1985年に、50歳前後の二人の文人からみて、戦前から名をなした師匠的な上の世代として小林秀雄、河上徹太郎から渡辺一夫、大岡昇平、同世代として名が出るのは大江健三郎や石原慎太郎、下の世代の知識人として想定されているのは、40代半ばの柄谷行人、30代の渡辺直巳、もっと若い20代末の田中康夫や浅田彰あたりである。教師として学生を評する部分にある、「三十五ぐらいまでの連中」とはいわゆる戦後生まれの「団塊の世代」で、全共闘がらみの学生時代を知る連中である。彼らは教師に反感や侮蔑感をもっていたが、その後は制度を素直に受け入れて、ある意味まじめに教師のいうことを聞く。ぼくはちょうどこのとき三十五だから、教師を「この野郎」と思っていた最後の世代になる。

 「レジスタンスというのがあって、国が割れましたね。それはフランス人にとってやっぱりいいことじゃなかったんだなと、そのときつくづく思いました。レジスタンスが悪いというんじゃないんです。国が割れて、お互いに通報し合うとかいうようなことが、おそらくあっちこっちであった。フランス人の人間観は、もともと日本人ほど甘くはないだろうけれども、それにさらに一層いやな影をつけたなァと思いました。日本は戦争に負けたけれども、そういうことはあんまり眼につかなかったから、その意味ではしあわせなのかなと思ったことがあります。それはずいぶん前のことで、六四年の夏でした。なにをきっかけにしてそう思ったのか、よく覚えていないんですけれども、あるときハタとそう思ったんです、だからレジスタンスは善でナチ協力は悪だというような簡単なものじゃないんで、まァそれは政治的には戦後そういうことになったかもしれないけれども、この国でその間にかもしだされた人間と人間との間の付き合い方の雰囲気には、どうもひどく荒れ果てたいやなものがあるぞという気がしたことがあります。それはおそらくかなり特殊なもので、歴史的に積み重ねられてそうなったというものとはまた別のものだろうと、思ったことがあるんですがね。日本でそれと一脈相通じるものがあるとすれば、やはり戦後の占領時代に与えられた、強烈な政治的方向づけを伴った「問題」性ですね。まァ民主主義なら民主主義という。これがみんなを“左翼”にしちゃっているんじゃないかと思います。ぼくなどはそういう方向づけに対する一種の相対感覚から始まっているんです。われても。に対する一種の相対感覚から始まっているんです。戦争中はお国のためで、戦後になってからは民主主義といわれても、ハイそうですかとオイソレと信用するわけにもいかない。昨日まで別のこと言っていた先生が、小学校の先生、中学校の先生、みなさん今度は新しいことを教えなくちゃならなくなって、うまく切り替えられない人は追放されてやめていったというようなことがありましたので、やはりどうしたってそこは嘲笑的になるし、相対的にもなる。もっと若い人たちは、ためらいなく、おだてられて、君たちは100パーセント新制中学の出だ、君たちこそ民主主義の子だ。君たちが日本を背負って立つ、新生日本はこれこれしかじか。新憲法ほど素晴らしいものはないと教えられて、ほんとにそう思いこんでしまった。ちょうどぼくらが戦争中、忠君愛国と思いこんだのと同じようにそう思いこんで、そのお題目に対する相対的な距離の取り方をまったく知らないままに過ぎてきた人たちが、どんどん再生産されてきている。四十五から三十五くらいの年代の人々のなかに、そういう“左翼”が多いのではないかと思う。しかし不思議なことによくしたもので、四十年たつと、いま教育を受けている若い人たちのあいだでは、そんなものはもうあんまり流行らない昔の標語みたいなもので、いまさらそんなこといったってナウくないぞというようなことを言う人もまた出てくる。しかし、五十代、六十代にまで及んでいるかも知れない“左翼”的方向付けは、たいへん根深いものだと思います。そもそも近現代の文明が「問題」性の方向に向かって動いているうえに、さらにしんにゅうがかかっている。
こういうこともありますね。中央官庁のお役人と話してごらんになるといい。憲法にしたがって外交をやってますとか、憲法の英訳文とか、大真面目でそんなことをいう官僚が、そこらにゴロゴロしていますよ。」江藤淳・蓮實重彦『オールド・ファッション 普通の会話 東京ステーション・ホテルにて』中央公論、1985.pp.216-218.

 この対談は、副題が「普通の会話」となっていて、東京駅ステーションホテルで、夕食、食後のお茶、夜のくつろぎの時間、そして朝食後の再度の会話と、部屋と時刻を移りながら、とくに話題を決めずに繰り広げられている。たしかに「普通の会話」それも、私的で親密だがほぼ初対面の紳士同士の知的会話として節度を保っている。おそらく編集者が同席し録音しているはずで、そういう意味では公開を予定された対談である。江藤淳氏は、23歳で書いた漱石論にはじまって以後若手文芸評論家として注目作を発表し、1962年にプリンストンに留学、それまで文筆一本だったが1971年東工大に就職。文芸評論からひろがって政治的論説を展開。85年当時はGHQ占領下の検閲問題や憲法問題などで“右派”的立場を鮮明にしていた。蓮實重彦氏は、フローベールなどフランス文学の研究家として東大で教え、同時に映画評論で一家を成していた。ただ一般には高踏的な文化人として当時流行になったフランス現代思想やポストモダンの紹介者のひとりと見られていた。二人の政治的立場は、あまり重なるところも触れ合うところもないかのようだった。
 しかし、この対談の最後の「朝の対話」のなかで、実は江藤に対する蓮實のある仕掛けが行われていたことを、改めて読むとわかる。前日までの和気藹々の土俵づくりに成功した蓮實は、先輩江藤に敬意を表しながら巧みに憲法論の本音を引き出す。この点は、次回に。



B.大江健三郎の総まとめ入り
 江藤淳は1932年東京百人町生まれで石原慎太郎も同年神戸市生まれ、大江健三郎は1935年伊予(愛媛県)内子町生まれ。石原は父の転勤で神戸から小樽、逗子と移って育ち、銀行員の息子で、鎌倉に移った江藤とは湘南中学で1年違いの旧友。ちなみに1936年六本木生まれの蓮實重彦は、父は美術史家で初等科から学習院。こうした育ちだけでいえば、同世代といっても、江藤が懐かしむ昭和10年代の東京山の手ブルジョア的生活は江藤と蓮實には共通するし、上級サラリーマン転勤族の子という点では江藤と石原は共通するが、大江健三郎はそういう意味では、まったく違う環境で成長した人である。つまり、四国の山の中で生まれ育った大江は、高校でいじめにあって松山東高校に転校し、同級にいた伊丹十三と親しくなったのち東大仏文進学。在学中23歳で書いた『飼育』で芥川賞。東大仏文という点では、蓮實と同じだが、日本の農村共同体を体験しているかどうかは、大きく違うはずだ。
同世代の新進若手アーティストというだけで結成された「若い日本の会」(1958年)には、江藤をはじめ石原慎太郎、大江健三郎、谷川俊太郎、寺山修司、浅利慶太、永六輔、黛敏郎、福田善之らが参加して、60年安保に反対声明などを出したことはもう忘れられているが、その後のこの人たちの軌跡を見ると信じられないくらい立場はばらばら。彼らが一瞬ひとつの共感を感じたのは、軍国少年だった自分たちの純粋さに対比して戦争と軍隊を体験している上の世代、とくに戦争に深くかかわった岸信介への反発という点と、これからは俺たちの時代だ、という高揚だったのだろう。それから半世紀以上が過ぎ、先日浅利慶太も亡くなった。この世にあるのは、石原、谷川、福田そして大江健三郎くらいだが、みなさんさすがにご高齢で人生の終わりかたを考えておられるだろう。

 「世界を創造 一枚の絵図に:「同時代ゲーム」脱・私小説の遠地点:
 ノーベル文学賞作家、大江健三郎さん(83)の小説作品を集めた「大江健三郎全小説」(全15巻、講談社)の刊行が始まりました。大江作品の魅力を、シリーズ企画「今読む大江文学」で探ります。初夏には、作家の池澤夏樹さんに寄稿してもらいました。
今読む大江文学 作家 池澤夏樹
 昭和初期の日本の文学には三つの潮流があった。とかつて平野謙が言った。自然主義私小説、プロレタリア文学、そしてモダニズム。
 これを受けて丸谷才一は、この三つは現代にもある程度まで継承されていると言う。実例を挙げれば、私小説の旗手は大江健三郎、プロレタリア文学は井上ひさし、モダニズムはもちろん丸谷ご自身。
 うまい見立てだが、ぼくは大江に対してこれは少し酷ではないかと思った。この作家にはたしかに『個人的な体験』のような、正に個人的な体験を土台とする作品がある。しかしながら彼はこの路線から離脱しようと多大な努力を払ってきたのだ。
 〇        〇        〇 
 最も大きなハンディキャップはスタートが早すぎたこと。創作はある程度の社会体験を前提とするものだから、大学生で芥川賞というのは困惑すべき事態だ(ぼくなど四十二歳の受賞でも先の不安に目の前が暗くなったものだ)。
 彼の場合、自分の二十三年分の生活体験と少量の知識しか素材がなかった。これでは私小説に傾かざるを得ない。彼自身がこう言っている――
 (内向の世代)の人たちがゆったり成熟して文壇に出られたのに対し、私はずいぶん早く書き始めて、なんだか「子役上がり」のモロさが…‥これは尊敬する同時代者美空ひばりさんから直接聞いた言葉‥‥‥自覚されていて、友人の輪に入りにくかったからでもあると思います。(『大江健三郎 作家自身を語る』聞き手・構成 尾崎真理子、新潮社)
 この自覚から大江健三郎は私小説的な手法の使用を試みる。そこで支えとなったのが渡辺一夫のラブレー研究や、ブレイクやオーデンなど英語の詩、そして山口昌男が日本に紹介した文化人類学だった。それで離脱できたわけではない。遠く離れてはまた引き戻される。だから彼の作品群を一枚の図の上にプロットしてみると、その軌跡は私生活を一方の焦点とする楕円軌道を描く。
 〇         〇          〇 
 その中で遠地点(アボジー)にあるのが『同時代ゲーム』である、とぼくは思う。つまりこれが私小説から最も遠い。結構の大きさ、奇想の奔放、エピソードの多様、骨幹を成す思想の雄大‥‥‥とんでもない創作力の産物として受け取らざるを得ない。こんな小説を日本語で書いた作家は誰もいなかった。
 何よりもこれは創生譚であり、革命譚である。それでいて細部はおそろしく人間的。登場するのは作者の手の中の操り人形ではなく、勝手に四方八方へ走って行ってしまう始末の悪い奴らだ。
 創成された宇宙とそういう連中の間の遠い距離を一気に埋めるために、冒頭に神話的・呪術的な場面が用意される。それが妹の「恥毛のカラー・スライド」を目の前にピンで留めて彼女に手紙を書くという場面で、これで作品の色調が決まる。
 勝手にふるまいながらも、登場人物はそれぞれに使命の実現者として機能する。ナラティブ(語り)の原型は民話なのだ。四国の山の中にミニ国家を造って大日本帝国と渡り合った、という記憶=記録が伝えられた果て、最後に文章化するのが遠い外国にいる兄=作家、あるいは一族の最後の者。
 それにしてもなんという濃密な文体だろう。まずは名詞が過剰。普通はここまで名詞を詰め込みはしない。しかもそれらを統語する動詞が何度となく論旨をひねる。一本の紐のようなものではなく、編まれたもの、織られたものとしての文章。いわば一枚の絵図。
 小説を書くという行為の上空には世界を再創造したいという大それた欲望がある。世界を根源から読み替えたいという誘惑がある。それがなくて『白鯨』や『百年の孤独』や『世界終末戦争』や『苦海浄土』がどうして書かれ得ただろう。
 『同時代ゲーム』もその列に連なる。だからこの奇妙な人びとの名、主人公の露巳(つゆみ)と露(つゆ)己(き)、創造者である壊す人、父=神主、オシコメ(押し込め=お醜女?)、亀井銘助(めいめいの韻に注意)、アポ爺(ジー)とペリ爺(ジー)、無名大尉、などなど、詩的な工夫を凝らした/凝らしすぎた名前の登場人物が読後感の中を走りまわり、語りかける。何度となく再読を促し、時には読者の悪夢の中に登場する。
 大江健三郎は書きすぎた。本当はこれ一冊で充分だった。まさかそうは言わないが、しかしそう言い切りたいような作品である。」朝日新聞2018年7月27日朝刊28面、文化・文芸欄。

 これを読んだら、昔読んだ『同時代ゲーム』が幻のように記憶に点滅が起こったが、どんな小説だったか細部は忘れている。ドイツにいるときに夏休みに読了した『万延元年のフットボール』とごっちゃになっている。あれも四国の山のムラが舞台になっていた。そのうち時間があったら(ないわけでもないが)『同時代ゲーム』を読んでみよう。
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