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イラン・ペルシア・シーア派・ん~ん yasukuni

2013-10-12 21:36:28 | 日記
A.アメリカの影と意志 
  新しく駐日本大使に赴任する予定の、かつて暗殺されたJ・F・ケネディの長女、キャロライン・ケネディ氏のことが注目されているが、この陰で日本の報道機関がほとんどこっそり隠すように報じた事実がある。最近来日した米国国務長官ケリー氏と国防長官ヘーゲル氏が、10月3日皇居にすぐ近い千鳥ヶ淵にある戦没者墓苑を揃って訪れ、花を手向けて参拝したという。このことの意味は大きく深い。アメリカの高官がここを訪れたのは最初であるという。なぜ、両氏はここを訪れたのか?それは「千鳥ヶ淵戦没者墓苑」こそ米国でいえば「アーリントン墓地」である、というメッセージであるからだ。「アーリントン墓地」はいうまでもなく、アメリカにとって国のために兵士として死んだ人を弔う場所、国家施設である。
  20世紀以来、世界最強の軍事力と経済力を誇ってきたアメリカ合衆国は、日本にとってかつては敵国、その戦いにみじめな敗戦と占領を経験してからは、最大の庇護者、同盟国であることは誰もが認める事実である。そのアメリカ合衆国の政府で、もっとも重要な外交部門の重責を担うのは国務省(United States Department of State)で、その長官(Secretary)は日本の外務大臣に相当する。その国務長官は、ときの大統領に並ぶほどの政治力をもった有力政治家が就任するのが常であり、ブッシュ政権時代は黒人女性ゴンドリザ・ライス(現スタンフォード大学教授)、オバマ政権では先のクリントン国務長官は、大統領夫人であり大統領選挙でオバマの対抗馬であった。そして今の国務長官は、民主党マサチュッーセッツ州選出上院議員をつとめ、これも大統領候補にもなったジョン・ケリー氏。
 そしてこれと並ぶ地位にある国防長官(Deputy Secretary)は連邦政府において国防政策を担当し、国防総省の長としてアメリカ軍(陸・海・空軍・海兵隊)及び州兵を統括する行政府の最高責任者である。オバマ政権でこの職を務めたのは、ブッシュ時代から引き継いだロバート・ゲイツ、そしてレオン・パネッタと元CIA長官経験者が続き、今年2月からはチャールズ・ティモシー・“チャック”・ヘーゲル(Charles Timothy "Chuck" Hagel)氏が務めている。ヘーゲル氏の所属政党は共和党で、1996年に初当選し、以降2期12年にわたって連邦上院議員(ネブラスカ州選出)を務めたが、2008年の上院選には出馬せず引退し、ブッシュの政策を批判したことで知られる。

千鳥ヶ淵から歩いてすぐ、ごく近い場所に靖国神社がある。安倍政権は、ことあるごとに靖国神社という場所に、過去の戦争で国のために死んだ「英霊」を祀ると考えるこの神社に、閣僚が参拝することを重要な行為として熱望している。できれば、総理大臣が国家を代表して靖国参拝をすることが必要だと考え、それが中国や韓国など隣国の大きな批判を招き、外交上の致命的なトゲのようになっているにもかかわらず、この試みをやめる気はない。この秋の例大祭にも首相参拝を実現したいという声も高まっている。
このような状況のなかで、アメリカの国務長官と国防長官が揃って靖国ではなく、千鳥ヶ淵を参拝したことは、アメリカがこの問題に関してどのように考えているかを明確に示している。日本がいまなすべきことは、過去の亡霊のような歴史観を捨て、冷静に賢明に東アジアの未来を考えることであり、これ以上復古的な妄想を行動で示すようなことをすれば、アメリカはそれを認めることはない、戦後を築いてきた日米同盟にとって、この方向は何の利益ももたらさない、というメッセージだと受け取るのが当然だろう。ぼくたちにとって再度考えるべきは、アメリカはアメリカの利害と戦略からこう言っていると確認したうえで、なぜ日本の頑迷な保守派はそれでも靖国にこれほどこだわるのか、をよく考える必要があると思う。日本という国家についての、思想的・歴史的バックラッシュ、明治維新以来の日本近代史への神経症的な転覆が画策されている、という状況に敏感であるべきだ。



B.シーア派イスラームの思想の核

井筒敏彦先生の教えるところは、イスラーム教という一見堅固な世界宗教の大伽藍の中にも、実はいろいろな変奏があり、とくに『コーラン』を字義どおり現実社会にあてはめて、正義をこの世に実現できるとする「外面の道」にすすむ立場に対して、「内面の道」である密教を突き詰めて考えるシーア派、そしてさらにスーフィズムという特異な思想が煮詰められていったということを、少々くどいほどの説明で展開していく。

「イスラームの公の顔ともいうべき顕教については、この前、主題的にお話しいたしました。ですからそれのいちばん大切な、中心的な基礎概念、あるいはキーワードが、「シャリーア」(イスラーム法)であることは、皆様もうご存じだと思います。このシャリーアに対しまして、イスラームの秘密の顔ともいうべき密教のほうで中心的位置を占めるキーワードはハキーカ(haqῑqah)――少し学問的にするために、近頃の書物や本ではhの下に点をうちましてḫと書きますが、昔の本や、いまでも通俗的な本ではペルシア語ふう、あるいはトルコ語ふうの発音でhaqiqat、hakikatなどと書いてある場合が多い。どれでもけっこうですが、haqῑqahとするのが原語の綴りに一番忠実な転写法です。
 ハキーカとはふつうのアラビア語では真理とか、実態とか、実相とか、リアリティーとかいう意味。今私がご説明している問題のコンテクストでは、一応「内的真理」とか「内面的実在性」とでも訳したらいいかと思います。とにかく、「シャリーア」と「ハキーカ」、この二つのキーワードを通じて、「外面への道」を行くウラマーの宗教観と。「内面への道」を行くウラファーの宗教観とが、イスラーム文化史の中においてこの上もない鋭さで対立するのであります。しかしこの対立の鋭さをはっきり理解していただくためには、どうしてもハキーカという言葉がこの特別な場面で具体的にどんなことを意味するかということを。もう少し分析的にご説明しなければなりません。
 一般にイスラームで「内面への道」をとる人々のものの見方の特徴として、どんな事物、どんな事態、どんな事件にも、必ずその奥に目に見えない隠れたリアリティーがあるという確信、そしてそれをどこまでも深く追求していこうとする態度があげられます。事物であれ、事態であれ、事件であれ、すべて外的なもの、外に現れたもの、外形をもつもの、つまり可視的なものは必ずその深層部分に不可視のリアリティーを秘めている、とこの人たちは信じております。すべて外的なものは内的なものの自己表現の場所である。ここで内的なものとか不可視のリアリティーとか申しますのは一種のエネルギーのようなものでありまして、形而上的エネルギーである限りにおいて、それはどうしても自己を外に向かって表現し、表出せずにはいられない。それが外的事物として現象してくるのであります。ですから、外的なもの、つまり現象的事物が存在的に無価値、反価値、虚妄だというのでは決してありません。ただ、外的なものをそれだけで完結するものと見て、その奥に、自己をそのような形で表現している内的リアリティ-を見ることを忘れてはいけないというのであります。
 外に現れた形の背後あるいは奥底にあって、それを裏から支えている内的リアリティー、それをハキーカと名づけるのであります。すなわちハキーカとは、可視的なものの不可視の根柢、文字通りの存在の秘密です。「秘密」ですから、勿論、ふつうの人の目には見えない。つまり普通の状態における意識では認知することができません。意識のある特異な深層次元が開けて、一種独特の形而上的機能が発動したとき、はじめてそこに見えてくる存在の内的リアリティーなのであります。」井筒敏彦『イスラーム文化 その根柢にあるもの』岩波文庫、185. 1991.pp.179-181.

 「存在の内的リアリティー」などといわれても、それを簡単に理解できる土壌は、日本には到底ありえない。でも、これまで見てきたように、日本というこれまた特殊な文化的土壌の中で、まったくこのイスラームの「内面への道」との接点がないかというと、そうでもないような気がしてくる。世俗の秩序・道徳への根柢的な拒否という思想は、日本の思想史においても繰り返し現れてきたことを、われわれは知っている。それは外来輸入の仏教の受容においても、儒教の消化においても、そして西洋近代のモダニズム受容においても、紆余曲折しながら変奏されているように思えてくる。

「それにつきまして、まず第一に注意しなければならないことは、同じく「内面への道」とか、ハキーカ第一主義とは申しましても、全部が同じ形で、同じ方向に進んだのではなく、大きく分けまして二つの非常に違うグループの人たちが二つの違った形、違った方向で内面的イスラームの発展に関わることになったという事実であります。つまり「内面への道」の文化に二つの違った系統、その一つはシーア派的イスラーム、もう一つはスーフィズムの名で西洋で知られておりますイスラーム神秘主義であります。シーア派的イスラームと神秘主義的イスラーム(スーフィズム)とは、ハキーカ中心主義である点において完全に一致いたしますし、大きな意味では、同じひとつの文化パターンを構成いたしますが、もともと歴史的起源も、思想傾向も、存在感覚も、著しく違ったものでありまして、これを混同することは許されません。以下、二つを分けて別々にご説明いたしたいと思います。」井筒俊彦『同書』、p.183.

 イスラーム出現以前から、ペルシアと呼ばれたイランに特有の思想を受け継ぐシーア派イスラームは、現世がそのまま神の国、聖も俗も区別しないスンニー派の立場とははっきり対立する。スンニー派のウラマーたちは、現世を肯定し、イスラーム法によって正しい生活をすれば神の国が実現すると考える。しかし、シーア派は『コーラン』を暗号の書として内面的に解釈し解読して、現世は聖なる次元と俗なる次元の葛藤の場であり、この俗なる世界と戦い、善と悪、光と闇の闘争という古代以来の、ゾロアスター教的世界観に通じる道を行く。

「王は公共的社会秩序の護持者であるのみで、法的権威すらありません。しかしそれはあくまでイマーム至上主義の原理の上に立つシーア派の政治理論の建前でありまして、事実上は、王制はシーア派的イスラーム世界の真只中に古代イランの絶対専制君主制度を復活させる可能性が大いにある。大変危険なものであります。古代イラン王朝のキュロス大王とかダリウス大王とかを引き合いに出すまでもなく、イラン・イスラーム文化に深い関係のあるササン朝の政治思想によれば、王は神聖なもの、神の意志によって選ばれた絶対君主でありまして、人民の意向や希望には全然関わりがない。その政治は本質的に神権政治。王自身が神ではないまでも――イスラームとしてはそこまでいくことはできません――神から直接に絶対的権能を授けられ、神に代わって神の意志を体して国家を収めるという、例の、さっきお話しいたしました哲人政治家と正面衝突になることは当然であります。イマーム不在の時期におけるこれら二つのシーア派的政治形態の対立と衝突のすさまじさ、先年イランに起った「革命」がそれをわれわれに示しました。
 
プラトン的――といっても極度にシーア化されたプラトニズムですが――哲人政治をとるべきか、それとも二〇〇〇年の伝統に支えられたイラン的絶対専制的帝王政治をとるべきか。人々は去就に迷います。そしてそれにはそれでシーア派独自の理由があるのです。というのは、シーア派的信仰による限り、この世で絶対的に信頼できるのは隠れたイマームただ一人だけだからです。しかもそのイマームはこの世にいまは現在しておりません。つまり誰もその言葉を直接聞き、その姿を直接目で見て、指示を受けることはできないのです。そこに根本的な不安定性があります。絶対的確実性というものはどこにもないのです。だから政治的形態についても、本当はどれが正しいのか、究極的には誰にもわからない。」井筒俊彦『同書』、pp.206-208.

  現世の政治的権力とそれがもたらす日常世界の秩序にとって、究極の真理をどのように現前させられるのか。自分たちの過去に、輝かしい歴史像を覆いかぶせて、心理的満足を充足するのは実に容易い。しかし、そんな妄想は愚かな空想でしかない。シーア派イスラームには、原理的に世俗王権を否定する伝統がある。では、日本というおよそイスラームとは無縁な世界ではどうか?
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