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鈴木春信の美人・初期浮世絵のこと  国籍選択 

2017-11-12 14:21:17 | 日記
A.初期「浮世絵」・・鈴木春信の品のよさ
 江戸時代の木版画である「浮世絵」に、ぼくは小学5年生の頃、図書館にあった画集を見て強く惹かれた。何枚か模写した覚えがある。それは広重の「東海道五十三次」(保永堂版)のいくつか(「亀山」「吉田(豊橋)」「桑名」「蒲原」)で、画面に城が描かれているものを選んだと思う。線でなぞってみると広重の構図は非常にダイナミックでしかも落ち着いているのだった。広重から北斎、写楽、歌麿、清長など有名どころを見ていって、やっぱり広重がいいなあ、と思って「名所江戸百景」の小さい画集をなんとか手に入れたいと願ったが、小学生のこづかいでは購入できなかった。
 そんな頃、立教近くの古書店で、浮世絵の本を立ち読みしていたら、中に「春画」の本もあってこれは何だろうと見ていると書店主が来て「これは子どもの見るものじゃない!」と取り上げられた。確かに男女交合の姿態を描いているという点では、ポルノ写真と同じかもしれないが、局部にボカシや空白をつけたりしないで、表情も歓喜に溢れていたのが禁断の図画にしては美的だと思った記憶がある。写真と違って絵画は画家の視線や思想が画面そのものに表現されている。
大人になってから解ったのは、日本のポルノ映像やAVに支配的なのは、男の視点で女を征服し凌辱するという一方的な権力の表現で、そこに描かれる女性は受動的に裸にされ性的な従属を受け容れる存在である場合が多い。ほとんどワンパターンなこうした映像に比べて、浮世絵「春画」にはそうした視線はほとんど感じられない。絵の中で男女は愉しく睦み合っているだけで、性愛の世界では男女は対等であるように見える。春画を多く見て比較研究したわけではないから、例外もあるのかもしれないが、少なくとも「浮世絵」は美術品としての価値が高く、春画もその中に位置づけられるだろうと思った。
 「浮世絵」ができあがるには、15世紀以来の水墨画や花鳥画、障壁画や屏風絵などの伝統と、それを担った教養ある文人が先行するわけだが、「文人画」が描かなかったものが町人文化から出た浮世絵にはある。それは美人画であり風景画だった。女性のクローズアップは、それ以前の日本美術にほとんどなかったし、それが登場するのは鈴木春信からになる。

「性的人間の表現:「文人画」派の先駆で、「色道」の書とでもいうべき『ひとりね』を書いた柳沢淇園が「色」について次のようにいうとき、「文人画」の欠けていた部分をいみじくも言いあてていた。
 年わかくして色なければ、無骨にしてしとやかならず、老いて色なければ、慳貪にして邪見なり。世に色気といふは、専ら愛嬌のつやをかねいひて、あながちに婬欲のみにあらず、士として色なければ人なつかず、農として色なければ物育たず、工として色なければ巧みなく、商として色なければ人問はず、天地の間何ものか色なくしては一日も世に立ちがたかるべし。孟子にいはゆる大王色好むの弁おもふべし『雲萍雑志』)。

 色気が婬欲を意味するだけでなく、人間生活のあらゆる状態に対する潤滑油となり、活性化を意味するものとなるという認識は、自然を主題にした文人画に対し、人間を主題にした「浮世絵」の主題を肯定する。色とか恋が常に人間にとって必要なもので、その主題がまさに「浮世絵」であるということになるのである。その風景画にさえ文人画派のそれと異なる「色気」を持たせた。浮世とは遊蕩な世界のことばかりではなかったのである。
 たしかに「色気」の基本は性行為である。「浮世絵」画家たちは「春画」を描いたが、性そのものの表現を、人間の自然な行為として肯定するとともに、それを卑下したり、堕落したものとして扱いはしなかった。「春画」そのものは直截すぎて芸術の表現にはならないが、彼らの人間表現全体は、そうしたあ欲望はあっても、そのことで品位を失うような人間ではないことを表現し、世界の美術史上でも稀な性的人間表現となったといってよい。
 版画という表現手段はまず多数作られる複製美術である。これは安価な美術作品を要望する民衆が増えたからであるが、同時に版画がすぐれた表現になり得る可能性を秘めていたからである。デューラーやレンブラントのそれらが、白黒の線によっていたのに対し、「浮世絵」版画はそこに色彩が付け加えられ、絵画としての全体性を獲得し、単に伴奏芸術に止まらなかった。また画師・彫師・摺師の共同作業であるといっても、やはり画師の指導性が強く、画家が作者の位置を保っていると考えてよい。後代のものは別として、同じ画家の構図でありながら、彫師・摺師の違いによって異なる絵が存在することはないのである。
 たしかに版画という技術は大きな画面を作れないし(大判といっても縦三八—三九センチ、横二五—二六センチほどである)、その面的な表現により微妙な明暗のグラデーションを欠いてしまう。私は「浮世絵」の女性には真正面から描かれた顔がないことに注目した。線によってしか凹凸が表現できないからなのであろう。しかし逆に油彩画などの表現には存在しない単純化、抽象化した表現を作り出している。これに影響を受けた西洋の「印象派」絵画が版画を使用せず、油彩画で展開したのは「浮世絵」がすでにその総合性をもっていたからである。
 「浮世絵」の先駆者といわれる菱川師宣(?-1694)ではまだ絵巻物の版画化を行なったといってよいが、『ついたてのかげ』(一六七五年頃)のように、単なる物語の挿絵から抜け出して、独立したものになる先駆けになった。次の鳥居派はいわゆる芝居の看板絵かきであったが、清倍(生没年不詳)は「丹絵」(丹と黄色を使う)で新分野を切り開き、『市川団十郎の竹抜き五郎』(1697年〈元禄十年〉頃)のように画面いっぱいに竹を抜く役者の姿を描いた。懐月堂派は遊女の美人画を描いたが、その筆の太い流麗な線が特徴的である。「紅絵」の画家には奥村正信(1686-1764または68)がおり、巧みな線を用い、紅の色で浮世絵の自立性を高めた。特に『湯上がり美人と鶏』(1750年〈寛延三年〉頃)は鶏も妬くほどの「色気」を風呂上がりの肉体に描いている。とくに奥村は蘇州版画などをもとにして、遠近法をつかった『芝居狂言舞台顔見世大浮絵』のような舞台の光景図を描き、すでに西洋の遠近法を理解していることを示した。これは西村重長(?-1756)の『中村座仮名手本忠臣蔵』も同じである。しかしこれはあまりに直截な遠近法であり、まだ実験段階であることを示している。石川豊信(1711-85)も同じ「紅絵」で、ふくよかな遊女を描いた。また宮川長春(1682-1752)は版画ではなく、肉筆画で色彩豊かな風俗画を描いた。『蚊帳美人』(絹本着色)は、薄緑の蚊帳から半身を出したふくよかな女性の白さが効果的な図となっている。
 一方京坂の地では西川祐信(1671-1751)が絵本と肉筆で遊里図を描いた。『鏡の前』(絹本着色)には片肌脱いだ化粧する女性の顔が鏡に映っており、ほのかな色気が漂っている。しかしこれらの画家たちはまだ表現に十分な深みがなく、型にはまっており、浮世絵のプリミティヴィズムの時代といってよいであろう。やはり錦絵のように色彩が豊富にならなければならないのである。
 鈴木春信
 春信(1725-70)の晩年の六年間の錦絵時代(1765-70)にこそ、「浮世絵」は一級の芸術になったと言ってよい。彼自身はかつては迷いの多い画風であったが、祐信の影響を脱してこの時代に独自の様式を確立した。とくに『座敷八景』(中判錦絵)は遊里ではなく、一般女性のたしなみや身づくろいを描いており、それを古くからの「瀟湘八景」や「近江八景」と重ね合わせて座敷の光景としているのも凝っている。とくにひとつの画面に曖昧な空間があまりなく、女性の姿態も変化があって秀逸である。
 『高野の玉川』に、反射式覗き眼鏡が描かれており、それによって眺められるヴィジョンを知っていたことになる。春信の画面の奥行き感はまさにその実見があったからだと思われる。『丑の刻詣り』(中判錦絵)ではその木の幹に陰影法が見られ、春信が洋画の技法をすでにある程度知っていたことを思わせる。右端の鳥居の柱がこの画面に空間を作り出しているのである。春信の特徴は単にその可憐な日本的女性の典型を作りだしただけではない、その画一的に見える顔にも、わずかな表情が浮んでおり、何かを語っている。またその見事な構図感覚が女性像を引き立てているのである。二枚続きの『見立て夕顔』(中判錦絵)は『源氏物語』夕顔の件りの情景を見立てたものであるが、その背景の茅の塀の広がりが、二人の出会いをつつみ込んでいる。『雨に思う切髪の美人』(中判錦絵)はその孤独な女性の硯に向かう姿が、すでに近代の個人性を表わしているかのようだ。『風俗四季の華、夏』(大判錦絵)は舟に乗る二人の周囲は池の蓮であり、モネの睡蓮の先駆をなしている。
  春信の影響は大きく、すでに述べた司馬江漢も、春重と称してその画風を真似た。磯田湖竜斎(?-1763)は最も彼に近い画風であったが、やや画面が粗雑で、その詩想をもつことが出来なかった。ただその縦長の柱絵で、人物像や背景の横をトリミングしていく手法は構図的に面白い画面を生んでいる。一筆斎文調(生没年不詳)は役者似顔絵の中に春信の影響を受けた図を描いた。しかし描き分けなければならないはずの役者の顔に、春信の一定した顔の作りを使い単調になり、また動作の定型化も見られる。」田中英道『日本美術全史』講談社学術文庫、2012.pp.460-464.

 西洋美術が専門の田中英道先生は、『日本美術全史』で古代からの日本美術を通観して、日本の絵画に「近代」の視線が現れるのは18世紀なかばの鈴木春信の美人画からだと見る。前後関係からして春信にオランダ図版から始まる「洋画派」の遠近法や陰影法の影響もあることはあるが、むしろ「浮世絵」というジャンルの独自性が、「近代」の視線に適合的だったからというのだろう。社会学的には、王侯貴族の特注で制作する単品作品ではなく、一般市民向けの出版物として複製出版する大衆商品としての「浮世絵」が成立した江戸中期の安定が、鈴木春信を生んだといえるだろう。
 春信の美人画は、後の清長や歌麿に比べると素朴に見えるが品がよいし、対象への距離感も清潔で造形的な意志が貫かれていると思う。



B.国家・国籍・安保
 国籍は本人の意思で変えることができるが、それなりの正当な理由が必要であり、現実には手続き的にも面倒で、具体的な不利益や被害があれば変更を申請するが、逆にとくに不便がなければ、二重国籍のままである人もかなりいる。これはどの国でも、人の移動が頻繁になり、国際結婚など国境を越えた人間関係が増えれば、必然的に随伴する問題だ。日本の場合、国籍の選択を届け出る二重国籍の人は増えているという報道があった。

「国籍選択 初の3000件超 政治家「二重」問題影響か 16年度届け出
 日本と外国の二重国籍の人が、日本の国籍を選ぶ「国籍選択」の2016年度の届け出数は、15年度から五百件以上増え、初めて三千件を超えたことが、法務省への取材で分かった。
 増加数は過去五年間で最も多い。法務省は理由を分析していないが、16年は政治家の二重国籍問題が注目を集めた。同省は問題を機に、ホームページなどで国籍選択手続きの周知を進めており、「問題もあって制度が広く認知されたからではないか」としている。
 国籍法は、複数の国籍を持った時点で二十歳未満の場合は二十二歳になるまでに、二十歳以上の場合はそこから二年以内に、一つの国籍を選ばなければならないと規定している。罰則はない。
 日本国籍を選ぶには①日本国籍を選択した上で外国籍を離脱する努力をする②外国籍の喪失届を出すーのいずれかの手続きが必要となる。
 法務省によると、〇六年度の国籍選択届け出数は一五七〇件。その後はおおむね増加傾向で、一六年度は三千三百六十八件で二倍以上となった。外国籍喪失届も〇六年度は二十一件だったが、一六年度は百五十件となった。
 二重国籍をめぐっては一六年、蓮舫・元民進党代表に台湾籍が残っていたことが発覚したほか、自民党の小野田紀美参院議員も米国籍との二重状態が判明した。」東京新聞2017年11月11日夕刊4面。

 蓮舫氏の場合は、台湾籍の両親に連れられて来て日本で育った経歴の中で、日本籍以外に台湾籍を離脱する手続きをとっていないことを本人も認識していなかった、というようなことらしい。政治家のような立場であれば国籍を問われ、二重国籍であるのはおかしい、という意見にも答える必要はあるだろう。しかし、法的に日本国籍を得ても、一般に親や祖先が外国人である人への視線は冷たく、指導的な立場には「純粋日本人」でないといけない、という考え方は、もはや愚かなナショナリズムというほかない。
 それとは別の話題だが、沖縄の基地問題は、ある意味では国家とは何か、日本人とは何かということに深く関わるという点で、国籍問題とも無縁ではない。

「基地必要か 国民的な議論を:那覇市在住の司法書士、安里長従(ながつぐ)さん(45) 
 ヤマト(本土)で大勝した自民党が、沖縄では4選挙区のうち一つの勝利でした。この衆院選の結果を受け、アンケートに「県外への移設も含めて国民全体で議論しなおすべきだ」を多くの人が選択しました。沖縄で「県外移設」をテーマにしたシンポジウムを4月に開催した実行委員会メンバーで、那覇市在住の司法書士、安里長従さん(45)に、その主張の背景について聞きました。

 今回の衆院選で与党が300議席を超えました。日米安保体制のあり方は争点にはならず、国民の大多数が安保を容認しています。その民意の中で、沖縄が置かれている不平等をどう解消するか、が問題です。
 今年6月、実行委は沖縄県議会に陳情書を提出しました。普天間の代替施設について沖縄以外の全自治体を等しく候補地とする。国民的議論を経たうえで国内に必要という結論になるなら、民主主義と憲法の精神にのっとり一地域への押しつけとならないよう決定する――との内容です。
 今の時点で、ヤマトの地方議会が、「わが町で基地を引き取ろう」と決議するなど、まず無理でしょう。だから沖縄から声を上げようという取り組みです。
 全国の自治体が、ひとごとではなく「自分ごと」として、安保は必要か、代替基地が日本に必要か、をきちんと議論する。時間はかかるかも知れませんが、私たちが求めているのはそこなのです。
 今日の問題の出発点は、1996年に日米両政府が普天間移設を決めた「SACO合意」です。本来はこの時に全国の自治体に代替基地の候補地を求めるべきでしたが、沖縄県内だけで検討されました。「辺野古が唯一の解決策」と政府が強調するのは、政治的な理由からに過ぎません。
 「新基地はいらない」と選挙で民意を示しても、沖縄の場合は受け入れられません。憲法で保障された幸福追求権に地域間格差があり、「法の下に平等」ではないのです。近代民主主義の原則は単なる多数決ではなく、少数者の尊重が根本にあるのは言うまでもありません。
 もちろんトップダウンで沖縄以外のどこかに移設するとなれば、地元の反発を受けて同じことの繰り返しでしょう。憲法に基づいて国会で審議した上で、住民投票で同意を得る。民主主義のプロセスこそが大切なのです。
 問題になっている辺野古の基地や東村高江のヘリパッドを使う米海兵隊は、多くの期間、海外に出ています。国民的な議論の結果として、安保は容認しても海兵隊は日本に駐留しなくてもいい、となれば、辺野古の基地そのものが必要なくなるわけです。」朝日新聞2017年11月12日朝刊、9面オピニオン欄、フォーラム 沖縄。



 沖縄県民を対象とする朝日デジタルのアンケート(デジタル版で588人の回答とちょっと数字は心もとないが)で、「選挙戦では、北朝鮮の脅威が盛んに言われました。沖縄に米軍基地が集中することについて、あなたはどう考えますか?」の質問への回答は「北朝鮮と米国は対立を深めており、日本を危機にさらす米軍基地は減らした方がよい」(203)、「日本の安全保障に役に立つし、県外移設や縮小はすぐにはできないので、沖縄にあるのがいい」(190)、「北朝鮮から距離のある沖縄に必ずしも米軍基地を置く理由はない」(138)と、意見はかなり割れている。一方、「沖縄での選挙結果を受け、どうすべきだと考えますか?」の質問には、過半数以上が「県外への移設も含めて国民全体で議論しなおすべきだ」(353)、辺野古移設を支持する意見は少数派である。
 米軍基地の重荷を担い続ける沖縄県民の意志と現状認識は、これまでもほぼ一貫しているのだが、ヤマトの国民大衆が、沖縄の痛みを共有しようと米軍基地の縮小撤去を自分たちの問題として考える可能性は、これも相変わらず期待できない。その結果、辺野古への移設は日本政府の意志として力で進められていく。沖縄独立論が強まるのは当然だという気がする。
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