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写真付きで日々の思考の記録をつれづれなるままに書き綴るブログを開始いたします。読む人がいてもいなくても、それなりに書くぞ

円地文子さんの「二世の縁 拾遺」って凄い!

2019-03-05 22:22:56 | 日記
A.ある短編小説
 高野長英伝を読み終わったので、さて次は何を読もうかと思って、本屋で気まぐれに買ったのは「日本近代短編小説選」という岩波文庫の昭和編3だった。ぼくはもともと気まぐれで、小説を系統的に読むという習慣はなく、とくに短編小説はほとんど読まないので、ここに収録された戦後の作家が書いた作品はどれも初めて読んで、非常に感心した。全部で13編、順にあげると、小島信夫「小銃」、吉行淳之介「驟雨」、幸田文「黒い裾」、庄野潤三「結婚」、中野重治「萩のもんかきや」、円地文子「二世の縁 拾遺」、花田清輝「群猿図」、富士正晴「帝国軍隊に於ける学習・序」、山川方夫「夏の葬列」、島尾敏雄「出発は遂に訪れず」、埴谷雄高「闇のなかの黒い馬」、深沢七郎「無妙記」、三島由紀夫「蘭陵王」である。
 それぞれテーマも文体も異なる多様な作品だが、昔から名前だけは知っている作家なので、先入観があった。中野重治や花田清輝、埴谷雄高などは戦前から左翼運動に関わった経歴でも有名だったし、逆に「第三の新人」としてくくられた小島信夫、庄野潤三、吉行淳之介の作品は、政治には距離を置く立場で書かれているのだろうと思っていた。山川方夫は江藤淳が友人としてその早世を惜しんだことを知っていたし、富士正晴の戦争小説「童貞」は先月読んだばかりだった。島尾敏雄の「死の棘」や深沢七郎の「楢山節考」は映画になったこともあって前から知ってはいた。三島はいまさら言うまでもない。
 しかし、ここに収録された短編小説を全部読んでみて、ぼくが思っていたそれぞれの作家のイメージをおおきく裏切るようなものばかりで、改めて作品は作品としてそのまま読むということが大事なのだと痛感した。どれもそれが書かれた時代や社会状況を反映している以上、部分的には古びてしまうところもあるが、中には今読むほうが価値が出てくるようなものもある。この中で女性作家はふたりだけだが、幸田文「黒い裾」は、親戚の葬儀のときだけ出会うという非常に巧みに構成された物語で深い感銘に導く。そして円地文子の「二世の縁 拾遺」には、現在の場面と上田秋成の『春雨物語』にある物語が、それを現代語に翻訳するという入れ子構造が仕組まれていて、秀逸と言う他ない。とりあえず、その上田秋成の書いた物語がどれほどシュールかをみてみたい。
 「古曽部(こそべ)という村に年久しく住みついている豪農があった。山田を多く持って、豊年よ凶作よと騒ぎまくる心配もなく豊かに暮らしているので、主人も自然書物に親しむのを趣味とし、田舎人の中に殊更友を求めるでもなく、夜は更けるまで灯下に書見するのが毎日であった。母親はそれを案じて、
 「さあさあ早くお寝(やす)み、子(ね)の刻(十二時)の鐘ももう疾(と)うに鳴ったではないか。真夜中まで本を読むと芯が疲れて、さきへゆくときっと病気に罹(かか)るものとお父さんがよくお話なされた。好きな道というものはとかく、自分では気づかぬ内に深入りして後悔するものだよ」
 と意見をするので、それも親なればこその情けと有難いことに思って、亥(い)の刻(十時)すぎれば枕につくように心がけていた。
 ある夜雨がしとしと降って、宵の中からひっそりと他の音といってはつゆばかりも聞えない静かさに、思わず書物によみふけって時を過ごしてしまった。今夜は母上の御意見も忘れて、大方丑(うし)の刻(午前二時)にもなったであろうかと窓をあけてみると、宵の中の雨はあがって、風もなく、晩(おそ)い月が中空に上がっていた。「ああ静寂な深夜の眺めだ。この情感を和歌にでも」と墨をすり流し筆をとって一句二句、思いよって首をかしげ考えている中、ふと虫の音とのみ思っていた中に、鉦(かね)の音らしい響きの交って聞えるのに気づいた。はて、そう言ってみればこの鉦の音をきくのは今宵ばかりではないようだ。夜ごとこうして本を読んでいるときに聞えていたのを今はじめて気づいたのも思えば不思議である。庭に降り立ってあちらこちら鉦の音の聞える方角をたずね歩く中、ここから聞こえて来るらしいと思われる所は、普段、草も刈らず叢(むぐら)になっている庭の片隅の石の下らしかった。主人はそれをたしかに聞き定めて、寝間に帰った。
 さてその翌日、下男どもを呼び集めて、その石の下を掘るようにいいつけた。皆よって三尺ばかり掘り下げると鍬が大きな石に当ったので、それを取り除けると、その下にまた石の蓋をした棺らしいものがあった。重い蓋を大勢して持上げて中をみると何やら得体の知れぬものがいて、それが手に持った鉦を時々うち鳴らしているのだった。主人をはじめ近くによってこわごわさしのぞくと、人に似て人のようにも見えない……乾(から)鮭(ざけ)のようにからからに乾(ひ)固(かた)まって骨立っているが、髪の毛は長く生いのびて膝までもたれている。大力の下男を中に入れてそっと取出させることにしたが、その男は手をかけてみて、
 「軽い、軽い、まるでただのようだ。じじむさいことも何もない」
 と気味悪半分大声に言った。こんなにして人々がかつぎ出す間も、鉦を叩いている手もとばかりは変らず動かしていた。主人はこの様子を見ていて尊げに合掌し、さて一同に言った。
 「これは仏教に説く大往生の一つに「定(じょう)に入る」といって、生きながら棺の中に坐り、坐禅しつづけて死ぬ作法がある。正しくこの人もこれであろう。わが家はここに百年余も住んでいるが、そのようなことのあったのをかつてきいたことがないところを見ると、これはわが祖先のこの土地に来たより以前のことであろう。魂はすでに仏の国に入って骸だけ腐らずこうしているものか。それにしても鉦を叩いている手だけが昔のまま動くのが執念深い。ともかくもこう掘り出した上は生命を再び蘇らせて見よう」
 主人も下男どもに手を添えて、木像のように乾し固まったそのものを家の中へかつぎ込んだ。
 「危ないぞ、柱の角(かど)にぶち当てて毀(こわ)すな」
 などとまるで毀れものを持ち歩くようにしてやっと一間に置いた。そっと布団など着せかけて主人がぬるま湯を入れた茶碗をもって傍らへゆき乾からびた唇を湿(うる)おしてやると、その間から舌らしい黒いものがむすむす動いて、唇を舐め、やがて綿に染(し)ませた水をもしきりに吸うようである。
 これを見て女子供ははじめて、きゃっと声を上げ「こわい、こわい、化物だ」と逃げ退いて傍へよりつかなくなった。しかし、主人はこの様子に力を得て、この乾物を大事に扱うので、母なる人も一緒になって、湯水を与えるごとに念仏を称えるのを怠らなかった。
 こうして五十日ばかり経つ中に、乾鮭のようだった顔も手足も、少しづつ湿おって来て、いくらか体温も戻って来たようである。
 「そりゃこそ、正気づくぞ」
 といよいよ気を入れて世話する中にはじめて目を見開いた。明るい方へ瞳を動かすようであるが、まだはっきりとは見えない様子である。おも湯や薄い粥などを唇から注ぎ入れると、舌を動かして味わう様子は、何のこともないただの人間であった。古樹の皮のようだった皮膚の皴が浅くなり少しづつ肉づいて来て手足も自由に動き、耳もどうやら聞えるのか、北風の吹きたてる気配に、裸のままの身体を寒げに慄(ふる)るわしている。
 古い布子を持って来て渡すと、手を出して戴く様子はうれしそうで、物もよく食べるようになった。初めの中は尊い上人の甦りであろうと主人も礼を厚くして魚肉も与えなかったが、他人の食べるのを見て鼻をひくひくさせ欲しがるので、膳に添えると、骨のままかじって、頭まで食い尽くすには主人も興ざめる思いがした。
 「あなたは一度定に入ってまた甦って来た珍しい宿世の方なのですから、私どもの発心のしるべに、この長い間どういう風にして土の下で生きていられたか覚えていられることを話して下さい」
 と懇ろにたずねて見ても、首を振って、
 「何にも知らない」
 といってぼんやり主人の顔を見ているばかり、
 「それにしてもこの穴へ入った時のことぐらいでも思い出せませんか、さても、昔の世には何という名で呼ばれた人か」
 といっても、一向に何も知らぬ人らしく、うじうじと後じさりして、指をなめたりしているさまが、全くこの辺りの百姓の愚鈍に生れついたものの有様そっくりである。
 折角数カ月骨折ってあたら高徳の聖を再生させたと喜んだのに、この有様には主人もすっかり気を腐らせ、後には下男同様に庭を掃かせたり、水を撒かせたり召使うようになったが、そういう仕事は別に厭いもせず、怠けずに立ち働いた。
 「さても仏の教えとは馬鹿馬鹿しいものだ。禅定に入って百年余も土中にあり、鉦を鳴らしつづけるほどの道心はどこへ消え失せたのか。尊げな性根はさらになく、いたずらに形骸ばかり甦ったとは何たることか」
 と主人をはじめ村のなかでも少しこころある者は眉をひそめて話しあった。」円地文子「二世の縁 拾遺」(紅野敏郎・紅野謙介・千葉俊二・宗像和重・山田俊治編『日本近代短編小説選』昭和編3、岩波文庫、2012.)pp.148-153.

 高僧が即身成仏、つまり死んだままミイラ仏になる「入定」というものが行われたことは知られているが、その干からびたミイラが掘り出され、徐々に水を与えて甦り生き返るというとんでもない話である。ホラー映画になりそうだが、逆にマンガのようなコミカルな描写。しかも、このゾンビは以前の記憶を失っていてただの愚鈍な人間でしかなく、やがて…という展開だが、上田秋成の意図、そしてこれを自分の小説中に組み込む円地文子の意図は、なんとも興味深い。
 上田秋成(1734~1809)は、江戸中期の享保から文化頃の関西で活躍した文人で、和歌、俳句、茶人などとしても知られたが、古典の研究および「雨月物語」の作者として有名である。大阪堂島の紙油商家の養子として育ち、町人がもっぱら蓄財に励んだ元禄期とは異なり、町人にも学問を好み教養を重んじる風潮が浸透するなかで、秋成は文学の才をあらわす。町人学校懐徳堂に通い、俳諧を学び、戯作を読みふけるうちに33歳ころから創作の筆を染め、浮世草紙の作者になる。また賀茂真淵の国学を知り古典研究にむかうとともに、本居宣長と「日の神」論争と呼ばれる論争を戦わした。38歳の時、火災で家業が破産し医者に転身、43歳の年(安永五年)に大坂にもどって開業するとともに『雨月物語』を刊行した。彼の晩年10年をかけた10篇からなる『春雨物語』は、自由で明るい境地に達した不思議な作品だが、文化五年に完成したが写本の形で伝えられたため、早くからその存在を知られながら、幻の名作となっていた。完全な形で本が出たのは20世紀の戦後、岩波文庫だという。さて、このあとの物語の展開は、次回。


B.ヒラメ公務員
 市役所職員のような自治体職員は、税金から給与をもらい住民市民のために働き奉仕するのが仕事だということになっている。しかし、実際の職場で窓口に来る住民市民には通りいっぺんの対応をするだけで、日常業務では部局の上司、市長などの幹部、さらに利権や予算をめぐってそれに圧力を加える議員や地域のボスばかり気になって顔色をうかがう人も少なくない。役人のタテマエとホンネをうまく使い分ける人が出世していくとすれば、役所は腐敗し住民市民の信頼は失われる。
 とくに政治的「公平性」とか「中立性」を口実に、市民の活動を抑圧する結果になる事件は、誰がその決定をしたか、その決定は誰を意識して下されたのかが問題だと思う。

 「本音のコラム:九条俳句の勝利集会 鎌田 慧
 公民館は敗戦後、日本の民主主義を、地域に広める社会教育の重要な施設として、全国的に開設された。いわば地域民主化の拠点である。
 いまでも沖縄の石垣島などでは、自衛隊ミサイル基地の建設予定地にされたやその周辺の公民館の館長が、率先反対運動にたちあがっている。地域を壊滅させる計画だから、地域の自治組織としての公民館が、反対運動の中心になるは、けだし当然である。
 ひるがえって、さいたま市の公民館で発生した俳句弾圧事件は、この安倍の暴政時代だからというべきか。「梅雨空に『九条守れ』の女性デモ」
 この俳句に驚き慌てたのか「公民館だより」に掲載不可の決定。市は編集権を盾に最高裁まで争って敗北、四年半たってようやく掲載された。
 事件は本紙でもたびたび報道されたが、公務員が憲法九条遵守、表現の自由の抑圧者となってなお、市長も教育長もそれを支持した「自治体」の退廃は、信じがたい。
 俳句を支持する市民が掲載を求める二万の署名を集め、「平和とは自由にものがいえること」「忖度に忖度かさねて戦争へ」など自作の俳句を色紙に書いてスタンディング。この行動を前にしても市の職員はちらしを受け取らなかったという。起ちあがて労働組合!
 三日、東京で行われた集会に参加。言論を支える市民運動を実感させられた。(ルポライター)」東京新聞2019年3月5日朝刊、27面特報欄。

 鎌田氏があげる「梅雨空に」は季語があるので俳句だが、後の二つは俳句ではなく川柳狂歌になるだろう。それはともかく、この国の政治にかかわる「保守的」な人々とその支持者には、強固な思い込みで動く人が多いと思うことがある。彼らにとって政治とは、日本の共同体と伝統を守る正しい日本人が政府の方針に従って翼賛すればよいだけのものであって、それが彼らにとって実利的にも利益をもたらすよいことだと考える。そういう場所から「九条守れ」とか「人権を守れ」とか「平和と民主主義」とか、「夫婦別姓」とか「フェミニズム」とか言う連中は、愛国心の欠けた時代遅れの「サヨク」「反日」で、外国の手先になり金をもらって反対運動をやるような堕落した人間にしか見えない。かれらはまず「左」が生理的に嫌いだという感情から出発するので、どんなに論理や反証を述べても聞く耳はもたない。そして、行政、役所、公務員は自分たちのために動くべきであり、主権者は自分たちであり、「反日サヨク」にサービスするのは「偏った」「公共にふさわしくない」行為だから取り締まるべきであると上から圧力をかける。
 こういう人たちに憲法や民主主義について何かを言っても、はなから「またバカなこといってる」と嘲笑するだけだから、首相は憲法改正がじきにできると思ったのだろう。しかし、現在の日本を全体として見渡して、全有権者のうち彼らが「よき日本人」と考える人はどれほどいるのだろう。日本会議や保守系論壇誌が言うことを信じる人が、実は3割もいない少数派である可能性は高い。しかし、あとの5割以上が選挙に行かないので、結果的に今のような事態になっている。
 これを変えるには、たしかにおかしなことをおかしいと声を上げて言語化する必要があるのだが、あきらかに理不尽な復古主義しか語らない人たちに対して、旧来の左翼言語で語っても対話にならないばかりか対立は強まる。語りかけるべきは、政治全般にいやなもの、関わりたくない世界と思って避けるようなマジョリティにどういう言葉で語りかけるか、それがまだ足りないと思う。
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