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オペラ的なるもの2 ウリッセの帰還 性犯罪対策のこと。

2019-04-06 14:23:58 | 日記
A.バロック・オペラこそ最盛期?
 岡田暁生『オペラの運命』には冒頭から、ぼくのようなオペラの素人の思い込みを破壊する記述が続く。一つ目は、オペラといえば何といっても19世紀後半のベルディ、ヴァーグナー、プッチーニの名作群が今も繰り返し上演されているから、その時代こそオペラ最盛期だとぼくたちは思っていた。もちろん18世紀末のモーツアルトはオペラを書いたし、続くヴェートーベンもひとつオペラを書いたし、19世紀前半にはロッシーニ、ウェーバー、ドニゼッティなどこれもよく知られるオペラ作曲家が続いたことは知っている。しかし、フランス大革命以前の宮廷文化であるロココ、さらにその前の17世紀バロック時代に書かれたオペラは、現在ほとんど残っていないというから、その時代のオペラはのちのグランド・オペラに比べれば、素朴でささやかなものだったろうと勝手に想像してしまったのである。しかし、そうではなくバロック・オペラこそオペラという芸術が最も(量的に)盛り上がり活力にあふれた時代だったのだと岡田氏は書いている。
 このこととも関連するのだが、二つ目は、ヨーロッパ王侯貴族の娯楽として発展したオペラが、19世紀の市民革命・産業革命で実現したブルジョア市民のための贅沢文化に移行してったという筋書きをぼくは思い描いていた。でも、岡田氏は基本的にオペラという浪費娯楽は、絶対主義王政の一夜の華であって、プロテスタントが尊ぶ近代資本主義の精神(M・ヴェーバーのいう)「禁欲倫理」からすれば無駄で罪深いカソリック的旧体制の象徴ということになる。それがフランス革命以後のブルジョア市民社会においても生き残ったのは、どういう説明になるのだろう?とりあえず、王宮娯楽のバロック・オペラの時代に、例外的に公共的劇場で上演されたオペラがヴェネティアにあった、というあたりから。

 「バロック・オペラへの一瞥、または、オペラを見る前に 「十七世紀や十八世紀の聴衆にとっては、劇場建築に巨額の費用がかかろうと、一回の公演にどれだけの金が投入されようと、またカストラートに信じ難いような贈り物がされようとたいしたことではなかった。重要なのは祝典の絢爛さであり、一瞬の感動の力であり、一回限りの夜会に秘められた至上の喜びだけなのだ。芸術庇護者(メセナ)の時代というのは、のちの商業ブルジョアジーが行うような細かい計算とは無縁である。芸術、その中でも最もはかない芸術である音楽は王侯たちの鷹揚さを糧として生きるほかはなく、芸術にとってはどんなに美しくても美しすぎるものはなかった」(ウィリアム・ベックフォード『カストラート』)

 オペラ史はバロック時代=絶対王政時代とともに幕を開ける。オペラ芸術はバロック初期の1600年前後に、イタリアで宮廷娯楽として生まれた。絶対王政の始まりとともにオペラが生まれたのは偶然ではない。オペラのような途方もない浪費芸術が誕生するとしたら、この時代をおいて他には不可能であっただろう。ルネサンス期にはまだ、こうした「究極の浪費を可能にする富の集中は生じていなかった。またフランス革命以後の節約好きの近代資本主義社会は、このように莫大な経費がかかる娯楽を自らの手で生み出すことを躊躇しただろう。巨万の富が一握りの王侯の手に集中した絶対王政の時代にのみ、オペラ芸術の誕生は可能だったのである。オペラと聞いて人はすぐに、極限的な贅沢さ、金ピカ趣味すれすれの華麗さ、貴族的な近寄り難さ、誇大妄想的なスケールの大きさや誇張癖を連想するに違いない。オペラのこうした性格が形成されたのがバロック時代であり、それはとりわけカトリック圏の宮廷文化と結びついているのである。
 同じバロック時代でも、バッハが活躍したようなプロテスタント圏の市民社会の倹約と素朴と敬虔は、オペラとは無縁である。言うまでもなくバッハはオペラを書かなかったが、これは彼がプロテスタントの作曲家だったことと無関係ではあるまい。マックス・ウェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(1904-05年)で述べたように、プロテスタントたちは貴族階級の「無頓着な消費の快楽」を毛嫌いし、「騎士的華麗の安手な外観に対して市民的な家庭の清潔で堅実な幸福を理想として掲げた」(梶山力・大塚久雄訳、岩波文庫、下巻、223ページ)。これはオペラ的消費とはまるで異質な精神であった。事実ドイツ北部の中小都市やアムステルダムやチューリッヒやジュネーヴなど、プロテスタント圏の諸都市ではオペラは育たなかった(プロテスタント都市で唯一オペラが栄えたのはハンブルクだけである)。オペラが発展したのは何といってもイタリアの諸都市であり、ミュンヘン、パリ、ウィーン、つまりカトリック圏の宮廷都市である。敬虔な信仰心に満ちたレンブラントの絵画や北ドイツ・バロックのオルガン芸術ではなく、ヴェルサイユ宮殿やウィーンのベルヴェデーレ宮殿、さらにはローマのサン・ピエトロ大聖堂(教皇庁は一種の宮廷だったと言ってよかろう)こそが、オペラの姉妹芸術なのだ。この本の蒙等で私はオペラの魅力を「宮廷文化の夕映えと近代市民社会の熱気の結合」と述べたが、この前者が形成されたのがバロック時代なのである。
 確かに「バロック時代こそがオペラのルーツだ」と言われても、多くの人々にはあまり実感がわかないかもしれない。いくらバロック・オペラ復興がブームになっている昨今とはいえ、実際にそれらの上演に接する機会はまだまだ少ない。カヴァッリやリュリやアレッサンドロ・スカルラッティと言われても、何か博物館に並べられた黴臭い骨董品のようなイメージしか思い浮かばないとしてもいたしかたあるまい。だが忘れてはならないのは、創作の量という点ではバロック時代こそ、オペラがっもっとも繁栄した時代だったということである。この時代には毎年のように大量のオペラが作られていた。これほどオペラが量産された時代はその後は一度もなかった。当時のオペラは大量需要のあるきわめてアクチュアルな娯楽だった。これに比べて十九世紀以後は、新作オペラの上演は加速度的に減少していく。新作より、評判が定着した旧作の再演が増え始めるのである。
 しかもバロック時代はオペラという芸術の性格と、時代の性格とが完璧に一致していた時代でもあった。オペラは浪費を徳としていた時代においても最大級の浪費娯楽だった。マックス・ウェーバー流に言えば、近代資本主義=プロテスタント的な経済合理主義が絶えず白眼視してきたところの、この前近代的=カトリック的な消費に対する寛容こそが、オペラを育んできたのである。こんなバロック時代に比べて十九世紀以降は、オペラにとってさぞかし生きにくい時代であっただろう。自然科学と合理主義と産業革命と資本主義に象徴される十九世紀の近代市民社会は、バロック時代の王侯たちの誇大妄想的かつ刹那的な贅沢の追求のおよそ対極にあるものであった。賭けた金は使い果たしてはならず、貯蓄するのが理想とされるようになり、散財に鷹揚な貴族階級ももはやいないまま、この「金喰い虫」の芸術は肩身を狭くして生き延びなければならなかった。確かに世界が矮小化され脱魔術化されていく十九世紀だからこそ、かえってオペラがかつての大らかな宮廷文化を懐かしむ人々の心をつかんだのだと言うことは出来よう。だが十九世紀におけるオペラはあくまで、「アナクロニズム芸術(ナツメロ芸術)」として人々を魅了したのであって、もはやアクチュアルな娯楽ではなくなり始めていた。バロック時代こそはオペラの永遠の故郷である。」岡田暁生『オペラの運命 十九世紀を魅了した「一夜の夢」』中公新書、2001.pp.3-7.

 *モンテヴェルディ「ウリッセの帰還」
 バロック時代のイタリアの作曲家クラウディオ・モンテヴェルディ(1567~1643)は十数作のオペラを作曲したといわれるが、現在上演可能な形で残っているのは『オルフェオ』(1607)『ウリッセの帰還』(1640)『ポッペアの戴冠』(1642)の3作のみ。『ウリッセの帰還』は、当時ヴェネツィアに作られた、世界で初めて市民に公開されたオペラハウスで初演された作品。物語はギリシャ神話、ホメロスの「イーリアス」の物語から、トロイア戦争を勝利に導いたまま行方のわからない智将ウリッセ(オデュッセウス)と残された妻が主人公。夫の不在の間に言い寄る求婚者たちに、貞淑な妻ペネーロペは、夫ウリッセの強弓を射た者と結婚すると言う。次々と失敗する求婚者を尻目に、見事に弓を引ききったのは、物乞いの老人に扮して密かに帰国していたウリッセ。
 これを北区文化振興財団が赤羽の「北とぴあ」で上演された公演を、ぼくは以前見たことがある。これも古楽器やバロック音楽復興ブームのひとつかもしれないが、グランド・オペラしか知らないぼくは、シンプルなモンテヴェルディは音楽として新鮮に思えた。冒頭で夫の不在を嘆くペネーロペのモノローグや、再会したウリッセと息子テレーマコの歓喜の二重唱(第2幕)、緊張感をあおるウリッセの弓のシーン(第2幕)など、歌手は並んで歌う。基本的に装置や小道具を使っていない演奏会形式なので、弓のシーンでは、ペネーロペの腕を弓に見立てるという面白い演技が施されていた。バロック・オペラは、王宮や貴族の宮廷内の広間で上演されたから、舞台も演奏者や歌手も、そして観客もさほど多人数ではなかったであろう。しかしそのぶん次々新作を求め、たっぷり金をかけた。しかし、それは一夜の蕩尽であって、今に伝わっている作品はこのモンテヴェルディぐらいのものらしいが、おかげでそれをある程度再現することもできるわけだ。



B.処罰主義と対症療法と更生支援的介入
 性犯罪は言葉のセクハラのような軽いものから、暴行致傷にいたる重いものまで、広く後を絶たない。被害者の申告がないと犯罪とも認知されず闇にまぎれる場合もあると思われるので、DVやストーカーも含む深刻な人間性の破壊を、どうやって防ぎ減らすかは重要な課題だ。しかし、この問題の根にある「性の文化」を変えるのは簡単ではない。とりあえず性犯罪の被害者支援と加害者への処遇・教育をどうするかについては、専門家の意見をきくべきだが、これも再犯率が高いという前提で厳罰化や加害者出所後の住所把握や警察の監視のようなハードな対策を重視せよとする立場もあれば、性欲衝動を自己抑制できるまで時間をかけた更生支援体制を強化すべきだという立場もある。できることは効果を見計らってすべきだが、やはり性犯罪のもとにあるものはこの社会に相変わらず再生産されているように思える。

 「性犯罪 再犯を防ぐには:子どもへの性犯罪で服役した元受刑者に、住所の届け出を義務づける条例を福岡県がつくった。大阪府に次ぎ2例目の取り組みだ。性犯罪者の再犯を防ぐためには、どんな対策が効果的なのか。
実社会での治療が重要  性障害専門医療センター代表理事 福井裕輝さん 
 性犯罪者あの住所を把握しても、再販を防ぐための治療など社会復帰支援に生かされなければ、意味がありません。
 福岡県の条例は、2012年に施行された大阪府の条例を参考にしています。私は大阪府の条例づくりにかかわり、「元受刑者の住所の届け出は、社会復帰支援とセットであれば意義がある」と話しました。
 しかし施行から5年半で届け出たのは121人。対象者の一部に過ぎず、支援を受けたのはそのうちの約4割といいますから機能しているとは思えません。具体的な支援の中身も開示されていません。
 10年以上前から性犯罪者の治療を専門に行っています。きっかけは、父親から性的虐待をうけていた中学生を診たことでした。被害者だけを治療しても、根本的な解決にならないと気づいたのです。被害者をなくすには、加害者をなくさなければなりません。
 性犯罪者の多くは依存の状態で、他の犯罪に比べ再犯率が高いのが特徴です。犯罪のきっかけや、「被害者も喜んでいる」といったゆがんだ考え方を調べ、行為を押しとどめる方法などを学ぶ「認知行動療法」と、性欲を押さえたり攻撃性を下げたりする薬を飲む「薬物療法」が治療の柱です。公的医療保険がきかないので、すべて自己負担です。自分で性衝動をコントロールできるようになるまで、通常3~5年はかかります。
 2月だけで360人の患者を診ました。元受刑者だけではなく、その前段階の罰金刑や執行猶予がついた人たちが多くを占めます。治療をきっちり続けている患者の再犯率は、3%以下です。
 治療で再犯を防ごうとするのは、世界的な流れといえます。住所の届け出義務化は、海外では犯罪者の監視や隔離を目的に30年以上前に始まりましたが、あまりうまくいきませんでした。
 お手本になるのはカナダで、性犯罪の受刑者を刑期の途中で釈放し、国が費用をもって治療を受けさせています。アメリカでは、州によっては裁判所が実刑ではなく、治療命令を出して社会復帰を促すケースがあります。
 日本では法務省が06年から、刑務所や、服役後の保護観察所で再犯を防ぐプログラムを始めました。しかし刑務所内でいくら治療しても、まったく効果はありません。実社会で治療しなければ、自ら性欲をコントロールする力はつかないのです。保護観察所での治療も期間が短く、効果が期待できません。
 「罪を犯した人を治療するのはおかしい」という声がありますが、刑罰で責任をとらせることと、再犯を防ぐことは別物です。治療を含めて、居場所を用意する、定職につけるよう支援するなどの社会政策が再犯防止へとつながります。(聞き手・諏訪和仁)

 更生 被害者の声聞いて:性暴力被害者支援看護師 山本潤さん
 私は13歳の時から7年間、実父から性暴力を受け、その後もうつ病や強迫症状に悩まされました。十数年前から性暴力について学び、回復する中で、 「父に刑務所に入ってほしかった」と強く思いました。しかし、すでに時効。父を訴えられませんでした。
 「私の被害は罪ではないのか」と悩む一方で、「同じ思いを他の人に味わわせたくない」とも思いました。「どうして私が」「なぜこんなことに」。必死に答えを探し求める中で「なぜ加害者は、加害行為をするのか」を深く考えるようになりました。
 元受刑者が再び罪を犯すケースが後を絶ちません。被害者は処罰感情とともに「同じことを繰り返さないでほしい」と願うからこそ、様々な葛藤を乗り越え、自らの体験を訴えます。それなのに、出所後に犯罪を繰り返されたのではたまりません。
 被害者支援と加害者更生の両方が大事です。ほとんどの場合、加害者はいずれ社会に戻ってきます。出所後に状態を見極め、再犯リスクが高い人には一定の対策を講じ、そうでない人にも再犯せず暮らせるよう就労などの生活支援をするべきです。更生に協力することで、被害者を出さないことが大切だと思います。
 福岡県の条例のように、性犯罪で服役した元受刑者の状況を行政が把握することは重要でしょう。プライヴァシーの観点から反対する人もいますが、再犯せず、良い人生を送れるよう手助けすることは、その人のためにもなります。ただ、住所の把握は本人の届け出が頼り。届け出ない人にどう対応するかが今後の課題だと思います。
 大切なのは、行政側が「被害者あっての加害者更生だ」と理解していることです。想像だけで対策を考えても、実態とずれた内容になりかねません。条例づくりなど、意思決定の場に、被害者を参加させてほしいと思います。
加害をなくすには、性暴力を生み出す社会の文化や構造も変える必要があります。男女格差があり、暴力が容認された社会で性暴力は起きやすいと言えます。「体を触っても減るもんじゃない」なんて理屈がまかり通る社会に、加害者は乗じているのです。社会の偏見をなくさないと、性暴力はなくなりません。
 そして被害者が被害を訴えやすく、性暴力が性犯罪として罰せられるシステムが必要です。被害直後の支援を充実させるとともに、性犯罪の立件に高いハードルがある刑法を改正する必要があります。
私の周りには、自分の意思に反した性交を強要されたのに罪として認められず、理不尽な思いをしている被害者が多くいます。同意のない性的接触は性暴力だということを、社会がルールとして示していくことが求められています。 (聞き手・塩入彩)」朝日新聞2019年4月5日朝刊、15面オピニオン欄「耕論」。

 性愛の関係を排他的な結婚という制度に限って認めるという近代の「性の管理」が、一夫一婦制と対になって表向き定着していたときは、性暴力は直ちに規範への逸脱として処罰する名目になった。そのかわり男が女を征服所有し、婚外の性的関係も「女遊び」として黙認される文化は温存されてしまった。そして現代の「性の文化」は、一対の男女の婚姻制度とは別の次元で問題にされているから、性暴力は突発的な「事故」のような形態で性犯罪となっている。しかし、それは加害者が歪んだ病的な特性を持った「変質者」だから起こるのではなく、ある意味で広く深くぼくたちに浸透している「性の文化」のあらわれだと考えるべきだろう。ミシェル・フーコーの『性の歴史』の議論にぼくは全面的に賛成しているわけではないが、非常に重要な視点であることは疑いがない。
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