gooブログはじめました!

写真付きで日々の思考の記録をつれづれなるままに書き綴るブログを開始いたします。読む人がいてもいなくても、それなりに書くぞ

「未完のレーニン」を読む 1 デビュー作の誉  没落した日本 

2024-01-08 13:27:10 | 日記
A.「処女作」というのは死語かな?
 自分が書いた本をはじめて世に公表するのは、作家であれ研究者であれ、不安と緊張のともなった経験である。「処女作」という言い方は、穢れのない「処女」なるものが尊ばれた旧時代のもので、いまは「デビュー作」と言ったほうが無難だろうが、学問研究を志して大学院で指導を受けて研鑽を積み、最初に評価を受けるのが修士論文である。博士の学位論文ならともかく、修士論文がそのまま書物として公刊されるのは、かなり優秀で恵まれたデビューといっていい。
 この『未完のレーニン 〈力〉の思想を読む』(講談社選書メチエ、2007年。講談社学術文庫版2021年)という本は、『永続敗戦論―戦後日本の核心』(2013年)や『国体論―菊と星条旗』(2018年)などで広く論壇で注目をあびることになる政治学者、白井聡氏の修士論文がもととなるデビュー作である。ぼくは2010年ごろにこれを読んで、1977年生まれという若い研究者が、あえてレーニンを論じたこの本を、へええ…今頃レーニンを本格的に論じようとする挑戦的意欲を、不思議とすら思った。でも、マルクス主義とか社会主義革命とかといった言葉が、現実に言論空間で意味をもっていた時代を知っているぼくたちの世代に比べ、「東側」世界が消滅した後で、レーニンの言葉を現代の視線からきちんと読んでみるという態度には、研究者としての確固たるスタンスが感じられて好感をもった。
 その後の白井氏の活躍は、目覚ましいものがあるのだが、改めて『未完のレーニン』のキモを読んでみたい。

「レーニンの同時代人たるマックス・ウェーバーが、近代国家のメルクマールをまさに「ある一定の領域内部で (中略) の正統な物理的暴力行使の独占」に求めたのは、まことに慧眼であった。トマス・ホッブズがもっとも先駆的に描いてみせたように、近代国家の際立った特徴はそれが暴力を排他的・独占的に占有することにあり、このような性質を持つ国家の出現は資本主義(=労働力の商品化)を基盤とする市民社会の成立に相即している。
 近代国家における暴力の集中のプロセスは、世界中のどの地域でも一様にまったく同形に進行したのではもちろんない。例えばフランス史では、大革命の後およそ一世紀近くにわたって、幾度もの動乱と君主制の一時的復活という揺り戻しが目撃される。あるいは日本史では、近世における資本主義の発達と暴力の相対的局所化を度外視すれば、このプロセスはブルジョア革命と一応みなすことのできる明治維新から士族反乱の終結を示す西南戦争までの期間において典型的に見出されるだろう。
 こうして見ると、各地域・国家によって過程はそれぞれ大いに異なるかのように思われる。しかし各地域・国家において、時により共和主義的な傾向が突出しようとも、各過程を貫いている一般的な傾向は基本的に同一である。すなわち、そこに見てとられるべきもっとも本質的なものは、暴力の国家への一元的集中、国家暴力以外の暴力の非正統化、国家権力そのものの脱人格化(=公権力化)、国家の法治国家化、そして他方での資本主義の著しい発展である。
 このように、近代国家においては私的な暴力は公的暴力に置き換えられ、国家の一括管理下に置かれるがゆえに、図0は表面化しない図0と呼ばれねばならない。この図0の潜在性から図1は生まれる。言いかえれば、図1は図0の抑圧の結果して生じるのである。後述するように、図1が図2として必ずしも表象されないのはおの図0に対する原初的な抑圧による。
 こうして近代国家の顕著な特徴のひとつは暴力が公的権力にのみ属することである。だが、ここで疑問が湧くのは、C1はC2を抑圧するためにあざわざ媒介(=国家)を用いるのはそもそもなぜなのかということであるあぜ、自ら意のままに直接的にはC1はC2を抑圧しないのか。この事態をレーニンはつぎのように表現する。

 そういう組織[引用者註:住民の自主的に行動する武装組織]があり得ないのは、文明社会が、敵対する階級に、しかも和解の余地なく敵対する階級に分裂していて、これらの階級が武装し「自主的に行動する」ならば、これらの階級の間での武装闘争がもたらされたはずだからである。国家が形成され、特殊な力、武装した人間の特殊な部隊が創出される。

この一節はまさに、図0に表される社会状態の存在が国家の生成に対して論理的には先行しているにもかかわらず、それが抑圧されることによって国家権力=公的暴力が生成するという論理をとらえている。ここで語られていることは、C1とC2の直接的な武装闘争は国家の創出によって回避される。あるいは逆に言えば、武装闘争を回避するために国家が創出されるということだ。C1がもし圧倒的な力の優位を持つのならば、自らの力でC2を抑え込んでおくことも不可能ではないだろう。しかし、そういった事態はありえず、C1とC2の間での直接的な武装闘争は避けられており、その反面として暴力は全面的に国家に独占されている。
この現象がなぜ生じるかということは、階級関係の再生産を考慮しなければ十分には理解できない。そもそも図0の対立において、C1はC2を徹底的に攻撃することはできない。なぜなら、C1が搾取者たりえるのは被搾取者C2が存在するかぎりにおいてなのであって、C1がC2を滅ぼしてしまった場合には元も子もないからである。だから、階級間の抑圧は図0の状態を再生産できるような仕方で、すなわち抑圧に手心を加えるような仕方でおこなわれる。ここに「生かさず殺さず」という支配の鉄則が生じるわけだが、この原理自体は近代資本制主義誕生以降の時代に特有のものではなく、太古からある超歴史的なものだ。
これに対して、近代資本制に基づく社会の特質とは、図0における階級抑圧と階級関係の再生産を、図0の状態をそのまま再生産することによっては継続できなくなったところにある。その理由は,端的に言えば、C1とC2の対立が、近代資本制における階級対立においては和解不可能なものになったことに求められるだろう。というのも、先述したように、「労働力の商品化」以降においては、労働力に対する支配は人格的支配ではなく、賃金奴隷ではあってもあくまで身分的な奴隷ではない商品である労働力は「等価交換」される。つまり経済原理からすれば、労働力商品はあくまで「公正」に扱われている。しかし、マルクスが「剰余価値」の概念によって明るみに出したことは、この「公正」な「等価交換」の真只中において搾取が行なわれているということであった。つまり、「公正」なものがそのまま「不正」である。言ってみれば「きれいは汚い、汚いはきれい」という事態にほかならなかった。したがって。近代資本主義的な生産関係に基づく社会においては、プロレタリア階級としてのC2は、「不正」なものを「公正」なものとして受け取らざるをえなくなる以上、C2にとっては社会それ自体が全体として一個の巨大な「不正」として現れることになる。ゆえに、その「公正」な「不正」の源泉であるC1との和解は、C2にとっていっさい不可能になる。」白井聡『未完のレーニン 〈力〉の思想を読む』講談社学術文庫版2021年、pp.158-162.

 文中のC1とC2というのは、レーニン『国家と革命』における階級関係の基本構造を、白井氏が図式化したもので、C1は抑圧階級、C2は被抑圧階級を示している。つまり、20世紀初めの資本主義社会の状況では、C1はブルジョア階級であり、C2はプロレタリア階級ということになる。ロシア十月革命の時点では、C1とC2との間に妥協も取引もありえず、階級対立は和解不可能なものとして〈力〉による闘争によってしか先に進まないというのが、レーニンの立場になる。


B.2024年から始まるなにか?
 寺島実郎氏の論考は、岩波『世界』に長く連載されている「脳力のレッスン」をはじめ、折に触れて読んできたが、これからの世界とそのなかの日本の未来について、近代の歴史を踏まえてそれなりに堅実に予測しているとおもう。年頭にあたり、以下のような文章が朝日新聞に載っていた。言っていることはいつものごとくだけれど、日本という国がこの30年でみるみる低迷没落の坂を転げているのに、政界や財界の中枢にある人たちが、まずその現実をきちんと見ようとせず、相変わらず対米依存と経済成長路線以外の選択肢をもっていないことへの嘆きと、オルタナティヴの模索が感じられた。

「沈み続ける経済や政治 日本再生への国家構想を  寺島実郎さん〔抜粋〕
――2024年は歴史の中でどう位置づけられるのでしょうか。
 「この国が置かれている状況を歴史の中で考えてみましょう。明治維新から1945年の終戦までは77年でした。これは終戦から現在までとほぼ同じ長さです。そして77年後は22世紀最初の年です。これからの77年を『未来圏』の21世紀と捉えた国家構想が、いま求められていると思います」
 「経済を考えると、日本の国内総生産(GDP)が世界に占める比率は、明治が始まった頃と敗戦から5年後が、ともに3%程度でした。敗戦を『物量で負けた』と認識し、鉄鋼、電機、自動車などの輸出産業を育てた日本は、94年には世界のGDPの18%を占めました。しかし、それをピークに低迷し、30年後の今年は、3%台にまで落ち込むとみられています」
――明治初頭、敗戦後と同じレベルになりつつあるのですね。
 「そうです。94年には日本を除くアジアのGDPの合計は世界のわずか5%でしたが、いまは25%を超え、日本の6倍以上です。日本は1人あたりGDPでもアジアで5位、世界で34位です。この現実を、どれだけの人が正視しているでしょうか」
 「松下幸之助氏が唱えた『PHP(繁栄を通じて平和と幸福を)』に象徴されるように、何よりも豊かさを追求したのが戦後日本でした。世界2位の経済大国という自尊心が、2010年にGDPで中国に抜かれたことで砕かれ、このことが日本人の精神に及ぼした影響は計りしれません」
 「政権奪還のため、安倍晋三氏が掲げた『日本を、取り戻す』というキャッチフレーズは複雑な意味をもつものでしたが、中国に抜かれたショックが通奏低音として響いているように見えました。昨年、日本のGDPはさらにドイツにも抜かれ、26年にはインドに抜かれると予測されています。今こそ日本のポテンシャルが試される時ですが、この国の現状を直視して、危ういものを感じています」
――危うさ。ですか。
 「現実に正対して技術を磨き、生産性を高め、産業基盤を強化するのではなく、あるいは経済を越えた価値を創造しようというのでもなく、やすきに流れ、見た目をよくしたいという心理に傾きました。為替を円安に振れさせて輸出のハードルを下げ、金融を異次元緩和して経済を水ぶくれさせる『アベノミクス』という調整インフレ政策に対して、経済界も国民も暗黙の支持を与えてしまいました。本質的な問題から目を背けているように感じます」
――日本経済が抱えている、本質的な問題とは何でしょうか。
 「個別の要素技術、部材・部品の優秀性に自己満足し、力を合わせ要素を統合してプロジェクトを完結する総合エンジニアリング力が欠如していることです。それには全体知に立つ構想力と指導力が不可欠です」
 「技術を誇っていたはずなのに国産中型ジェット旅客機開発から撤退し、新型コロナのワクチンは3年以上作れませんでした。日本の産業は『安ければ外国から買った方が効率的だ』という国際分業論に立ち、外貨を稼ぐ輸出産業で豊かさを求めてきました。その結末が現下の超円安であり、輸入インフレによる物価高と財政規律の喪失です。これからは国民の安全・安定のため、レジリエンス(耐久力)を重視する産業構造に作り替える必要があります。『食と農』『医療・防災』、そして支える人材を育てる『教育・文化』が重要産業になると思います」
――例えばどんな未来像が考えられますか。
 「日本の食糧自給率は極端に低い。特に大都市圏の状況は深刻です。こうした地域で増える高齢者も巻き込みながら、『生産・加工・流通・調理』という食のバリューチェーンに都市住民を参画させ、産業として育てていく。また全国の『道の駅』を防災拠点とし、高付加価値のコンテナ群を配置するのもいいでしょう。移動可能な大型コンテナには太陽光発電やトイレ、食料の備蓄、避難所などの機能を盛り込むのです」
 「日本人の知がこの国の将来を決すると考えれば、教育やメディアを含めた文化も大切です」
――日本の課題は、経済分野に限らないということですね。
 「政治とカネの問題が噴出して、政治の自堕落さが指摘され、政治改革が叫ばれていますが、政党助成金や小選挙区比例代表並列性を生んだ政治改革関連4法が成立したのは、日本の経済力がピークだった1994年です。今、経済人に政治改革を推進するエネルギーが存在しているか疑問です」
――日本をとりまく国際的な環境はどうなっていくでしょうか。
 「明治時代、世界は帝国主義の『力こそ正義』の時代でした。日本はそこに遅れた植民地主義帝国として参入し、最終的に失敗します。戦後の世界は国連が成立し、経済でもブレトンウッズ体制にみられる国際協調を基本とする時代になりました。そうした世界秩序も転換期を迎えそうです」
 「ウクライナやガザの暴力を前に国連の安全保障理事会が機能不全に陥っていることからも分かる通り、大国による世界秩序の維持は限界を示しています」
 「帝国の衰退と平行して、昨年重要なキーワードになった『グローバルサウス』が台頭し、世界は極構造ではとらえきれない全員参加型の秩序に向かっています。真のグローバル化というべき局面かもしれません」
――その未知の局面で、日本が進むべき進路とは。
 「日本は、20世紀初頭から今日までの約120年のうち、90年以上を『日英同盟』と『日米同盟』というアングロサクソンとの二国間同盟で生きてきた国です。間の30年は迷走し、戦争と破滅に突き進みました。米国自身が『国際主義』から『自国利害中心主義』へと変質する中で、日本は同盟外交を軸としながらも、多次元外交へと進み出さざるをえません」
 「冷戦後、日本はただ米国流のグローバリズムに合わせることに埋没し、自前の国家構想を見失ってきました。グローバルな全員参加の秩序の中で、耐久力の強い産業基盤を築き、非核平和と民主主義に徹した理念性の高い国家として存在感を高めるべきです」」朝日新聞2024年1月6日朝刊11面オピニオン欄。

 これを読んでいて、英国に行ってしまった経済学者・森嶋通夫さんの言っていたことを思い出した。この先日本が世界で意味のある存在であり続けるためには、中国や朝鮮半島と連携して東アジアに安定した秩序を作ることを、政治経済の課題とすること、それをせずに今後も盲目的に対米依存するならば、21世紀に日本は没落必死だということ。事態はそのとおりになってきていると思う。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
«  明治維新の読み直し 後編 ... | トップ | 「未完のレーニン」を読む ... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

日記」カテゴリの最新記事