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男優列伝補遺・ 丹波哲郎   東芝の破たん

2017-04-18 20:49:26 | 日記
A.男優列伝・補遺1 丹波哲郎 
 このブログで連載してきた「男優列伝」も、山崎努さんから高倉健さんまで7人、このへんでひと区切りにしようと思う。しかし、戦後日本の演劇・映画・TVドラマで大きな足跡を残した男優は、もちろん他にもいるわけだし、どうしてこの7人だけなのか、と思われる人もいるだろう。いちおう世代的には、戦後になって登場し、21世紀のはじめまで半世紀以上活躍を続けた人たちに絞ったが、年齢順でいえば、三國連太郎(1923年生まれ)さんが大正末の生まれ、続いて高倉健(1931年)、仲代達也(1932年)、平幹次郎(1933年)さんが昭和一けた生まれ、山崎努(1936年)、緒形拳(1937年)、加藤剛(1938年)さんが昭和2桁の戦前生まれである。大きな戦争が敗北で終わった時には、日本のどこかにいたわけだがまだ少年か若者だった人たちである。
   映画も演劇も、戦前には一定の観客を集める表現文化として日本に定着はしていたが、それが大衆的娯楽の中心に位置づけられ、才能のある若い世代の演出家、脚本家、俳優などが続々と現れてきたのは1950年代からとみることができる。しかし1960年代以降、日本が次第に経済的に豊かな大衆社会に移行するにつれ、映画産業は隆盛期を過ぎ、テレビに押されるように衰退期に入った。人材も映画からテレビに移る傾向もあったが、映画会社が囲い込んでいた体制が崩れて活躍の場は広がったともいえる。映像録音照明などの機材と技術は、確実に進歩していったので、俳優の演技術にもそれなりに求められるものが変わってきた。
   しかし、一定のレベル以上の演技ができる経験豊富な俳優は多くはないから、年齢を重ねて円熟するまでに多くは淘汰される。舞台での演技術は新劇と歌舞伎など伝統演劇では異なるし、カメラの前で演技する映画やテレビでの演技も、それぞれかなり違っている。それを、長い年月にわたって第一線で続けることのできるひとは、才能とチャンスに恵まれたごく一握りの人だといえよう。それはいわゆる大衆の人気とかスター性とかいうものとは必ずしも一致しない。
  この「男優列伝」でとりあげた人たちは、舞台や映画で鍛え上げられた独自の演技をそれぞれの時代と自分の年齢に応じて実現してきた稀有な人である。演劇も映画も、舞踊や音楽と違って、ある程度の長さを持った物語、ストーリーと登場人物の役柄というものがある。生身の身体を持った俳優が演じる以上、若者には若者の、壮年には壮年の、老年には老年のリアリティを具体的なかたちで滲ませなければいけない。それは俳優自身の生きている現実と感受性によって、表現は色合いを変える。それが映像的であるゆえに、観た人の記憶に長く刻印される。
たとえば、この人たちとほぼ同世代で、同じように映画で活躍した人を探せば、丹波哲郎(1922年大正11年生まれ)と渥美清(1928年昭和3年生まれ)も欠かせない名前かもしれない。「男優列伝」の補遺として、このお二人についてだけ、少し書いておこうと思う。

  一通りの経歴は次のようなものである(またWikipediaに頼ってしまうが)
  丹波 哲郎(1922年7月17日 - 2006年9月24日)は、東京府豊多摩郡大久保町(現:東京都新宿区)出身。身長175cm。血液型はO型。俳優活動は50年以上で、出演した映画は各社の超大作をはじめ外国映画10本を含んだ300本以上に及ぶ。テレビドラマでも活躍し、映画製作にも携わった。丹波プロダクション・俳優養成所 「丹波道場」を設立して後進の育成も手がけた。晩年、ベストセラーとなった『丹波哲郎の大霊界』など多数の書籍を著している。現在の新宿区百人町にあった丹波家の三男として生誕。家柄は系図を遡ると、平安時代に医学書『医心方』を著した丹波康頼に辿り着く。祖父は薬学者の丹波敬三、父は日本画家の丹波緑川、親戚には従弟で音楽学者の丹波明、元大審院院長の林頼三郎らがいる。
  成城中学から陸軍幼年学校を受験するも落第し、仙台の二高を二度受験するも不合格。親戚の林頼三郎が総長を務める中央大学法学部英法科へ無試験で入学したという。在学中に学徒出陣し陸軍に入隊、立川陸軍航空整備学校で整備士官としての教育を受け、上官には川上哲治がいた。戦後は大学に復学し、学業の傍らGHQ通訳のアルバイトをしていたが、実際には本人曰く「女の世話をしていただけ」であり英語はまったく話せなかったという。
   卒業後は団体職員となるも俳優を志し、創芸小劇場・文化座を経て新東宝に入社。陰のある二枚目としておもに敵役・悪役で活躍したが、1960年、新東宝社長・大蔵貢との対立からフリーランスとなり、フジテレビのディレクターだった五社英雄とコンビを組み、テレビドラマや映画に主演するようになる。今村昌平の『豚と軍艦』(1961)、篠田正浩(1964)、五社と組んだ1963年のテレビ時代劇『三匹の侍』などで時代劇・現代劇双方をこなせるスターとしての地位を確立。荒くれ者の漁師に扮した『ジャコ万と鉄』や、イギリス映画『007は二度死ぬ』(1967)に出演して、国際的に認知された。
   妻は北一輝のいとこムツの娘にあたる。また、妻の兄の大蔵敏彦は弁護士で、四大死刑冤罪事件の一つ島田事件で被告人の無罪を勝ち取った人物である。杉並区西荻窪に永住したが、俳優として確固たる地位を築いた矢先、愛人と隠し子がいるとの騒動が勃発。しかし「こんなことはタクシーの運転手さんも知っているよ」とあっさり認めてしまった。葬儀が行われた際、愛人とその子供(元女優の江畑絢子と息子である森正樹)が弔問に訪れた。息子の義隆は気遣って席を外し、二人に別れの一時を与えた。丹波が二つの家族を分け隔て無く愛したゆえの出来事と言える。
   丹波哲郎は三國連太郎の一つ上、学徒出陣の軍隊経験もある大正11年生まれの戦中派だが、三國さんとも通じる、ある種の常識を超越した豪快さを発揮した‘怪優’であった。こういうタイプの人は戦後の社会からは生まれにくい男かもしれない。晩年に霊界研究家、なにか怪しげな予言者のような大言壮語で、メディアの人気者扱いされたが、この人の俳優としての実績はタダものではない。仲代達也、三國連太郎とも共演した小林正樹監督の「切腹」(1962)、加藤剛、緒形拳も出ていた野村芳太郎監督「砂の器」(1974)など数々の作品で、その迫力ある演技は忘れがたい。しかし、ここでぼくがひとつだけあげておきたいのは、1985~86年に放映されたNHKテレビ時代劇「真田太平記」での、真田昌幸を演じた当時63歳の丹波さんである。
  池波正太郎原作の戦国ドラマであるが、信州上田の城主真田昌幸とその二人の息子、真田信幸(渡瀬恒彦)、幸村(草刈正雄)を中心に大坂夏の陣までを描く。NHKの本格時代劇といえば毎年作られる大河ドラマであるが、1985年は明治の自由民権運動川上貞奴(松坂慶子)が主役の「春の波涛」、1986年は第2次大戦以後を生き抜く女医(三田佳子)が主人公の「いのち」というように、大河が描く歴史ドラマがネタ切れで行き詰って、「朝ドラ化」した時期に、埋め合わせのように作られた戦国時代劇だった。原作は娯楽色も強く、女忍者も活躍する大衆小説だが、ここでの真田昌幸はドラマの全体を渋く引き締めて存在感を出す絶妙の演技で、丹波さんの演技者としての良いところが濃縮されたような作品だったと思う。先ごろ亡くなられた渡瀬恒彦さんの信幸も思慮深い風格があって、昨年の三谷幸喜の大河「真田丸」の単なる引き立て役の信幸とは雲泥の差であった。
   ここで改めて考えるのだが、戦中派の「日本の男」の男らしさ、というものについて、ぼくは相反する2つの強いイメージを持っている。ひとつは、誰が何といおうが自分のやること、考えることに文句は言わさない。自分はそれだけの辛酸を舐めてきた。おれは戦争で生きるか死ぬかの瀬戸際を生きてきた。仲間は無念を抱えて死んでいった。それを知らない連中が何を言おうが屁でもない!という揺るぎない信念。でもこれは、ものすごく傲慢な態度である。その迫力には若い者はとても敵わないので、みんな敬遠してしまう。けむたいオヤジである。
   でも、もうひとつは、自分が後輩の若い者に対してもう自分たちが経験した愚かな過去、悲惨な経験を繰り返すことがないように、降り注ぐ優しい目である。「男らしさ」というのは、腕力や武力を誇るマッチョなものではなく、世界に対する責任と矜持にこそある。地に足をつけて生きる人々の幸福と子供たちの未来に、確かな道筋をつけていくこと。戦国時代の武将も、何のために武器を持って戦ったのか?小国の領主が、せめぎあう大国の闘争のなかでいかに自分たちの領国と領民を守るのか、それを巧妙に少々の野心を持って生き抜いた真田昌幸という人物を、丹波哲郎は余裕をもって演じていた。
  俳優という職業は、世間の人々に映像を通じて注目され共感される、という特別な仕事をしているのだが、それはあくまで虚構の中の架空の役でしかない。しかし、その役に現代に通じる息吹を吹き込むのは俳優の仕事である。「真田太平記」のなかの丹波さんは、戦中派世代の傲慢さと優しさを同時に体現していたように、ぼくには思える。こういう人はもう出てこない。
 渥美清さんについては次回。



B.東芝の破たん。
 まったく個人的なことなんだけれど、ぼくは1949年10月の生まれで、今67歳を数えている社会的にはもう高齢者で消えゆくとされる人間です。ぼくが生きてきたのは、20世紀の後半から21世紀の現在まで、日本という国が壊滅的ともいえる戦争の敗北によって、国家のあり方から人々の衣食住まで一から考え直さなければならない時代に、なにもわからずに無力な存在として生まれてきた人間です。それが、なんの因果か、この国は奇跡的な復興を果たし、あれよあれよという間に世界有数の経済大国に駆け上って、蛇口をひねればお湯が出て、お腹がすけばいくらでも美味しいものが食べられる先進国になるという、夢のような世界を不思議とも思わずに生きてきたわけです。これは、悠久の世界史的に見て、地獄から天国へ這い上ったようなありえない、でも確実に現実です。
 あの1980年代のモノに溢れたバブル時代。日本企業は世界に進出して稼ぎまくり、覇権国アメリカの中心ニューヨークの中心企業や土地まで手に入れるほどの勢いを示していました。東芝はその日本企業の代表選手のひとつでした。それがいま、どういうことになっているか?人の一生はたかだか生きても80年。どん底から頂点へ到達したときは、日本人は有頂天でした。いまだにこの国の上層部にいると思っている人たちは、あの過去の栄光を懐かしんで、もう一度あの輝かしい時代が取り戻せるとあがいています。さらに、とんでもないことに、この国の政権を握った時代錯誤な人たちは、戦後日本の成功は、もっと昔の大日本帝国、天皇主権の神聖帝国こそ、われわれの理想だなどという妄想をうわごとのように口走るまでに、脳髄が劣化しています。恐ろしいのは、その妄想をいまの日本を改革する救世主のように洗脳された若い人々が、安倍晋三的なものに喝采を送るという、1930年代の悪夢を再現する状況です。

「社会時評・・現実を見ず原発に固執:東芝の末路は日本の末路  吉見 俊哉
 東芝は、その起源を幕末の「からくり儀右衛門」(創業者の田中久重)にまでさかのぼる。近代日本の電気化の中枢を担い、白熱電球から扇風機、ラジオ受信機、電気洗濯機、電気冷蔵庫、電気掃除機、自動式電気釜まで、国産一号機はすべて東芝が作った。名門といってこれ以上の名門はない。それが今、米国のウェスチングハウス・エレクトリック(WH)買収から約十年で解体に向かいつつある。
 パワハラと粉飾決算、高値で買収したWHの七千億円にも膨らんだ巨大損失。失敗に失敗を重ね、名門企業がたどるのは惨めな末路である。
 この没落には二つの相互的な原因がある。一方は、組織内での抑圧の連鎖と情報の横断的共有の欠如である。東芝では「チャレンジ」と称して、通常の方法では達成不可能な目標をトップが各部門に強要し、それが上意下達式に伝わる中で利益を水増しして収益が良くなったように見せかける不正会計が蔓延していた。
 「チャレンジ」は、もとは長年のトップ企業故の内向きの社風を変え、各人が外に打って出ることを勧める標語だったのだろう。それが危機の中で反転し、上司が示す目標に部下を服従させる抑圧の呪文となった。本当は、「チャレンジ」の前に「オープン」が必要だったのに、東芝には情報の公開性が著しく欠けていた。
 他方、東芝没落の根本原因は、二〇〇六年、巨費をつぎ込んでWHを買収したことにある。ちなみに買収されたWHは、かつて米国の電機業界を牛耳ったWH本体ではない。同社は一九八〇年代、日欧メーカーに追い上げられ営業不振となり、金融や不動産でも失敗、経営難から放送業に転身するが、それも買収されて消滅している。東芝が買収したのは、この過程で本体から切り離された原子力部門である。東芝はこの部門を評価額の数倍の超高値で買った。
 愚かな買い物だった。すでに当時、79ねんのスリーマイル島や八六年のチェルノブイリの事故を経験し、原発が決して安全ではなく、リスクの高い施設なことは世界が知っていた。原発は、発展途上国型の時代遅れの技術となっていたのだ。その技術になぜ東芝はしがみついたのか。
 東芝が原発建設に固執した理由の一端は、原発輸出が国策となってきたことにあろう。温暖化対策で二酸化炭素を排出しない原発の需要が高まると国は考えてきた。福島第一原発事故ですら、政府は原子力による経済成長という高度成長期にセットされた路線から転換できていない。
 こうして原発リスクへの認識が一変した後も、東芝経営陣はWHの経営悪化を頑なに認めず、いっそう無謀な原発建設計画を打ち出した。まるで旧関東軍だが、実は彼らはWHの経営実態すら正確に把握できていなかったのだ。WH経営に深くメスを入れず、相手に「東芝は現金自動支払機」とまで言わせていたらしい。この把握力の欠如が、粉飾決算発覚で大揺れの時期、WHが巨大損失の決定要因となる原発工事会社を買収するのを認める大失態ももたらした。
 東芝は、組織の閉鎖性と原発ビジネスへの視野狭窄的な固執によって沈んでいく。私たちが気づくべきなのは、東芝の今日は、日本の明日だということである。危機の実態についての情報を横断的に共有せず、上意下達の統制強化で外面を取り繕う組織に未来はない。それは、内への抑圧連鎖に加え、外の状況変化への適応力の弱さももたらすからだ。
 日本企業的な踏ん張りも、原子力は安いという発想も過去のものだ。原発は既に儲かる事業でも未來の技術でもない。未来は再生可能エネルギーと情報社会の中にある。日本は九〇年代、この歴史的転換に乗り遅れ、福島第一原発事故を迎えた。原爆を投下され、最悪の原発事故まで起こしたこの国が、なお世界に「核」をばら撒く政策を推し進めるのは著しく倫理的でないし、戦略的にも愚かだ。東電に東芝と、古い思考を脱せられない基幹産業が次々に解体に向かう中、時代からずれた既定路線を大胆に見直す転換ができなければ、東芝の末路はやがて日本の末路に重なることとなるだろう。 (よしみ・しゅんや=東京大学教授)」東京新聞2017年4月13日夕刊、7面文化欄。

 福島の事故であれほど反原発の世論が盛り上がったのは、まるで嘘のように、もう誰も原発の危険についても、政府の再稼働の動きについても、もはや無関心を決め込んでいます。そんなことをあえて話題にするのは、世間の空気を読めない「へんな連中」、そんなことよりオリンピックで日本を元気にすれば未来は開ける、という空気がじわじわと広がるのが、今の日本を覆っています。でも、これはまもなく手痛いツケが回ることは明らかで、栄光を誇った東芝だけのことではありません、ですよ。
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