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教育制度と試験について 3 科挙と入試   

2020-03-01 15:02:15 | 日記
A.科挙の功罪について 
 2月、3月は日本では入試の季節である。寒いし雪が降ることもあって、受験生には厳しい最後の勝負と考えられてきた。進学率の上昇していた時代は、どこの試験場でも浪人生を含む多くの受験生がつめかけ「受験戦争」などと呼ばれていたが、近年は少子化が進み、親にも浪人させる余裕はなく、一部の一流校志望者以外は確実に入れる学校に決める傾向が強まっているようだ。長い間、大学入試の結果がその子の人生を左右すると思う人が多く、子どもを有名大学に合格させるために幼児期からすべてをそこに照準を定めて、塾や予備校に通わせる親はいまもいるだろうと思う。誰もが参加できる公平な試験の結果が、人間の社会的価値を決め、皮肉にも勝ち組は少数でほとんどは負け組の敗北感を味わうことになっていた。ほとんど神話のように。
 科挙は、1400年も続いた中国の官吏登用試験で、おそらく中国と中国人の世界観、人生観に大きな影響を与えていた制度だったと思う。今の大学入試は1時間か2時間で限られた設問に回答する数科目のペーパーテストで、それだけでは能力測定としては不足するという意見もあるので面接とか小論文を組み合わせる方式も検討されているが、科挙はもっとすごくて、2泊3日くらい連続した小部屋に缶詰めになって、出された課題について必死で筆で長い文章の答案を清書するというもの。しかもそれが1次発表に続き、2次、3次と繰り返して選抜される。四書五経をマスターした15歳くらいから始まる長期戦である。3年に1回くらいしかないので、ずっと受け続けると、30歳、40歳になっても受験生である。最終合格者は、一回の科挙で合格し進士となるのはおよそ150~200名程度。受験者は全国から勝ち抜いた有資格者「挙士」一万人以上が北京の会場につめかけるので、事前に予備試験でふるい落とし、それでも数千人が最終試験「会試」を受験したという。
 この科挙は、果たして中国社会にとって役に立ったのか?と宮崎市定氏は書く。

 「科挙は役に立ったか
 科挙は連続した長い試験の積み重ねであり、このためには政府としても少なからぬ費用をかけ、受験者はそれ以上に精神的、肉体的な苦痛をしのび、それこそ心身をすりへらして受ける難業苦業である。これだけの犠牲を払わねばならぬ以上、それに対して相当な効果がなければ割にあわない。個人の損得はしばらくおくとして、いったい科挙は社会的に見て、中国にどれほどの効能があったのであろうか。しかしこの問題を論じるとしても、単に一時の現象をとらえるだけでは解決されない。やはり長い歴史の上から見直して、公平な立場から論じなければならない。
 今から千四百年も前の隋代に最初に科挙を行なった目的は、これによって前代の世襲的な貴族政治に打撃を与え、天子の独裁権力を確立するにあった。それ以前のいわゆる六朝時代(三世紀から六世紀まで)は貴族政治の黄金時代であり、世上に特権的な貴族がはびこって中央、地方の官吏の地位を独占していた。この貴族政治はある点では日本の藤原時代に似ており、ある点では日本の封建時代にも似ている。もっとも、日本の藤原時代は藤原氏の一門が上層の官位を独り占めにしていたが、中国の六朝には世上に無数の貴族があり、それがおよそ四段階ぐらいにわかれてそれぞれの格式を守っていた。また封建制度下にあっては父が死ねば子がそのまま父の地位を継承するが、六朝の貴族はそうでなく、貴族子弟はその初任の地位と最後に到達しうる限界とが家格によっておおよそ定まっていただけで、子がいきなり父の死んだときの地位を受けつぐことはなかった。これらの点で両者はちがっていたのである。
 しかしそういう状態だと天子の官吏任用権ははなはだ狭いもの二なり、才能によって人物を自由に登用することができない。もし天子が従来の慣例を破って人事を行うと、貴族出身の官僚群から手ひどく反撃を食うのである。そこで隋の初代の文帝は内乱を予定して権勢の盛んなのを利用し、従来貴族がもっていた特権、貴族なるゆえに官吏になれるという権利をひと思いに抹殺してしまい、改めて試験を行ってそれに及第した者のみを官吏有資格者とし、多数の官僚予備軍を手もとに貯えておき、必要に応じて中央、地方の官吏の欠員を補充する制度を樹立したのである。これが中国における科挙の起源であった。
 隋はまもなく亡び唐がそれに代わったが、唐王朝も大体そのままこの政策を踏襲した。ただし唐は大乱を平らげて天下を取ったので、国初の功臣が新貴族となって残り、彼らの特権的な地位をそのまま子孫に伝えようと希望した。これに対し天子の方では科挙で採用した進士らを子分とし、要地にすえて思うままに政治を行おうとつとめる。ここに貴族群と進士群との軋轢が生まれるのであるが、だんだん旗色は進士派に向かって有利に展開していった。貴族の子弟でも、単に父のお蔭で官にありついた者は政府からも尊敬されず、貴族も出世しようと思えば科挙の門をくぐらなければならぬようになっていったのである。明らかにこれは貴族派の敗北である。
 唐の中期、玄宗の治世には、宰相になったもの三十一人のうち、進士は十一人で約三分の一を占めるにすぎなかったが、次に憲宗の時になると、宰相二十五人のうち、進士が十五人、約五分の三と比例が逆転してきた。こういう形勢になってくると、在来の家柄を誇っていた貴族も安閑としてはおれなくなる。いち早く転身した貴族のほうは長く生き残ることができる。范陽という地の盧氏という家はこの時世の変化にうまく適応した例である。すでに貴族という地盤があるのだから、科挙にせいだそうとすれば、いくらでも有利な機会をつかむことができる。そこでこの家は唐末までに一族から進士百十六人を出したといわれるが、こんな例はほかにない。そしてそれは貴族であればこそできた芸当である。
 これに反し、いつまでも貴族の誇りを持ち続けて、科挙などは平民風情のすることだと、たかをくくって超然としていた者はやがて後悔せねばならぬ時がくる。貴族出の名士の一人、薛元超はその晩年になってからつくづくと述懐したものである。自分は取りかえしのつかない失敗を三つしたが、かえすがえすも痛恨の至りだ。その第一は科挙を受けず、したがって進士にならなかったことだ。第二は身分の低い家から妻を迎えたこと、第三は朝廷の文化事業の総裁になりそこねたことだ、と。もっとも、第二、第三は、これを第一に比べればおそらく言うに足らぬ蹉跌(つまずき)にすぎなかったであろう。
 しかし実をいえば、大臣大将やその他高官の子供は、父の威光によってある種の低い官につく当然の権利を持っているので、別に科挙には応ぜずともいいのである。科挙はそういうつてのない低い階級の者のために開かれているのであって、そこへ貴族の子弟が割りこんでくるのは、ちょうど金持ちの学生がアルバイトに励むようなもので、貧乏人の仕事の領域を侵すことになるのだ。こういう考え方は宋代まで存在し、またそれを実行する人もあったが、一般にはすでに唐代から、貴族も平民と同じ立場で科挙をうけるのが美風だと考えられた。科挙のもつ平等、公平の利点の法が強調されたのである。
 このような傾向こそ、もっとも天子の好むところであった。唐代の天子も始めのうちは、貴族政治の別枠として、官僚制度という大きな網をはりめぐらし、そこへ平民出の官僚をぽつりぽつりとはめてきたところ、同じ餌につられて今度は貴族自身がその網の中へ入ってきたのである。天子にとっては思うつぼ、辛抱強く待っていたかいがあったのだ。唐王朝でまずこの網をはることを考え出したのは創業の君主、太宗である。太宗は科挙のあと、新進士が意気揚々として、列をつくって官庁から退出する光景を見て、
 天下英雄入吾殻中俟  天下の英雄はみな俺の袋の物になったぞ
と叫んだという。しかし、実際に自尊心の高い貴族をほとんどすべて袋の中のものにしてしまうには、唐一代三百年ほどの日数を要したのである。
 唐代は、六朝から続いてきた貴族政治から新しい官僚政治に移っていく過渡期と見ることができる。貴族政治から官僚政治への移行は、何といっても社会の大きな進歩である。そして科挙はこの社会的進歩に対して大きな貢献をなしたのである。この見地から見るかぎり、その歴史的意義はすこぶる大きいといわなければならない。しかもそれは今から千四百年も前のことである。ちょうどヨーロッパでは封建的な騎士制度がやっとできかかった頃にあたる。これにくらべると、科挙制度はあたかも次元を異にするほど進歩した制度であり、当時の世界においてその比を見ないすぐれた理念をもつものであったといえる。
 ただし唐代の科挙にはまだ実際上幾多の欠点がみられる。まず第一に、その採用数がはなはだ少ないことである。これは当時の中国の文化普及の範囲がきわめて狭かったことから起こる必然の結果である。まだ印刷術が実用的になっておらず、書物は手で写さねばならなかった関係上、非常に貴重であると同時に高価なものであり、したがって学問に従事できる者はきわめてかぎられた範囲に止まっていたのである。
 当時の官僚政治はまだ成立したばかりであり、歴史も経験も浅いために、必ずしも常にスムーズに運営されたとは限らず、時に官僚間に激烈な派閥争い、党争が展開されたのであるが、科挙そのものがその原因をなしている事実も指摘される。これが第二の欠点である。前にも述べたように、科挙では試験のたびに試験官を座主と称し、合格者がみずから門生と称えて親分子分の関係を結び、また同期の合格者が互いに同年とよびあって相互扶助につとめるが、その結合があまりに強すぎると、ここに派閥が発生する。この際、試験官たる者は労せずして多くの子分を獲得することができるので、その地位がまた奪いあいになる。こうして試験官を中核とした無数の小さな派閥が出来上がるが、もし進士以外の、立場のすっかり違う勢力が出現すると、進士らは大きく団結してこれに対抗しようとする。事実、そういう党派争いがもちあがって、政権争奪を繰り返すこと四十年の長きに及んだものである。進士党が天下をとれば、非進士党はことごとく中央から退けられ、非進士党が天下をとると、今度は進士党がみな中央から追い出される。そういうことを何回か繰り返し、その度に内治も外交もこれまでの方針をどんでん返しにするので、結局は中央政府の威厳を損ずるばかりであった。遂に当時の天子、文宗をして、外部の盗賊を征伐するのは何でもないが、朝廷内の派閥を除くのは不可能だ、と嘆息せしめたものである。
 宋代以後になると、以上二つの弊害に関するかぎり、面目を一新するほどに改良された。第一に科挙及第者の数は宋に入って俄然多くなってきた。これは同時に応募する者も多くなったことを物語る。中国社会は唐代から宋代へ移る間に飛躍的な発展をとげ、すっかり旧態をかなぐりすててしまうが、その根柢にあるのは何といっても生産力の増強、そしてそこからくる富の蓄積である。あたかもヨーロッパにおける近世初期ブルジョワジーのような階級が、中国ではすでに宋代に成立したのである。
 この新興富民階級は争って学問に志すにつれて、彼らを顧客として出版業が大いに隆盛になった。仏教、儒教の経典はもちろんのこと、同時代人の文集、語録、時事評論の文までが出版され、政府での官報を印刷にして配布した。いわばマス・コミュニケーションの時代に入りかけたのである。その結果学問が広大な範囲にまで行きわたることになり、科挙に対する受験生はほとんど全国の各地から集まってくるようになった。政府は自由にこれらの中から優秀な者を選抜して、官僚予備軍を形成することができたのである。宋代には三年に一回科挙を行なう制度が成立したが、一回におよそ三百名前後の進士を採用するから、平均すれば一年に百人ずつの考投函有資格者が出現する勘定である。そこで朝廷の重要なポストはおおむね進士の占拠するところとなり、唐代に起こったような進士対非紳士というような異質な者同士の対抗は行われなくなった。
 次に宋代の科挙が唐代に比して改良された点としては、殿試の成立をあげることができる。唐代には、科挙の各段階における試験はすべて官庁に任せきりであった。もっとも、それは天子の命令で行われたのであるから、別に天子がないがしろにされたわけではない。則天武后のような女天子が人気とりのために、みずから試験を行うようなこともあった。しかし当時の輿論にみると、それでは官吏の仕事を横取りするものだといって、すこぶる評判が悪かった。ただ実際問題として、試験を官吏に任せきりにすると、どうしても試験官とその時の合格者との間に親分・子分の硬い結合ができて、政治の公正を害するような弊害を生みやすい。そこで宋の初代の天子・太祖は、従来、文部省に当たる礼部に任せておいた貢挙のあとへ、天子みずから行なう殿試をつけ加えたのである。そして今後、各官庁で行う試験についても、試験官を座主と称し合格者がみずから門生と称してはならぬ、天子こそは全進士の座主であり、全進士はみな天子の門生である、親分・子分の関係は天子と進士との間にだけ成立すべく、その他の試験官がもし親分となるならば、それは天子の特権を侵害するひが事である、と宣言した。言葉をかえていえば、天子はいまや、進士出身者が組織する大きな政党の党首となったのである。もちろん試験のたびごとに、試験官とその時の合格者の間に、師匠と弟子、座主と門生との派閥が生じる弊害がすっかり跡をたったわけではない。しかし、それは大きな所帯の中での小さな派閥にすぎず、天子さえしっかりしておれば無視することのできる、微力な結合力しかもたなくなった。
 天子が政府機構の中で占める位置も、唐から宋へ移る間に大きく変化した。天子はもはや宮中の奥深くひきこもって二、三人の大臣と政治の最高方針を相談するだけの、実務から浮き上がった存在ではなく、今や重要な官庁をすべて直接の支配下において、行政の隅々までも指図する独裁者となった。取るに足らぬ人事の細部にいたるまで、天子の裁可がおりなければ実施にうつすことができなくなったのである。天子はいわば扇の要のような位置を占めており、もし天子がいなければ、中央政府の各官庁はバラバラに解体してしまうのである。科挙が最後の殿試のところで、天子の直接権力下に組み入れられてしまったのも、実はこういう他の行政機関の機能の変化と並行して起こったことで、天子独裁権の強化という大勢の必然的な帰結であったといてよい。
 科挙はこのような中国社会の発達にともない、その必然的な要求によって発生し、またその必然的な要求に伴って発展してきたのである。科挙がその効能を最大限に発揮したのもこの前後の時代においてである。先に唐代の天子は貴族勢力を抑えるために、今や宋代初期の天子はその独裁体制の確立のために、進士出身の若手政治家の協力にまつことをすこぶる切なるものがあった。そこで宋初には、進士出身者の官位の昇進はきわめて早く、特に殿試第一番の状元は、十年ならずして宰相の地位にのぼる例も少なくなかったといわれる。
 しかしながら、歴史上に現われるすべての制度には栄枯盛衰のあること、個人の生涯と変わるところがない。最初のうちは政府の方で欠員が多いのに人物が乏しかった。そこで科挙を盛んにして大いに進士を採用したが、そのうちに今度は進士の数が多くなりすぎて、割り当てるべきポストの数が少なくなってきた。いまさら進士合格者の数を減らすこともならず、従来の惰性で進士を出していると、遂には進士の就職難が起こるようになり、科挙はかえって政府にとり重荷と感じられるようになってきたのである。」宮崎市定『科挙 中国の試験地獄』中公新書15、1963年、pp.180-189. 
 科挙が日本の入試と違うのは、試験の内容が学校で教えられた知識を問うのではなく、そもそも学校での教育というものはあまり意味がなく、あくまで各自の学習、儒教書籍の読解と文章力、それに詩と書を問うものであったことだろう。ただ、日本の江戸時代の武士や上級町農民が「学問」と呼んでいたものも、この科挙を手本としたテキスト解読と漢文のリテラシーである。子どものときからこの素読(声に出して論語などを読み暗唱する訓練)と習字を身につけると、立派な文字と漢文が読めるようになる。明治時代の知識人の教養はこの基礎があったことで、その上に西洋の近代科学が吸収されたので、今とはだいぶ違ったものだったと思う。


B.どう思いますか:満足な生活
 朝日新聞の投稿欄「声」で、ときどきある投稿について読者から意見を求めて、それを並べて掲載する企画がある。以前、このブログである投稿をそのまま引用したら、実名・職業・在住府県・年齢が載っていた投稿者の意見として、実名はそのまま引用しないでほしいとの新聞社の担当から連絡をいただいた。新聞記事の一部ならどこに載っていたか引用箇所を示せばよいかと思ったけれど、投稿欄は一般の人なので、プライヴァシーに配慮すべきと思い、ご指摘通り実名等は削除した。今回も、非常に興味ぶかい記事だったので、朝日の投稿欄の「どう思います」企画に触れたいが、同様に投稿者の基本情報は引用しない。
 「私「可哀想な若者」なんですか? 1月23日=要旨
 私は14万円の月給で一人暮らししている。家賃は3万5千円。食費も自炊なら一日千円以下で可能だ。趣味はカメラ。欲しいレンズを買うためなら節約は全く苦ではない。
 昇給の見込みは微々たるもの。だから、結婚して家庭を築こうとは思わない。
 「可哀想な若者だ」と思った人もいるだろう。だが私には家庭も、たばこやお酒などの嗜好品に思える。金銭に余裕がある人がつくれば良い。私は自由に生き、自立していることに満足している。社会への不満も無い。
 お正月、親戚に「よい仕事に転職を」「結婚はした方がいい」とアドバイスをいただいた。
 私は間違っているのだろうか?」採録は朝日新聞2020年2月26日朝刊12面、オピニオン欄。

 この投稿に対して寄せられた、35歳から70歳までの5人(お名前から全員女性かと思われる)の意見が載せられている。この企画では、投稿とは別にテーマに詳しい「識者」にもコメントを求めることが多いのだが、今回は「識者」コメントはない。この「可哀想な若者?」という投稿への読者の反応の多くには、批判的な意見はなく個性的な生き方として肯定するのだが、ただ「結婚」に関しては、「家庭も嗜好品」に思えるという部分には女性たちがひっかかるようだ。より多くの金銭や地位の上昇より、自分なりの別のポリシーで生きるのも幸せだと認めつつ、はじめから結婚や家族に価値がないと言われると、昔のように未婚は一人前じゃないなんて言わないけれど、結婚はそんな悪いもんじゃないとは言いたくなるようだ。
 ぼくがこの投稿とその反応をみて、興味を引かれたのは、20世紀のうちは社会規範のひとつとして、暗黙に人のライフステージ上に設定されていた結婚と家族の形成が、もはや多様な生き方の選択肢の一つにすぎないと考えるのが多数派になったということだ。とくに「適齢期」という言葉があった時代を生きた女性たちを見て、娘たちは結婚と家族を拘束だと感じ、いっぽうの男性は、もはや結婚はメリットよりはリスクでありコストだと考えだした。いずれにせよ、それは個人の自由な選択に任せればよいと多くの人が考えるようになった。これはこの30年ほどの日本の大きな社会意識の変化だと思う。そして、法や制度は、この現実に対応していない。政治家たちの頭は、まだ20世紀のままの人が多いので、これがどういう未来を開くか考えることができない。これは単に少子化対策や婚活でどうにかなる話ではなく、もっと人々の価値観の底流を考えないといけないと思う。
 振り返れば20世紀が終る頃も、日本の若い男は昔より軟弱で覇気がない、みたいなことを言うオヤジがたくさんいた。ジャーナリズムは「草食系男子」とか「おたく」とか「ひきこもり」「ニート」などという言葉で、なんか世の中に背を向けた脱落者のような視線を振りまいていた。戦争の記憶のある人が多い時代は、「やっぱり戦争に負けたから男がだらしなくなった」と言っていたのが、やがて「まじめに働く男こそ成功するが、だらしない男は失敗する」みたいな言い方になり、次にやってきたのは「高度経済成長のときは男に自信があったが、バブルがはじけてダメ男が増えた」
でも、それはいつの時代でも若者を叱咤し非難するジジイの繰り言があった、という話にしないで、日本の戦後社会がなにを大きな目標とし価値としていたのか、そしてそれがかなり決定的に変化したということを、ちゃんと見なければ、問題は解けないと思う。
 そのことを、次回少しじっくり考えようと思うのだが、とりあえず手がかりはいろんな意味で行き詰ってきた資本主義をどうするかという問題(広井良典『ポスト資本主義』岩波新書)に行こうかと思う。
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