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世界から見た日本と東洋の美 5 四天王像  狭隘な関心領域

2024-07-06 16:24:14 | 日記
A.クラシシスム美術・白鳳時代
 複数の人物や神々を称える言葉として、二人なら龍虎、阿吽、双璧、飛車角など、三人なら三大○○、四人だと四天王などと称される。この四天王とは仏教に由来し、密教的曼荼羅世界では、神仏には序列がある。中心に大日如来を置いて、その周りに悟りを開いて世界の真理を体現する「如来」がいて、さらにその外を修業を究める「菩薩」が取り巻き、これに従ってさまざまな務めを果たす「明王」、そしてこの神仏を守る役割の「天」が配置される。明王や天は、インド古代の神々を取り込んだものともいわれる。四天王はその「天」のうち四つの守護神を意味する。
 飛鳥時代と天平時代とに挟まれる文化史上の白鳳時代とは、大化元(645)年から和銅三(710)年の平城京遷都までの時期を指す。中国先進文化の摂取、とくに律令制と仏教の積極的な採り入れが、大和を中心に清新な息吹をもっていた時代といえよう。その代表的な彫刻として、ここで中村英道氏がとりあげているのが、当麻寺の『四天王像』である。これは中心に座す「弥勒如来」を囲んで、東方に持国天、南方に増長天、西方に広目天、北方に多聞天を配する。これが四天王は、帝釈天に仕え、八部衆を支配する。四天王は、甲冑をまとった武将の姿で表され、足下に邪鬼を踏まえて本尊を四方から囲んでいる。本尊である如来や菩薩の像は決まった型の形式性を踏襲するので、彫刻作品としての面白味はないが、四天王像はそれぞれ特異な形象と造形的工夫があって、美術品としての価値が高いという。田中氏の「様式論」では、古代ギリシャの《高貴なる単純と静かなる偉大》を特徴とするクラシシスムの、日本における代表例ということになる。

「世界の美術史上、もっとも豊かな彫刻美術を生みだした時期のひとつと考えられる、日本の七世紀末から八世紀の彫刻を述べるにあたって、芸術のひとつの根本的な問題を論じる必要がある。それは作家の問題である。ギリシャ時代では、フェイディアスやポリリュクレイトスの名があげられる。近代ではいわゆる「ルネッサンス」の彫刻家ドナテルロ、ミケランジェロなどは有名だ。
 しかし日本の奈良彫刻の場合、ほとんどその作家の名は現れていない。法隆寺、東大寺、興福寺の傑作たちのタイトルにも、作者名が付記されていない。山口大口費(やまぐちのおおぐちのあたい)や将軍万福(まんぷく)などの名前が知られているにもかかわらずである。この理由として、天平時代においては造仏所の共同作業であり、分業が行われたので、彫刻作品に作者個人の特色を捉えることは不可能である、もともと一つの作品猪、特定の一人の作者を考えること自体が、すでに出来ないのである(毛利久「天平彫刻をつくった人びと」「原色日本の美術」第三巻、174ページ)と述べられている。
 しかし私たちが興福寺の『十大弟子』や『八部衆』、東大寺ミュージアム『日光・月光』像や新薬師寺の『十二神将』などに、それぞれ一貫した個性を感じることは疑いを容れない。そして同じ個性をもった双児のような天才たちがいるならともかく、一貫したその顔、その表情、その眼、その動作の、これほど生き生きとした表情に何人もの手が加わったと考えるのは、あまりに芸術創造の本質を軽視しているように思われるのである。もし助手たちが参加していても、それは装飾的な部分でしかない、と感じられる。

 現代の美術では、作者の個性が重視されるが、天平時代にはそのような個性というものはあまりみとめられず、より大きく、包括的な全体性が重んじられた。そこに、天平時代と現代における芸術観のちがいがあるといえよう。現存する天平彫刻をみると、上記のように、作者の個性的特徴はほとんどみいだしにくいのだが、そのかわりにあるグループの作品をつうじて、そこに一貫した様式のみとめられるものがある(同上)。

 このような見方は、名前が知られていないことに対する言い訳のような気がするし、また個人を重視しようとしない、日本人の通弊のようにも感じられる。しかし根本的には一つのすぐれた表現は、たとえ同じ工房の人でも決して同じようには作りえないのは常識であって、それが「古代」や「中世」であっても変わることではない。
 ゴシックで名高いフランスのシャルトル大聖堂の彫刻、アミアン大聖堂彫刻も、そこに現在、作者が知られなくても、一人の彫刻家の一貫した表現が認められるとき、それを想定しなければならないのである。イタリアでいえば名高いジョットがアッシジ、パドヴァで制作をした作者で、ひとつの画風を示していれば、そこに彼の名が出現するのである。もし画風が違えばジョットと違う画家がいた都市、グループが行った場合は、そこに何人の手が入ったかを区別する。そのことが美術史家の任務のはずである。
 グループの作品が「一冠した様式」を示す、というのもあまりにも大雑把な言葉の使い方である。「包括的な全体性」という言葉も、個々の作品創造に用いるのは困難なことだ。もし法隆寺金堂、東大寺の法華堂や戒壇堂、あるいは興福寺の十大弟子の像が、少なくともその顔や動作といった中心部分に表現の一貫性があるとすれば、それはまさしく「個性」であって、一人の仏師を想定せざるをえない。これは「現代における芸術観」とは無関係のことである。「原始」時代のアルタミラの洞窟の絵であっても、ひとつの野牛表現したのは一人の作家であるからだ。ただ、この場合は名前を調べることなど不可能であるし、その必要もないだけのことである。
 奈良時代にはプロフェッショナルな仏師が多数存在しているのは知られている。一つの作品にその名が結びつけられる資料が見出されないにしても、作品にある作家を想定する作業は必要なことである。さもなければ「気韻生動」「骨法用筆」といた絵画と同等な「芸術」評価の用語が、仏像に対して存在しえないことになってしまう。それはあくまで「個性」の修業に基づく表現であるからだ。人間は「古代」「中世」であろうと「個人」はすべて異なることは言うまでもないことである、
 この時代の『万葉集』のひとつひとつの歌に個性が感じられ、作家の名があげられて研究されているのに比して、美術史家のこの虫に近い態度は疑問を感じさせる。
 私のこれからの作品検討の基本は、時代のすぐれた作品を選別しながら、その作家に着目することである。むろん今の段階では知られている資料の上でしかその名を云々することができないが、無名の場合は「‥‥の仏師」と、その作品の名を取って特定すべきであろうと考える。
 日本の「美術史」において多分仏像に対して感じる超人間性が、その作家という人間を忘れさせているのであろう。しかしそれだけのものを造り出した人物に対する敬愛がなければ、「美術史」は存在しない。いつのまにか宗教駅な超越性が「美術史」に入りこみ、それが「普遍」的な美術作品とその作家を見る眼を曇らせているようだ。私はキリスト教徒でも、仏教徒でもないが故に、人間の生き生きとした「形象」表現にのみ直目するのである。またつけ加えれば、どの彫像においても寺社の中の宗教的重要性とは無関係に見直されねばならない。大寺院の本尊であろうとなかろうと、その作品が「気韻生動」を感じさせる場合は、同じ評価を受けなければならない。それが脇仏であっても同じである。
 まぜ七世紀アルカイスム彫刻から奈良時代にいたる過渡期について述べてみよう。それはふつう「白鳳時代」と呼ばれるが、そこにおけるすぐれた作品に当麻寺の『四天王像』がある。
 当麻寺は681年(天武天皇十年)より、686年(同十五年)にかけて創建されたものであるが、この『四天王像』もその頃制作されたとされている。『弥勒如来像』を囲んで立っており、後補の多聞天をのぞく三体は当時のものである。むろん下半身や光背、持物など後のものであるとしても、その顔立ち動作など、この時期では出色の出来を示している。それは法隆寺金堂の『四天王像』より活発な動きを示しており、より写実的な表現を示している。
 もともと「四天王」は仏教以前からインドに存在し、経典にとらわれぬ自由な姿をさせることが可能であったから、こうして武装した姿をして怒りを示し、感情表現という、人物像の芸術表現として重要な条件を満たすことになったのであろう。弥勒仏を守る武将として、周囲を威嚇する役割をもっているが故に、また須弥山下の四方四州を守る御法神として知性も必要としたために、単なる怒れる武人の姿ではないものになった。このイコノグラフィーは、『四天王像』に傑作が多いだけに重要である。
 後代や大陸の作品にはただ怒っているだけ、という単純な像が多いが、ここでは過多な感情表現は抑えられて、自ら支配する内面性が感じられる。とくに『広目天』は右手に筆、左手に経典を持っており、他の像が武具を持っているのと違い、その知性によってその力を示しているかが経典には示されていない。しかしこの筆と経巻を持っている姿の創出こそ、この『四天王像』の組合せを知性溢れるものにしている。
 短い顎髭をつけたその緊張した顔の目と眉毛、鼻と口の肉付けも的確で、胸のリボンも写実的な彫りである。形式化していない彫りの見事さは、私たちを惹きつけてやまない。これほどの統一された表現力は、決して複数の人物の共同作業の手法ではない。むろん彩色や付属品は工房の手になるものだろうが、一人の「造仏師」の一貫した創造と見なければならないはずである。
 さてこの「造仏師」とは誰であったのだろう。その名を知られていないが、これほどの技量の持ち主であれば、当麻寺だけではなく他の寺院の彫刻をも手がけたに違いない。私見では天平時代に入って『法隆寺五重塔塑像群』などにもかかわったと考えられる大家のひとりと思われる。というのも『八部衆・五部浄』や『摩睺羅迦』に、同じ傾向の表現力を持った像を見ることが出来るし、『増長天』や『持国天』の口を開けた表情は、すでに釈尊の涅槃の光景を前にした慟哭する十大弟子の顔を予想させるようである。しかしまだこの段階では表現が固く、『五重塔塑像群』ほど自由さをもっていない。仮に「当麻寺の仏師」と呼んでおこう。
 この当麻寺の塑像の『弥勒如来像』についていえば、周囲の『四天王像』に比べると形式的ですぐれたものといい難い。これは如来像や菩薩像といった寺院の中心になる像は、自由な表現を抑制せざるをえない面があるのであろう。確かにおおらかな肉体の量感はあるが、例えば顔の表現でも眉毛の表現に自然さを欠いていると言わざるをえない。この点でいえば興福寺の『旧東金堂本尊』も同じであり、自立した芸術作品の表現力を持っているとはいい難いのである。
 この仏頭は、もと丈六の薬師如来坐像であったもので、1411年(応永十八年)の災害によってこのような頭部だけになったことは知られている。本尊の台座に収められていたが、1937年に発見され、一躍「若々しい生命感を持つ」白鳳時代の代表作となったといわれる。しかしその評価には頷けぬものがある。鋳造技術でも決してよい出来ではないことは指摘されているが、それだけではなくその鼻筋の形式性や眉の不自然さは、その過剰な評価を裏切るものである。確かにこの時代の如来像として希少性はあるが。そこに人像自身の性格表現が見られない。確かに如来自身は悟りを開いた覚者であり、すでに超人間的存在であるが故に、人間的な表現はとらぬ、という説明がされるであろう。しかし如来は「如」(真理)によって派生したもので、あくまで人間の「如」なのである。人間の姿をしている限り、そこに人間のある性格を表現するものでなければならない。これがギリシャ美術の「アポロ」像であろうと、西洋美術の「キリスト」像であろうと同じである。「神的」で「超人間的」な存在であるとはいえ、彼らのなかに人間的な性格が表現されることによって、我々にも訴えるものをもっているのだから。
 白鳳時代には小金銅仏がたくさん作られ、その微笑みを感じさせる口元に、この時代の明るさを見てとる史家もいる。685年(天武天皇十四年)の「諸国の家ごとに仏舎を造り、仏像・経典を安置せよ」という勅令が、小さな仏像を数多く造らせたことによるもので、法隆寺の『橘夫人厨子阿弥陀三尊像』はそのなかでよく知られているものである。銅製の三つの蓮の花の上に阿弥陀、観音、勢至の三尊仏がのっている。背後の三面開きの後屏には蓮華の上の五人の夫人や、天蓋を見る化仏七体が配されている。その鋳造技術の巧みさは、その中尊の微笑みとともに、この国宝の名を高からしめている。しかしその工芸的技術の見事さと、芸術性とを混同してはならない。その顔の表現は深みに欠けるし、素朴な人物表現以上のものではない。
 これは、深大寺の『釈迦如来』や法隆寺の『夢違観音像』、また鶴林寺の「観音菩薩立像」などおおらかな表情が明るい時代の反映と捉えられ、まだ「アルカイスム」の表現にあたっていて、芸術の前段階の作品として捉えるべきであるのと共通する。一方で当麻寺の『四天王像』のように、釈迦以外の像で、複雑な人物表現に到達しているのに比べると、この「アルカイスム」は、未だ人間表現に踏み切れぬ段階で、超越的なものを微笑というある「形式」でしかあらわすことが出来ない、と取るべきであろう。この点ではギリシャ時代の「アルカイスム」と共通するものをもっている。」田中英道『日本美術全史 世界から見た名作の系譜』講談社学術文庫、2012年、pp.88-98. 

 そういえば、昔高校の日本史の授業だったか、白鳳時代の文化に「アルカイック・スマイル」という言葉や、「エンタシス」などのギリシャ的概念が、法隆寺などの建築や仏像に現れていると聞いて、なんだか不思議な気がしたことを憶えている。でも、「アルカイスム」にしろ「クラシシスム」にしろ、古代ギリシャ文化がそのまま七世紀の日本に伝わったとはいえないわけで、そうした概念の安易な適用には注意が要る、ということは田中氏も指摘する。


B.職務の中身を考えない誠実と凡庸
 先月から日本でも公開上映中のジョナサン・グレイザー監督の映画、『関心領域』Zone of Interestは、平凡なホームドラマのように広い家で快適に暮らす中流家族を描いている。しかし、それはアウシュビッツ収容所に隣接した所長の家なのだ。ナチス将校である所長のヘスの関心は、どうやったら彼の‶仕事″を効率よく進められるかにあり、彼の妻や子供たちは広い庭と大きな家で日々を楽しく暮らすことだけがすべてである。隣の塀の中で日々殺されているユダヤ人や同性愛者やロマなどの姿は映像から消されている。ある意味恐ろしい映画なのだが、職務をまじめに果たしていると信じる人間に、死者への想像力も人権への思考力も絶えている。

「アイヒマンはナチス・ドイツの親衛隊将校。虐殺するユダヤ人を欧州各地から移送する担当者だった。戦後、アルゼンチンに潜伏したが、イスラエル特務機関に発見され、エルサレムでの裁判を経て処刑された▼裁判を傍聴して雑誌に発表したユダヤ人政治哲学者ハンナ・アーレントは、アイヒマンを怪物のような悪の権化ではなく、善悪の判別ができない凡庸な男と書いた。問うたのは「悪の陳腐さ」▼確かに、極悪人に見えぬ凡人が命じられるまま粛々と遂行したからこそ、悪事は一層恐ろしく見える▼無数の凡庸な官僚らが遂行に関わった人権侵害に対し判決が下った。最高裁大法廷は、障害者らに不妊手術を強いた旧優生保護法(1948~96年)を憲法違反と断じ、国の賠償責任を認めた▼旧法化で不妊手術を受けた人は約2万5千人という。旧厚生省は手術推進のためうそも許されると通知した。通知を書いた役人も「盲腸の手術」などとだました周囲も執刀した医師もみな、怪物ではない凡人だったのだろう。「優れた人」の遺伝子を残し「劣った人」のそれを淘汰するという優生思想のもと、不妊手術は正しいと信じこんでいた▼アーレントはアイヒマンについてこう書いた。「まったく思考していないこと、それが彼があの時代の最大の犯罪者の一人になる素因だったのだ」。現代の私たち一人一人への箴言とも読める。」東京新聞2024年7月5日朝刊1面「筆洗」。

 旧優生保護法による強引な不妊手術は、基本的人権を無視した間違いだったが、なぜそれを多くの人が疑わなかったのか?今思えば不思議というほどだが、その優生学的発想は、ナチス的というよりは、敗戦後の人口膨張による飢餓貧困への対処という説明が当然視され、そこに障害者差別が乗っていたことが大きいのだろうと思う。少子化に悩む現在とは正反対の状況だった。だから許されるとはもちろんいえない。
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