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写真付きで日々の思考の記録をつれづれなるままに書き綴るブログを開始いたします。読む人がいてもいなくても、それなりに書くぞ

オールド・ファッションな二人 1985年の愉しい時間 

2018-07-26 22:08:01 | 日記
A.昭和のレトロ対談
 1985年は昭和の60年。丸の内東京駅舎のなかにステーションホテルがあって、4月8~9日、そこで一泊二日の対談を中央公論が企画した。呼ばれたのは評論家江藤淳と仏文学者蓮實重彦。ホテルのラウンジ、レストラン、宿泊室と所を変えながら自由な談論は佳境に入る。当時、江藤淳は52歳、米プリンストン大学での1年留学生活から戻って東工大で文学を教えており、蓮實重彦は49歳で東大仏文の教授だが、映画論や文学論で注目される著作を次々発表していた。これが10月に『オールド・ファッション』という一冊の本になって刊行された。その初版をぼくは買って読んだのだが、読んだことも忘れていた。ぼく自身が大学の教員として授業をするようになった頃だったから、忙しかったし、江藤淳の本はほとんど読んでいたが、蓮實重彦の本はほとんど読んでいなかった。それからもう33年。東京駅丸の内駅舎は21世紀になって、戦災で失った3階部分を復元してリニューアルし内部も今風になったが、1915(大正4)年開業のステーションホテルは、豪華高級ホテルとして営業している。
 日本が経済的に豊かな国になった80年代、二人は中年人生ど真ん中、著作家・文人知識人として脂の乗り切ったところだった。くつろいだ雰囲気でタバコとブランデーをやりながら、気楽な会話を続けている。話は、おのずと彼らが幼児期を過ごした昭和10年代の回顧に向かう。一般に昭和10年代といえば国家の敗北にむかう戦争の時代なのだが、東京の恵まれた家庭の坊ちゃんであった彼らは、大正洋風文化の名残の中にあった両親や親族に愛されて、幸福な記憶だけがあるのかもしれない。

 「蓮實 でも江藤さんはそういうお仕事なさったときに、われわれからみると、残念だというか、おそらく江藤さんは、こいつらは引っ掛かってくるんじゃないかと思うと、間違いなくその人たちだけが引っ掛かるという点はありませんか。
江藤 そうですね。それはありますね。(笑)いやになっちゃうくらいですね。(笑)アリャリャコラサ、というようなもので。(笑)
蓮實 どこの国も貧しいんですけれども、その点において日本の貧しさが出るなという感じがしますね。
江藤 ほんとにそうですね。いやね、豊かな社会とかね、(笑)言うでしょう。こんなことめったな人には言えないけれども、蓮實さんにお目にかかったら、ぜひ申し上げようと思ってきたのは、わたしどもが子供のころ過ごした世の中というのは、GNPというような指標でいえば、現在とは比べものにならないほど貧しかったに違いない。何十分の一か、もっと貧しかったか。『監督小津安二郎』を拝見していると、蓮實さんはわたくしよりいくらかお若いけれども、ほとんど年代が違わない。似たような育ち方をしているなという、懐かしさを感じるんです。凄く懐かしかったのは、学校の帰りによその家に行っておやつ食べてきちゃいけないということ、(笑)ねっ、…‥‥。
蓮實 そう、そう。
江藤 家にまず帰ってきて、ただいまと言って、それからだれだれ君のところに遊びに行ってもいいですかと言って、蓮實さんのお家へ行って、おいしいドーナツかなんかいただいてきて、それをちゃんと家に戻ったら報告するということで成り立っていましたね。そういう世界があって、それはいろんなものに支えられていたから、いい気になるのは、ほめられたことではないとは思うけれども、子供の感覚の世界としてみれば、それはかけがえのないものですからね。そう考えてみると、あのころわたしどもが享受していた生活、それからその生活を律していた時間のリズムとか、それを取り巻いていた空間の広さとか、いろんなことですね。さらにいえば肉親だけではない、いろいろ身辺にいた人たちとの人間的な交流とか、もろもろの生活を支えていた要素を思い出してみると、いまのほうが豊かだという感じはぜんぜんもてないんですね。いまのほうがおそらく窮乏しているのだろうと思う。その窮乏感をたとえば、車を持っているとか、電気冷蔵庫があるとか、皿洗い気を備え付けたとか、システム・キッチンに変えたとか、そういうことで隠蔽しようとしているだけのことであって、かつてわれわれがもっていた、かりそめの豊かさとは比べるべくもない。まァこれは、永遠のノスタルジアで、幼少年期を懐かしんで美化するのは、あらゆる人間の通弊ですから、こういう感じ方そのものにはじめからバイヤスがかかっているとは思うのですが、しかしそれをつとめてこそぎ落してみて考えてみると、少なくともあのころに比べてちっとも豊かになっていないという感じがするんですね。それどころか、ぼくは昭和五十四年から五十五年まで、一年間アメリカに行っていまして、帰ってきてからいつの間にかもう五年たってしまったのですが、この過去五年間ぐらいのあいだに、日本および日本人が逆落としに貧乏になっているような感じがするんですよ。たとえば山手線に乗っている人たちの着ているものが、みすぼらしいとは到底いえない。女の人のハンドバッグのようなものでも、エルメスとかグッチのブランドものを持っている人はざらにいると思うんですが、それがちっとも豊かなものに感じられない。もう一つぼくが不思議でならないのは、都市論の流行です。いまの東京のいったいどこに、都市空間などというものがあるだろうか。そんなものがもはや存在していないことを、完膚なきまでに残酷に描き切ったところが、田中康夫の『なんとなく、クリスタル』の新鮮さではなかったのか。田中君は、東京の都市空間が崩壊し、単なる記号の集積と化したということを見て取り、その記号の一つ一つに丹念に注をつけるというかたちで、辛くもあの小説を社会化することに成功しているではないか。ぼくらが、いままでよりどころにしていた記号がことごとく、毎日ぐらぐら変化するようなところで、いったいいかなる都市論が可能なのか。いやその状況があまりにチャレンジングだからこそ、都市論なるものが流行しはじめたのか。そのへんはどうなんでしょうね。
蓮實 いまおっしゃったことはぼくもいつも考えていることなんですけれどもね。たぶん二つ問題があるような気がするんです。一つは、われわれが幼少期を送りえた時代には、いまおっしゃったように、学校から帰ってきた時間をどう過ごすか、それを母親にどう報告するかってことが、誰がきめたわけでもないのに、きまっているわけですね。
江藤 そうですね。塾にはいかなかった。(笑)そんなものなかったから。
蓮實 その限りにおいてまったく自由なわけですが、それでも自分の居場所をかっきりきめ、人さまの家でやたらものを食べない。また友達を塀の外からどう呼ぶかとかそういうことが明確に決まっていましたね。あれはことによるとね、昭和十年代周辺だけに日本のブルジョワの家庭に起こった特殊な輝きじゃないかという気がするんです。歴史的なことなのかなと。つまりそのころ、ようやくそろそろ電話がひけはじめるけれども、電話はあらゆる人の家にあるわけではなかった。それから鉱石ラジオが普通のラジオに変わったとか、郊外電車が伸びてゆくとか、昭和十年代周辺の、日本の市民社会が持った一種のエア・ポケットみたいなものじゃなかったろうか、つぎにいろいろな事件が、こう陰惨なものが起こってくるかもしれないけれども、ことによったら、その直前の不気味な明るさをもった秩序、そういうものじゃないかなと思います。
江藤 エア・ポケットというのはわかりますね。そういうものを確かに体験しているんじゃないかなという感じはわたしにもあります。
蓮實 それは文学をとってみても、いま見てみると、ちょうどわれわれが生まれて幼少期を過ごした時期の日本映画というのは、大変すばらしい映画だったと思いますね。それではやはり四十年代に少し落ちて、それから五十年代に続くわけですけれども、文化的な生活水準その他とは別に、芸術的な、映画の場合だったらほとんど、誰も芸術だと思って見ていたわけじゃないでしょうけれども、いま見てみると、まさかと思われるようなすごいことが行なわれている。それはことによると、そういう歴史的な一時期の、郊外電車が伸びていくところですね、そういうものを東京の都会のブルジョワジーが、満喫している一種の切ない喜びの表現だったんじゃばいかなというようなことを考えますね。それ以前の小津の子供を扱った映画を見ると、ああこれだということなんですね。
江藤 谷崎なんかにもありますね。谷崎も円本で印税がまとまって入って。自分の美意識に適合できるような生活ができるようになった後の『蓼喰ふ虫』とか、『卍』とか、あのころの作品にはある自足感というか、自信というか、そういうものがありますね、それはもうまもなく戦争になって、執筆中断を余儀なくされた『細雪』にも反映していますね、その翳りもね。確かにそうですね。
蓮實 大岡さんとか中村光夫さんとか、ああいう方が出ていらっしゃった時期、吉田健一さんの存在なんかもそうだと思うし、川上徹太郎さんにしてもそうでしょうが、あれはある種の余裕がないと成立しえない部分がありますね。
江藤 そうですね。その前はプロレタリア文学でがたがたっとして、それからふっとエア・ポケットができてね。
蓮實 あの方々が出ていらっしゃった時代というものと重なりあっていて、単なる昔ではなくて、非常に歴史的な役割をおびている昔ではないかなという。――これはわれわれの父親とか母親の世代に聞いてみても、どうも彼らもあまり比較する対象がないのでわからないんですけれども、そういえば、うちの母親あたりから、女がスキーに行くようになったとか、そんな話を聞いたりもしています。小津にも女性がスキーに行くようになったとか、そんな話を聞いたりもしています。小津にも女性がスキーをする喜劇があるし……。
江藤 そうですね。わたくしの母親は早くなくなりましたから、スキーに行ったとは思いませんけれども、おぼろげに覚えているのは、蓄音機をかけて、父母を含めた同世代の友達が楽しそうにダンスをしていた情景ですね。親父が酔っ払って、わたしはまだ小学校にも上がっていないガキだったんですが、三分ぐらいその中に連れ込まれて、(笑)親父とダンスの真似ごとをやったという、(笑)記憶がある。叔父や叔母になりますと、確かにもうスキーに行っておりましたね。わたしの叔父が、叔父っていうのは親父と一番下の弟ですが、大学を出て、興銀に入って、富山の支店に赴任する前に結婚して、任地から最初に送ってきた写真が叔母と二人でスキーをしている写真でしたね。祖母から見せてもらったのを覚えています。そういう時期ですね。それは確かにあった。
蓮實 これはもう一度歴史的に洗い直してみないと、なんともいえないと思いますけれども、最近、とくに昭和十年代の日本映画、それから文学などを考えてみた場合に、あれはわれわれの世代しか知りえなかった幼年時代なのかなという気がします。」江藤淳・蓮實重彦『オールド・ファッション 普通の会話 東京ステーションホテルにて』中央公論社、1985.pp.115-123.

 この本をずっと忘れていたが、研究室の片隅にあったらしく、それをまとめて山形の鶴岡に送って整理していたら出てきた。33年も経ったから、この本の時間も止まったまま遠い過去になっている。江藤淳は妻を亡くした翌年の1999年66歳で鎌倉の自宅で自殺した。蓮實先生の方は、東大総長を務めて東大を退職し一昨年も「三島賞」受賞騒動などで活躍中だが83歳になっている。幼児期の懐かしさと同時に、二人はこの85年という時代も幸福な充実を感じていたのだろう。そして、その後の日本が辿った道は、凡庸で愚劣で品位に欠けたものに見えていたのではないか。



B.人生は無理ゲーか?
 若者に希望をもって頑張れと言う教師がたくさんいるのだろう、とは推測する。でも、若者が頑張る場所はルールの決まったゲームのようなものであり、優秀な選手は勝ち残れるが、かならず敗者や脱落者を産む。そもそもこのゲームはクリアが不可能なゲームで、脱落することも他のゲームに乗り換えることもできない、としたら、結果が芳しくないのは自分の能力や意欲がまるでダメだから、というしかなくなる。教師の励ましは、ただ絶望の脅迫と変わらない。そんなことになっているのだとしたら、学校は灰色の地獄だろう。

 「ルール大転換 無理筋:高校卒業後 つまずく若者
突然ですが、持論です。18歳、無理ゲー説
 「18歳無理ゲー説」という話を、数年前から大学生にしている。
 「無理ゲー」とは「クリアが無理なゲーム」。18歳まで高校で教師から言われることは「黙って言うことを聞きなさい」「ネットは危険。SNSはよくない」「先生が指定した教材を使いなさい」。
 これが大学に入ったり、社会に出たりすると180度変わる。「なぜ自分から動かないの」「なぜ若いのにネットを使えないの」「そのくらい自分で調べなさい」
 私は学生にこの話をするとき、自分のせいにしないでほしいと付け加える。10年ほど若者を取材してきて気付いたのだが、この無理ゲーをクリアできないのは自分がバカだからだと思っている人が、少なくない。昨年、就活で苦戦していたある女子大学生は、この話を聞いた後、涙を流した。「まさに無能だからだと思っていました」
 たしかにごく一部の優秀な人は、自分で乗り越えていく。でも、受動的な態度が「正解」だと教えておいて、手のひらを返す社会に責任はないだろうか。
 社会に出る前に新たな世界のルールを学び、練習してほしいと思い、ここ3年ほど大学で「情報の調べ方」を教えている。
 無理ゲーにつまずいた若者にとって、ネットにあふれる情報は、砂漠と同じだ。砂粒の違いなどわからない。ネット以前なら、手に入る情報は限られていた。無限の砂粒に立ち尽くすことはなかったろう。
 「どのサイトの記事なら信用できますか」。学生たちは答えを求め、不安そうに聞いてくる。正解などないこと。要るものと要らないものを自分で考え、より分けること。ひとつひとつ教えると、まさに水が染みこむように、吸収していく。
 「最近の若いやつはダメだな」。嘆きたくなったら、ぜひ、彼らが育ってきた世界のルールに思いをはせてみてほしい。 (原田朱美)」朝日新聞2018年7月24日朝刊11面オピニオン欄、ネット点描。

 これも日本の学校や教師が、生徒たちにとって重要な考えるべきことを考えず、考えなくていいことばかり考えている例なのかもしれない。

 「学校のエアコン もはや必需品:HAFFPOST
 命に関わる危険な暑さが連日、日本列島を取り巻いている。そんな中、学校でのエアコン設置が遅れている現状を、内田良・名古屋大学大学院准教授(教育学)が分析、「小中のエアコン設置 いまだ半数 暑くても設置率1割未満の自治体も 莫大な予算が課題」(18日)で明らかにした。
 内田氏は文部科学省の調査をもとに、公立小学校のエアコンの設置率をまとめ、設置率は全 都道府県ごとの設置率と最高気温との関係も分析。愛知や奈良など、最高気温が高いにもかかわらず、設置が遅れている自治体もあった。エアコンの導入が進まない背景には、各自治体の財政事情がある。それでも内田氏は「エアコンはもはやぜいたく品ではなく、必需品」と、整備の拡充を訴える。
 学校教育をめぐっては、部活動の休みが少ないことや、組体操の事故などが問題となり、過度な「根性論」や「前例踏襲」がはびこっている実態が浮き彫りになった。エアコン設置問題も、実は根は同じなのではと思うのは私だけだろうか。 (関根和弘)http://huffp.st/7oosaeG」朝日新聞2018年7月24日朝刊11面オピニオン欄

 この数日、暑さと湿気は耐え難く、エアコンについ頼りたくなる。近年、人が我慢して耐えられる限度を超えてきたように感じる人が多い。子どもたちが過ごす学校の教室で、エアコンのない学校が半数だという。地域の条件は違うものの、子どもの体調や学習に悪影響がないとはいえない学校は多いだろう。もっとも、ぼくたちがそうやってエアコンに頼れば頼るほど、電力供給は逼迫し外気はさらに上昇するのだが…。
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