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写真付きで日々の思考の記録をつれづれなるままに書き綴るブログを開始いたします。読む人がいてもいなくても、それなりに書くぞ

オペラ的なるもの1 アイーダ。日比谷の焼討ち 

2019-04-04 02:18:42 | 日記
A.ジュゼッペ・ベルディ「アイーダ」
 4月はじめなので、気分新たに新シリーズは「オペラ」ということにした。音楽がらみの話のなかでも、オペラはちょっと特殊な世界である。狭い意味の音楽としても、オペラは作曲、オーケストラ演奏、歌手の歌唱が組み合わさり、合唱も使われ、さらに舞台上でストーリーのある芝居でもあり、バレエなど舞踊もとり入れられ、衣裳デザイン、舞台美術の装置、全体の演出まで、その上演は非常な手間暇と費用を費やす贅沢なアートである。とくに、主役級の花形歌手は、劇場に響き渡る美声で2時間ほどの特別な時間を支配するだけの飛び抜けた実力を求められる。観客もその夜は盛装して、優雅な社交と非日常的時間を味わう余裕が必要だ。
 ぼく自身は、30年ほど前にドイツ(当時はまだ西ドイツBRDだった)の工業都市で研究生活をしていたときに、市民劇場で定期的に上演されていたオペラを見はじめて、日本に比べればぐっと安い値段で本物の舞台を見ることができたので、月に2回はオペラを見るようになった。ときにはシーズン中のプログラムを調べて、隣町の劇場などにも行ったが、期限が来て日本に戻ることになり、日本ではオペラの料金がきわめて高いので新国立劇場などで2度ほど見ただけで、この20年ほどは舞台を見ていない。唯一、10年ほど前、南米に行った帰りに寄ったニューヨークで、メトロポリタン歌劇場は無理だったが、隣のニューヨーク・シティ・オペラの券が変えたので「マダム・バタフライ」を見たのが最後になった。だから、そんなに数多く「オペラ」の舞台を見たとはいえない。一時、ヴィデオでオペラを見ようと何本か購入した。ただ、VHSヴィデオはもう時代遅れのメディアになってしまって、これも10年以上見ていない。今は、DVDで持っているリチャルト・シュトラウスの『薔薇の騎士』とモーツアルトの『ドン・ジョバンニ』だけをたまに見る。
 それで、このブログで「オペラ」をとりあげようとしたのは、今読みかけの村上春樹『騎士団長殺し』第1部に、『ドン・ジョバンニ』の第1幕の場面を絵に描くという記述が出てきたので、あれはどういう物語だったか、記憶を辿ってみようと思ったのだ。ただ、どういう形でとりあげるか方針が要る。代表的なオペラ作品を順に並べていくか、あるいはベルディ、モーツアルト、プッチーニなどオペラ作曲家論でいくか、マリア・カラス、ドミンゴ、パパロッティ、カレーラスなどオペラ歌手論はさほど聴いていないぼくにはとても無理だ。やっぱり、19世紀アートの粋・華である「オペラ」、20世紀にはもう過去の残影となって文化財になった「オペラ」の歴史社会学的な考察にするしかない。そのための補助線が要ると思って探していたところ、これも偶然図書館で目にした岡田暁生の中公新書『オペラの運命』をみつけた。副題は、十九世紀を魅了した「一夜の夢」である。それに、もうひとつ、吉田秀和さんの「オペラのたのしみ」というのがあった。
 ということで、まずは基本的な土台について。
 
 「能や歌舞伎、中国の京劇、ジャワの影絵芝居、アメリカのミュージカルなど、歌芝居(音楽劇)のジャンルは枚挙に暇がない。音楽劇はいつの時代にもどの国にも存在していた。だが歌われる劇なら何でもオペラというわけではない。西洋式オーケストラによって伴奏される歌芝居ではあるが、例えばミュージカルは「オペラ」ではない。それどころか歴史的にも形態的にもミュージカルよりはるかにオペラに近いはずのオペレッタですら、ヨーロッパではオペラとは厳格に区別されている。ヨハン・シュトラウスの『こうもり』を唯一の例外として、正規のオペラ劇場は絶対にオペレッタを上演しないのである(ドイツの地方都市の劇場では両方を上演するところもあるが)。庶民のものであるオペレッタはオペラ劇場の「格式」にふさわしくないというわけである。さらに言うならば、オペラ劇場で上演される演目の中にすら、果たしてそれを協議の意味での「オペラ」と呼んでよいものかどうかためらわれる作品が少なからず存在する。ベルクの『ヴォツェック』やストラヴィンスキーの『エディプス王』といった二十世紀オペラの大半がそれである。これらは便宜上オペラと呼びならわされてはいるが、むしろ「もはやオペラとは言えないオペラ」とでも言った方がふさわしいような作品である。あるいはワーグナーの楽劇(とりわけ『トリスタンとイゾルデ』)やドビュッシーの『ペレアズとメリザンド』を考えてみてもいい。これらの作品はオペラと言うにはあまりに「芸術的」にすぎると言おうか、オペラのイメージに不可欠のあの悪趣味すれすれの装飾性と豪華絢爛さを欠いている。「知的エリート向け」にすぎると言ってもいいだろう。オペラ劇場の定番レパートリーであるこれらの作品ですら、狭義の意味での「オペラ」とは言い難いところがあるのである。
 それでは「狭義の意味でのオペラ」とは何か?私にとってのそれは、個々の具体的な作品というよりむしろ、ある特定の「場」、つまり十九世紀のパリやミラノやミュンヘンやウィーンのオペラ劇場に象徴されるような世界である。オペラの魅力にとりつかれた人なら誰でも知っているように、この芸術は特定の時代、特定の地域、特定の社会階層、そして何よりも特定の雰囲気ときわめて密接に結びついている。深紅の絨毯やシャンデリアの輝き、シャンパン・グラスのふれあう音、馬車(今なら高級乗用車)で劇場に乗りつける燕尾服やイブニング・ドレス姿の紳士淑女、香水と高価なアクセサリー、客を丁重に向かえる案内係、ロココ風の金細工を施された椅子、舞台に投げ入れられる花束、そして天井桟敷のファンたちのサッカー競技場顔負けの熱気とかけ声――これらが渾然一体となって醸し出す雰囲気こそが、私にとっての「オペラ的なもの」の原型(プロトタイプ)なのである。オペラ劇場は封建貴族社会と近代市民社会の出会いの場であった。そこにはいわば、最高級のフランス料理店のごとき格式の高さと、場末の芝居小屋の熱気とが同居している。そして今でもパリやミラノやヴェネチアやミュンヘンやウィーンのオペラ劇場の一夜においては、宮廷文化の残照と市民社会の熱気とのこの奇蹟的な融合が蘇ってくるだろう。私にとっての「狭義の意味でのオペラ」とは、まずはこうした「場」であり、そしてこの「場」にいかにも似つかわしいような作品たちなのである。
(中略)
 本書はすべての時代に万遍なく目配りすることを意図してはいない。本書の中核をなすのはあくまで、十八世紀末のモーツアルトから二十世紀初頭のリヒャルト・シュトラウス/プッチーニまでの時代であった。この百数十年こそはオペラの黄金時代であり、オペラが最もオペラらしい時代であった。いまだにオペラの上演レパートリーの九割がたがこの時代のものであることは偶然ではない。バロック宮廷文化の名残りが、新しく台頭してきた市民層と溶け合って、あの夢の舞台を作り上げたのが、フランス革命と第一次世界大戦に挟まれたこの百数十年だったのである。もちろんバロック・オペラが次々に復活上演され、また二十世紀オペラにも徐々に光が当てられ始めている昨今ではある。バロック・オペラにも二十世紀オペラにもあまり深く立ち入っていない本書は、人によっては時代錯誤的に見えるかもしれない。だが次のように言うことは許されるだろう。つまりバロック・オペラには、モンテヴェルディやラモーの天才にもかかわらず、私の考える「オペラ」に不可欠の、あの市民革命的な熱狂の息吹が「まだ」欠けている。本書ではバロック・オペラは(これこそがオペラの母体であったことは言うまでもないが)、あくまで「本来の」オペラ史へのプロローグとして触れられるにとどまる。また第一次大戦後の作品の多く(ベルクやストラヴィンスキーやショスタコーヴィッチなど)もまた、「もはやオペラでなくなったオペラ」として、考察の中心にはならない。ここにはオペラに欠くことの出来ないあの王宮文化の残照が「もはや」ない。私の考えるオペラ史は、バロック時代をプロローグ(not yet)、二十世紀をエピローグ(no more)とするところの、徹頭徹尾十九世紀的な現象である。
 そろそろ私の考えるオペラの定義をしておこう。「私にとってのオペラ」とは
 1 絶対王政(バロック)時代が始まる十七世紀に
 2 中央ヨーロッパのカトリック文化圏において
 3 宮廷文化として誕生し
 4 フランス革命以後は、新しく擡頭してきたブルジョア階級と結合し、
 5 十九世紀にその黄金時代を迎え、
 6 第一次世界大戦後の二十世紀大衆社会の到来とともに歴史的使命を終えたところの、
 7 音楽劇の一ジャンル
である。バロック時代にはオペラはまだ王宮文化でしかなかった。それは庶民には手の届かない高嶺の花であった。フランス革命を境にして、オペラのなかに市民階級の息吹が流れ込んだとき初めて、オペラは我々がイメージするところの「オペラ」になった。万事が味気なく合理化されていく産業革命と科学万能の十九世紀ヨーロッパにあって、オペラ劇場は豪華絢爛たるバロックの宮廷文化が最後の輝きを放つ避難場所となった。だが同時に十九世紀になるとそれは、広く市民階級に開放された場所になり始めた。かくして十九世紀のオペラ劇場は、過去と現在が、貴族とブルジョアと庶民とが一体になる「夢の空間」になった。しかし第一次世界大戦を境にこうした十九世紀的なオペラ文化は、なぜか急激に衰退していった。こうした「オペラ劇場興亡史」を描くことが、本書の目的である。」岡田暁生『オペラの運命 十九世紀を魅了した「一夜の夢」』中公新書、2001.pp.i-vi.

 「アイーダ」は、1870年にスエズ運河開通を記念して作曲を委嘱されたヴェルディが、いったん断ったのち、翌年再度の依頼に応じ1871年12月にカイロ・イタリア劇場で初演した大作。19世紀グランド・オペラの典型といわれる4幕の作品。古代エジプトを舞台に護衛隊長ラダメス(T)と、エジプト王女アムネリス(Ms)に仕える女奴隷アイーダが相愛の仲。実はアイーダはエチオピア王の娘で、エチオピアとの戦いに勝利して凱旋したラダメスに与えられた褒美は、王の娘アムネリスを妻にすることだった。結婚式当日に、ラダメスはアイーダとの脱走を図るが、潜んでいたエチオピア王アモナズロ(Br)に秘密の抜け道を教えてしまう。ラダメスは、アイーダとアモナズロを逃がし自分は捕らわれる。終幕でエチオピア軍が破れ、アモナズロも死んだのち、祭司長ランフィス(B)がラダメスに死刑を告げ、地下牢で生き埋めになるところにアイーダが現われ、天上での愛を祈って一緒に死ぬ。オペラ的には第2幕の「凱旋の場」をどれだけ豪華絢爛にするか、合唱やバレエも使って派手さを競うのが命。
 19世紀後半は、西欧列強による植民地帝国主義の最盛期である。南北アメリカ大陸に出ていったスペイン、ポルトガルが衰退するなか、海洋帝国イギリス、フランスが先行して世界各地に拠点を築き、オランダやドイツもアフリカやアジアまで出ていったが、イタリアは出遅れた。そこで狙ったのが紅海の出口にあるエチオピアである。ここの支配を企んだイタリアは、英仏の間隙をぬってムソリーニの時代までエチオピア地域の実質的植民地化に執着した。スエズ運河開通記念として作られた「アイーダ」は、古代エジプトの物語を借りてイタリア・ナショナリズムの植民地への欲望を壮大に謳い上げているとも思える。とくに第2幕のエチオピアとの戦争に勝利した将軍の凱旋のハデハデしさは、ベルディが当時のイタリア人を熱狂させようと意図したにちがいない。
 ぼくが持っている「アイーダ」のヴィデオは、ジェイムズ・レヴァイン指揮メトロポリタン歌劇場1989年のライヴ版、プラシド・ドミンゴのラダメス、アブリール・ミッロのアイーダ、ドローラ・ツァーイックのアムネリスという公演だが、第2幕第2場の凱旋は、舞台上に本物の馬まで出してこれでもかのスペクタクルである。



B.徴兵令は廃止されたはずだが…。
 新元号「令和」が昨日から話題しきりだが、「令」の字の下を「マ」と書くか、「了」と書くかはどっちでもイイようである。問題は「令」を漢音で「れい」と読むか呉音で「りょう」と読むか。「徴兵令」「箝口令」は「れい」と読み、「律令制」「令外之官」は「りょう」と読む。律は今の刑法、令は律以外の法、今の行政法や民事法、訴訟法などに当たる。「令和reiwa」は音が柔らかくて優雅じゃないかとメディアは宣伝しているが、「令」は「命令」である。せめて「和令」だったらなごやかな命令だったが、「令和」では「和せと命じる」という少々堅苦しい。まあ元号なんて、気分でしかないし個人的には使わないからど~でもいいけど・・。
律令とは、古代中国の法家思想に由来する東アジアでみられる法体系。律は刑法、令はそれ以外(主に行政法。その他訴訟法や民事法も。)に相当する。律令国家の基本となる法典。成文法。律令は魏晋南北朝時代に発達し、7世紀〜8世紀の隋唐期には最盛期を迎え、当時の日本や朝鮮諸国(特に新羅)へも影響を与えた。この時期の中国を中心とする東アジア諸国では共通して、律令に基づく国家統治体制が構築されていたといわれることもあるが、唐と同様の体系的法典を編纂・施行したことが実証されるのは日本だけである。このような統治体制を日本では律令制というが、中国にはこのような呼称は存在しない。

 「日露戦争「臣民」から「国民」へ:日本という国3
 近代国家となった日本の明治憲法に、人々は天皇の「臣民」と書かれた。では、「国民」という自覚はいつ、どう生まれたのか。「国民」による空前の暴動、日比谷焼き討ち事件の現場で考えた。
 1905(明治38)年9月5日、日露戦争講和に反対する東京・日比谷公園での「国民大会」の後、群衆は「国民のお祭りだ」と街へ繰り出す。路面電車や交番を焼き内相官邸を襲う。死者は民間人17人、負傷者は警官、消防士、軍人を含め約2千人になった。
 明治日本の思想に詳しい作家の関川夏央(69)と、日比谷公園からまず皇居外苑へ歩く。大会の参加者らは新富座での演説会に直行するはずが、二重橋前へ行進し、警官隊と乱闘になった。
 「陛下に届けという気分だね」と関川。「群衆の多くは明治生まれで、天皇とは憲法でつながる感じだろう。天皇は憲法以前に日本そのものという、維新の元勲が抱いたような距離感を理解しない」
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 京橋から銀座へ。群衆は路面電車十数台を止め、暴動が拡大。翌日に明治天皇が戒厳令を出す。後年の政府内の報告書は「指揮者は壮士風、書生風、職人風、車夫体」とし、「日比谷事件以降は、社会一般の利害を理由とする大規模の大衆運動頻発」と指摘する。
 関川は、この事件を「国民の主人公意識と被害者意識の表れ」とみる。憲法に基づく選挙権が広がり始める一方で、兵役や納税の義務がのしかかった。「初の国家的総力戦に近い日露戦争の渦中から国民が現れ、見返りへの期待を高めた。新聞も煽ったんだよ」
 朝日新聞社史によると、日露戦争で「号外戦も火ぶたを切る」。連戦連勝報道の中、国力の限界から講和へ動いた政府は交渉経過を伏せた。講和条件をめぐり高まった期待と、結果のギャップは激しかった。「政府の極端な秘密主義が大半の新聞を敵に回して国民感情をますます反政府、反講和へと押しやった」(同社史)。
 そんな「国民」の戦後の虚脱感は、自らも「戦時画法」を編集した国木田独歩が1906年に著した小説「号外」によく出ている。
 銀座の酒場。「ぼろ洋服を着た男爵」がポケットから日本海海戦などの号外を出しては朗読し、「号外が出なくなって、僕死せりだ」と嘆く。「自分」は「ほかに何か、戦争の時のような心持ちにみんながなって暮らす方法はないものか」と考える。
 関川は言う。「国民は、極東の島国の発展は自分の発展だと思う傾向を明治に強めた。国家と自我の肥大がぴったり重なった」
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 明治天皇は宣戦の詔勅で、満洲(今の中国東北部)を占拠したロシアは朝鮮半島を経て日本を脅かすと述べた。講和の詔勅でも、軍は備えを怠らず、人々は勤勉に働いて「国家富強の基を固くせむことを期せよ」と告げた。
 日露戦争で、国家と命運を重ねる「国民」が輪郭を現した。「屈辱講和」の政府はなじられ、「連戦連勝」の軍は重みを増した。国家の輪郭は講和で足場を築いた大陸へと広がり、より大きな戦争に至る。 =敬称略(藤田直央)」2019年4月3日朝日新聞夕刊、5面news+α。

 日露戦争が日本の大勝利と書き立てた新聞を信じて、終結講和のポーツマス条約で、多額の賠償金と遼東半島などの権益をロシアから獲れると期待した「日本国民」は、樺太の南半分の割譲と日本の大韓帝国に対する指導権の優位などを認めただけで、賠償金も拒否されるという思ったより控えめの結果に怒り、首相桂太郎や交渉全権小村寿太郎を非難罵倒した。そのなかで、日比谷公園に集まった人びとが暴徒化し、破壊活動に至ったのが「日比谷焼き討ち事件」。日本はロシアとの戦争にかろうじて勝つには勝ったが、もう戦費も兵力もボロボロ状態だったのに、情報が乏しいなかで高揚した「国民」は、これを屈辱としてさらなる軍の強化、対外侵略を推し進めることになる。
 もうひとつ、帝国憲法の下「国民」が「臣民」になるということは、「兵役の義務」を無条件に引き受けるということである。このことの重みを「国民」はまだよくわかっていなかった。日清日露戦役は日本軍の強さを実証したという神話になり、やがて成年男子はことごとく兵士となって戦場に赴く時代がやってくる。

 「1940(昭和15)年5月9日。東京都港区にあった海軍将校の親睦施設「水交社」に全国の府県知事らが集められた。
 お歴々を前に、訓示に立ったのが畑俊六陸相と吉田善吾海相の軍人2人である。
 畑陸相は「軍ノ精鋭如何ハ其ノ構成要素タル国民就中青少年資質ノ強弱ニ存シ他面大兵力維持培養ノ為ニハ人的、物的資源ノ増強拡充ヲ以テ不可欠ノ要件トスル」として「各位ノ積極的ナル協力」が必要と言い、吉田海相も「今後更ニ一層優秀ナル青年ヲ多数応募セシムルコトニ御尽力ヲ煩ハシ度イト存ジマス」と述べた。
 要するに、陸海軍とも優秀な人材確保に地方の奮起を求めたのだ。要員集めの実務を担ったのは、地方の役所だったからだ。

 明治維新150年だった2018年6月19日から8月15日の終戦の日まで、岡山市立中央図書館で「徴兵制―役場の文書から近代を振り返る」という展覧会が開かれた。展示の中心は、同市に編入合併された周辺町村の徴兵関連の行政文書である。
 終戦まで全国の市町村は、徴兵の名簿作成、徴兵検査、赤紙と呼ばれた召集令状の交付、出征の見送り、留守家族の扶助、兵士に送る慰問袋のとりまとめ、戦死の告知、死者の葬儀など膨大な仕事を担い、戦後も復員兵や戦没者遺族に対応してきた。
 中央図書館に保存される関連書類は二百数十冊。「常備軍御届連名簿」という1875(明治8)年の書類つづりを拝見した。上質な和紙に達筆で書かれ、最近の物に見える。整理にあたる学芸副専門監の飯島章仁さん(54)は「字は丹念に書かれ、戦死を伝える言葉も『痛惜に堪えず』などとあり、一言一言に重みを感じます。人の命に係わることだけに、粗末に扱うなどあり得なかったのでしょう」と話す。

 敗戦後、地域によっては軍や警察から書類の焼却が命じられた。その一部を持ち出し、保管し続けた人がいた。滋賀県旧大郷村(現長浜氏)で徴兵関係の仕事を担当する兵事係、故西邑仁平氏=2010年に死去=である。15年間、ほぼ1人で務めた。
 命令後、リヤカーで自宅にひそかに持ち帰った。生前、「村の皆が、生活や命をなげうって戦ったのに、処分したら戦争に行った人の苦労が無駄になる」と語っていた。長男紘(76)からうかがった。
 出生は誉れとされたが、現実は生死と裏表だ。西邑氏は「すまん、すまん」と泣きながら赤紙を渡したこともあった。
 書類を寄託された浅井歴史民俗資料館の富岡由美子さん(45)は「持ち出しが露見すれば国賊として処断されたかもしれない。戦地へ行かせた若者たちへの思いが生んだ勇気のなせる業と思います」と話す。
 市町村など身近の共同体に強いた兵事。日本軍の戦争は、この下支えなしに成し得なかった。岡山、長浜の書類から浮かび上がるのは、誠実に、時には切ないまでに、兵事を支えた地方役人の姿だ。

 2月10日、自民党大会で安倍晋三首相は「新規(自衛)隊員募集に対して、都道府県の6割以上が協力を拒否しているという悲しい実態があります。地方自治体から要請されれば自衛隊の諸君はただちに駆けつけ、命をかけて災害に立ち向かうにもかかわらずであります。皆さん、この状況を変えようではありませんか。憲法にしっかりと自衛隊と明記して、違憲論争に終止符を打とうではありませんか」と演説した。
 自民党は所属国会議員に「自衛官募集に対する地方公共団体の協力に関するお願い」という文書を配り、「選挙区内の自治体の状況をご確認頂くなど、法令に基づく募集事務の適正な執行」に協力を求めた。
 閲覧、書き写し、紙や電子媒体の提供。私は既に市町村の多くが募集対象者の名簿情報を自衛隊に開示していると知り驚いた。だが、安倍さんは、現状さえご不満なのだ。演説を受けて、安倍さんの地元の山口県などで名簿提供の動きも出始めた。
 日本が戦争をしなかった平成が終わる。だからこそ安倍さんに聞きたい。状況を変える、とは何か。詰まるところ、兵役を臣民の義務とした大日本帝国憲法に等しく改憲し、市町村に戦前同様、兵事を担わせる国へ、状況を変えることではないか、と。」朝日新聞2019年3月14日朝刊16面オピニオン欄、ザ・コラム。
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