A.異文化の共生?矯正?強制?嬌声。
外国に初めて行った観光客は、そこで目にする現地人の言動や町の風景に、自分の知っている世界と較べて興味津々になると同時に、自分たちであれば当たり前と思っていた秩序や習慣が無頓着に放置されていると呆れたり不快になったりする。それが具体的な目に見える表象であるほど、「こいつらは、文明化が遅れた発達遅滞のレベルにある愚か者だから、もっと教えてあげないといかんな」などと考えてしまう。そうした善意の矯正(強制)は、半分以上誤解と傲慢にもとづいたお節介で、それが単なる観光客の感想であるうちは実害はないが、武力と権力を背景に戦争や植民地的統治にからむと、深刻な民族差別と文化摩擦を引き起こす。
人間の歴史をみれば、そうした自己中心的な異文化への偏見と蔑視は、枚挙にいとまなく、とくにキリスト教を背景に世界各地に植民地を拡大していった大航海時代のスペインやポルトガル、あるいは19世紀の西欧列強の帝国主義は、基本的に植民地人民を遅れた未開野蛮の民とみて、神の福音と幸福をあまねく宣布する使命とすら思って武器と聖書を強制した。そしてわが大日本帝国も、それを見習って朝鮮や中国を「遅れた劣等民族」とみなして、武力を背景に大陸の奥深くまで軍隊を送った戦争をやめなかった。その結果、みじめな敗戦を喫し、アメリカを主力とする連合軍に国土を占領され、「お前たちは無知で低能な封建国家・軍国主義の奴隷だったことを自覚し、これからは民主主義と個人の自由を学ばなくてはいかん」というご親切なGHQの指令に従って、戦後の「民主主義教育」が始まり、その矯正を具体化する文化政策としての映画による禁止と奨励がいかなるものだったのか、思いかえしてみる価値がある。
「戦時中の映画の上映禁止に加えて、占領軍は占領初期に日本映画界が題材として取り上げることを禁ずるものを定義した。1945年11月19日、CIEは日本映画に関する十三項目の禁止令を出した。それによれば、つぎのものが禁止の対象になった。
(1) 軍国主義を鼓吹するもの。
(2) 仇討に関するもの
(3) 国家主義的なもの。
(4) 愛国主義的ないし排外的なもの。
(5) 歴史の事実を歪曲するもの。
(6) 人種的又は宗教的差別を是認したもの。
(7) 封建的忠誠心または生命の軽視を好ましきこと、または名誉あることとしたもの。
(8) 直接間接を問わず自殺を是認したもの。
(9) 婦人に対する圧政または婦人の堕落を取り扱ったり、これを是認したもの。
(10) 残忍非道暴力を謳歌したもの。
(11) 民主主義に反するもの。
(12) 児童搾取を是認したもの。
(13) ポツダム宣言または連合軍総司令部の指令に反するもの。
この11月19日の禁止指令は、9月22日の奨励指令(映画製作方針十項目)と同様に詳細をきわめるものであった。占領軍の検閲官は、日本の映画界は、戦時中の過度に抑圧的な政府の規制の結果、絶望的な状況に陥っているので、綿密に指導し監視しなければならないと考えたのであろう。マッカーサーはのちに、日本人の平均の大人は(米国人の)十二歳程度の成熟度であるという発言をした。占領軍の映画政策にも、それと同様の父権主義が感じられる。占領軍のなかには、誠心誠意日本人の再教育に貢献しようとした者も少なくなかったであろうが、この種の優越感に満ちた親切心は、占領軍のなかではめずらしくなかったであろう。」平野共余子『天皇と接吻 アメリカ占領下の日本映画検閲』草思社、1998.pp.68-69.
これはある意味でしごく当然の措置であったとぼくは思う。戦後日本の統治責任者マッカーサーの任務は、日本を二度と狂信的なファシズムと強力な軍事独裁国家にしないこと、そのためにこの民度の低い日本人を徹底してアメリカン・デモクラシーと資本主義カルチャーにどっぷり漬かるように洗脳すること。それは昭和天皇との共同作業によって大きな成果をあげた。その成果が最初に実を結んだのは、サンフランシスコ講和条約で戦後の日本がいちおう独立国として国際的に認められた1951年には、マッカーサーの関心は日本の民主化ではなく、朝鮮半島のきな臭い共産主義との戦争だった。しかし、日本国内だけをみれば、食料と娯楽に飢えていた日本の庶民はチャンバラ時代劇の復活を歓迎し、この年4月に新しく発足した映画会社東映はその波に乗って躍進する。その歩みを確認しておこう。
「映画評論家の渡辺武信は「ヒーロー像の転換――やくざ映画はいかにして誕生したか」と題する論考においてプログラム・ピクチャーの本質にふれた後、戦後日本のプログラム・ピクチャーの中で時代を制した最強の路線は1950年代末の東映時代劇、50年代末から60年代前半の日活無国籍アクション、60年代後半から70年代前半までの東映やくざ映画の三つであると述べている。確かに氏の指摘のとおり、この三つの路線は戦後の大手六社の中で最も興行成績を上げた路線であった。だが残念なことに、この論考ではもっぱら日活アクションと東映やくざ映画が論じられ、東映時代劇については論及されていない。そこで、本稿では、この三つの路線の中から東映時代劇を取り上げ、その本質と特徴を論じることにより、なぜこの時代に東映の時代劇映画(以下時代劇と略す)が他社の路線を圧倒する人気を得ることができたのか、その理由について考えてみたい。そのためには、まず東映時代劇が全盛期を迎えるまでの東映の歴史をふり返ってみる必要がある。
東映の前身は、周知のとおり、東京横浜電鉄(現在の東京急行電鉄)を親会社として1938年(昭和13)に発足した東横映画株式会社である。設立当初の東横映画は映画館を経営する興行会社であったが、戦後の46年になると、映画事業の復興に伴って映画製作に乗り出す方針を打ち出し、社長の黒川渉三は製作責任者として満映(満洲映画協会)で製作部長をしていたマキノ光雄を迎えた。マキノ光雄は、いうまでもなく「日本映画の父」と呼ばれる牧野省三の次男であるが、マキノは撮影スタッフとして満映で美術課長をしていた堀保治や、娯民映画所長であった坪井與など、主に満映からの引揚げ者を集めた。それは、大陸から引揚げて来る映画人に職を与えるという東横映画のもう一つの方針があったからである。こうして製作スタッフの陣容を整えた東横映画は、大映株式会社と提携し、大映の京都第二撮影所(現在の東映京都撮影所)を借用して1947年に第一回作品『こころ月の如く』を製作した。
だが、独自の配給系統をもたなかった東横映画は大映系映画館に委託配給されていたため、予期したような配給収入が上がらず、製作開始一年足らずの間に「日本ハラワント会社」と揶揄されるような経営危機に陥った。そこで、この事態を解決すべく、東横映画は自主配給を決意し、貸しスタジオから自主制作を目指していた株式会社太(おお)泉(いずみ)スタジオを誘って、両者の作品を配給・上映する新会社、東京映画配給(東映配)株式会社を1949年に設立した。さらに、この年には大映の専属であった片岡千恵蔵と市川右太衛門がマキノ光雄の誘いに応じて東横映画に入社し、千恵蔵主演の『獄門島・前編』が東映配の第一回配給作品となった。翌50年には同じく千恵蔵主演の『いれずみ判官・前後編』がヒットし、これ以後、千恵蔵の遠山の金さんは当り役となる。
さて、こうして好調なスタートを切った東映であったが、外国映画の輸入制限の撤廃による洋画の著しい進出や、新東宝の自主配給開始による新たな第五系統の出現で配給網の拡張が予定通り進まず、そのため、太泉映画(50年3月に太泉スタジオは大泉映画株式会社と社名を変更)は50年9月封切の『野生』を最後に製作中止に追い込まれ、東横映画も、50年5月頃には経営不振から11億円もの負債を抱える状態となった。そこで、親会社として東横映画に巨額の融資をしていた東急電鉄は、映画事業から撤退するか、抜本的な再建策を講じるかの二者択一を迫られることになったが、その対策として浮上したのが東映配、東横映画、太泉映画の三社合併による新会社の設立であった。こうして誕生したのが東映株式会社だったのである。
新会社東映が発足したのは1951年4月1日のことであり、社長には東急専務であった大川博が就任した。大川は社長に就任すると、経営の合理化による再建方針を打ち出し、一作品の直接製作費を1100万円に抑えるなど、徹底した予算主義を敷いた。さらに52年からは東宝と結んでいた配給提携が不利であることを知って、自社で製作・配給のすべてを行う全プロ配給を断行した。そんな東映にとって朗報となったのは、51年8月から時代劇の製作本数制限が撤廃されたことである。
周知のように、時代劇は戦後、封建思想を助長するものとしてアメリカの占領政策によって厳しい統制を受けていた。特に、45年11月にCIE(民間情報教育局)が出した日本映画に関する13項目の禁止令の中に「仇討ちに関するもの」や、「封建的忠誠心または生命の軽視を好ましきことまたは名誉あることとしたもの」等の項目が含まれていたため、『忠臣蔵』はもとより、立回りも生命の軽視と見られたので、チャンバラ映画も作れないことになってしまったのである。そのため伊藤大輔監督、阪東妻三郎主演の『素浪人罷通る』(1947年)のような、チャンバラのない時代劇が作られたり、片岡千恵蔵の「多羅尾伴内」シリーズのように、時代劇の大スターが刀をピストルに持ち替えて現代劇のアクション映画に出演することになった。だが、この時代劇への厳しい統制も1951年にサンフランシスコで対日講和条約が締結され、日本が独立を回復するのに伴い解除され、戦前のように再び時代劇を作ることができるようになったのである。そして、これは東映にとって大きな幸運となった。というのも、東映には片岡千恵蔵、市川右太衛門をはじめ、月形龍之介、大友柳太朗といった、錚々たる時代劇スターが五社の中で最も揃っていたからである。さっそく東映は、52年の正月興行から時代劇を連作し、この年のゴールデン・ウィークには戦後はじめての「忠臣蔵」の映画化である『赤穂城』第一部を封切って好成績を上げた。
さらに、翌53年1月封切の『ひめゆりの塔』の大ヒットにより、東映はこの年の年間配給収入で東宝、新東宝を抜き、松竹、大映に次いで邦画五社中の第三位に躍進した。太平洋戦争末期に沖縄で散った二百余名の女生徒の悲劇を描いたこの『ひめゆりの塔』は、東横映画時代にヒットした『きけ、わだつみの声』(50年)の女性版であり、この作品の成功によって、これまであまり奮わなかった東映現代劇が活性化され、続いて『人生劇場・第二部』(53年)、『悲劇の将軍山下奉文』(53年)、『早稲田大学』(53年)、『魅せられたる魂』(53年)などの異色作が作られた。とはいえ、東映の主力は京都撮影所で作られる時代劇であって、事実、東映は53年10月封切の『風雲八万騎』から「時代劇は東映」という有名なキャッチ・フレーズを使い始めるのである。ちなみに全プロ配給に踏み切った52年に東映が製作した本数は51本で、そのうち時代劇は26本。これは五社中で最も多く、二位の大映画3本だから、このキャッチ・フレーズに嘘はなかった。さらにいえば、東映が時代劇を主力路線とした背景には時代劇のスターが揃っていたというだけではなく、荒唐無稽の内容が許される時代劇の方が現代劇映画よりも量産競争に題材として適していたという製作上の事情もあった。
さて、赤字経営から黒字へと驚異的な速さで業績を回復した東映は、54年になると大川社長の決断で、業界初の二本立て興業を実施した。これは、日本の映画興行界が51年頃から週替わりの二本立ないし三本立でなければ観客を動員できなくなっていた状況に対応したもので、当時は各社とも週一本の製作能力しかなかったため、映画館は二つの映画会社の作品を組み合わせて二本立興行を行っていた。だが、この方法では、後発の東映は松竹のような老舗の会社と組んだ場合、映画料金の算定でどうしてもワリを食う上に、会社同士のカラーも違うため、東映という一つのまとまったカラーが生まれにくい欠点があった。東映カラーが生まれれば固定ファンができる。そう判断した社長の大川は、毎週二本ずつ新作を製作・配給することにしたのである。そのため、一つは大作、一つは青少年向けの娯楽版という中編の組み合わせを考え、娯楽版の第一弾として大友柳太朗主演の『真田十勇士』(54年)三部作を封切った。そして、この娯楽版にはギャラの安い若手の新人を起用することにし、日舞出身の東千代之介を『雪之丞変化』(54年)三部作でデビューさせ、さらに、歌舞伎出身の中村錦之助(後の萬屋錦之介)を抜擢して、NHKのラジオドラマ「新諸国物語」の映画化『笛吹童子』(54年)三部作で千代之介と共演させたところ、これが大ヒットし、娯楽版から二人の人気スターが誕生することになった。この娯楽版の成功により、東映時代劇の人気は青年層にまで浸透していくことになったが、翌55年になると、さらに歌舞伎界から伏見扇太郎、大川橋蔵が迎えられ、また人気歌手の美空ひばりも前年の『唄しぐれ・おしどり若衆』から錦之助とコンビを組んで出演するようになる。
こうして片岡千恵蔵、市川右太衛門、月形龍之介、大友柳太朗といった、戦前からのスターと、千代之介、錦之助、扇太郎、橋蔵といった、戦後の若手スターを擁することになった東映は、ローテーションを組んで時代劇の量産に邁進していくが、56年になると、これらのスターを総出演させた『赤穂浪士』を東映創立五周年記念映画として製作、これが東映の過去最高であった『紅孔雀』(54年)の記録を上回る3憶1000万円の配収を上げる空前の大ヒットとなった。そして、この年の年間配給収入も50億円を突破して、ついに東映は松竹を抜いて業界第一位となったのである。」田島良一「東映時代劇論」(岩本憲治児編『時代劇伝説―チャンバラ映画の輝き』日本映画史叢書④所収)、森話社、2005.pp.144-148.
この1950年代に黄金時代を誇った東映時代劇については、「勧善懲悪のワンパターン」「どれも同じ通俗のきわみ」「変わり映えのしない子供だましの活劇」「スター序列を墨守する封建的撮影所体制」「時代遅れのサムライ忠義讃美ドラマ」などと、批判は山のようにあるが、今考えれば、にもかかわらず東映チャンバラ映画がかくも隆盛を極めたのは、文化史的な謎として解明する価値があるとぼくは思う。その解明のためには、60年以上前の日本映画界のシチュエーションも押さえておく必要がある。
B.「日本」の二度目の没落!
ぼくはあと何年この世に生きられるか、誰にもわからないとはいえ、大戦争が終わった後に生まれた自分が、その戦後の貧乏な時代を懐かしく記憶し、そしてどんどん経済が回復し経済大国になっていった時代を身をもって経験し、その後のバブルと呼ばれた賑やかで軽薄な時代も、ふらふらと遊んで過ごし、いまや確実に「縮む老いた社会」の現実に目をつぶって過去の栄光だけを追い求める愚を、しょうがねえな、と突き放すシニシズムをやましいと思う。
「平成元年、世界の企業の株式時価総額トップ50社のうち、32社が日本企業であった。昨年、同じく50社中、日本企業は1社のみで、トヨタだけである。もちろん、日本企業もIT革命を真剣に受け止め、この30年間、日本でもIT革命は進行した。しかし、日本にGAFAは生まれなかった。日本では「工業生産力モデル」の枠組みの中でしかIT革命を構想できず、日本のIT革命は「データリズム」の方向に進まなかった。あくまで、IT関連素材、電子部品に加え、回線業、ネット通販ビジネスに傾斜し、ビッグデータのプラットフォームを握る構想に欠けていたといえる。
平成30年の日本を取り巻く環境の中で、日本人にとっての衝撃は中国の台頭であった。平成が始まった頃、中国のGDPは日本の八分の一であった。それが平成が終わる2018年には約三倍になっていた。貿易相手国として中国が占める比重も、1990年にはわずかに3.5%であったが、2018年には23.9%(含、香港・マカオ)となり、対米貿易の14.9%を大きく上回っている。日本人の心理は微妙で、日本産業が中国との相互依存を深めていることを実感しながらも、中国の台頭に脅威を覚えており、「複雑骨折」しているといえる。
1989年は天安門事件の年であり、中国が「冷戦の終焉」という世界潮流の中で、混乱の坩堝の中にあった。その後の中国は「改革開放路線」を選択しながら、「社会主義的市場経済」として社会主義へのこだわりをみせ、国家統制型資本主義という実態を色濃くしてきた。昨年五月にはカール・マルクス生誕200年記念式典を北京で行ない、社会主義に見向きもしないプーチン政権下のロシアとの対照を見せている。
IT革命という面で、中国はテンセント、アリババ、ファーウェイなどのプラットフォーマーズを育てた。ファーウェイは非上場企業だが、テンセント、アリババだけで時価総額100兆円という巨大企業に一気に駆け上がった。「蛙跳びの経済」と表現され、固定電話が普及していなかった中国のほうが、携帯電話が一気に普及する皮肉を意味しているようだが、中国のITイノベーターとその背後にある国家は、IT革命の進路が「データリズム」(データを支配するものがすべてを支配する)にあることを見抜き、戦略意思を持って立ち向かったのは確かで、米国が中国に脅威を感じる部分がここにある。
冷戦後の日本の政治は「改革幻想」の中を走った。「改革」を支える基本思想は新自由主義であった。まず「行政改革」で八〇年代から土光臨調などの動きを受けて国鉄など三公社の民営化を実現、2001年からは省庁再編に踏み切り、一府二一省庁を一府一二省庁に再編した。だが、これによって行政が効率化されたかと問えば、公務員の数が大きく削減されたわけではなく、しかも「政治主導」の名の下に「官邸主導」の流れが形成され、行政機能そのものを劣化させた面もある。例えば、IT革命という世界潮流に対して、日本は総務省という枠組みで向き合うことになった。国家の情報ネットワーク技術戦略を「総務」(その他一般事項)という名前で対応したことが、構想力の欠如を意味するものになったといえる。
次に「政治改革」、非自民の八党連立の細川内閣の下に、1994年、選挙制度が「小選挙区比例代表並立制」に変更になり、政治改革は選挙制度の変更に終わった。本来、代議制民主主義の在り方を吟味し、議員定数の削減などに踏み切るべきであったにもかかわらず、手がつかなかった。今日に至るも、人口比で米国の二倍以上もの国会議員を書開ける構造は変わらず、むしろ小選挙区制の弊害だけが目立つ状況を迎えている。
さらに「小泉構造改革」に至り、「改革の本丸が郵政民営化」という奇妙な時代に向き合うことになった。劇場型政治と言われた刺客が飛び交う「郵政選挙」にメディアも興奮していたが、国民経済的にみて郵政民営化が的確だったかどうかは答えに窮する。郵政事業の効率化という意味では妥当だったともいえるが、地方を毛細血管のように支えた郵便局が民間会社になることで、地域社会のコミュニティーが希薄(空洞化)になっている事例を多く目撃するからである。2007年の分割民営化から10年以上が経過した今、誰が、一番得をしたのかを検証すれば筋道は見えてくると思う。
冷静に再考すれば、改革幻想とは米国への過剰同調であり、新自由主義への応答歌であった。「規制緩和」「郵政民営化」と騒いでいた小泉改革の日本であったが、2008年のリーマンショックを経て、米国が国家主導の異次元金融緩和に動くと、新自由主義は豹変、日本も「リフレ経済学」を金科玉条とするアベノミクス(金融政策に依存した調整インフレ政策)に引き込まれ、いまだにその呪縛から解放されずにいる。
国民の多くに「改革、改革と騒いできたが、結果は空疎だな」という脱力感が広がっているといえる。また、「究極の改革」ともいえた民主党への政権交代も、民主党なる党に群がった人たちの、劣弱さ(政策思想の基軸のなさ、政治家としての覚悟の欠如)を見せつけて自壊していった姿を目撃し、政治に過大な期待を抱くことから後ずさりしつつあるといえる。日本の停滞、低迷を安定と認識する心理に埋没し始めているともいえる。
平成30年において日本人の心は変わった。NHK放送文化研究所の世論調査を注目したい。「生活全体の満足度」について、1988年25%が「満足」としていたが、昨年2018年調査では39%になり、「どちらかといえば満足」と答えた人(1988年61%、2018年53%)を足して1988年に86%だったのが、2018年には実に92%となっており、多くの日本人が現状に満足している状況が確認できる。ただし、「不満はないが不安がある」というのが各種の世論調査結果から浮かび上がる現代日本の社会心理といえる。21世紀に入っての日本が「常温社会」に浸り、「イマ、ココ、ワタシ」(「未来よりも今」「期待よりも現実」「公よりも私」という価値を優先)という「内向する日本」に傾斜していることについては本誌二月号(「荒れる世界と常温社会・日本の断層」)で論じた。
平成日本にとって「3・11の衝撃」は凄まじかった。2011年3月11日の東日本大震災は、地震・津波によって二万人以上の犠牲者が出たことも衝撃であったが、フクシマ原発のメルトダウンは、まさに戦後日本の基盤を根底から突き崩す出来事だった。脳震盪を受けたような中で、エネルギー問題に関わってきた者の責任の一端を共有しながら、本連載で「戦後日本と原子力」を再考察する格闘を続けた(『能力のレッスン』Ⅳに所収、2014年)。
フクシマは二重の意味において、日本人に戦後日本の虚構性を突き付けた。一つは、日本にはメルトダウンした格納容器を収束させる能力はないという現実であり、あの愁嘆場の中で「米軍による日本再占領」が検討されていたという事実である。国も電力会社もそんな原発を稼働させていたということである。二つは、そうした構造に依拠しているためともいえるが、フクシマ一号機をフルターンキーで建設した米GE社の製造者責任には一切踏み込まなかったことである。国会事故調査委員会など様々な調査報告が出されたが、「津波による電源喪失」を想定しなかったGEには事実関係の確認調査さえされなかった。
もし、日本が本気で「脱・原発」を目指すのであれば、昨年自動延長した日米原子力協定を見直し、日米安保条約の総体を再検討する覚悟が必要となる。「脱・原発に踏み切りたいが、米国の核抑止力には守られたい」と考えること自体があまりに日米関係の本質を知らない非現実的議論なのである。日本は「日米原子力共同体」の一翼に組み入れられており、軍事とエネルギーは一体化されているのである。
この東日本大震災を境に、国民の心理に不安が高まり、その反動として、やたらに「絆」とか「連帯」という言葉が好まれるようになり、それが国家による統合・統制を期待する心理への傾斜につながったという面も否定できない。戦前の関東大震災(1923年)が治安維持法を生む時代の空気に繋がったように、閉塞感が統合思考を招くともいえる。」寺島実郎「平成の晩鐘が耳に残るうちに――体験的総括と冷静なる希望」能力のレッスン特別編、(岩波書店『世界』2019.6月号、pp.40-43.
今この2019年6月という時点が、ぼくがここにいる日本という国にとって、世界史的な構造変化のなかで、この国の中枢にいる政治家・企業家・言論の指導者の人たちが、退行的な馬鹿げた地政学や偏狭なナショナリズムに囚われることをやめて、ほんとうに未来の現実的な可能性に想いを抱いて欲しいと思う。
外国に初めて行った観光客は、そこで目にする現地人の言動や町の風景に、自分の知っている世界と較べて興味津々になると同時に、自分たちであれば当たり前と思っていた秩序や習慣が無頓着に放置されていると呆れたり不快になったりする。それが具体的な目に見える表象であるほど、「こいつらは、文明化が遅れた発達遅滞のレベルにある愚か者だから、もっと教えてあげないといかんな」などと考えてしまう。そうした善意の矯正(強制)は、半分以上誤解と傲慢にもとづいたお節介で、それが単なる観光客の感想であるうちは実害はないが、武力と権力を背景に戦争や植民地的統治にからむと、深刻な民族差別と文化摩擦を引き起こす。
人間の歴史をみれば、そうした自己中心的な異文化への偏見と蔑視は、枚挙にいとまなく、とくにキリスト教を背景に世界各地に植民地を拡大していった大航海時代のスペインやポルトガル、あるいは19世紀の西欧列強の帝国主義は、基本的に植民地人民を遅れた未開野蛮の民とみて、神の福音と幸福をあまねく宣布する使命とすら思って武器と聖書を強制した。そしてわが大日本帝国も、それを見習って朝鮮や中国を「遅れた劣等民族」とみなして、武力を背景に大陸の奥深くまで軍隊を送った戦争をやめなかった。その結果、みじめな敗戦を喫し、アメリカを主力とする連合軍に国土を占領され、「お前たちは無知で低能な封建国家・軍国主義の奴隷だったことを自覚し、これからは民主主義と個人の自由を学ばなくてはいかん」というご親切なGHQの指令に従って、戦後の「民主主義教育」が始まり、その矯正を具体化する文化政策としての映画による禁止と奨励がいかなるものだったのか、思いかえしてみる価値がある。
「戦時中の映画の上映禁止に加えて、占領軍は占領初期に日本映画界が題材として取り上げることを禁ずるものを定義した。1945年11月19日、CIEは日本映画に関する十三項目の禁止令を出した。それによれば、つぎのものが禁止の対象になった。
(1) 軍国主義を鼓吹するもの。
(2) 仇討に関するもの
(3) 国家主義的なもの。
(4) 愛国主義的ないし排外的なもの。
(5) 歴史の事実を歪曲するもの。
(6) 人種的又は宗教的差別を是認したもの。
(7) 封建的忠誠心または生命の軽視を好ましきこと、または名誉あることとしたもの。
(8) 直接間接を問わず自殺を是認したもの。
(9) 婦人に対する圧政または婦人の堕落を取り扱ったり、これを是認したもの。
(10) 残忍非道暴力を謳歌したもの。
(11) 民主主義に反するもの。
(12) 児童搾取を是認したもの。
(13) ポツダム宣言または連合軍総司令部の指令に反するもの。
この11月19日の禁止指令は、9月22日の奨励指令(映画製作方針十項目)と同様に詳細をきわめるものであった。占領軍の検閲官は、日本の映画界は、戦時中の過度に抑圧的な政府の規制の結果、絶望的な状況に陥っているので、綿密に指導し監視しなければならないと考えたのであろう。マッカーサーはのちに、日本人の平均の大人は(米国人の)十二歳程度の成熟度であるという発言をした。占領軍の映画政策にも、それと同様の父権主義が感じられる。占領軍のなかには、誠心誠意日本人の再教育に貢献しようとした者も少なくなかったであろうが、この種の優越感に満ちた親切心は、占領軍のなかではめずらしくなかったであろう。」平野共余子『天皇と接吻 アメリカ占領下の日本映画検閲』草思社、1998.pp.68-69.
これはある意味でしごく当然の措置であったとぼくは思う。戦後日本の統治責任者マッカーサーの任務は、日本を二度と狂信的なファシズムと強力な軍事独裁国家にしないこと、そのためにこの民度の低い日本人を徹底してアメリカン・デモクラシーと資本主義カルチャーにどっぷり漬かるように洗脳すること。それは昭和天皇との共同作業によって大きな成果をあげた。その成果が最初に実を結んだのは、サンフランシスコ講和条約で戦後の日本がいちおう独立国として国際的に認められた1951年には、マッカーサーの関心は日本の民主化ではなく、朝鮮半島のきな臭い共産主義との戦争だった。しかし、日本国内だけをみれば、食料と娯楽に飢えていた日本の庶民はチャンバラ時代劇の復活を歓迎し、この年4月に新しく発足した映画会社東映はその波に乗って躍進する。その歩みを確認しておこう。
「映画評論家の渡辺武信は「ヒーロー像の転換――やくざ映画はいかにして誕生したか」と題する論考においてプログラム・ピクチャーの本質にふれた後、戦後日本のプログラム・ピクチャーの中で時代を制した最強の路線は1950年代末の東映時代劇、50年代末から60年代前半の日活無国籍アクション、60年代後半から70年代前半までの東映やくざ映画の三つであると述べている。確かに氏の指摘のとおり、この三つの路線は戦後の大手六社の中で最も興行成績を上げた路線であった。だが残念なことに、この論考ではもっぱら日活アクションと東映やくざ映画が論じられ、東映時代劇については論及されていない。そこで、本稿では、この三つの路線の中から東映時代劇を取り上げ、その本質と特徴を論じることにより、なぜこの時代に東映の時代劇映画(以下時代劇と略す)が他社の路線を圧倒する人気を得ることができたのか、その理由について考えてみたい。そのためには、まず東映時代劇が全盛期を迎えるまでの東映の歴史をふり返ってみる必要がある。
東映の前身は、周知のとおり、東京横浜電鉄(現在の東京急行電鉄)を親会社として1938年(昭和13)に発足した東横映画株式会社である。設立当初の東横映画は映画館を経営する興行会社であったが、戦後の46年になると、映画事業の復興に伴って映画製作に乗り出す方針を打ち出し、社長の黒川渉三は製作責任者として満映(満洲映画協会)で製作部長をしていたマキノ光雄を迎えた。マキノ光雄は、いうまでもなく「日本映画の父」と呼ばれる牧野省三の次男であるが、マキノは撮影スタッフとして満映で美術課長をしていた堀保治や、娯民映画所長であった坪井與など、主に満映からの引揚げ者を集めた。それは、大陸から引揚げて来る映画人に職を与えるという東横映画のもう一つの方針があったからである。こうして製作スタッフの陣容を整えた東横映画は、大映株式会社と提携し、大映の京都第二撮影所(現在の東映京都撮影所)を借用して1947年に第一回作品『こころ月の如く』を製作した。
だが、独自の配給系統をもたなかった東横映画は大映系映画館に委託配給されていたため、予期したような配給収入が上がらず、製作開始一年足らずの間に「日本ハラワント会社」と揶揄されるような経営危機に陥った。そこで、この事態を解決すべく、東横映画は自主配給を決意し、貸しスタジオから自主制作を目指していた株式会社太(おお)泉(いずみ)スタジオを誘って、両者の作品を配給・上映する新会社、東京映画配給(東映配)株式会社を1949年に設立した。さらに、この年には大映の専属であった片岡千恵蔵と市川右太衛門がマキノ光雄の誘いに応じて東横映画に入社し、千恵蔵主演の『獄門島・前編』が東映配の第一回配給作品となった。翌50年には同じく千恵蔵主演の『いれずみ判官・前後編』がヒットし、これ以後、千恵蔵の遠山の金さんは当り役となる。
さて、こうして好調なスタートを切った東映であったが、外国映画の輸入制限の撤廃による洋画の著しい進出や、新東宝の自主配給開始による新たな第五系統の出現で配給網の拡張が予定通り進まず、そのため、太泉映画(50年3月に太泉スタジオは大泉映画株式会社と社名を変更)は50年9月封切の『野生』を最後に製作中止に追い込まれ、東横映画も、50年5月頃には経営不振から11億円もの負債を抱える状態となった。そこで、親会社として東横映画に巨額の融資をしていた東急電鉄は、映画事業から撤退するか、抜本的な再建策を講じるかの二者択一を迫られることになったが、その対策として浮上したのが東映配、東横映画、太泉映画の三社合併による新会社の設立であった。こうして誕生したのが東映株式会社だったのである。
新会社東映が発足したのは1951年4月1日のことであり、社長には東急専務であった大川博が就任した。大川は社長に就任すると、経営の合理化による再建方針を打ち出し、一作品の直接製作費を1100万円に抑えるなど、徹底した予算主義を敷いた。さらに52年からは東宝と結んでいた配給提携が不利であることを知って、自社で製作・配給のすべてを行う全プロ配給を断行した。そんな東映にとって朗報となったのは、51年8月から時代劇の製作本数制限が撤廃されたことである。
周知のように、時代劇は戦後、封建思想を助長するものとしてアメリカの占領政策によって厳しい統制を受けていた。特に、45年11月にCIE(民間情報教育局)が出した日本映画に関する13項目の禁止令の中に「仇討ちに関するもの」や、「封建的忠誠心または生命の軽視を好ましきことまたは名誉あることとしたもの」等の項目が含まれていたため、『忠臣蔵』はもとより、立回りも生命の軽視と見られたので、チャンバラ映画も作れないことになってしまったのである。そのため伊藤大輔監督、阪東妻三郎主演の『素浪人罷通る』(1947年)のような、チャンバラのない時代劇が作られたり、片岡千恵蔵の「多羅尾伴内」シリーズのように、時代劇の大スターが刀をピストルに持ち替えて現代劇のアクション映画に出演することになった。だが、この時代劇への厳しい統制も1951年にサンフランシスコで対日講和条約が締結され、日本が独立を回復するのに伴い解除され、戦前のように再び時代劇を作ることができるようになったのである。そして、これは東映にとって大きな幸運となった。というのも、東映には片岡千恵蔵、市川右太衛門をはじめ、月形龍之介、大友柳太朗といった、錚々たる時代劇スターが五社の中で最も揃っていたからである。さっそく東映は、52年の正月興行から時代劇を連作し、この年のゴールデン・ウィークには戦後はじめての「忠臣蔵」の映画化である『赤穂城』第一部を封切って好成績を上げた。
さらに、翌53年1月封切の『ひめゆりの塔』の大ヒットにより、東映はこの年の年間配給収入で東宝、新東宝を抜き、松竹、大映に次いで邦画五社中の第三位に躍進した。太平洋戦争末期に沖縄で散った二百余名の女生徒の悲劇を描いたこの『ひめゆりの塔』は、東横映画時代にヒットした『きけ、わだつみの声』(50年)の女性版であり、この作品の成功によって、これまであまり奮わなかった東映現代劇が活性化され、続いて『人生劇場・第二部』(53年)、『悲劇の将軍山下奉文』(53年)、『早稲田大学』(53年)、『魅せられたる魂』(53年)などの異色作が作られた。とはいえ、東映の主力は京都撮影所で作られる時代劇であって、事実、東映は53年10月封切の『風雲八万騎』から「時代劇は東映」という有名なキャッチ・フレーズを使い始めるのである。ちなみに全プロ配給に踏み切った52年に東映が製作した本数は51本で、そのうち時代劇は26本。これは五社中で最も多く、二位の大映画3本だから、このキャッチ・フレーズに嘘はなかった。さらにいえば、東映が時代劇を主力路線とした背景には時代劇のスターが揃っていたというだけではなく、荒唐無稽の内容が許される時代劇の方が現代劇映画よりも量産競争に題材として適していたという製作上の事情もあった。
さて、赤字経営から黒字へと驚異的な速さで業績を回復した東映は、54年になると大川社長の決断で、業界初の二本立て興業を実施した。これは、日本の映画興行界が51年頃から週替わりの二本立ないし三本立でなければ観客を動員できなくなっていた状況に対応したもので、当時は各社とも週一本の製作能力しかなかったため、映画館は二つの映画会社の作品を組み合わせて二本立興行を行っていた。だが、この方法では、後発の東映は松竹のような老舗の会社と組んだ場合、映画料金の算定でどうしてもワリを食う上に、会社同士のカラーも違うため、東映という一つのまとまったカラーが生まれにくい欠点があった。東映カラーが生まれれば固定ファンができる。そう判断した社長の大川は、毎週二本ずつ新作を製作・配給することにしたのである。そのため、一つは大作、一つは青少年向けの娯楽版という中編の組み合わせを考え、娯楽版の第一弾として大友柳太朗主演の『真田十勇士』(54年)三部作を封切った。そして、この娯楽版にはギャラの安い若手の新人を起用することにし、日舞出身の東千代之介を『雪之丞変化』(54年)三部作でデビューさせ、さらに、歌舞伎出身の中村錦之助(後の萬屋錦之介)を抜擢して、NHKのラジオドラマ「新諸国物語」の映画化『笛吹童子』(54年)三部作で千代之介と共演させたところ、これが大ヒットし、娯楽版から二人の人気スターが誕生することになった。この娯楽版の成功により、東映時代劇の人気は青年層にまで浸透していくことになったが、翌55年になると、さらに歌舞伎界から伏見扇太郎、大川橋蔵が迎えられ、また人気歌手の美空ひばりも前年の『唄しぐれ・おしどり若衆』から錦之助とコンビを組んで出演するようになる。
こうして片岡千恵蔵、市川右太衛門、月形龍之介、大友柳太朗といった、戦前からのスターと、千代之介、錦之助、扇太郎、橋蔵といった、戦後の若手スターを擁することになった東映は、ローテーションを組んで時代劇の量産に邁進していくが、56年になると、これらのスターを総出演させた『赤穂浪士』を東映創立五周年記念映画として製作、これが東映の過去最高であった『紅孔雀』(54年)の記録を上回る3憶1000万円の配収を上げる空前の大ヒットとなった。そして、この年の年間配給収入も50億円を突破して、ついに東映は松竹を抜いて業界第一位となったのである。」田島良一「東映時代劇論」(岩本憲治児編『時代劇伝説―チャンバラ映画の輝き』日本映画史叢書④所収)、森話社、2005.pp.144-148.
この1950年代に黄金時代を誇った東映時代劇については、「勧善懲悪のワンパターン」「どれも同じ通俗のきわみ」「変わり映えのしない子供だましの活劇」「スター序列を墨守する封建的撮影所体制」「時代遅れのサムライ忠義讃美ドラマ」などと、批判は山のようにあるが、今考えれば、にもかかわらず東映チャンバラ映画がかくも隆盛を極めたのは、文化史的な謎として解明する価値があるとぼくは思う。その解明のためには、60年以上前の日本映画界のシチュエーションも押さえておく必要がある。
B.「日本」の二度目の没落!
ぼくはあと何年この世に生きられるか、誰にもわからないとはいえ、大戦争が終わった後に生まれた自分が、その戦後の貧乏な時代を懐かしく記憶し、そしてどんどん経済が回復し経済大国になっていった時代を身をもって経験し、その後のバブルと呼ばれた賑やかで軽薄な時代も、ふらふらと遊んで過ごし、いまや確実に「縮む老いた社会」の現実に目をつぶって過去の栄光だけを追い求める愚を、しょうがねえな、と突き放すシニシズムをやましいと思う。
「平成元年、世界の企業の株式時価総額トップ50社のうち、32社が日本企業であった。昨年、同じく50社中、日本企業は1社のみで、トヨタだけである。もちろん、日本企業もIT革命を真剣に受け止め、この30年間、日本でもIT革命は進行した。しかし、日本にGAFAは生まれなかった。日本では「工業生産力モデル」の枠組みの中でしかIT革命を構想できず、日本のIT革命は「データリズム」の方向に進まなかった。あくまで、IT関連素材、電子部品に加え、回線業、ネット通販ビジネスに傾斜し、ビッグデータのプラットフォームを握る構想に欠けていたといえる。
平成30年の日本を取り巻く環境の中で、日本人にとっての衝撃は中国の台頭であった。平成が始まった頃、中国のGDPは日本の八分の一であった。それが平成が終わる2018年には約三倍になっていた。貿易相手国として中国が占める比重も、1990年にはわずかに3.5%であったが、2018年には23.9%(含、香港・マカオ)となり、対米貿易の14.9%を大きく上回っている。日本人の心理は微妙で、日本産業が中国との相互依存を深めていることを実感しながらも、中国の台頭に脅威を覚えており、「複雑骨折」しているといえる。
1989年は天安門事件の年であり、中国が「冷戦の終焉」という世界潮流の中で、混乱の坩堝の中にあった。その後の中国は「改革開放路線」を選択しながら、「社会主義的市場経済」として社会主義へのこだわりをみせ、国家統制型資本主義という実態を色濃くしてきた。昨年五月にはカール・マルクス生誕200年記念式典を北京で行ない、社会主義に見向きもしないプーチン政権下のロシアとの対照を見せている。
IT革命という面で、中国はテンセント、アリババ、ファーウェイなどのプラットフォーマーズを育てた。ファーウェイは非上場企業だが、テンセント、アリババだけで時価総額100兆円という巨大企業に一気に駆け上がった。「蛙跳びの経済」と表現され、固定電話が普及していなかった中国のほうが、携帯電話が一気に普及する皮肉を意味しているようだが、中国のITイノベーターとその背後にある国家は、IT革命の進路が「データリズム」(データを支配するものがすべてを支配する)にあることを見抜き、戦略意思を持って立ち向かったのは確かで、米国が中国に脅威を感じる部分がここにある。
冷戦後の日本の政治は「改革幻想」の中を走った。「改革」を支える基本思想は新自由主義であった。まず「行政改革」で八〇年代から土光臨調などの動きを受けて国鉄など三公社の民営化を実現、2001年からは省庁再編に踏み切り、一府二一省庁を一府一二省庁に再編した。だが、これによって行政が効率化されたかと問えば、公務員の数が大きく削減されたわけではなく、しかも「政治主導」の名の下に「官邸主導」の流れが形成され、行政機能そのものを劣化させた面もある。例えば、IT革命という世界潮流に対して、日本は総務省という枠組みで向き合うことになった。国家の情報ネットワーク技術戦略を「総務」(その他一般事項)という名前で対応したことが、構想力の欠如を意味するものになったといえる。
次に「政治改革」、非自民の八党連立の細川内閣の下に、1994年、選挙制度が「小選挙区比例代表並立制」に変更になり、政治改革は選挙制度の変更に終わった。本来、代議制民主主義の在り方を吟味し、議員定数の削減などに踏み切るべきであったにもかかわらず、手がつかなかった。今日に至るも、人口比で米国の二倍以上もの国会議員を書開ける構造は変わらず、むしろ小選挙区制の弊害だけが目立つ状況を迎えている。
さらに「小泉構造改革」に至り、「改革の本丸が郵政民営化」という奇妙な時代に向き合うことになった。劇場型政治と言われた刺客が飛び交う「郵政選挙」にメディアも興奮していたが、国民経済的にみて郵政民営化が的確だったかどうかは答えに窮する。郵政事業の効率化という意味では妥当だったともいえるが、地方を毛細血管のように支えた郵便局が民間会社になることで、地域社会のコミュニティーが希薄(空洞化)になっている事例を多く目撃するからである。2007年の分割民営化から10年以上が経過した今、誰が、一番得をしたのかを検証すれば筋道は見えてくると思う。
冷静に再考すれば、改革幻想とは米国への過剰同調であり、新自由主義への応答歌であった。「規制緩和」「郵政民営化」と騒いでいた小泉改革の日本であったが、2008年のリーマンショックを経て、米国が国家主導の異次元金融緩和に動くと、新自由主義は豹変、日本も「リフレ経済学」を金科玉条とするアベノミクス(金融政策に依存した調整インフレ政策)に引き込まれ、いまだにその呪縛から解放されずにいる。
国民の多くに「改革、改革と騒いできたが、結果は空疎だな」という脱力感が広がっているといえる。また、「究極の改革」ともいえた民主党への政権交代も、民主党なる党に群がった人たちの、劣弱さ(政策思想の基軸のなさ、政治家としての覚悟の欠如)を見せつけて自壊していった姿を目撃し、政治に過大な期待を抱くことから後ずさりしつつあるといえる。日本の停滞、低迷を安定と認識する心理に埋没し始めているともいえる。
平成30年において日本人の心は変わった。NHK放送文化研究所の世論調査を注目したい。「生活全体の満足度」について、1988年25%が「満足」としていたが、昨年2018年調査では39%になり、「どちらかといえば満足」と答えた人(1988年61%、2018年53%)を足して1988年に86%だったのが、2018年には実に92%となっており、多くの日本人が現状に満足している状況が確認できる。ただし、「不満はないが不安がある」というのが各種の世論調査結果から浮かび上がる現代日本の社会心理といえる。21世紀に入っての日本が「常温社会」に浸り、「イマ、ココ、ワタシ」(「未来よりも今」「期待よりも現実」「公よりも私」という価値を優先)という「内向する日本」に傾斜していることについては本誌二月号(「荒れる世界と常温社会・日本の断層」)で論じた。
平成日本にとって「3・11の衝撃」は凄まじかった。2011年3月11日の東日本大震災は、地震・津波によって二万人以上の犠牲者が出たことも衝撃であったが、フクシマ原発のメルトダウンは、まさに戦後日本の基盤を根底から突き崩す出来事だった。脳震盪を受けたような中で、エネルギー問題に関わってきた者の責任の一端を共有しながら、本連載で「戦後日本と原子力」を再考察する格闘を続けた(『能力のレッスン』Ⅳに所収、2014年)。
フクシマは二重の意味において、日本人に戦後日本の虚構性を突き付けた。一つは、日本にはメルトダウンした格納容器を収束させる能力はないという現実であり、あの愁嘆場の中で「米軍による日本再占領」が検討されていたという事実である。国も電力会社もそんな原発を稼働させていたということである。二つは、そうした構造に依拠しているためともいえるが、フクシマ一号機をフルターンキーで建設した米GE社の製造者責任には一切踏み込まなかったことである。国会事故調査委員会など様々な調査報告が出されたが、「津波による電源喪失」を想定しなかったGEには事実関係の確認調査さえされなかった。
もし、日本が本気で「脱・原発」を目指すのであれば、昨年自動延長した日米原子力協定を見直し、日米安保条約の総体を再検討する覚悟が必要となる。「脱・原発に踏み切りたいが、米国の核抑止力には守られたい」と考えること自体があまりに日米関係の本質を知らない非現実的議論なのである。日本は「日米原子力共同体」の一翼に組み入れられており、軍事とエネルギーは一体化されているのである。
この東日本大震災を境に、国民の心理に不安が高まり、その反動として、やたらに「絆」とか「連帯」という言葉が好まれるようになり、それが国家による統合・統制を期待する心理への傾斜につながったという面も否定できない。戦前の関東大震災(1923年)が治安維持法を生む時代の空気に繋がったように、閉塞感が統合思考を招くともいえる。」寺島実郎「平成の晩鐘が耳に残るうちに――体験的総括と冷静なる希望」能力のレッスン特別編、(岩波書店『世界』2019.6月号、pp.40-43.
今この2019年6月という時点が、ぼくがここにいる日本という国にとって、世界史的な構造変化のなかで、この国の中枢にいる政治家・企業家・言論の指導者の人たちが、退行的な馬鹿げた地政学や偏狭なナショナリズムに囚われることをやめて、ほんとうに未来の現実的な可能性に想いを抱いて欲しいと思う。