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 明治四年の洋行使節団 4 条約改正  説明しない… 

2020-11-14 17:01:54 | 日記
A.塩湖城での旧い最後のお正月
 1858(安政五)年、徳川幕府は日米通商条約を結び、続いてイギリス、フランス、ロシアなど西洋各国との条約を結んで鎖国が解かれた。これは日本が19世紀なかばの世界にむけて、「近代化」の一歩を踏み出した事件だが、それが異国への恐怖からたちまち国内に激しい「攘夷」の嵐を呼び起こし、幕府の決定を朝廷の許可のない独断だと非難する「尊王」運動を湧きかえらせて、幕末の騒乱から倒幕・明治維新になっていったことは、歴史の教科書に書いてある通りである。だが、この開国条約は、西洋諸国との関係を対等のものとして規定していない。アメリカ領事ハリスの要求の下で、幕府老中たちは英語・漢文・日本語を交えながら、先に結んだ和親条約の延長で、とりあえず従来の長崎に加え横浜や函館(やがて神戸も)に外国船と外国人居留を認めるため、実際的な手続きを取り決めれば足りると考えていた頭を切り替えなければと気づいた。不平等な規定のある条約を改正するには、日本国内を国際法が通用する文明化された社会に整えなければならない。侍がむやみに刀を振り回すような国では、到底一人前の国家とは認められない。国際関係について知識や経験に乏しかった日本は、急いで洋学西洋語の知識をもつ人材を求め、幕府は西洋に留学生を送って世界情勢を把握しようとした。
 しかし、多くの日本人、全国各藩の武士や上層農商人たちの知識水準は、西洋先進国の実力も世界情勢にもほとんど無知だったから、幕府の開国政策への転換はむちゃくちゃな暴挙だと思われた。やがてやってきた外国人と幕府の役人が結託して私利をむさぼる悪事を招いている、京都のミカドは西洋異人を恐れて攘夷を命じるように見えた。各地に湧きあがる「尊王攘夷」運動家が幕府批判を強めると、井伊大老が「安政の大獄」で大弾圧を始める。尊攘激派はテロに走る。このへんから事態はどんどん流動化し、国政の決定は江戸から京都に移動し、外国船打払いの天皇の命令を長州藩と薩摩藩は実行して、下関と鹿児島で砲撃戦争をする。戦争をしてみて、皮肉なことに長州と薩摩は真っ先に、攘夷など不可能なことを悟って路線を転換する。
 やがて長州と薩摩が中心になって幕府を倒し明治新政府ができると、西洋列強諸国に正統な政府と認められるために何をすべきか、政府の最大の課題は、廃藩置県を成し遂げた日本を、「国際標準」つまり「万国公法」を遵守して「文明国」に合致させることで、不平等条約を改正することにあった。そのための外交第一歩が明治四年末に出発した「岩倉使節団」だった。

 「前にもふれたが、この「事由書」は、条約改正御用掛参議大隈のもとで、外務省の条約改正掛田辺太一らが、改正掛の意見を基本にフルベッキの「ブリーフ・スケッチ」を参酌して書かれたものとみられている。たしかに、「ブリーフ・スケッチ」の挙げている要綱と「事由書」の大綱とは共通するところが多い。前者は条約改正の問題にはふれていないが、大綱のうちもっともちがう点は、「ブリーフ・スケッチ」が宗教、つまりキリスト教の解禁問題に言及し、わざわざ「宗教的寛容についての覚書き」を付していることだろう。
 だが、この「事由書」のなかには、「ブリーフ・スケッチ」には感じることのできない、国家的使命への熱気がみちあふれている。そこに両者の決定的相違を私はみる。
 この国家的使命を達成することが市場の課題だという目的意識があったからこそ、廃藩置県後間もない、統一国家整備のもっとも重大な時期に、政府の首脳が大挙して国外に出向くという、一見暴挙とも思われる措置に出たのである。
 たしかに、明治四年のはじめ、財政・経済制度調査のために当時滞米中の大蔵少輔伊藤博文が、条約改正問題で使節の派遣を本国政府あてに提示したことや、木戸や大久保が、以前から洋行を希望していたことは事実である。そしてまた、この時期に、彼らがこぞって外国へ出かけることへの反対論が強かったことも否定できない。しかし、あえて政府がこの挙にふみきったのは、列国と肩を並べる基礎を固める国内の変革と条約の改正交渉とが不可分であり、条約改定期限を機に攻勢に出るであろう列国に対して先手をうつ必要があり、そのための使節団の派遣が緊急かつ当面の必要不可欠の課題であると考えたからにほかならない。
 そしてまた、大使岩倉のもとに、政府中の最大の実力者木戸、大久保が副使として参加しているのは、すでにみた派閥対抗とからんでこの時点における外政主導の重要さと実力者の欧米体験、先進国家の見聞とが、近代国家構築にいかに重要な意味をもつかを物語っている。さらにいえば、そのためにこそ薩長の実力者たちは大隈使節団構想を排除して岩倉を大使とし、みずからが副使となる新たな岩倉使節団プランを積極的に推進した、といえるであろう。
 かくして、明治四年十一月四日、神祇省で遣外国使祭が行なわれ、終わって、岩倉大使ほか四副使、理事官、書記官はうち揃って参朝し、天皇から勅語を賜った。そして六日、三条実美邸で送別の宴が開かれた。
 この時の三条の送別の辞は、岩倉使節団の目的と使命をうたいあげている。いわく―― 
 
 外国ノ交際ハ国ノ安危ニ関シ、使節ノ能否ハ国ノ栄辱ニ係ル。今ヤ大政維新、海外各国ト並立ヲ図ル時ニ方(あた)リ、使命ヲ絶域万里ニ奉ズ。外交・内治、前途ノ大業其成其否、実ニ此挙ニ在リ。豈(あに)大任ニアラズヤ。大使天然ノ英資ヲ抱キ、中興ノ元勲タリ。所属諸卿皆国家ノ柱石、而(しこうし)テ所率ノ官員、亦(また)是(これ)一時の俊秀、各欽(きん)旨(し)ヲ奉ジ、同心協力、以テ其職ヲ尽ス。我其(われその)必ズ奏功ノ遠カラザルヲ知ル。行ケヤ海ニ火輪ヲ転ジ、陸ニ汽車ヲ輾(めぐ)ラシ、万里馳駆、英名ヲ四方ニ宣揚シ、無恙(つつがなき)帰朝ヲ祈ル。

 そこには、近代日本の出発点に当たって、その命運を一身に担う岩倉使節団への期待と願望が格調高くこめられていたのである。」田中 彰「岩倉使節団『米欧回覧実記』」岩波同時代ライブラリー、1994.pp.42-44.

 フルベッキの「ブリーフ・スケッチ」には、日本がキリスト教禁止をやめることが重要な提案になっていた。しかしこの時点では、キリスト禁教は続いていて、日本にやってきた外国人のための教会建設や宣教師の渡来は認めても、日本人への布教は禁じていた。しかし、幕末の長崎で隠れキリシタンが、新たにできた天主堂に現れて、信仰が表に出てきたとき、当局はこれを捕えて刑に処した。西洋各国はこれを強く非難し、キリスト教の解禁をしなければ日本をまともな「文明国」とはみなせないと考えた。この宗教問題も、「尊王攘夷」以来の神道的祭政一致・王政復古を唱える新政府のなかの保守派との関係で、キリスト教布教を認めることへの警戒心は強かった。しかし、「岩倉使節団」は、キリスト教をベースとする西洋諸国が、長い歴史のなかで政教分離、信仰の自由を制度化し、宗教と政治とは一線を画している事実を見て、日本がどういう方向へ舵を切るかのヒントを得たのではないか。

 「『特命全権大使米欧回覧実記』
 これは岩倉大使随行として一行と行動をともにした久米邦武(丈一、当時は権少外史)が太政官少書記官として編修し、「太政官記録掛刊行」として、御用出版社である東京銀座四丁目の博聞社から明治十一年(1878)出版されたものである。全百巻、五冊(第一編~第五編)、2110ページにおよぶ洋装本で、当時としてはなかなかスマートな本であった。それはこれからの引用でもわかるように片仮名まじりの文語体の名文で叙述されている。
 久米は佐賀藩出身で、藩校講道館に学び(この時、大隈重信を知り、終生の交友となる)、のちに藩主鍋島直正(閑叟)の側近となった。その久米が岩倉に随行したのは、旧藩主閑叟が生前岩倉に彼の人物を推挙していたからだとされている。「蓋し、洋西の文明を我が邦に紹介するは故閑叟老公の宿意なりしを以て、先生は資格の高卑を意とせずして大使に随行す」と「文学博士易堂先生小伝」(易堂は久米の号)はいう。使節団出発時の久米は数え年三十三歳。『回覧実記』が刊行された時は四十歳である。『回覧実記』は、のちの歴史学者久米の処女作だったのである。『回覧実記』の出た翌明治十二年(1879)、久米は修史館の一員となる。この修史館がのちに帝国大学へ移管されて、彼は文科大学の教授となった(明治二十一年)。久米は漢学出身ではあったが、洋学が盛んだった佐賀藩の雰囲気や岩倉使節団に加わっての米欧視察でえた経験もあって、水戸学派の過度に道徳主義的な方法や神秘的な解釈は排斥した。古代史にたいする彼の「神は人なり」という見解や、「太平記は史学に益なし」という議論もそのあらわれにほかならないが、なかでも『史学会雑誌』(明治二十四年)に発表された「神道は祭天の古俗」という論文はその歴史観を端的に示していた。これが翌年、田口卯吉の主宰していた『史海』に転載され、俄然問題となった。神道は宗教ではなく、東洋の祭天の古俗のひとつにすぎない、というこの論文は、国体に対する不敬の言辞として、神道家・国学者らが攻撃の火の手を挙げたからである。政府もこれに応じ、彼はついに大学から追放された。
 この筆禍事件は、久米の人生のエポックをなしたとみてよいが、この事件の背後にあった久米の啓蒙主義的合理主義は、彼の米欧体験および『回覧実記』を編修した姿勢と決して無関係ではあるまい。
 だが、その後の後半生、久米は年とともに西欧文明への批判者となっていったようだ。
 久米の『回顧録』に収載されている「文学博士易堂先生小伝」によると、その前半生は「欧風の礼讃者」だったが、後半生はうって変わり、「欧米人は情慾強く利に執着し、之が為に条理を枉げ、而も横道に無理を附会して真理を粧ふ邪気ありとせらる」という。こうした見解の一端は『回覧実記』の人種論(本書197-8頁)にもすでにみられる。
 晩年の久米は、箱根で夏を過ごす折、その上空にひんぴんと飛来する飛行機をみて、それを「無用の長物」とし、さらに「否、汽車も、自動車も、恐らくは汽船も、西洋の文明は究極行き詰るべし」といった、といわれている。
「家庭における先生は、放任主義なるも、又学者風の矛盾多し」とする右の「小伝」は、嗣子桂一郎(のち洋画家)に対して、学問は自発によるという主義から小学校を了えたのみで独学自修せしめ、「先生自ら進んで仏国留学を許し、而して其の業成りて帰朝せらるゝや、「彼は半西洋人なり」とて、父子居を別にせり」と述べているのである。大正六年(1919)、久米が七十九歳の時、大隈重信が仲に入ってようやく父子を同居させた。久米の個性的としかいいようのない性格をうかがわせるに十分なエピソードである。
 『回覧実記』の出た明治十一年(1878)の暮は、西南戦争が終わって一年、すでに木戸孝允は西南戦争中に病没し、大久保利通もまたこの年の五月に暗殺されていた。そして、明治政府のいわゆる三新法体制に応じて、自由民権運動の波がようやくその輪を広げようとしはじめていた。さきの「小伝」は、米欧から帰朝後、征韓論の分裂や藩閥の軋轢、あるいは佐賀の乱等の変転きわまりない政情と対照的な久米の生活を、「先生は政界の怒涛を避けて太政官内文書の堆中に隠れ、田園生活を創始して退官帰農の余地を作り、官位競争の場外に超然とし。家居には紳商等と談に耽り、傍、維新後廃れたる能楽の振興に務めらる」と述べている。『回覧実記』はまさにこの間の著述だったのである。」田中 彰「岩倉使節団『米欧回覧実記』」岩波同時代ライブラリー、1994.pp.46-50. 
 儒教漢学で育った若い知的な日本人が、西洋を実際に目で見て体験し、「神道は祭天の古俗」と見たのは、歴史家として当然でもあろう。近代化された社会で宗教がどのような機能を果たし、社会の精神的価値を支えるかについても久米なりの思想的判断があったはずだ。新政府のなかで当初、神祇官が推し進めようとした神仏分離・廃仏毀釈の政策が、いかに見当違いの妄想にすぎなかったか、彼はわかっていた。しかし、それを主張すれば、大学を追われるくらいに「故俗」は生き残っていた。そして、若い時に西洋文明に触れて熱い近代化論者になっていた人たちも、多くは年を取ると伝統保守派になっていくという日本知識人の常道を、久米邦武も踏んでいったのかな。

 「前年の11月に横浜を出帆した岩倉使節団一行は、アメリカ大陸のまっただ中、ロッキー山脈を鉄道で越える途中のソルトレーク市で、明治五年の正月元旦を迎えた。同市のホテル、タウンゼントハウスで新年宴会が開かれた。岩倉の迎春の歌二首。
  異国(とつくに)もなべて和らぐ色みえて  わが大御代の春は来にけり
  白妙(しろたえ)に雪ふり積るアメリカの  みやまをかけて越る年かな
 ただしこれは、この時の日本の暦による正月元旦であって、アメリカではもうとっくに新年になっていた。
 使節一行が太平洋の船中にいた11月21日が太陽暦の1872年1月1日で、日本の明治元年1月1日は太陽暦では2月8日なのだった。使節たちは、猶、この年いっぱい暦のズレに悩まされる。
 ワシントンに着いたのは日本歴の1月21日だった。岩倉は衣冠帯剣でグラント大統領に謁見する。そこまではよかったが、目的の一つだった条約改正の話を国務長官フィッシュにもちかけると、先方は天皇の全権委任状を持ってきたかと問う。そんあものは用意してなかったので大いに困り、大久保利通、伊藤博文の両副使が日本まで取りに帰るという騒ぎとなった。
 その両人がワシントンに戻ったのは、6月17日だった。大変な時間のロスである。しかも条約交渉は最恵国条項が面倒でうかつに手をつけない方がいいということになったのだから、まったくしまらないことおびただしい。
 ボストンからリヴァプールへと大西洋を10日間で渡り、ロンドンに着くのは7月14日である。なにはさておいてもヴィクトリア女王への謁見を願ったのだが、女王はスコットランドへ避暑に出かけていて留守、この一行は、あくまでツイていない。しかも女王の姉の死去というハプニングが重なったために、実際に会えたときは、なんと11月になっていたのである。
 しかし待っている間に、見学だけは十分にした。当時はイギリスが世界一の工業国だった。ちょうど駐日英国公使のパークスが帰国中で、なにかと面倒を見てくれた。ただし工業は技術水準が違いすぎて、すぐに取りいれるのはむつかしいものが多かった。
 次の訪問国はフランスである。フランスは英仏戦争とパリコミューンで革命で痛めつけられた直後で、パリの町は銃弾も生々しいときであった。
 政権はティエールを大統領とする第三共和政で、大統領も岩倉と同じくらいの小男であったから、二人が並んだところはなかなかの奇観だった。
 このフランスに滞在中の2月2日で明治五年は消え失せ、翌日は明治六年の1月1日となる。留守政府が改暦を通告してきたのである。」川崎庸之・原田伴彦・奈良本辰也・小西四郎監修『読める年表 日本史』自由国民社1996.p.827.
 モルモン教の町、ユタ州ソルトレークシティで正月を祝った岩倉使節団の日本人は、太陰暦という時間観念を一気に太陽暦に変更するという本国政府の決定を、旅先で知った。これも、明治初めの大変革期ならではの事だ。


B.学術会議問題
 菅新政権が順調に発足し、世論もこれを大歓迎してコロナ禍に荒れた今年が終わるはずが、どうもそうはいかない雰囲気が出てきた。まずは「学術会議」問題である。たぶん首相は、これがこんな騒ぎになるとは思っていなかっただろう。安倍政権の時から、学術会議というよりも、安保法など政府の政策を批判する人文・社会科学系の研究者・学者は「反日左翼」の一翼だと、頭から敵視していて、こんな連中を政府が金を出す学術会議のメンバーにはしない、と考えていたようだ。はっきりそう言って正直に説明するか(さらに紛糾するだろうが覚悟はわかる)、任命拒否は一種の手抜かりによる失敗だと認めて撤回するか、どっちかにすればいいのに、理由は一切説明せずに「大局的・俯瞰的」に判断したので、「説明は控えさせていただく」だけで切り抜けようとしている。新政権というけれど、安倍政権と何も変わっていないもやもやが強まる。

 「改革を評価し、批判を忌避する「空気」 :山腰修三のメディア私評(慶大教授:ジャーナリズム論)
 日本学術会議が推薦した学者の一部が、菅義偉首相によって任命を拒否されたことが紛糾している。その背景や問題点についてはすでに各方面で詳細に説明、分析されている。そこでここでは、この問題を取り巻く「空気」について考えてみたい。
 言うまでもなく、この問題にアカデミズムが反発する理由は、究極的には学問や研究に政治が介入することへの懸念である。あるいはこれを足がかりに介入が一層進展するという懸念からの反発、との説明がより正確だろう。
 こうしたアカデミズムの懸念は荒唐無稽とは言えない。今日、世界でリベラリズムが後退しているとされる。EU加盟国のハンガリーでは近年、学問の自由が政治介入によって大きく損なわれている。民主主義を支えるリベラルな価値や文化は容易に後退することを私たちは改めて学びつつある。
 リベラルなものの後退はポスト真実の進展と密接に関わっている。権威主義的な政治への自発的服従、こうした潮流を批判するアカデミズムヤジャーナリズムへの冷笑や敵意は、たとえフェイクであっても信じたいものを信じる、という態度と相性が良い。
 今回も各種のファクトチェックが示す通り、学術会議やアカデミズムを攻撃するフェイク情報がばらまかれた。フジテレビの上席解説委員までもが、番組での発言で学術会議に関するフェイク情報の拡散に加担したのは衝撃的ですらある。世界で進むリベラルなものの後退とポスト真実の波は、日本にもしっかりと浸透し、根づいている。
 気になるのは世間の「空気」である。10月の朝日新聞の世論調査では、首相の説明が不十分だと考える人が63%に達する一方、首相が任命しなかったことは「妥当だ」という回答は31%で、「妥当ではない」36%とあまり差がなかった。直近の読売新聞の調査では学術会議を行政改革の対象とすることに対して「評価」が70%に達する。「税金を投入するに値するのか」「既得権益を打破しなければならない」といった「改革」のレトリックの前では、「学問の自由が大切だ」「フェイクの氾濫は問題だ」「民主主義の危機である」という主張は必ずしも社会の圧倒的多数の支持を得られるわけではない様子がうかがえる。
 まさにこの点にこそ、学術会議の問題を現政権の強権性や権威主義的傾向にのみ還元してはならない理由がある。問題はこの種のレトリックを違和感なく受け入れる空気にもあるのだ。
 この空気は長い時間をかけて形成された。アカデミズムに関しては、たとえば民主党政権で行われた事業仕分けでのスパコンの研究開発をめぐる「2位では駄目か」という主張が想起される。この空気はさかのぼれば、郵政解散選挙、「失われた10年」、さらに1980年代の国鉄民営化まで行きつく。「既得権益の打破」という新自由主義的「改革」の空気こそ、過去と現在の政治を一貫してつなぐ糸なのだ。
 もう一つ気になる「空気」は、政府の決定を批判することへの忌避感だ。10月29日のNHK「おはよう日本」で「若者が見る政治」の特集があった。学生らは学費値下げ、LGBTQなどの性的少数者、気候変動といったテーマは好むが、学術会議など政府の方針と対立する争点は避けようとする。「政治的に中立でいたいから」だ。
 ここで言う「中立」とは、政府への批判を避ける、という意味である。それは、学術会議問題をめぐる野党の合同ヒアリングを「官僚へのパワハラ」と見なす空気であり、党の官僚がいざ「改革」の対象となり、バッシングされる時には「中立でいたい」がゆえに沈黙する、という種のものである。
 一連の二つの「空気」が支配的であるならば、アカデミズムやジャーナリズムに対し、政府の進める「改革」をチェックし批判する役割など、そもそも期待しないということになる。
 ポスト真実が突如としてこうした「空気」を作ったのではない。作ってきたのは一部の政治家だけでもない。アカデミズムもジャーナリズムも、そして市民も、空気づくりに何らかの形で関わってきた。今回の問題が象徴するリベラルなものの後退は、その帰結に他ならない。私たちはまず、それを認識することから始める必要がある。
 もっとも、最近は新自由主義に対する批判がアカデミズムや論壇を超えて政治の世界やジャーナリズムでも強まりつつある。首相の掲げる「自助・共助・公序」への異論は国会論戦、あるいは新聞社説でも見られた。
 しかし、こうした取り組みが社会の空気そのものを作りかえるまでに至るかは分からない。今の空気の形成に要した時間を考えると、その道のりが長く険しいことをアカデミズムもジャーナリズムも覚悟しなければならない。」朝日新聞2020年11月13日朝刊13面オピニオン欄。

 たしかに、若い学生たちと話すと、いわゆるリベラル、もっと露骨にいえば「反日サヨク」の言説に対する忌避感、そういう話はちょっと…興味ないっす、という「空気」は強そうに見える。それが、この10年「安倍的なもの」として蔓延してしまった。もはや政治的な「中立」という言葉は、リベラル左翼への嫌悪排除と同義として使われる。さて、こんな時代を後世の歴史家はどう書くのだろうか?それはやがてこの先に来る事態からしか判定できないが、この国にとって決定的な悲劇でないことを祈る。
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