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お城と軍隊2 大阪城  ペロポネソス戦争?

2020-07-29 18:05:40 | 日記
A.完成形としての大阪城
 日本の城というものは、天守閣や櫓、あるいは御殿など狭い意味の建築物ではなく、基本的には土木と建築の大規模工事によって築造されたものである。これを江戸初期の言い方では、「普請方」が濠や石垣などを造る土木担当、「作事方」が城門や塀や櫓、御殿建築の担当と別れていた。作事の建物は火事や老朽化でしばしば立て直しが必要なのに対し、「普請」は多くの労働を要する事業だが、一度できあがれば地震や水害などで一部が壊れることがあっても、建築物よりは長く残る。この築城が高度に発達して、巨大な城郭が作られ、諸大名が競って天下の総普請が行われたのは、天下人豊臣秀吉が没して、全国に再び大きな戦が予想された慶長3年から大坂夏の陣で豊臣が滅亡した慶長20年までの17年間だとみられる。それ以後も部分的には築城や改修は行われたが、全国に「お城」遺構として残っているものの大半はこの時期にできたものか、それ以前の仮設的な砦や山城である。
   この築城ラッシュ期を年表で確認してみると、鉄砲が戦闘を一変させた桶狭間の戦い(1560年・永禄3年)から、織田信長の安土城完成(天正4年・1576年)で城のもつ意味が変わり、羽柴秀吉の大阪城建設(1583年・天正11年)から、小田原・奥州平定で全国統一(1590年・天正18年)までが城の大規模化の第一期、秀吉没(1598年・慶長3年)、そして関ケ原の戦い(慶長5年・1600年)の勝利で徳川家康が将軍となり江戸幕府を開く(1603年・慶長8年)。まだ戦乱の危機は続いたので各地に城が築かれ、ついに大坂夏の陣(慶長20年・1615年5月)で徳川の天下は定まり、ただちに一国一城令(同年6月・1615年8月)が出され、大名統治下の領内に城は一つだけ残し、他の城は全部廃棄となる。これで一応、築城時代は終息する。

 幕府の本拠、江戸城は家康の関東移封(1590年・天正18年8月)以後、(1603年・慶長8年)に本格的な天下普請が始まり、秀忠・家光までの3代にわたって最終的な完成は1636年・寛永13年になる。秀吉が築き秀頼が継いだ大阪城は、夏の陣以後徳川の手で改修されたのだが、これは「改修」などという生やさしい工事ではなく、豊臣の城を全部壊し地下に埋めて、新たにまったく別の城を天下普請で作り直したものだった。そのことは大阪人には気に入らない事実であったようで、長く忘れられ、昭和3年に当時の大阪市長が「御大典」事業(つまり昭和天皇の即位を祝う事業)として、市民の手による大阪城復興を提案し、幅広い寄付を集めてコンクリート造りの天守閣を昭和6年に建設した。しかし、豊臣期の屏風絵をもとに作られた天守閣が建つ天主台は徳川が築いたもので、建物の歴史的にそこにあったものとは意匠も規模も違うのだ。だが大阪市民には「太閤の造った大阪城天守閣」と長く親しむうちに浪花を象徴する天守閣になっている。たとえエレベーターで昇るにしても…。

 「最近日本の各地で城郭復興の機運が高まり、「昭和築城時代」などという言葉さえ使われるようになってきた。それを苦々しいという人もないではないが、城に対する人びとの興味が高まってきたことは、ともかく結構といってよいと思う。それは日本独自の文化財としての城の意義に注意が向けられたのを悦ぶという意味である。但し城といっても現在の「城ブーム」は「天守閣ブーム」ともいうべきもので、昔の城全体に関する問題ではない。しかし何といっても天守閣は城の内で一番眼につく建築であり、昔から一城の眼などと呼ばれたのであるから、城といえば直ちに天守閣を思い出すのが常識となったのも無理はない。従って最近の天守閣ブームを城全体へのブームの第一歩と考えてもよいかと思う。但し現在のブームが何時まで続くか疑問が無いではないが、希望として一言した次第である。
 さて日本の城がどのような発達を遂げてきたか、まずそれを考えてみたい。大昔の日本の城は一般に簡単な設備のもので文化的産物として特に注目すべき程のものではなかった。現在各地の城址に残っているような城は、三、四百年以来のものでその以前すなわち戦国時代以前の城は大体簡素なもので、戦争の必要に応じて設けられた所謂臨時築城の類である。中国の都市が千数百年の昔から壮大な城壁をめぐらし、それに立派な城門などを備えていたのとは大いに事情を異にしている。平安朝時代に京都の町が城壁をめぐらし、羅生門などの城門があったなどは特例であって、それもどれ程堅牢強固な設備であったかは問題だと思う。中世の武家時代即ち鎌倉時代、室町時代でも、地方の豪族がその住宅や、附近の要害地に多少の防備を施して城として使用した位なもので、特に城という特別の施設をもっていたとは思われない。城が独自の建設物として注目されるようになったのは、戦国時代から桃山時代を経て江戸初期に至る時代で、およそ三、四百年前のことである。この時期こそ正に築城ブームの時代だということができる。それはいうまでもなく、信長、秀吉、家康の三巨人によって代表される時代である。
 日本の城は以上の築城ブームの時代に各地に一斉に築かれた。そうしてその後は江戸幕府が新しい築城を厳禁し、更に城の修繕にも厳重に干渉したため、江戸時代を通じて築城技術の上には発達が見られなかった。ただ幕末に至って西洋諸国の軍艦が日本に迫ってくるに及び、海防の必要からして新しい邦題を築き始めた。この砲台は全然西洋式の要塞で従来の天守閣などをもつ大名の城とはまったく異なってたのである。日本の城の時代はそこで終わってしまった。桃山時代の前後から幕末まで行われていた城には、西洋築城の影響があるという説があるが、私はそれを信じない。
 なる程桃山時代前後には西洋人が日本に渡来して、新らしい西洋文化が輸入されたことは事実であるが、それが直接日本の築城術を変化させたとは考えられない。鉄砲という新らしい武器が採用されて、槍や刀や弓を主要武器とした時代は一変してしまったが、鉄砲(幼稚な火縄銃)の採用だけでは築城の面目を一新させることはできなかった。それには大砲の出現が必要である。江戸時代の城は大砲を主要武器とした築城ではない。それは幕末の砲台即ち要塞築城に至って認められる。函館の五稜郭が従来の城といかに異なった築城であるかは、その平面図を見れば明らかである。これこそ確かに西洋築城の影響の下にできた城である。大砲使用の時代に天守閣などを建てたら直ちに破壊されてしまうだろう。要するに日本の城は日本の歴史の長い発達に伴って起ったもので、桃山時代前後に西洋文化と接触して新らしい刺激を受け、それによって築城が堅牢強固となったことは疑いない。しかし西洋築城の技術をそのまま取入れたものではない。以上の時代に城が目覚しい発達をとげたのは、日本の社会情勢に著しい変動が起こった結果でそれがあのような築城ブームを出現させ、天守閣のような壮麗な大建築を生み出したのである。あの天守閣だけを見ても三、四百年前の日本の歴史の目覚しい発展――それは革命ともいえよう――を想像しないわけにはいかない。信長秀吉、家康などによって代表される時代を最近の城郭復興に際して追想せざるを得ない次第である。」大類伸「刊行の辞」(『日本の名城』1959年9月)人物往来社。

 大類先生が早くから指摘されていたように、日本の城は織豊期に大規模化し、江戸幕府初期に技術的には完成してそれ以降は幕末まで、大名の居城・政庁と家臣たち武家が住む城下町として使用され維持されてきたが、元来の目的である戦闘・籠城のために使われたのは、関ヶ原以前の戦国期と幕末・明治のごく例外的な戦争(戊辰戦争と西南戦争)だけだった。明治維新と廃藩置県でほぼすべての城は、城としての機能を失い意味のない史跡になったと言われるが、実は軍事利用は明治の日本陸軍が発足したときから、ある意味では復活した。「大阪城とその周辺」(日本城郭協会編、1962年)にはこんな文章が載っている。

 「お城のこと      長谷川幸延
 この十月に、日本経済新聞の夕刊小説350回を終った。これは大阪城を背景に、道頓堀の開発者安井道頓を中心に書いたものである。それだけに、お城の内外については、しらべるのに苦労した。お世辞でなく、この本がもう一年早く出ていたら、さぞ助かっただろうと思うのである。
 一体、大阪城の、現在あるものは、我々の考える豊臣秀吉の築城当時のものとは、随分ちがった様相を呈しているのではないだろうか。蛸石だとか、竜虎石だとかいう巨石も、秀忠か、家光のときの改築のものらしい。その位置も、石山本願寺のあとに築城したというが、それよりやや北の現在の位置に築城されたものらしく、法円坂という地名がのこっている場所は、三の丸あたりにあたるのではなかろうか。
 空堀という堀あとがある。今はもう、ただ傾斜した地形だけがのこっているが、私の少年時代は空堀の形をしていた。築城当時、空堀という堀があったのだろうか。私は、冬の陣の後に埋められた外濠の名残りではなかろうかと思うが…‥。
 そんな事も、この本は教えてくれるだろうと思う。私の書く領分ではない。
 私が、はじめてお城の中を見たのは、小学校時代、校外教授でつれられて行った時なのだが、秋でお濠の水の碧かったこと、潜水に紅葉が赤く写っていた美しさのほか、何も覚えていない。ただ、傍らの空しい巨石に、眸をみはった印象だけがある。
 それとはべつに、大正二年五月だから、私は九つ。その日、武石浩波が民間飛行家として最初の長距離飛行、神戸、大阪、京都間を飛んだ。大阪城東練兵場は、その中継の着、離陸の場所になった。私は、若い叔父につれられて、砲兵工廠の門を通り、城を間近く見上げる場所に坐りこんで、西から飛来する武石機を待った。
 飛行機はなかなか姿を見せなかったが、その間、私は城の石崖の石の数をなどかぞえたり、走りによって、その急な傾斜の聳立を見上げたりした。叔父はその様子を何と見たのが、武石機が東北へ、京都の方へ飛翔し去った後、私に
 「お城、見せたろうか」
 といった。
 私の義父は、その時砲兵工廠に勤務していた。叔父とは、のみ友達である。義父に交渉し、義父は上役に相談し、営門を通過する許可を貰ってくれた。当時、お城は第四師団の司令部である。
 この時は、わりにくわしく見た。叔父は、末路は哀れであったが、その頃二十五六、文学や芸術にも通じていたので、いろいろ説明の役に立ってくれたらしい。切支丹灯籠も見たし、お金蔵の外観にも接した。そして、そこで見た兵隊の生態が、子供ごころにいつまでものこった。兵役に縁のなかった私に、この日の印象はいつも新しく蘇った。
 その二度のお城見物が、何方が先だったかは、今でもハッキリしていない。
 今のこっている姫路城の建物が、大阪城のそれに近いと聞いているが、まだ一見の機会がない。一度見たいと思っていたが、本書は、その渇をいやしてくれるにちがいないと期待している。 (作家)」日本城郭協会編『大阪城とその周辺』1962年、pp.43-44。

 この文章の筆者、長谷川 幸延(1904年 - 1977年)という人は、大阪府大阪市北区曾根崎に生まれ、曽根崎尋常小学校卒後、19歳で初戯曲「路は遥けし」でデビューした新派の劇作家。大正14年NHK大阪放送局でラジオドラマ、昭和14年東京に出て長谷川伸に師事、小説家となる。「法善寺横丁」「冠婚葬祭」「寄席行燈」「桂春団治」などの小説、「殺陣師段平」などの戯曲で知られ、その作品は50~60年代大阪ものとして映画化された。いわゆる大阪ものの作家として活躍した人なのだが、この子どもの頃の大阪城は、砲兵工廠や第4師団司令部という名が出てくるように、城内の多くに陸軍の施設があり、一般人は立ち入りできない場所だった。
 明治6年7月設置の陸軍鎮台軍管区と営所がどうなっていたかを見ると、鎮台が6つありそれぞれ軍管区に分かれる。第1軍管区は歩兵1連隊(東京)、2連隊(宇都宮→水戸→佐倉)、3連隊(新潟→六本木)からなり、第2軍管区が4連隊(仙台)、5連隊(弘前→青森)、第3軍管区は6連隊(名古屋)、7連隊(金沢)、そして第4軍管区(大阪)には8連隊(大阪)、9連隊(大津)、10連隊(姫路)があった。以下第5軍管区に11連隊(広島)、12連隊(丸亀)、第6軍管区(熊本)13連隊(熊本)、14連隊(小倉)となって陸軍が全国に配置された体制である。明治6(1873)年は徴兵令が発布され、一般国民から兵役徴集が始まったので、この各連隊が徴集作業を行った。
 さらに明治21年5月、鎮台を師団に改組した時は、*第1師団(東京)歩兵第1旅団(1連隊東京、15連隊高崎)、第2旅団(2連隊佐倉、3連隊東京)、*第2師団(仙台)歩兵第3旅団(4連隊仙台、16連隊新発田)、第4旅団(5連隊青森、17連隊仙台-秋田)、*第3師団(名古屋)歩兵第5旅団(6連隊名古屋、18連隊豊橋)、第6旅団(7連隊金沢、19連隊名古屋)、*第4師団(大阪)歩兵第7旅団(8連隊大阪、9連隊大津)などと規模が増え、各地に聯隊が置かれるが、その多くが県庁所在などに残る城跡に作られた。市街地の中にあって城壁や濠で仕切られ、閉鎖的な敷地に兵舎や練兵場を置くスペースがある城跡は都合がよかったのだろう。大阪城はとくに深い濠と高い石垣に囲まれ、関西圏を統括する第4師団司令部は、大坂城本丸に大きな建物を構え、それは今も残っている。


B.戦争を呼ぶ覇権争い
 米中対立はエスカレートし、互いの領事館を閉鎖するという外交上敵対関係にあるような事態になっている。一国を代表する在外公館として大使のいる公使館は、国交のあるそれぞれの国の首都に一つあるのが普通だが、領事館は大きな国の場合、関係の深い地域の主要都市に置かれている。領事館の仕事は、ビザの発行や自国民の把握や保護、現地での友好促進事業、それに情報収集などだが、この情報には外交的・軍事的な重要情報も含まれる。それがスパイ行為にあたるものか、そうでないか判断は難しいだろうが、結局国家のトップが相手をどう見るか、自分たちを脅かす危険な対抗勢力と見たときは直ちに戦争を誘発しやすいという。怖い話である。

 「ペロポネソス戦争は紀元前5世紀に30年近く続き、古代ギリシャを疲弊させた。歴史家トゥキュディデスは「覇権都市スパルタが、アテネの勃興に恐怖を覚えたのが戦争の真の原因」と解き明かした▼ここから生まれたのが「トゥキュディデスの罠」という言葉である。ナンバー2の国が勢力を伸ばすと、ナンバー1の国は不安に陥る。偶発的なもめごとから戦争に突入してしまうことを指す▼米国国際政治学者グレアム・アリソン氏は、現在の米国と中国の対立を往時のスパルタとアテネになぞらえる。過去500年間の戦争を分析し、覇権勢力と新興勢力が対立した16事例のうち実に12のケースで開戦に至ったと指摘。戦争を回避できた4件の知恵にこそ私たちは学ぶべきだと訴える▼米国が先週、テキサス州にある中国総領事館を閉鎖に追い込んだ。「スパイ活動の拠点」というのがその理由。対抗措置として中国側も、成都にある米国総領事館を閉鎖せよと迫る。混迷は深まるばかりだ▼「大使館の数は政治力を示し、総領事館の数は経済力を映す」外交の世界でよく聞く言葉である。在外公館の数を比べると、中国は大使館でも総領事館でも米国を抜き、首位に立つ。総領事館の閉鎖となれば、進出した企業や駐在員とその家族、留学生たちにも多大な影響が及ぶだろう▼何かにつけて、「目には目を」の報復に走る両国の姿を見ていると、いよいよ不安が募る。トゥキュディデスの罠に陥らぬよう双方を説得するすべはないものか。」朝日新聞2020年7月27日朝刊1面「天声人語」。

 20世紀の終わり、東側社会主義国の崩壊で世界は国同士の正面からの戦争の可能性は消え、あとは地域的な小規模の紛争やテロさえ抑え込めば、世界の秩序は安定すると考えていた時期を思い返すと、2020年の危機は新型コロナのパンデミックも去ることながら、再び国同士が戦争をする、という方向に向かっているとしたら、ぼくたちはどうすればいいのだろうか。
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