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33年前の日本は”左翼”の威張る経済大国だった?今は? 朝鮮戦争のこと

2018-07-30 17:30:31 | 日記
A.土俵のずらせ方
 江藤淳×蓮實重彦の東京駅ホテル対談の末尾で、さんざん他愛ない雑談のあげくこの本を売れる価値のあるものにするために、蓮實氏は巧妙に仕掛ける。江藤氏はまんまとそれに乗ってしゃべる。対話の真の妙味は、お互いの近い部分、共有する部分だけで話を合わせ、相手の好まない、あるいは違いの際立つ部分を押し隠して仲よくするのは三流のやり方である。わざとおだてながら相手の弱みを突いて、自分の土俵に引き込み論破してどや!というのは二流のやり方。一流は、そんな野暮なことはしない。相手の喜ぶ話題で共感を引き出しておいて、いつのまにか土俵をずらしていき、それを最後まで気付かせずにちゃんと互いの違いの意味を際立たせる。さすが。

「蓮實 非常に不思議だと思いますのは、われわれ憲法なんてもの認めないわけですよね、原理として。
江藤 そうです。その通りです。
蓮實 憲法なんていうのは認めない。ただし具体的なさまざまな文脈に従ってそれを利用してもかまわない。しかし、憲法に規制されて生きているわけではない。
江藤 その通りです。
蓮實 法というのはもっともっとでたらめなものだし、第一、法がどのようにできあがるかというのを考えてみれば、それに対してもっとでたらめに、臨機応変に対応しなければいけない。これは憲法以前のわれわれの生きかたの、原理といってもいいですね。ですから憲法賛成、憲法反対ということ自体の、改憲しなければいけない、改憲してはいけない、という議論の不毛性みたいなものですね。これは現場の人は十分わかっているはずだと思ったんですが、実はそうでない。いざというときには本気で憲法持ち出すためにあるんですね。
江藤 そのようですね。
蓮實 問題はむしろそこのことなんで、もし憲法そのものがほんとうに生活に密着したものなら、憲法そのものによってわれわれの生活がすでに律しられているならば、憲法は日々変わっていかなければいけないだろうという感じです。ですから官僚が、それをユーモアで言ったのならわかるのですけれども、ほんとはそうじゃないというところが、政治家を含めて全員が、おそらく全体主義化しているんじゃないかという感じがいたしますね。
江藤 ええ、わたしもそう思いますね。ほんとにそう思います。おそらく正確にいえば、その官僚が金科玉条としているのは、憲法典の条項だと思うんですね。要するに成文化された、いわゆる憲法典です。憲法典なんてものに具体的な生活が拘束されるわけがないので、イギリスのように成文憲法がないところが、いちばん利口な政治をやっている国の一つと考えられていることを見ても、このことは一目瞭然だと思います。それにもかかわらず、いつのころからか、本気に大真面目でそれを信じる“頭の不自由な人”が増えている。これはさっきの主義者、ないしは“左翼”が増えているということと同じだと思うんですね。たいへん非人間的なことだと思います。
蓮實 で、それはまず、憲法を問題にしたときに出てくる非常に非抽象的な命題だと思うんですね。ですから生活の場でそれをいちいちくつがえしていかなければいけないということがあるわけですけれども、そのときに、江藤さんは一種のサーヴィスなさいますね。(笑)つまり遊んでない連中に対して、いくらなんでもその遊びは貧しいんじゃないの、あなたがたのやっているのは。これがたいへんな誤解を生むし、主義者的な反発を受ける。それを楽しんでいらっしゃる。(笑)という感じもするわけですね。
江藤 そこまで言われれば、なにをかいわんやだ。(笑)
蓮實 これは昨日もちょっと話題になったところですけれども、江藤さんはいま旧憲法はよかったというふうにとられる発言をなさいましたね。そうすると、本気で新憲法はいいという人たちが出てくるわけですね。これは旧憲法にしろ新憲法にしろ、われわれにとってほとんど関係のないことです。われわれに関係のある具体的な事象というのは確かに出てくるかもしれないけれども、日々の生活とは違うということがあるんですけれども、実にこの不毛な、新憲法主義者と、江藤さんが旧憲法主義者だというふうに思われ、確かに憲法読んでみると、どっちが面白いかという話はあると思うんです。それからどっちがよく書けているかとか、どちらが法律として完璧だとかいう議論は成り立つと思うんです。だけど、原理としてわれわれはそれを認めないんだと、生活の場においてはですね。これを公に話題にするとまず官僚はそういうことをしてはいけないということにもなるかもしれないし、われわれも国家公務員だからほんとうはいけないのかもしれないけれども、(笑)いくらなんでもその議論はないじゃないという、不毛な議論ですね。
江藤 そうですね。まァただなんというか、現行憲法のほうがいい文章だというような人が出てくると、やっぱりちょっとそれはおかしいぞと思うんですね。まァ旧憲法だってどうせ法律用語で書いてあって、別にたいして美しい文章じゃないけれども、(笑)いまのような変なやつよりは、まだあれは国語になっているじゃないか。
   〔中略〕
蓮實 その場合にね、ぼくですと、あるいはわれわれの世代というのか、世代的な問題かどうかわかりませんけれども、憲法の話はしないというですね、護憲とも改憲ともいわない、それがぼくのとっている態度なんですね。つまり「問題」にしない。江藤さんは、遊びとおっしゃったでしょう。ある点ではこれは議論可能なんだというふうに姿勢をとっていらっしゃいますね。たとえば純法律的にいってもこれはできる問題だろうし、それからしないと奇妙なことになってくる場合もあるし、というお考えをお持ちなのか、一応憲法のお話をご自分からなさるわけですね。その場合に、これは正直伺いたいなというと、非常にばかばかしいあれなんですけれども、憲法議論をなさることにやはりある種の意味をお認めになるのでしょうか。しないと困るというような‥‥‥。
江藤 それは今日、蓮實さんがサーヴィスしてくださって、(笑)この話題を出してくださったので、たいへん心強いと思っているのですが、わたくしは、憲法の議論をするのはおかしいからそんなの真平御免だという人たちが大勢いてもちっともかまわないんですね。それは健全なことだと思うんです。ただぼくの場合には、留学地がアメリカだったということがありますね。わたしが多少知っている外国といったらアメリカで、アメリカは過ぐる大戦の主たる敵国であり、現在でも日本の存立にいちばん大きな影響力を持っている国といわざるをえない。」江藤淳・蓮實重彦『オールド・ファッション 普通の会話 東京ステーション・ホテルにて』中央公論、1985.pp.222-226.

 当時江藤氏が主張していた憲法論は、交戦権の否認を書いた9条への批判、要するに交戦権こそ国家の必要条件であってそれを否認する憲法は、アメリカが日本を半国家として支配するものだと考えるわけで、当然9条改憲の立場になる。1985年の日本でそれをストレートに主張することはかなり少数派で、とくに文学・思想・学問の世界では異端視される保守派右翼とみられる状況だったと思う。それを踏まえて、蓮實氏は自分は憲法について議論はしない、といっておいて、どんどん江藤氏から憲法論を引っ張り出す。それは“左翼”への嘲りと嘆きを当然導く。

 「蓮實 でも、その場合どうなんですかね。八百屋さんでもいいんですけれども、江藤さんがそういうお仕事をなさるときに、もっと別のものを期待していらっしゃると思うんですよ。もっと別のものというのは、たとえば、一般化された“左翼”ですね、日本は。通産省の元官僚あたりまでが無意識に“左翼”的な言辞を弄する時代ですから。そのときにいちばん江藤さんが期待していらっしゃるのが、左翼のなかから、江藤さんのような商売をする人が出てきてほしいといっていらっしゃるんじゃないかと思います。つまりおれくらいのエネルギーを出してほしいと。おまえらは、まともな商売していないじゃないか。
江藤 それはある。真面目にやれ。プロならプロらしくやれ。
蓮實 ぼくはどちらかというと、文化的な形勢としてはたぶん左翼だと思うんです。
江藤 うん、なるほど。
蓮實 左翼だというのは、なにしろ東大仏文ですしね。(笑)ただし、いまいちばん情けないのは、左翼発言者たちの、まず礼儀のなさですね。さっきおっしゃったような意味で。それから主義に殉ずればいいのではないかと思っている程度の発言に対する責任のなさね、これは世界各国をみていくとアメリカでさえ左翼はもっと面白いですね。
江藤 そうです。アメリカの左翼、なかなか面白いです。
蓮實 アメリカでさえ左翼は面白い。フランスの左翼は堕落したにしても、日本の左翼よりはやっぱり面白い。“主義”を超えたでたらめな力を吸収する装置としていまだに機能している。そうした魅力を左翼が持とうともしない日本で、ひそかにぼくがめぐらしうる陰謀なのかと思うのですけれども、こうして江藤さんとお話する目的は、やはり「頑張れ左翼」ということ以外にないんじゃないか。だれもぼくを左翼とは思ってくれないし、ぼくも、いわゆる制度化された左翼というものに関しては涸渇した記号以上のイメージをもっていない。ぼくが左翼だなんていうと、老舗の“左翼”の方々は怒ったり笑ったりなさるでしょうけど、やっぱりしなやかな論客がいてくれないと困るわけです。残念ながら吉本さんは左翼じゃないんですね。すると、日本の将来は暗いんじゃないかと。
江藤 そうですね。その左翼はひげカッコなしの左翼という意味でおっしゃるのだと思いますけれども、吉本隆明さんは、もともとラジカルな人でしたが、そのラジカリズムがだいぶ希薄になってきたようですね。お年のせいか、健康のせいか知りませんけれどね。ぼくは左翼からひげカッコをとるものは真のラジカリズムだと思うんですよ。ぼくはラジカルなことが好きで、というか生来の体質なのかもしれないけれども、(笑)まァ制度というのはラジカルじゃない。非常に隠蔽性の高いものですから、制度化されたものは左翼でも右翼でも面白くないんですね。その行動や思考がどっちに傾いていようと、やっぱり人間が少しでも自由にものを考えようとするときには、現代の宿命でラジカルにならざるをえない。そのラジカリズムをどんな踊りにしてみせるかというのは、それぞれの芸でしょうけれども、ほんとうにぼくは、そういう意味でのラジカリズムを求めたいですね。そういうラジカリズムというものは柔軟なものです。運動性に富んでいるんです。まむしのようにピューっと飛ぶようなものでもあって、やはり礼儀や常識がないところに真のラジカリズムは育たないと思うのです。その上であるとき、礼儀も常識もかなぐり捨てる一瞬がある。それでなにかをし遂げるのです。そのためには、捨てるものの重さが、それが自分にとって、客観性があるかないかは別としていかに尊いものかということを知っていなきゃね、ラジカルになれっこないんでね。衝立に向かって怒鳴っているような形のラジカリズムなんてあるわけがない。だけど、そういっちゃなんだけれども、一度っきりの人生なんだから、もっと面白おかしくやったらいいんじゃないかと思うんですけれどもね、一般にはあまり面白おかしくないんですね。ぼくは大江君のことをきのうも言ったけれども、野上弥生子さんが亡くなって、新聞に書いているのを見たら、この人はほんとうになにが面白くて生きているんだろうと思った。なにが面白いんだろう。さぞつまらないだろう。ぼくは大江君という人を若いころよく知っていたけれど、こんなつまらないことを書く人じゃなかったですね。小説書いているときは、あんなもの書いているときよりは少しはましかもしれない。それだってね‥‥‥。文壇官僚みたいになっちゃって、平和と民主主義と基本的人権の。」江藤淳・蓮實重彦『オールド・ファッション 普通の会話 東京ステーション・ホテルにて』中央公論、1985.pp.232-235.

 もう勝負はあった、という感じである。結局江藤氏は、形骸化した戦後民主主義のピエロとして大江健三郎を持ち出して終る。蓮實氏が自分は左翼だとはっきり言っているのに、昨日からずっと親しみをもって対話してきたために、この作為に気がつかない。つまり、1985年には、もう昔の左翼も右翼も、改憲も護憲も、土俵がずれてしまったのに気がつかない。ポストモダン派は、この状況にテキストを読み替えれば新しい潮流が出てくると言っていた。蓮實氏を含めこの戦略は、左翼のリニューアルとして出てきたと思う。
 江藤淳は妻の喪失に耐えられず惜しくも死んでしまったけれど、現在の日本は85年当時と逆に、文化的な形勢も政治的状況も、官僚も政治家も学会でも“右翼”が威勢が良くて、改憲は目前まで来ている。「左翼頑張れ」ではもうオールド・ファッションで身動きが取れない。蓮實先生はしなやかに遊んでいるが、ラディカリズムをやるには40代の元気な人が出てこないと‥‥‥。



B.朝鮮戦争の功罪?誰にとっての・・が問題だ。
 米朝首脳会談で、トランプと金正恩は朝鮮戦争を終わらせるぞと言ったはずだが、ただ言っただけなのか、ほんとに終わらせるのか、まだわからない。戦争というのは、人がたくさん死んだり、街が壊れたり、悪いことばかりのようだが、「よい戦争」がある、という立場からは、戦争をしなければもっと悪いことが起きたという理屈だし、「わるい戦争」だという立場は、要するに負けてしまったからそう言うしかない、という理屈になる。でも、そんな後付け論ではなく、現実の戦争を見ると、戦争でかなり美味しい利益を得る者が必ずいて、不幸にも死んだり傷ついたり者はかわいそうな犠牲者で終ってしまう。朝鮮戦争の場合、誰が得して誰が損したかが問題だ。犠牲者はもちろん朝鮮半島の人々なのは間違いない。

 「耕論 朝鮮戦争と戦後日本:
南北と在日 家族も分断:作家 朴 慶南さん 
 朝鮮戦争が始まった1950年、私は生まれました。生年月日を書くと、戦争と家族のことをいつも思います。
 父は、日本の植民地支配下の朝鮮半島南部で生まれました。7歳の頃、日本に先に来ていた私の祖父を頼り、家族で来日しました。やがて父は鳥取で飛行場をつくる仕事に就き、朝鮮人のまとめ役になったそうです。
 日本では戦後も朝鮮人への厳しい差別があり、まともな仕事につけませんでした。父はアメを売って、日々の生活を何とかしのいでいました。
 朝鮮戦争の特需は、日本経済に大きな弾みとなりました。「金へん景気」と言われた頃です。父は、はかり一つでくず鉄屋を始めました。
 同じ民族が南北に分断され、血を流しました。父はそのことでいつも心を痛めていました。対立は、我が家にも影響を及ぼしています。家族、親戚は、南、北と日本に引き裂かれているのです。
 父方の祖父は59年、「帰国事業」で日本から北朝鮮に渡りました。祖父は、長男である父に一緒に行くよう求めました。私は9歳でした。父は家族を連れて行くことに不安を感じたのでしょう。日本に残りました。代わりに年の離れた父の弟が行きました。
 北朝鮮は、戦争で米軍の激しい空爆を受け、荒れ果てていました。父は毎月のように薬や粉ミルク、服などを段ボールに詰め、お金も送りました。弟から「もし兄さんが韓国籍を取れば、私たちはこの地で生きていけない」と言われ、朝鮮籍のままでした。このため父は長い間、故郷の韓国に行けませんでした。
 2000年6月、金大中大統領と金正日総書記の間で史上初の南北首脳会談が開かれました。父はテレビに釘付けでした。「南北に自由に行けるようになる」。そんな喜びもつかの間、現実は、そうたやすくはありませんでした。
 在日社会も韓国を支持する民団と北朝鮮を支持する総連という組織が、対立を深めました。家族や友人の間でそれぞれ別々の組織に属する人もいます。いつもけんかしているわけではなく、日常の付き合いが続いていることも珍しくありません。
 2月の平昌五輪では、南北の選手団が朝鮮半島をかたどった「統一旗」を掲げて行進しました。あの旗を見ると胸が熱くなります。そして4月の南北首脳会談、6月の米朝首脳会談。私は一日中、テレビを見ていました。
 朝鮮戦争は休戦のままです。昨年の今頃は米国の北朝鮮への攻撃が取りざたされました。まずは戦争を終わらせ、不安定な状況を解消して欲しいと思っています。
 父は7年前に亡くなり、遺灰をふるさとの川にまきました。自由に行けなかった南の地で、いま眠っています。 (聞き手・桜井泉)

 朝鮮半島は日本の隣国であるだけでなく、植民地支配の過去があり、日本にはいまも「在日」の人たちが多数いる。分断国家に家族親族友人のいる人たちは、そのことを常に忘れることはできないだろうが、大多数の日本人はそのことを知らないか、関心がないのは、困ったことだ。

「軽武装・経済重視」明確に:東京大学名誉教授 武田 晴人さん
 朝鮮戦争が戦後の日本経済に与えた最大の影響は、進む方向性を大きく絞り込んだこと。経済成長のために何をすべきかが明確になりました。
 戦後改革で国のかたちがある程度決まった後、市場経済に戻そうとしたのが1949年のドッジラインです。統制をやめ補助金を廃止しましたが、それは劇薬にすぎた。処方箋は間違っていなかったかもしれませんが、当時の日本には体力がなく、副作用でふらふらになってしまった。
 カンフル剤になったのが朝鮮戦争の特需です。敗戦後の日本は外貨不足に苦しみましたが、特需により一時的に解消されます。米軍の物資調達がドル払いだったからです。
 当時の日本人は、特需が一時的なものだということはわかっていました。外貨に余裕がある間に輸出を拡大しなければならない、貿易を介してしか経済発展はないというのが共通了解でした。
 朝鮮特需でブームに沸いたのは、小麦や砂糖、綿糸など軽工業や食品工業が主体でした。しかし、いずれアジア諸国でも軽工業が発展するだろうから、そこで競っても将来はない。他のアジア諸国がまだやっていない機械や金属などの産業を育て、産業構造を重化学工業化すべきだと当時の政策担当者は考えました。より高度な産業へのシフトが、50年代後半の産業政策、貿易政策の焦点になります。それが高度成長につながっていくわけです。
 ただ、実際の経済成長とはずれがありました。50年代後半から、日本の貿易依存度は低くなっていきます。政治家や官僚は貿易、貿易と騒いでいたけれど、現実には内需依存で日本経済は拡大したわけです。最初は設備投資が、後を追うように個人消費が伸びた。生産と雇用が拡大し、賃金も上がっていきました。
 朝鮮戦争によって、東アジアの地政学的なかたちが決まりました。日本が西側陣営に明確に属するようになったなかで、「軽武装・経済重視」を実現できたことは、朝鮮戦争のプラスの影響だったといえます。マイナスは、朝鮮半島と中国という大きな輸出市場を日本が失ってしまったことです。中国は、戦前の日本にとって輸出の3割近くを占める市場でした。それがなくなったことは、経済発展の制約になりました。
 朝鮮戦争がつくりだし、日本の高度成長を支えた条件は、70年代には消滅しました。入れ替わるように韓国、台湾、そして中国が急激に経済成長し、90年代以降には東アジアに巨大市場が出現します。全世界の目がこの地域に向くようになりました。
 遠くない将来、朝鮮戦争が終結すれば、経済面での世界地図の大きな変化に、政治がようやく追いついたことになります。 (聞き手 編集委員・小沢智史)

 日本にとって、とくに戦後の疲弊していた日本経済にとって朝鮮戦争は明らかにプラスに働いたというわけだ。そのことももう忘れている過去だが、日本人は朝鮮半島に足を向けては寝られない。

 自衛隊・沖縄 今に連なる: 中京大教授 佐道 明弘さん
 多くの日本人は、朝鮮戦争が戦後日本にどれだけインパクトを与えたのかを忘れがちです。政治や経済、社会に、はかりしれない大きな影響を与え続けました。あの戦争がなければ、日本はまったく違う国だったかもしれません。
 1950年6月25日に突然、戦争が起こらなければ、後に自衛隊の前身となる警察予備隊が同年8月にできることはあり得なかったでしょう。日本に駐留していた米軍を朝鮮半島に出動させたために、必要とされたからです。
 終戦直後から、再軍備に向けて、旧陸海軍のさまざまなグループが水面下で活動していましたが、日本政府にも国民にも、再軍備についての展望や広範な合意はありませんでした。世界的な戦争がすぐ近くで起きてしまったから、マッカーサーの指令で、国民的な議論は二の次のまま、つくられました。
 日本が独立を回復したサンフランシスコ講和条約と旧日米安保条約の締結も、朝鮮戦争がなければどうなっていたでしょう。日米交渉にもっと時間がかかり、独立がずっと後になった可能性があります。現在とは違う日米関係や対外関係になっていたかもしれません。こうした点からも、現在まで続く戦後日本のかたちがつくられたのは朝鮮戦争があったからだといっても過言ではないと思います。
 日米安保条約でアメリカが一番欲しかったのは、朝鮮半島に何かあったときに備えるために、この地域で自由に使える基地でした。1980年代末から90年代にかけて盛んに「冷戦が終わった」と言われましたが、それはヨーロッパのことで、アジアでは、朝鮮半島が典型ですが、冷戦の構図はそのままでした。
 朝鮮戦争ではイレギュラーな形で、歴史上例のない国連軍が編成され、日本国内の米軍基地にもまだ国連軍の旗が掲げられています。そのうち3カ所は沖縄の基地です。
 現在、日本の国土の0.6%に過ぎない沖縄県に、在日米軍専用施設の7割以上が集中していて、普遍間などその大多数を占めるのが海兵隊の基地です。海兵隊は50年代以降に反米軍基地運動が高揚したために本土から沖縄に移りました。今も沖縄に常駐している理由は、朝鮮半島有事の時に米国の要人を救出することが最大の任務だからと考えられています。朝鮮半島情勢は沖縄にも大きく影響しているのです。
 朝鮮半島の状態がどう変わるのか、まだ予断を許しません。しかし、日本は朝鮮半島やアジアの国々とどのような関係を築くのか、自らの安全をどのような防衛戦略で確保しようとするのか、しっかりと立ち止まって、国民的な議論をして考えるべき時でしょう。 (聞き手・池田信壹)」2018年7月28日朝刊、13面オピニオン欄。

 米朝韓が平和条約を結んで朝鮮戦争が終結し、北朝鮮が「普通の国」(核保有国の可能性を残すかもしれないが)になるとしたら、米軍駐留の意味は変わり、安倍首相が強調してきた「東アジアの安全保障環境の激変」が、これまでとは別の方向に変る。中国の軍事的拡大もあり、そう簡単にいくとも思えないが、少なくとも今までとは別の配置図を考えておく必要はあるだろうな。
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