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演劇の可能性 7 ポストドラマ演劇って? 香港と台湾 

2019-11-22 12:54:53 | 日記

 

A.演劇の重み・ドイツ

 素人のぼくはよく知らなかったのだが、現代演劇でホットな話題だという「ポストドラマ演劇」という言葉は、ハンス=ティース・レーマンが書いた『ポストドラマ演劇』という本に始まるらしい。ポストドラマ演劇とは、テクストや劇場の否定ではなく、演劇の歴史、思想、古典を学んで演劇の理念を現代に更新することだということらしい。つまり「演劇」概念の拡張になる。レーマンという人の略歴を見ると、1944年ドイツ生まれの演劇理論家で、フランクフルト大学名誉教授。1999年に公刊された『ポストドラマ演劇』は、現在18カ国の国語に翻訳されて、世界の演劇界に影響を与えているという。82年にアンジェイ・ヴィルトによるギーセン大学応用演劇学科の創設に参加、リミニ・プロトコルやルネ・ポレシュなど多くの才能を輩出。2002年にはフランクフルト大学大学院にドラマトゥルギー課程を設立するなど、教育者としても高い評価を受ける。F/T11に際して来日し、三回の特別講演を行った。ここでは、演劇における「政治的」なものというテーマの文章。

 「演劇における政治的なものが、政治的なものの中断でしかありえないのはなぜか

Ⅰ 演劇における政治的なものについての問いは、あまりに明白に思えて視界からこぼれるような考察から始めるのがよい。

 演劇は、何よりもまず人間の特殊な振る舞いであり(演戯する、観る)、ついでひとつの状況であり(ある種の集会)、それからようやく芸術であり、そして芸術の制度である。したがって、演劇の美学や政治学を論じるなら、単に演劇的表現の研究にとどまらず、振る舞いとしての演劇や状況としての演劇を表現と関連づけねばならない。

 振る舞いとしての演劇、そして共同体の特殊な状況としての演劇は古くからあり、人類と固く結びついているので、近い未来にも存在しつづけるだろう――だが今日の演劇制度が存続するかは分からない。よって現在支配的な演劇の制度化の諸問題は、私の問いには関係しない。同様に、芸術に関する特定の答えを押しつけることもしない。理論とは、指示(プログラム)を与えるものではなく、演劇はどこへ進むかという流行りの問答に与するものでもない。理論はむしろ、芸術が行なうこと(ときに行ないそこなうこと)のあとを追い、それを省察し、概念で語ろうと試みる。理論の希望とは、そうしたためらいがちな歩みが、芸術の潜性的ゆえにアクチュアルな問いについて、昨晩の上演の即座の評価や酷評よりも多くを捉えることである。

 ヘニング・リッシュピーターが提案してくれた「ポストドラマ演劇はいかに政治的か?」というタイトルに賛成したのは、この問いをきっかけに、いわばそれを徐々に解きほぐすことで、大切な赤い糸が見つかる機会を得られるからだった。あるものが「いかに政治的か」という問いには複数の答えがあるだろう。以下から選べ、「きわめて政治的」「かなり政治的」「どちらかといえば非政治的」「まったく非政治的」というわけだ。だがどうやって測るのか?また何を測るのか?もう少し議論しやすい問いにしよう。「いかに演劇は、たとえばポストドラマ演劇は、政治的か?」どのようなあり方で、いかなる条件と前提のもとで演劇は、政治的でありうるのか、政治的になりうるのか?この問いも依然もつれたままで、あまり実りのない議論を生みかねない。というのも、そもそも「政治的」という概念をどう考えるべきか、まったく不明なままだからである。

Ⅱ よくある「政治的」な演劇のイメージは、演劇が公的に議論されているテーマを取り上げ、あるいは自ら議論を提起し、そうして(少なくとも)啓蒙的効果を持つことだ。さて、啓蒙と(理想的には)議論深化の演劇が政治的にアクチュアルな問題を舞台上に再現することについては、それに対する批判自体がひとつのテーマになるだろう。批判は以下の認識とともに始まる。すなわち、現実の中で政治的と定義されたことをただ従順に口まねする危険にはじめからさらされている。そして政治的効果を狙う演劇は、まさに政治的効果を狙うがゆえに、すでにかたちづくられているもしくは歪められている観客の知覚の習慣に迎合し、それを追認せざるをえないのではないか?今や政治的な問いをうわべだけ日々絶え間なく示すことで、現在の社会の規範やコミュニケーション形式に関する根本的議論がシステマテックに排除され、正確かもしれないが型にはまった言説へとますます堕落するなか、すべては、政治的なものが普段はまったく知覚されない場所に政治的なものをかぎつける能力にかかっている。しかしながら、たとえこうした概念を無視しても、いわゆる「政治的」な演劇の問題は何も解決されない。ヴァルター・ベンヤミンはこう問いを立てた。現実の政治から娯楽的効果を引き出す手法はきわめて疑わしく、実際には非政治化に資するのではないか?ベンヤミン自身、(政治とは別のカテゴリーだが切り離せない)道徳領域の諸問題を表現に写しとることについて疑っていたのではなかったか?こうした問題を前にすると、演劇における実際の政治的効果はむしろ、狙いや意図がない方がまだ可能なように思われる。演劇は政治的教養の補講機関ではありえない。

 反論の余地がないのは、実際的で明白な以下の事実だ。即ち、演劇がかつての政治的な場をすべて失ったことは明らかなので、それだけを理由としても政治志向の言説は虚しい。演劇は、共同体が衝突を明確化し克服する中心として政治的なものを表現することもなく(古代ギリシャのポリス)、国民国家のアイデンティティ形成機関の役割も保持しなかった(ドイツにおける演劇の政治的機能とは長く国民国家の代替だった)。演劇はもはや階級闘争や他の政治的プロパガンダの手段にもなりえず、なるつもりもなく(政治演劇の黄金時代だった1920年代にとってさえそれが効率的だったかどうかは疑わしい)、今後試みることもありえない、プロパガンダの画策者たちは当然他のメディアを頼るから、政治的テーマの戯曲が書かれ、編集者の手が入り、印刷され、劇場が企画を立て、稽古がなされ、上演されるまで待っていては、政治的効果をもつには遅すぎることは明らかだろう。他方でしかし、よくあるように、演劇は遅れてくるが、その分なんらかの意味で「より深く」、より根本的に問題を表現できると言って自分たちを慰めるなら、それも自己欺瞞にすぎない。演劇はその瞬間そのものだ。『アンティゴネー』と『ハムレット』は、権力、法、歴史について、きわめて政治的な(そして政治的にきわめて現在的な)省察を表現しているが、その深い奈落は、2500年もしくは数百年を経た今では、我慢強い思考と研究なしには見えず、一晩の上演にそれはできない。

Ⅲ 政治やその類が一般に受け、社会参加しているように見えるからと言って、政治的なものについて大雑把に快適におしゃべりすることは慎まねばならない。だが反対に、厳密な区別で空気を薄くして、政治的なものを蒸発させてもならない。「なんとなく」私たちは知っている、どうあれ演劇は何か特別なあり方をしていて、直接的に政治的ではないが、しかしその成立と制作において、上演と観客の受容において、すぐれて「社会的」で共同体に関わる。政治的なものは演劇に書き込まれている、どこまでも、構造的に、演劇の意図さえ無関係に。いかにーそれが問題だー刻み込まれているこの碑銘を「展開」できるだろう?問題は、政治的なものを迎え入れることで演劇自身が変わることではなかろうか?より正確には、自らを「周縁化」することではないか?――レース・ボスハルトが指摘するように、私たちは「周縁から」よりも「周縁へ」の運動についてより多くを語るべきなのだ。思考すべきは、分りやすい政治的内容の演劇ではなく、政治的なものとの真の関係を迎え入れる演劇である。それが可能になる方法は、たとえば、「演劇を通じて何かを生じさせること」と、しかし再現せず、模倣せず、別のどこかで生じた政治的現実を舞台に持ち込まず、それはせいぜい主義主張を際立たせるにすぎないから、そうではなく、政治あるいは政治的なものを演劇の構造の中に到来させること、つまり、現在さえも破砕すること……」。昨年[2000年]十一月、ナンテール市のアマンディエ劇場におけるジャン=ピエール・ヴァンサンとベルナール・シャルトルーの演劇プロジェクト『カール・マルクス、未刊の演劇』に寄せて、インターネット・ジャーナル「ツェズーレン[中間休止]」第一号掲載のエッセイ「マルクス、それは誰か」にこう書いたのは、ジャック・デリダである。

 「現在を破砕する」とは、演劇においては別の声たちが聞かれねばならない、ということである(具体的にはフランスの不法滞在者たち、いわゆる「サン・パピエ」の安全を脅かされた状況が問題になっていた)。デリダは同じ関連でさらに言う、私たちは演劇の根源的な再政治化を必要としているのかもしれない。ただもちろん、そうした「演劇的挑発」は、伝統的な再現の秩序に適応してはならず、むしろ「演劇的出来事の形式、時間、空間を変化させる」――自らの政治的責任を追及することで美的境界を切り開く演劇、つまり、聞かれることなく、政治の秩序において代表されることもない異質な声たちを招き入れ、演劇の場所を開いて政治の「外」をつくること――「そのためには無論、演劇は単に集いの場になるのではなく、彼方へ進み、自らの演劇的使命を追求しなければならない」

Ⅳ 政治的なものを問うには、演劇を二つの証明に照らして思考することが重要である。一方で演劇は、視覚的要素と聴覚的要素の配列であり、それが一連の意味的、感情的、知覚的内容をもたらす。他方で演劇は、すでに指摘した通り、ひとつの特殊な状況である。すると以下のように推測できる。すなわち、政治的なものが関わるのは、状況の側面を探求することで視覚的要素と聴覚的要素の配列が乗り越えられるではないか――これがポストドラマ演劇美学の本質的な一側面である。だが実際には、まさに今、「伝達」としてしか演劇を理解できず、観客との(偽りの)一体感を配慮しすぎるあまり、多くの若い演劇人が形式的にありふれた演劇に回帰しつつある。いわゆる「リアリズム」へのこの新たな傾向(もちろんかつてのリアリズムが有したイデアリズムの芸術に対する挑発的な鋭さはまったく失われている)は、延々と続く形式の破壊にうんざりしていると言われる観客が一息つくにはいいかもしれない。けれども、そうして受け容れられようとする演劇は、真にリスクを負うことを恐れるあまり、演劇の政治的または芸術的可能性に届かないだろう。 

 政治的な演劇について問う場所がこうして名指されたので(だが決して答えが口にされたのではない)、答えになりうるものに着目して一本の線を引くことができるだろう、すなわち、教育劇におけるきわめてラディカルな試みによって演劇の形式を開き、演劇以外の言説的実践を軽やかに招き入れたブレヒトに始まり、時間の枠組みを打破して新たな出会いの状況を生んだり、不均質な複数の空間を開くことで演劇的状況をつくり出した演劇形式を経て、うまくいった場合は終始一貫した決断不可能性によって無意味と政治の深刻さの間(無‐意味の政治学)で演劇の使命と政治的行動を結びつけるシュリンゲンジーフのアクションへと至る線である。このようにリスクを負って演劇を開き(それが成功したか否かは個別に論じる価値があるし、また論じなければならない)、知覚と言論の潜在的可能性を変革した試みと比べると、単に作家や演出家の政治的見解や態度や気分を伝える演劇は、厳密な意味では非政治的なのである。しかも、演劇の形式自体に手を付けていなければいないほど、非政治的なのだ。「芸術における真に社会的なものは形式である」と若きルカーチは知っていた。

 出発点として単純な事実を確認しよう。演劇と芸術はさしあたり政治ではなく、政治とは別のものである。ここをめぐってこそ、政治的なものとその美的実践のありうるかもしれない関係についての問いが生まれる。いわゆる実験的演劇における政治的なものをつかむために、主題化すべきは「いかに」である。そうした演劇は、しばしばポストモダンと呼ばれ、実験的演劇とか、いまだにアヴァンギャルド演劇とか、ポップ演劇、視覚演劇、パフォーマンス的演劇、ポスト叙事演劇、あるいは具体演劇と呼ばれる。これらの用語はそれぞれ新しい演劇の特定の性質を示しているが、より包括的な述語である「ポストドラマ演劇」に分類できる。ポストドラマ演劇とは、ドラマの伝統に対する新たな演劇の反発と論争であり、1920年代の歴史的アヴァンギャルドと50~60年代のネオ・アヴァンギャルドに始まったドラマに対する「具体的否定」の数々として理解すべきものである。

 さて、よくある非難は、ポストドラマ演劇の欠陥は政治的なものの欠如だというものである。それは形式主義にすぎず(ヤン・ファーブル)、単に美的などうとでもとれる遊戯であり(ロバート・ウィルソン)、上演が成功しても洗練された抒情性しかなく(ヤン・ロワース)、そうでなければ楽しくポップに、醒めつつふざけているにすぎない(ルネ・ポレシュ)――だが政治的なものは――そしてまた啓蒙も、道徳も、責任も(古典の上演に関しても)—-まったくない、と。しかしこの主張は一方的なものにすぎない。ここには明らかに誤った、少なくとも疑わしい決めつけと、また誠実な要求という(常に疑問の余地ある)身振りがある。こうした非難では「政治的」という言葉が思慮なく用いられ、うわべだけの分かりやすいしるしとして機能する。だが重要なのは次の事実だ。すなわち、倫理的あるいは道徳的問題をふさわしい筋書きにして舞台上で討議するからといって、その演劇が倫理的あるいは道徳的になるわけではないのである。政治的被抑圧者たちが舞台上に現れるからといって、その舞台が政治的になるわけではない。ある演出から演出家個人の政治的態度が見てとれるなら、つまり演出家が公的に立場を表明するなら、それはそれで賞賛に値するが、本質的には他の職業でもできることをしているにすぎないのである。」ハンス=ティース・レーマン「ポストドラマ演劇はいかに政治的か?」(林立騎訳)F/Tユニバーシティ・早稲田大学演劇博物館編『ポストドラマ時代の創造力』白水社、2014 pp.226-234.

 ドイツでは演劇というアートの存在は、創造的文化の重要な一角を占めていると思う。映画やテレビドラマなどに比べても演劇への関心は高そうだ。学校教育の中でも演劇は正規に位置づけられ、大学には演劇学科があって研究教育も盛んである。その要素の重要なひとつが「政治的」なものをどう扱うか、「政治的」なものをタブー視する傾向のある日本の状況と比べてかなり違うのだろうと思う。日本も戦前から戦後のある時期まで、演劇が政治運動と結びついていた時代があったけれども、80年代以降は娯楽性を前面化した作品が、小劇場演劇にも広がった。レーマンの「ポストドラマ演劇」が問題にしているのは、あくまで演劇がほんらい追求してきたアートとしての創造的な作品から、「政治性」を排除するのではなく、安易に導入するのでもなく、演劇の歴史の中でできあがってしまったドラマという型を更新し枠を破って蘇らせる試みなのだろう。

 

B.香港と台湾

 今香港で起きている若い学生たちを中心にした抗議活動は、警察の強圧的な力で大量逮捕、死者も出るような事態になっている。日本のメディアは、中国政府の圧力を背後にした香港政庁への抗議に一定の視線を注ぎながら、人民解放軍のソフトな介入なども入れて中立性を保とうとしている。ぼくたち日本の多数派庶民は、なんだか学生が過激な運動をして政府に抑え込まれる騒動ぐらいにしか受け取らず、「一国二制度」の由来や香港が中国なのか、中国ではないのか、よくわかっていない。それは英国の植民地であったことが大きな遠因で、その意味では日本の植民地であった台湾の場合と、共通する面と異なる面がある、という基本的なことをまず理解しないと考えることすらできない。日本には関係ない、といっていられるだろうか?

「香港ナショナリズム 〔インタビュー〕台湾・中央研究院台湾紙研究所副研究員 呉(ウー)叡人(ルイイン) さん 

150年の英国統治下 培った共同体意識 運動通じて政治化

 香港市民の大規模な抗議運動は、本格化して5カ月を過ぎてもやむ気配がなく、激しさを増している。香港と同様、中国の大きな圧力に日々さらされる台湾から、この運動に強い関心を寄せてきたのが呉叡人さんだ。そこに見て取れるのは、英国の植民地だった歴史の中で培われた「香港ナショナリズム」であると指摘する。

――香港の現状について積極的に発言していますが、関わり始めたのは最近のことなんですね。

 「始まりは2012年。中国国民としての愛国心を育てる『国民教育』の導入に反対する運動が香港で起きました。そこで香港の月刊誌に頼まれ、ナショナリズム論の視点から文章を書きました」

 「中国が近代の国民国家として形成される過程で、肝心な時期は19世紀末から1945年までです。だがこの間、台湾は日本の植民地、香港は英国の植民地で、中国ではなかった。中国からみると両者は『遅れてきた中国人』。『中国人性(チャイニーズネス)』が足りない、改造の必要があると。そこで香港では、上からの国民形成として国民教育を施そうとした。そんな視点を示しました」

 —-でも、中国への帰属意識が強まったわけではなく……。

 「2014年初め、香港大学学生会の雑誌『学苑』の特集タイトルを見て驚きました。『香港民族 命運自決』だったのです。私の研究対象は歴史上のナショナリズムでしたが、これは、新たに生まれつつある香港ナショナリズムです。後に私自身も『学苑』に寄稿し、それを含むいくつかの論文を集めた『香港民族論』が香港で同年9月に出版されました。行政長官の普通選挙を求めた雨傘運動が同じ時期に起こって、爆発的に売れました」

 —-つい20年ほど前まで植民地だったのにナショナリズム?

 「植民地の境界は列強の覇権争いの結果で不自然なものです。アフリカの多くの国境が直線でしょう。でも、植民地が長く続けばその中でアイデンティティーが形成されます。香港も同じ。150年の英国統治が一つの共同体を形成しました。そして近年の運動が共同体意識を政治化したわけです」

 —-香港という共同体ですか。

 「英国は香港に、高水準の自治権を与えました。独自の通貨があり、パスポートを発行し、国際組織に加盟できる。唯一欠けていた要素は市民の参政権です」

 「英国は1950年代、香港を参政権がある完全な自治領に移行させようとしました。ところが中国が反対し、周恩来首相は香港を攻めると警告した。97年の中国への返還直前になって英国は香港の民主化に着手し、区議選を導入しましたが、遅すぎました。返還後は香港基本法のもとで厳しく制限された選挙になっています。未完のネーションなのです。若者がネーションを意識するのは偶然ではありません。以上が香港ナショナリズム出現の長期的要因です」

 ――では、短期的な要因は。

 「中国の強引なやり方です。一国二制度のもとで香港市民がイメージしていたのは連邦制でした。外交と国防は北京に任せ、ほかは自分が統治すると。しかし北京には容認できない。中央が全てを管理統制し、香港をもっと統合する方向です。だから強い反発が香港側から出てきた。今の運動のきっかけになった逃亡犯条例改正案は法律上の中国との統合。最後の一押しですね。香港の法治が崩れるとの危機感が噴き出した」

 —-ナショナリズム形成過程を台湾と比べるとどう違いますか。

 「台湾は80年代の民主化を経て、参政権の行使を通じてアイデンティティーを強めました。自分の運命は自分で選ぶという意識です。香港は参政権がないので、闘争を通じてアイデンティティーを固めていきます。雨傘運動もそうした自己決定権の追求です。それが香港ネーションというパズルの最後のピースなのです」

 「私の香港ネーション論は、香港の学者から人種主義だと批判されました。若者と違って40~50代の学者には受け入れ難かった。ただ、これは人種主義じゃない。自由、法治、多元主義などの価値を認めれば『香港人』です。もっとも、5年経った今は香港人という言葉をみな口にしていますよ」

 —-この5年間にも香港社会に変化があったわけですね。

 「香港ナショナリズムが広がると同時に、中国への態度が変わりました。香港の学連(大学生の団体)はもともと、中国の民主化が香港民主化の条件で、両者は一体だと考えていました。しかし雨傘運動の後、学連は急速に香港独立派へと変容します」

 —-だから天安門事件の集会に参加しなくなったのですね。中国への関心がなくなった?

 「絶望したのです。さかのぼれば1980年代、香港の知識人は中国共産党内のリベラル派にかけていた。天安門事件で失望しても中国の民主化運動を支援し続けました。ただその後、中国の民主化はどうも見込みがなさそうだ、という考えが浸透してきたのです」

 「日常生活での摩擦もあります。中国からの新移民が100万人を超え、香港の人口の1割以上です。彼らが公営住宅の割り当てや公的医療サービスを圧迫していると非難されている。中国からの買い物客が香港で日用品、食品を買い占め、問題化している。二つの異質な社会を無理やり融合させる動きと、それへの反発が生じているわけです」

 —-台湾での香港問題への強い関心も以前はなかったことです。

 「この4カ月は過去40年を合わせたより関心が強い。台湾はオランダ、清、日本、そして戦後に大陸から来た国民党と、言わば外来政権が統治した数百年の歴史を持ち、民主化で一つの解決をみました。とはいえ民主化は経済発展を保証しない。冷戦期にあった米国の保護もない。台湾経済の未来は中国にありました。当時の李登輝政権が抑えようにも台湾企業は中国の強い磁場に吸い込まれ、中国に依存する構造ができました」

 「その後の中国は経済力で台湾政治に影響を及ぼしています。中国資本が入り、抵抗も起きた。2016年の総統選で民進党の蔡英文氏が勝利するまでの流れは、明らかに中国への反発が背景にある」

 —-だからこそ、香港の現状にも共感しうるわけですね。

 自由への闘い 台湾社会全体の意識も変えた

 「2014年は台湾で対中接近策に反対するひまわり学生運動があり、すぐ後に香港で雨傘運動がありました。中国の圧力に直面して運命を共にする意識は当時、学生や市民団体に限られましたが、今、香港の自由への闘いは台湾社会全体の意識を変えています。香港警察の暴力はとても見ていられない。台湾でも大規模デモが2回あり、各大学には香港を応援するレノン・ウォール(応援のメッセージの貼り紙をする壁)ができた。香港の運動の前線が台湾まで延びて来ているように感じます」

 —-結局は中国とどう向き合うか、という問題ですね。

 「中国への幻想を諦めるべきです。『香港に真の一国二制度を』とよく言いますが、幻想です。中国は中央集権を志向する。分権につながる方向はありえない」

 「二つ目は経済の幻想。簡単に金儲けできる時期は終った。中国経済は下り坂です。三つ目は『中国は覇権を唱えない』という幻想。そんなわけはない。資本を蓄積すれば必然的に外へのドライブがかかる。政治的要因もあります。19世紀末の欧州は労働運動が起きて内部に対立を抱え、対外膨張で矛盾を緩和しました。中国もその古典的な道をたどっている。民主政治でないため国内矛盾を解決する方法がなく、抑圧するしかない。治安維持費が国防費を上回っている状況です。だから外へ向かう。それが『一帯一路』です。でも日本の中国観には戦後の親中メンタリティーが残っているでしょう?」

 —-いや、それはもう少数派だと思いますけどねえ。

 「どうでしょう。共産党の革命を高く評価し、東アジア現代史を中国の視点で見ていませんか。台湾もその視点で見ていませんか。『中国の脅威』は右派言論がつくる虚構だと思っていませんか。日本の、特にリベラル派は中国に対する自前の理論、新たな論述を打ち出さなくては。欧州や米国の中国観は変わっています。国際政治とは、難しい現実に直面し、選択を迫られるものなのです」 (聞き手 起動特派員・村上太輝夫)」朝日新聞2019年11月21日朝刊、13面オピニオン欄。

 最後の部分は、耳が痛い。さらに言えば、中国(中華人民共和国と中国共産党)を敵視し、台湾を中国の正当と認めていた日本が、台湾を捨ててニクソン政権の米中接近にならって田中角栄政権が国交回復をした1972年9月から、毛沢東と周恩来が死んだ1976年までの4年間、パンダ人気で日本が一気に中国ブームになった時代、文化大革命でぼろぼろだった中国を助け、まもなく復活した鄧小平の改革開放路線と手を組んで金儲けに利用した日本資本主義の功罪を、すっかり忘れて右翼の感情的中国非難に顔をしかめるだけでは、覇権国を追求する中国に対する独自のスタンスを立てることはできない。ただ突っ張るだけの安倍政権は、韓国とも中国ともまともな関係は築けそうもない。どうすればいいか、百年単位の東アジアの歴史を見直さないと…。

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