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文化に埋め込まれた無意識・・信仰の質ということ

2016-06-14 22:29:48 | 日記
A.憲法を変えること
 参議院議員選挙が近づいている上に、このところ舛添東京都知事が政治資金の公私混同を疑われて辞任を迫られるという事態になっている。知事が都議会で不信任決議されたら、議会解散もありうるので、急に東京では選挙だらけのジタバタが予想されている。大きな歴史の流れからすれば、都知事辞任などさして意義のある問題とも思えないが、参議院選挙の結果国会の3分の2を越える議席を自民党など改憲派に与えれば、彼らが最大の念願とする改憲、つまり9条の武力放棄を書き換えて自衛隊を日本軍にして、政府の意志で自由に戦争ができる体制の実現に向け突き進むのは間違いない。でも、それがどういう意味をもつのか、日本人は判っているのだろうか?たぶん判っていないのだが、だからこそ、改憲はできない、という見方もある。つまり9条改憲の賛否は、理性的な判断、合理的な思考や反省から出てくるのではなく、もっと別の深い場所から日本人を捉えていると見る。
 今日の朝日のオピニオン欄の「憲法を考える」シリーズは柄谷行人「9条の根源」真打登場!という感じだが、内容は岩波新書の新刊『憲法の無意識』で述べられていることのエッセンス。

「無意識に根差した日本人の「文化」簡単に変わらない:憲法改正論の本丸が「戦争放棄」をうたった憲法九条にあることは明らかだ。自衛隊が米軍と合同演習をするような今日、この条文は非現実的という指摘もある。だが、日本人はこの理念を手放すだろうか。9条には別の可能性があるのではないか。9条の存在意義を探り、その実行を提言する柄谷行人さんに話を聞いた。
――安倍晋三首相は歴代首相と違い、憲法改正の発議に必要な議席数の獲得をめざす意向を公にしています。改憲に慎重な国民は参院選の行方を懸念していますが、柄谷さんは講演などで「心配には及ばない」といっています。
「昔から保守派は改憲を唱えていましたが、いざ選挙となるとそれについて沈黙しました。改憲を争点にして選挙をやれば、負けるに決まっているからです。保守派はこれを60年くりかえしているのです。しかし、なぜ9条を争点にすると負けてしまうのかを考えず、この状態はそのうち変わると考えてきたのです。それでも、変わらない。事実、改憲を唱えていた安倍首相が、選挙が近づくと黙ってしまう」
「実はそのようなごまかしで選挙に勝っても、そして万一、3分の2の議席をとったとしても、改憲はできません。なぜなら、その後に国民投票があるからです。その争点は明確で、投票率が高くなる。だから負けてしまう。改憲はどだい無理なのです」
――安倍政権は今のところ憲法を変えられないので、解釈改憲して安全保障関連法を整え「海外派兵」できる体制を作った。そうなると9条は形だけになりますね。
「しかし、この『形』はあくまで残ります。それを残したままでは、軍事活動はできない。訴訟だらけになるでしょう。だから、どうしても改憲する必要がある。だけど、それはできないのです」
――なぜ9条は変えられないといえるのですか。
「9条は日本人の意識の問題ではなく、無意識の問題だからです。無意識というと通常は潜在意識のようなものと混同されます。潜在意識はたんに意識されないものであり、宣伝その他の操作によって変えることができます」
「それに対して、私がいう無意識はフロイトが『超自我』と呼ぶものですが、それは状況の変化によって変わることはないし、宣伝や教育その他の意識的な操作によって変えることもできません。フロイトは超自我について、外に向けられた攻撃性が内に向けられたときに生じるといっています」
  (中略)
――近著では、戦後憲法の先行形態は明治憲法ではなく「徳川の国制」と指摘していますね。
「徳川時代には、成文法ではないけれども、憲法(国制)がありました。その一つは、軍事力の放棄です。それによって、後醍醐天皇が『王政復古』を唱えた14世紀以後つづいた戦乱の時代を終わらせた。それが『徳川の平和(パクストクガワーナ)』と呼ばれるものです。それは、ある意味で9条の先行形態です」
「もう一つ、徳川は天皇を丁重にまつりあげて、政治から分離してしまった。これは憲法1条、象徴天皇制の先行形態です。徳川体制を否定した明治維新以後、70年あまり、日本人は経済的・軍事的に猛進してきたのですが、戦後、徳川の『国制』が回帰した。9条が日本に根深く定着した理由もそこにあります。その意味では、日本の伝統的な『文化』ですね」
――9条と1条の関係にも考えさせられます。現在の天皇、皇后は率先して9条を支持しているように見えます。
「憲法の制定過程を見ると、次のことがわかります。マッカーサーは次期大統領に立候補する気でいたので、何をおいても日本統治を成功させたかった。そのために天皇制を存続させることが必要だったのです。彼がとったのは、歴代の日本の統治者がとってきたやり方です。ただ当時、ソ連や連合軍諸国だけでなく米国の世論でも、天皇の戦争責任を問う意見が強かった。その中であえて天皇制を存続させようとすれば、戦争放棄の条項が国際世論を説得する切り札として必要だったのです」
「だから、最初に重要なのは憲法1条で、9条は副次的なものにすぎなかった。今はその地位が逆転しています。9条のほうが重要になった。しかし、1条と9条のつながりは消えていません。たとえば、1条で規定されている天皇と皇后が9条を支持している。それは9条を守ることが1条を守ることになるからです」
  (中略)
 ――現状では、非現実的という指摘が出そうです。
「カントもヘーゲルから現実的ではないと批判されました。諸国家連邦は、規約に違反した国を処罰する実力をもった国家がなければ成り立たない。カントの考えは甘い、というのです」
「しかし、カントの考える諸国家連邦は、人間の善意や反省によってできるのではない。それは、人間の本姓にある攻撃欲動が発露され、戦争となった後にできるというのです。実際に国際連盟、国際連合、そして日本の憲法9条も、そのようにして生まれました。どうして、それが非現実的な考えでしょうか」
「非武装など現実的ではないという人が多い。しかし、集団的自衛権もそうですが、軍事同盟がある限り、ささいな地域紛争から世界規模の戦争に広がる可能性がある。第1次大戦がそうでした」
――無意識が日本人を動かすとすれば、国民はどう政治にかかわっていくのでしょう。
「日本では、ここ数年の間に、デモについての考え方が変わったと思います。これまでは、デモと議会は別々のものだと思われてきた。しかし、どちらも本来、アセンブリー(集会)なのです。デモがないような民主主義はありえない。デモは議会政治に従属すべきではないが、議会政治を退ける必要もない。デモの続きとして、議会選挙をやればいいのです。」朝日新聞2016年6月14日朝刊、15面オピニオン欄。

 確かに改憲を単独テーマとした国民投票をやれば、いくら宣伝扇動やごまかしをやってみたところで、9条改憲を国民の過半数がOKするとは到底思えない。むしろ、改憲派の論点がただの尊大な精神論とマッチョな暴力信仰であることが明らかになって、投票で否決されれば、もう二度と9条改憲を提起すらできなくなるから、これはこれで結構である。9条を変えたいという動機の一番元には、滅びた大日本帝国を現行憲法下の戦後日本よりも望ましい国家と考える奇妙なイデオロギーがある。国民投票でこの妄想をばしっと打ち消しておくのは、国家百年の未来にとって必要かもしれない。



B.切支丹の反乱?「浦上崩れ」
 大佛次郎『天皇の世紀』は明治天皇の誕生に始まって、幕末維新の激動を多彩に追って、徳川幕府崩壊から戊辰戦争の結末まで行くのだが、終わりの方にある「旅」と題された章は、他の章に比べてもかなり長い。幕府、諸藩、いわゆる攘夷、佐幕の確執を追う流れから外れた、普通の幕末史ではほとんど触れられることのない、長崎の隠れ切支丹が出現して事件となり、滅びゆく幕府から明治新政府への移行の混乱の中で、宗教と対西洋文明への反動としての側面が、悲劇を生んだことを詳細に描く。これを読んでみる気になったのは、ぼくがたまたま半分気まぐれで長崎へ旅をすることにして、その荷物をまとめている時に書棚から『天皇の世紀 九』を発見してぺらぺらめくったことに起因している。この「旅」の章は、文久三(1863)年、フランスからやって来た宣教師プティジャンが長崎に来たところから始まる。翌年、元治元年に大浦天主堂が竣工する。250年禁じられていた邪宗門キリスト教の教会堂が長崎に出現したことで、消滅していたはずの切支丹がじわっと歴史の表に浮かんでくる。

「プティジャン師等は、信徒の手にあった教理書、その唱えて居る祈禱文、洗礼式の擁護などを持ち出させて調べて見た。その中で最も師等の目を引いたのは一六〇三年(慶長八年)四月下旬の出版に係る『コンチリサン(懺悔)の略』と云う書であった。『人の上に大事の中の一大事と云うはアニマ(霊)の救いということ』と冒頭から書き起こして、完全なる痛悔の効果、この痛悔を起す方法などを委しく述べてある。著者は何人とも分らないが、思うに教難の結果として宣教師が日本に跡を絶つべき最悪の場合を予想して、完全なる痛悔によって罪の赦を蒙る方法を教えたものらしく、行文もさらさらと平易流暢に書き流してある。切支丹は此書を『十七ヶ条』と誦え、その『第四ヵ条のコンチリサンのオラショ』だけは知らざるものなしで、何か事でも起ると、直にこの祈を誦えるのであった。何う云う関係があったものか、この書の伝わって居たのはバスチアンの暦の遺っていただけで、生月島の如きは色々の立派な祈禱を保存していたにも拘らず、暦もなければ、この書も見当らなかった。」
 信徒は、書物を届け出るのみならず、祖先から隠して伝えたコンタスの珠の五つ六つ残ったのや、古びた聖絵、メダイ(メダル)、十字架やらをも出して見せた。その中には銀製の立派な十字架、鉄製で「この人を見よ」と記し、キリストが十字架に磔けられ、足もとに聖母マリアと聖ヨハネの跪いているのを打ち出したメダルもあった。民衆は、これらの聖絵、聖像を平生は深く櫃の底に隠して人に見せないで、「春の中(四旬節)」になると、取出して膳か盆の上に安置して、恭々しくこれを額に押し頂いて拝んだものであった。
 プティジャン司教も、聖堂を出て隠れキリシタンを時々、島々に見舞うことにした。やはり浦上村は近いし、そこから始めた。見張りの役人は会堂に人が集まるのを看視しているが、公然と説教をしない限り、寛大に見ているだけに様子が変化して来た。だから、山道を越え、森の中に隠れている老人たちを、こちらから見舞ってやっても、別に取り立てて問題とはならなかった。長崎奉行は、代替わりで新しい人が赴任して来て居た。プティジャン司教は、奉行が監督する日本人語学校でフランス語の教鞭を取っていたので、それに相当する尊敬を受けた。司教がフランスから取り寄せた教科書は、カトリックの教えの色が強いのが悦ばれなかったが、前の奉行の代から用いられたものだし、江戸に問い合わせて何分の沙汰をすると告げたまま、捨てて置かれた。日本人の宣教師も、浦上を中心に養成された。
 幕府の方針に従って、どの村でも寺が村民の戸籍を管理し、切支丹でない証明をして来た。その支配に服従しないと、入牢や迫害の血の川が流れることもあり得るのだから、村民たちも抵抗しないでおとなしかった。人が死ぬと埋葬も仏式で行われた。
 幕府の勢力衰弱に由って、雪解の時が来ていたことから、楽観した隠れ切支丹の者は、行き過ぎた挙動を表面に示した。天主堂が出来たので、自分たちの背後から信仰を守護してくれるように思い込み易かった。彼等は、死者が出ると、慣例で寺から僧侶が来て経を上げて野辺送りするのを、切支丹の信仰に背くものと考えるようになり、浦上で、聖徳寺の本堂の修繕費を募った時には、切支丹の信者たちは集って拒絶を申合せた。
 四月五日、本原の茂吉という男が死ぬと、親類の者が夜分に天主堂を訪ねて、死者の埋葬をこれまでどおり、仏僧の手に依って執行してよいものかどうか、司教達の意見を求めた。正直に彼等はこれを疑問としている。自分たちが信じてもいない仏教の儀式で、切支丹の死者を送ってよいものか?
 宣教師の側の返事も明らかであった。生き残った者たちが、迷信の儀礼で死者を送るのは確かに教えに背くことである。以後、死人があったら庄屋に届け出るだけで、寺とは関係なく葬儀を行うべきだ。しかし、村の仏教の寺は、幕府の指令に従って、檀家を看視し、切支丹でないことの証明に当っているので、寺の手を経て死者を埋葬するのは、切支丹撲滅策の一つとして守られている。これを無視し、庄屋に死亡を届けるだけで、寺の方へ何も知らせずに葬儀を行う訳には行かない。坊さまを呼ぶには呼んでも、何もしないで帰って貰うようにしよう。聖徳寺から来た僧は、途中使いの者が意地悪く困らせるようなことを繰返したので、怒って途中から引き返してしまった。もちろん、庄屋に訴えて出た。
 そこで四月十日先ず乙名は死者の兄弟を呼びつけて、きびしく詰問し、死体を掘り出して改めて仏式で葬式を行わしめるぞと嚇した。仏僧も来て、貧困なものは布施なしに埋葬してやるとまで言出した。兄弟の者は当惑して何も答えず、そのまま引下がった。次には庄屋から呼出しがあった。今度の事件は容易ならぬ問題である。自分もほとほと困却した。これは、やはり奉行所に申出なければならぬ、そうなると厄介なことになるが、どうだ、何とか考え直してはくれぬか。
「それがまだ落着せぬ中に、四月十六日、またぞろ本原郷は平の三八の母タカという婦人が死亡した。今度は庄屋が気転を利かせて、自分の方から招待状を書いて、聖徳寺の仏僧を呼んだ。
 けれども死者の親戚が承知しない。庄屋は十年前の教難を物語り、再び斯様な事が無いとも限らぬ、篤と思案せよと色々賺(すか)したり、威嚇したり、噛んで含めるように言って聞かせた。然し信徒は義務の前には、『教難何ぞ恐れるに足らんや。首は差出しても教会の規定を守る』と云う腰前になって微動だもしない。『然らば総代を十名出せ』と庄屋が言い出したから、翌十七日各郷の信徒が打寄って相談を為し、総代十名を庄屋に遣わして、『我々は日本国民として、飽くまでお上に忠勤を励み、役人の御命令に服従するが、唯、仏僧とは、是から一切関係を断ちます』と申出た。
 その日は聖水曜日であった。浦上信徒は翌木曜日の朝、天主堂で聖油の祝別式があると聞込んで、夕方百名ばかりもどやどやと司祭館に押掛けて行った。物騒な今の場合であるから、司教は大事を取って、重立った伝道師だけを招待したのであったが、祝祭の噂は早くも全村に行き渡り、何としても彼らを引止めることは出来なかった。信徒は大抵、その晩告白を為し、夜半に静々と聖道に入り、門を固く締め切り、深い沈黙の中に、司教のミサ聖祭を拝聴した。今にも戦場に跳り出ようとして居る彼等は、眼前に行われる聖式の意味が判ったのであろうか。然り、彼等は大抵早堅振(コンヒルマサン)の秘蹟を授かり、司祭と国王とを祝聖し、殉教者を強める為の聖油を塗られて居たので、その聖式の意味が判らぬ筈はなかった。
 日の出前に、信徒は少数ずつ分れて聖堂を出た。虎次郎とその父久五郎だけが居残って、前々日、中野郷や馬場や平野宿やの総代が庄屋に申出た一件を報告した。」
 庄屋は、困り切っている。そこで言った。
「今の坊さんが嫌いならば、ほかの坊さんを頼むよう願出てはどうか?すぐに取代えてやるから」
 しかし、総代たちは答えた。
「私どもは、坊さんならば、どんなひとにも来て欲しくないのです」
 彼等は、庄屋の苦境を知らぬのではない。自分達の為にお役を取上げられるようなことがあったら、将来の保証は自分たちでするとまで言出した。
 その真実さに庄屋の方が負けて、「では坊さんを要らぬと言う者は、名前を書き出せ。御奉行様に取次ぐから」と言渡した。すると浦上では、家野郷でも中野郷でも各戸が競って宗門寺と関係を断絶する旨の署名を出した。家野で百戸あまり、中野で二百戸、里郷、本原郷では、四百戸に及ぶ勢いであった。
 その時、庄屋に出した口上書は、本原郷から提出したのが代表的だから「浦上切支丹史」から紹介して置く。

 卯(慶応三年)三月十四日(陽暦四月十八日)浦上村本原郷の者共、同村庄屋に申立て候次第
 私共儀先祖より申伝えの儀これあり、天主教の外には何宗にても後世の助けに相成らず候えども、御大法の儀に付き、是までは余儀なく旦那寺聖徳寺の引導を受け来り候えども、是は全く役目までにて、誠に上の空にて引導引受け来り候ところ、当今外国人居留地へ礼拝堂建立に相成り、フランス教化の様子承り候ところ、先祖伝来の趣と符合仕り候につき、別して信仰仕り候。尤も未だ当分の事につき、極意の儀は相弁え申さず候えども、人間にはアリマ(アニマ)と申す魂これあり、死後は極楽とも申すべき有難き所へ生れ替り候ものの由、和尚(宣教師)申諭し候につき、頻りに信仰仕り、旦那寺は浄土宗に拘らず何宗にても、アリマの助かり候教えに御座なく候間、終に御大法相背き候段は如何とも恐入り候えども、宗門一条に付ては、如何様の厳科に処せられ候とも、是非に及ばず候間、向後天主教を持し、旦那寺引導に及ばず、私に取立いたし候よう仰付けられ度き旨、申出で候。
 この節、三八の母タカ病死につき埋葬致し候儀は、旦那寺の引導を請わざるまでにて、外に相変り候儀はこれなく、尤も天主教に於ても極意に至り候わば、右様の事もこれ無き由に候えども。この者共に於ては未だ伝習仕らず、一体宗門に至り候ては、生前の内にその身その身の行を改め、善行の功徳を以て、善所に生れ替り候教えにつき、葬式の節に臨み、別段執法等もこれなく、猶、香花は手向け候ともアリマの助かり候儀にてこれ無く候えども、この節は先ず相用い申し候。又、年季弔等いたし候えども、是はその分限次第に取賄い、強いて僧を呼び、経文読誦、並に酒食等の供養の儀を専一と致さざる教えにこれあり候。

 文字のない農夫の中に在って、この上書を起草したのは、もと唐通事の書記を勤めていて現在村で手習い師匠をしていた貞方良輔だったと言われる。貞方良輔は、信徒の女を妻に貰い、大浦の司祭館にも出入りし、教書を写本したり、浦上に隠れて印刷出版の仕事をしていたが、後に蝶者の仕事もしていたことが判明した人物、阿部慎藏である。
 しかし、寺を拒絶したことから浦上の信徒は、行くところまで行った。司教等が、ひそかに恐れて警戒していたところであった。果して、その内、或る朝早く死んだタカの倅の三八は、司教館に来て、プティジャン司教に話した。
「私と義理の兄と、二人、御代官から呼出し状を受けました。どう成ることでしょうか?牢に入れられるかも知れません。それは構わないのです。庄屋はこの機会に郷から総代を立てて葬式を寺に頼まず自分たちでやる許可を御代官に願い出ろと申してくれます。郷の人々は、挙って一緒にやってくれると申します。」
 来るものが来た感があった。危険の及ぶ深度がわからない不安がある。この村方に起った小事件が遂に国際的な外交問題となって、明治の新政府を狼狽させたのである。」大仏次郎『天皇の世紀 九 武士の城』朝日新聞社、普及版2006.pp.184-

 ぼくの考えとしては、宗教の機能は、人としてこの世に生まれ最後は一人で死んでいく存在としての人間が、生きている人々の中でいかに命の価値を感じ、生まれる前の世界から死んだ後の世界まで、ひとつの安らかな心で繋がっていくか、という問いにリアルな答えを与えることにある。その答えはひとつではなく、教えはさまざまに受取られ、解釈され、変形されて、その教えの違いが争いを招くのだが、そのような宗教は文化を生み、また宗教が文化に埋め込まれて発展する。ユダヤ=キリスト教、その一神教から出たイスラム教、バラモン教から出た仏教、現世の倫理を言語化する儒教など、民族や国家を超えた世界宗教は、大航海と植民地化がすすむ16世紀以降の世界で、とくにカソリックの中から出て来た異民族への布教の運動が、侵略や軋轢をもたらすと同時に、人間というもののあり方に、それまでにない覚醒と確信をもたらしたのかもしれない。とくに日本人の場合を考えると、16世紀後半から17世紀前半のキリスト教の浸透とその弾圧が、文字も読めない農民にどういう形で保持されたのか、はキリスト教の問題だけではなく、実にこれに直面した日本人の鏡として興味深い。大佛次郎もそこに拘ったのだと思う。
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