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水墨画に憧れた禅僧のこと  「無」の政治

2017-10-29 13:09:40 | 日記
A.水墨画について
 ぼくたちはこの世に「水墨画」というものがあることを知っている。たぶん、中学や高校の歴史や美術の時間に、雪舟の山水図などの図版が載っている教科書を一度は見ているからだろう。墨と筆も学校でちょっとだけ書道を習うから、これで和紙に絵を描けば水墨画になるんだろうと思う。でも、もともと昔の中国で始まったものだし、日本でも室町時代のものらしいから、現代で水墨画なんか見ることはないし、描く人もあんまり見たことはない。第一、水墨画が描く世界は日本の風景ではなく、岩山がそそり立つ深山幽谷であって架空の別世界である。

 「水墨画の発生は色彩の否定にある。それは老荘の思想からくるもので、張彦(ちょうげん)遠(えん)の「画体・工用・搨(とう)写(しゃ)の論」がそれを示している。
 それ陰陽陶蒸して、万象は錯布し、玄化は言ふこと亡く、神工は独り運(めぐ)る。草木は敷栄し丹碌の采(いろどり)を待たず。雲雪飄颺(ひょうよう)として鉛粉を待たずして白し。山は空青を待たずして翠(みどり)に、鳳は五色を待たずして綷(いろどり)あり。是の故に墨を運(めぐら)して五色具(そな)はる。これを得意と謂ふ。意(こころ)、五色に在ればすなはち物象乖(そむ)く。
 つまり花卉草木・雲雪・山は丹碌、鉛粉、空青などの絵具を用いなくとも、すでに色彩がおのずと表れている。色彩に気を取られていると、物象の真の姿は見失われてしまう、と述べているのである。《意、五色に在ればすなはち物象乖く》は『老子』の《五色は人の目をして盲ならしむ》に通じているし、「玄化亡言」はやはり『老子』の《希言自然》(まれに言うは自然なり)によっているという。従って「墨を運して五色具はる」という言葉が水墨画成立の理論的基礎となる、と笠井氏は述べている(笠井昌昭『日本文化史』、1987.ペリカン社)。
 水墨画が、この大きな自然を一気につかむことを本質としたことに注目すれば、山水はたしかに遠くから見るとモノクロームとなり、それにふさわしいであろう。古来「山」は霊気を発して天と地の中に立っており、神仙説によればそこに神仙が住むと信じられた。まさに「山」に「水」を加えることによって、そこに「マクロコスモス」(大自然)の世界を現出するものであった。名高い宗炳(375~443)は「画山水序」で、実景である山水の描かれた山水の「神」、人の「神」が相互に感応し、この「神」の感応から「道」が得られる、と述べている。その核心を描くためには、多くの色彩は不必要かもしれない。とくに北宋、南宋時代に水墨画のジャンルで范寛や郭熙などをはじめとして世界の美術でも傑出した作品を創造している。東洋では「ミクロコスモス」(小自然=人間)は、「マクロコスモス」(大自然=宇宙)から自立した存在ではなく、そこに融合した存在であったから、「山水」を描くことは両方を包み込むことであったのである。郭熙の『早春図』(台北故宮博物院)は後の西洋におけるレオナルド・ダ・ヴィンチの風景と人物に匹敵する世界を作り上げている。
 西洋にもモノクローム芸術がある。それはデッサンと版画のジャンルであるが、ともに十六世紀に自立した分野として確立した。レオナルド・ダ・ヴィンチがデッサンで、デューラーが版画でのその代表者であろう。前者の『聖アンナ画稿』(ロンドン、ナショナル・ギャラリー)は決して準備画稿ではなく、わずかに色彩がつけられているがそれ自体で完成したモノクロのデッサンである。また後者の『メランコリー』三部作は、白黒の版画として、色彩世界と拮抗する内容を持っている。中国の水墨画はちょうどこれらの傑作類と競い合っていると言えよう。
 ただ西洋においてはこのモノkローム芸術は主流ではなく、あくまで色彩絵画の伴走者であった。この二人の画家も多くの色彩画を描いている。このことが西洋の美術史家にとって、水墨画がマイナーな表現手段と考える理由となる。確かに水墨画の中には、「詩画一致」の言葉に甘えて、安易な表現がされるものも多い。詩・賛などの詞書に頼る面が、絵画表現を十全に行なわない傾向を生んでいたからである。東洋の水墨画が白黒の線によるものだけに、単に修練のためのものや準備画の役割でないにもかかわらず、西洋の白黒のデッサンのようなただ輪郭線だけの習作と似てくることも否定出来ない。従って東洋の美術史家が水墨画を称揚するとき、色彩表現の否定があくまで色彩を含意している上のものでなければならない。
 またその「余白の美」とか「形似の否定」とか言うときも、描かれていない部分に堅固な写実精神がなければ、リアリティが生まれないことをよく留意すべきである。雲や霧がたなびこうとも山の距離感がきちんと描かれていなければ、その「マクロコスモス」の現実感が生じないのである。大画家郭熙が「三遠法」(高遠、深遠、平遠)という視覚の変化を同一画面に描きこんだとき、それが山水の距離感を充分意識した上で、画面の動勢をとらえようとしたものであることを忘れてはならない。その批判精神が堅持されなければこの東洋独特の芸術表現は独善的なものになってしまうであろう。
 この点で日本の水墨画はどうであろう。日本では最初に十三世紀後半宋元画が輸入されたが、十四世紀末頃までは主に道釈人物画で、花鳥、山水はまだ浸透しなかった。この道釈人物画でも、固山一鞏の『葦葉達磨図』(玉蔵院)や蘭渓道隆の『達磨図』(向嶽寺)などが知られているが、やはり想像図であることが、すでに述べた「頂相」の肖像画に比べると、写実の強さを欠いている印象を与える。また中国に十二年滞在した可翁宗然(1345年没)が巧みな筆致で『寒山図』、『梅雀図』『山水図』を描いていても、中国画の深い空間意識が表現されておらず、あっさりとした日本的なデッサン表現になっている。黙庵霊淵(1345年没)も元に行きそこで没した禅僧であるが、日本にもたらされた『四睡図』(前田育徳会)は、その闊達な表現で「牧谿の再来」と言われた片鱗をうかがわせるにせよ、中国画家の強い画気が不足している。これは明兆、良詮といった画家も同じで、それが禅画の特徴といえば言えるが、この表現はやはり対象を自家薬籠中にできないもどかしさのなせるわざかもしれない。とくに北宋の范寛や郭熙を学んだはずの明兆が、その表現の深さ、強さよりも、南宋の穏やかな画風に近い恬淡とした筆運びであることも、それを示しているようだ。
 1400年頃になると自らも水墨画を描く足利四代将軍義持の保護もあって、禅画が盛んになった。有名な『瓢鮎図』(退蔵院)も、義持が如拙(1394~1428年頃活躍)に描かせたもので、水辺で瓢箪をもって鯰を押さえようと、袖と裾をたくしあげた男が立っている。左に篠竹、右手に芦がはえ、遠方には山がかすんでいる。男の表情がいちずで面白く、筆も巧みであるが、しかし瓢箪を手で摑んでいないことや、全体の簡略さが、絵画としては不十分な印象を与えている。これは絵の領する部分と同じほど、上の詩の部分が大きいこととも関係している。ここには三十人ほどの京都五山の禅僧の賛で、瓢箪をもって鯰を押さえるという禅の公案の答えを書き入れており、碁盤上の線を引いて下と区切っているが、絵の部分と調和が取れているわけではない。これは「詩画軸」として、この時代の傾向であるが、この詩画一致が、画面そのものの描き込みをあっさりとさせており、全体の絵画的な価値を低めているとも考えられる。」田中英道『日本美術全史』講談社学術文庫、2012.pp.324-330.

水墨画は、中国の唐代半ばに誕生し、宋(960~1279年、金に華北を奪われ南に王朝が移動した1127年以前を北宋、以後を南宋とする)の時代に最盛期を迎えた。また人物画・宗教画から山水画・花鳥画に流行が移った。士大夫が趣味で描く文人画と、翰林図画院(宮廷絵画工房)などに属する画家が描く院体画という分類もある。唐代までは書が重視され、絵画は下に見られていたが、宋代になると士大夫も画を嗜むようになったわけだ。南宋の李唐・馬遠・夏珪・劉松年が四大家と呼ばれた。宋に続く中国王朝は、モンゴルからの征服王朝の元(1271~1368年)だが、元でも水墨画は盛んに描かれ、院体画を脱して呉興派という新潮流を開いた。元末には黄公望、倪瓚、呉鎮、王蒙の「元末四大家」が趙孟頫の画風を発展させ、山水画の技法を確立したという(Wikipedia等参照)。
日本の画僧が中国の水墨画に憧れて、海を越えるようになるのは、元を滅ぼした明の時代(1368~1644年)で、日本は足利幕府の後期になる。いわば本場ではとうに最盛期が終わった美術をお手本にして、百年遅れて追いかけたのが、日本の水墨画ということになる。

「周文(1454年没)は如拙の弟子で、室町の水墨画の確立者として知られている。これまでの平遠の穏やかな光景を、縦長の構図の高遠で描いた。彼の弟子の中から岳翁蔵丘、雪舟等楊、小栗宗湛などの画家たちが輩出した。彼自身の作風の中の中国の「山水画」を日本に取り入れようとする努力が、弟子たちの意欲を喚起した面が多くあっただろう。周文は1423年(応永三十年)に朝鮮に渡ったことが知られており、そこで宋元の絵画の影響を受けた朝鮮画を知ったことが推測出来る。
 それ以前に『三益斎図』(1418年〈応永二十五年〉、静嘉堂文庫)が伝周文として知られているが、すでに南宋風の山水画をものにして、多くの賛とともに山水の中の書斎を伝えている。しかしその松にしても、岩山にしても線の堅固さがなく、中国画に比べて穏やかで弱い画面になっている。このことは帰国後の山水画にも言えることで、『水色巒光図』(1445年〈文安二年〉)は視点が遠くになり、筆が細勁になるとはいえ、その傾向は続いている。上の空白の部分が大き過ぎることがあるが、やはり描かれた空間がひよわで、空として見ることも出来ない。
 『竹斎読書図』(1447年〈文安四年〉、東京国立博物館)も同様なことが言えるが、かえって周文派の作品とされる『山水図』(シアトル美術館)の方がまだ距離感覚がきちんとしており、中国的なものが感じられる。『蜀山図』(静嘉堂文庫)のように、奇妙に切り立った山々が、峨々たる印象を与えず、その距離感も広がる霧で曖昧にさせている図もある。
 この傾向は、日本の画家の「山水」への憧憬、あるいは「ロマンチシズム」に基づいていることによる、と感じざるをえない。これは禅僧の傾向とも言えよう。この頃の日本の知識人たちが中国の伝統と文化に憧れ、「五山文学」と呼ばれるような文学を生んだのであった。水墨画を生んだ詩画軸も、いわゆる書斎詩画軸で、山水の中に書斎をもつ茅屋を主なテーマにしており、日本においては想像上の深山幽谷の世界であった。この深山「ロマンチシズム」は、彼らの隠遁趣味により助長され、善寺の塔頭の書斎に見られる中国の文芸趣味となり、その現実逃避の意識が弱い表現を生み出さざるをえなかったと考えられる。それは「近代」日本の知識人の、西洋への「ロマンチシズム」に基づく文化傾向と似ているかもしれない。
 しかし「ロマンチシズム」はひよわな憧れによるものだけではない。西洋の十九世紀「ロマンティシズム」が、各地の文学の古い伝説や叙事詩を取り上げたり、英雄的な出来事を絵画にしたり、遠く「オリエント」の幻想を描いたりしたのも、ギリシャ、ローマの古典文学だけでない、尽きぬ憧れの文学主義があったからである。ドラクロワがダンテや騎士物語から題材を取ったり、バイロンが詩人としてトルコ、ギリシャまで遍歴し、ターナーが風景画を光と水の幻想で満たしたのも、そこにないものへの憧憬の念が基本に存在している。従ってその表現が、「古典」「バロック」の美術ほどの堅固さは持たぬにせよ、「近代」人の盛り上がる「ロマン」への憧れを絵画化してあますところがない。無論これほど激しさは感じられないにせよ、日本のこの時代の禅僧を中心にした文人たちの動きに似たものがあるようだ。
 室町初期の禅僧義堂周信(1325~1388)が仏典の勉強より、外典(即ち儒教、道教など)の研究に熱中し、絶海中津(1336~1405)、玉畹梵芳などの詩僧が輩出した。孔子、釈迦、老子などを一致させ、『三酸図』を描いたり、陶淵明、陸修静、慧遠和尚が廬山に会して胸襟を開き破顔一笑している『虎渓三笑図』、さらには松、竹、梅を三教に見立てた『歳寒の三友図』など、仏教に囚われない新しい図像を登場させたのも、この頃の傾向である。詩画軸にあらわれた隠逸の高士の書斎生活に憧れる気質も、結局は中国の文明への強い憧憬の念なのである。」田中英道『日本美術全史』講談社学術文庫、2012.pp.330-333.

 珍しく新しい商品が国境を越えて輸入されるように、文化もまず輸入される。西洋美術史家の田中英道氏は、19世紀のロマン派、ドラクロワやバイロンやターナーの過去や南への憧れをあげているが、日本の場合は室町の禅僧画家たちの中国水墨画への憧れと似て、明治開化のフランス近代絵画への憧れも同様のパターンを辿ったともいえるだろう。



B.人間の劣化と文化の劣化
  今の日本で、いろんな分野で指導的な立場にいる人たちが、なにを価値としなにを求めて活動しているか、それを正確に測るのは難しい。いろいろな価値観や思想が語られ主張されているように見えるが、大手メディアから見えるのはいわゆる有名人、誰でも名前と顔を知っているような人物の言動に限られる。ネットにはもっと多様な声があるというけれども、そこで話題になるのは、おもにゴシップ週刊誌的な有名タレントのトリビアか、あるいは根拠薄弱で自分勝手なフェイク・ニュースへのコメントが大半だと思う。政治に関してはとくに、まともな議論や考察が交わされる場が必要だと思うが、メディアにもはや期待できないほど、感情的で一方的な言説が多い。

 「個性を持つ「私」導く政治どこに:高橋源一郎  (前略)
わたしはなんでも読むが、政治家が書いたものも読む。その人が何を考えているのかを知るには、書いた言葉を読むのがいちばん早いと思っているからだ。
 あるとき、小池さんと同じように個人的な人気で「風」を起こした、橋本徹・大阪市長のことをよく知りたいと思い、彼の本を集められる限り集めて読んだ。彼が政治家になる前、弁護士時代のものが圧倒的に面白かった。
 彼は、その中で繰り返し、相手をやっつけるためにはどんな手段をとってもかまわない、と説いていた。他人を信用するな、ただ利用するだけでいい、とも。彼の、その暗い情熱が、わたしは嫌いではなかった。
 小池さんの本を集めたのも、同じ理由だった。そして、その多さに驚いた。本の中で小池さんは、様々な事例をあげ、数字とカタカナ英語を駆使して、流れるように語っていた。流暢すぎて、こちらから話しかけるすき間がない。そんな感じがした。そして、しばらく読んでゆくと、どこかで読んだことがあるような気がしてくるのだった。
 「ビジネスでも政治でも『マーケティング目線』が大切です。私はマーケティングの感覚を大事にしており、『マーケティング戦略』のビジネス書も好んで目を通します。そこでよく書かれているのは、『自分がどう思うか』だけではなく……『周囲の環境から考えてどう判断されるか』が重要なのです。……常に自分の価値を戦略的に磨き続ける。常に磨き続けないと市場で埋没してしまうのです」(「希望の政治」)
 それはビジネス書の文体そのものだったのか。そして、この文体の中に、個性を持つ「私」はいないのだ。
 いや、そこには、そもそも誰もいない。「無」がぽっかり口を開けているように思えた。
 「周囲の環境から考えてどう判断されるか」がいちばん大切なのだから、なんにでもなれる自分がいちばんいい。めんどうくさい思想や信念はいらないからだ。
 「マーケティング目線」を大切にする政治家にとって、有権者は、「消費者」にすぎない。だとするなら、あの車の上から投げかけられることばのシャワーは、テレビのCMから流れてくるものとまったく同じなのである。
 いうまでもなく、「マーケティング目線」の政治家は、小池さんだけではないのだけれど。
 車の上のあの人にとって、「下」にいる有権者たちは、ヒットしそうな政策を喜んで受け取ってくれる「消費者」だ。寒い雨の中で、候補者たちの演説を聞きながら、寂しい気持ちになったのは、自分はただの「消費者」ではない、もっと別のことも考えているのに、見くびられているような気がしたからだろうか。
 小池さんが、一時的であれ、大きな「風」を起こしたのは、有権者がそこに、他の政治家にはない何かを感じたからだ。それが、単なる「消費者」向けの広告のことばかもしれないと気づくまでは。
 選挙戦最終日、小池さんが作った党と対抗するように生まれた、新しい党の新宿での演説会にも出かけてみた。演説の声は聞こえたが、話す人の姿は見えなかった。車の上からではなく、「下」で、聴衆の中に入りこんで話していたからだ。そのことは、わたしには好ましいことに思えた。「上」から見るのとは違う風景が見えるはずだから。
 それから、聞こえてくることばのなかに「選挙で終わりではなく、それからずっと、わたしたちをチェックしてください」というものもあった。そのことばも好ましいものに思えた。そこでは、どうやら、わたしは単なる「消費者」ではなく、やるべき役割があるようだったからである。
 周りで拍手が起こった。だが、わたしはしなかった。そう、まず私がしなければならないのは、そのことではないように思えたから。
 ドイツの思想家、ハンナ・アーレントは、死後刊行された「政治とは何か」という本の中に、いくつもの不思議な断片を残した。
 彼女は私的な生活や家族のつながりを超え、「家」の敷居の向こうにいる、他人たちと交わることが政治の始まりであるとした。
 その見知らぬ他人と、それぞれの思いと経験を自由に話し合うとき、初めて人は世界の多様さと広さを知る。自分の経験や意見以外のものが存在することを知る。それが「政治」が生まれた理由であるとした。「政治」は「政治家」のものではなく、人々がより自由であるためのものだとしたのだ。
 確かに「政治家」はいる。選挙カーも候補者も存在している。けれども、わたしたちを広い世界に連れ出してくれる「政治」はどこにあるのか。
 わたしは傘に雨粒があたる音を聞きながら、そんなことをぼんやり考えていたのである。」朝日新聞2017年10月28日朝刊15面オピニオン欄、歩きながら考える。

  小池百合子や橋本徹のような政治家が、どういう考えをもとに政治家になったかを知ると、この人たちは政治思想的にはほぼ「無」であって、有権者という「消費者」にいま何が売り物になるかを目敏く察知して、そこに大衆の注目をいかに演出するか、だけを考えていることがわかる。どうして政治思想が「無」でも構わないかといえば、市場で商品をヒットさせるには中身の効用よりも、魅力的な情報だけが有効だと思っているからだ。マーケティング目線とは、どんな商品でも最大限の利益を生み出せるかどうかの勝負なのだから。その利益とは、消費者のものではなく、企業の利益のことなのだから、政治家の場合、自分の権力にプラスになれば、どんな政策理念でも構わないことになるのは当然である。
  考えてみれば、「昭和の政治」では、左右のイデオロギー対立が基本構図を作っていて、「保守vs革新」がバランスを取る道をどちらも探っていた。それが冷戦崩壊で無意味になったと考えて、「保守」を唱えながら大きな「改革」を口にする右翼勢力が、時代遅れの「革新」などもう問題外だと無視した結果、この社会を領導する思想的基盤が「無」になり、そこに市場原理主義(ネオコン)と復古的ナショナリズムだけが浮かび上がってしまった。2017年の政治状況は、その総決算を目標とする安倍政権の憲法の書き換えを目前にしたわけだ。だから、憲法の問題はたんに9条に自衛隊を位置づけるとか、ほかの条文をいじるとか、具体案も大事だが、なによりも「戦後日本の理念」を根底から否定して、マーケティング目線で企業本位の経済成長を優先し、日本会議的極右国家主義に寄り添った方向にすすむために、とにかく一回改憲する必要があると思っているのだろう。
  だから、これから改憲発議、国民投票に向けてなにが価値なのか、なにが意味のある国家なのか、をおおいに議論する機会になるのは悪いことではない。政治思想の「無」には、中身を充填しなければならない。
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