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狩野元信について いろいろ知った・・選挙の構図についても

2017-10-27 17:38:52 | 日記
A.狩野元信の時代
 今六本木のサントリー美術館で開催中の「狩野元信展」に行ってきた。ジャスパー・ジョーンズ論はちょっとお休みして、この機会に狩野派のことをこの展示を見て考えてみた。今までぼくは、狩野派というと豪華な金屏風や御殿を飾る障壁画、狩野永徳の唐獅子図みたいなものをイメージするだけで、幕府権力と結託した権威主義の権化、というような見方をしていたのだが、その草創期の正信、元信についてよく知らなかったし、作品を見る機会もあまりなかった。だから、いろいろと発見があって実に面白かったんである。

  資料等の情報を見ると、狩野元信(1477?~1559)は、室町時代に活躍した狩野派の二代目。初代は父の正信(1434~1530)、二代目は直信(1519~1592)、そして元信の孫の狩野永徳(1543~90)、さらにその孫の狩野探幽(1602~74)と続く狩野派は、血縁関係でつながった「狩野家」を核とする絵師の専門家集団となる。朝廷や大寺院が集中する京阪が活動拠点だったが、戦国乱世の進展によって、元信は、有力大名にも認められる一方、町衆向けの小ぶりの作品も多く作った。極めて卓越した画技を持ち、その作品は歴代の狩野派絵師の中で最も高く評価されていたという。父の正信は享禄3年(1530年)、数え年97歳で没したといわれるが、元信も永禄二年に84歳で没とこの時代には異様に長命だった。
  関東で育ったらしい狩野正信がいつ上京し、誰に師事し、いつ室町幕府の御用絵師となったか、正確なところは不明だというが、室町幕府8代将軍・足利義政に重用されていたことは記録がある。10年にわたった応仁の乱(1467 - 1477)終結の数年後の文明13年(1481年)、室町幕府の御用絵師であった小栗宗湛が死去しており、狩野正信は、宗湛の跡を継いで幕府の御用絵師になったようだ。これ以後は、宮廷の絵所預の職にあった大和絵系の土佐光信と、漢画系の狩野正信の両者が画壇の二大勢力となった。文明15年(1483年)には足利義政の造営した東山山荘の障壁画を担当している。1496年には日野富子の肖像を描いた(実隆公記)。
  長男は元信、次男は雅楽助。時代は戦国大名が割拠する騒乱に向かうなか、元信は一族一門を率いて大活躍を始める。元信の活躍した時代はいつ頃だったか?今回の展示で描かれた年代が特定できる一番早い作品は、「細川澄元像」(永正4年)の1507年。一番遅いのが亡くなる2年前の「四季花鳥図屏風」(元信印、弘治13年頃)の1557年である。当時としては異例ともいえる長寿の人だが、工房を率いて活躍したのは30~40代だとすると、16世紀初めの永正年間から大永年間(1520年代)までにあたる。
  永正10年(1513年)に細川高国の命で『鞍馬寺縁起絵』を制作している。現存する大徳寺大仙院の障壁画は、同院創建時の永正10年(1513)の制作とするのが通説だが、元信は室町幕府、朝廷公家、大寺院などの注文に応えて障壁画や屏風などを次々作る。60歳代にあたる天文年間にも大きな仕事に携わっている。まず、天文8年(1539)から約15年間、石山本願寺の障壁画制作に携わった。この間、内裏小御所、妙心寺霊雲院の障壁画を描き、天文14年(1545)頃に法眼(僧の位)を与えられている。一方で、有力な町衆には絵付けした扇を積極的に販売し、当時の扇座の中心人物でもあった。幕府への起請文に、扇絵制作の権利を持たないものが勝手に扇を作るのは違反なので、即刻その停止を命じて欲しいと記されていて、元信の画工兼狩野派という工房主催者、そして起業家的戦略が垣間見られる。
  屏風や障壁画というのは、建物の建築と一体化するので、絵師はただ絵を描けばいいのではなく、空間を設計し建物の用途を勘案して、総合プランナーとして制作する。ということは、木造建築は老朽化するので障壁画も百年はもたない。狩野派の作品が今日残っているのは、ごく一部にしかすぎないが、今回出ている大仙院の障壁画などを見ると、これが並んだ座敷の壮観さが偲ばれる。
  父の正信は中国絵画を規範とする漢画系の絵師だった。その頃は土佐派などの大和絵系と、宋元や明渡来の漢画系は、絵師を二分していた。漢画系は牧谿様、夏珪様など宋や元時代の中国画人の作風を踏襲する技法だったが、日本にある彼らの作品は小品が多く障壁画や屏風絵のような大画面の構成に不向きだった。元信はそこで、大和絵の分野にも乗り出し、濃彩の絵巻や、金屏風の伝統を引き継ぐ金碧画など、形状・技法の導入に加えて、風俗画や歌仙絵など、大和絵の画題にも積極的に挑戦する。とくに、大和絵系の絵師や町絵師が主導していた扇絵制作に熱心に取り組む。
  狩野派の台頭を支えた大きな要因のひとつは、元信が創始した「画体」の確立がある。従来の漢画系の絵師たちは、中国絵画の名家による手本に倣った「筆様」を使い分け注文に応えたが、元信はそれらを整理・発展させ、真・行・草の三種の「画体」を編み出した。そして、その「型」を弟子たちに学ばせることで、集団的な作画活動を可能にしたという。真体は馬遠と夏珪、行体は牧谿、草体は玉澗の画風を元としているという。和漢の両分野で力を発揮し、襖や屏風などの大画面から絵巻や扇絵といった小画面にいたるまで、多様な注文に素早く対応することで、元信工房は多くのパトロンを獲得していった。狩野派は元信の時代に組織として大きく飛躍したと言える。
  今回の展示で、この真・行・草とは具体的にいかなるものか、元信の作品が並べられているので見比べることができる。なるほど、書道の楷書・行書・草書ほど明確ではないものの、描き込みの密度や濃淡の差は3段階になっており、楷書に当たる真の画体で描かれた山水などは丁寧で明確な線が際立つのに対して、ほとんど朦朧としたぼかしだけで描く草体は水墨の味ならではである。
 しかし、水墨と言えば日本では先行する雪舟等楊がいたはずだが、元信は中国の本場で多くの作品を見ていた雪舟のことはどう思っていたのだろう?枯淡な山水という水墨画は、戦国の気風に応えるには物足りなかったのかな。
 「日本文化」と一口に言うけれども、今日に伝わる伝統文化の粋は、多くが室町時代から桃山時代にできあがったもので、茶道、華道、連歌、能狂言、池泉回遊庭園、数寄屋建築などみなこの時代に発する。狩野元信もそういう文化運動の中心にいたのだなあ、とおもふ。いろいろ興味は尽きないので、この項を次回も続けます。



B.誰が負けたのか?
 とにかくじたばたと総選挙が終わって、ひとあたり総括や感想のような発言が出そろったが、なんだか納得のいく説明がないように思っていたら、これが出て、うん、そうだな、と思った。

「総選挙の構図 「希望」が幻想だったわけ:歴史社会学者 小熊 英二 
 安倍晋三首相の周辺は、「日本人は右が3割、左が2割、中道5割」と語っているという(❶)。今回の選挙を、この図式をもとに読み解いてみたい。
 実はこの比率は、選挙の得票数にも合っている。「右3割」は自公の固定票、「左2割」は広義のリベラル(共産党も含む)の固定票、「中道5割」は棄権を含む無党派として検証してみよう。
 日本の有権者は約1億人。「右3割、左2割」なら、自公が3千万票、野党が2千万票となる。実際に2014年衆院選の自公の選挙区得票数は2622万、4野党(民主、共産、社民、生活)が1989万。16年参院選の比例区は自公が2768万で4野党は3037万だ。なお維新の得票を自公に足すと2回とも約3千万になる。首相周辺は、こうしたデータをもとに語っているのだろう。
 そして12年以降の国政選挙投票率は、いつも50%台だ。つまり「中道5割」の多くは棄権している。この状況だと、リベラル(2割)は必ず自公(3割)に負ける。野党が乱立すればなおさらだ。
 民主党が勝った09年衆院選はどうか。この時の投票率は69%で棄権が3割。民主・社民・共産は選挙区で3783万、自公は2808万。両者の比率はざっと4対3で、グラフで示すと図1となる。リベラル(2割)に無党派票(2割)が加わり、自公(3割)に勝った形だ。
 今回の選挙はどうか。希望の党は、無党派票を集めて自公に勝つかのように当初は報道された。つまり図2(リベラル2、自公3、希望4)になるというわけだが、それには投票率90%が必要だ。どんなブームでも、それは不可能である。
 ならば今夏の都議選で、なぜ自民は負けたのか。実は都議選では、小池ブーム以上に、公明党の動向が大きかった。
 創価学会は衆院選の各小選挙区に2~3万票を持つ。これが野党に回れば、自民党候補は2~3万票を失い、次点候補が2~3万票上乗せされる。つまり次点と4~6万票差以下で当選した自民党議員は落選する。14年総選挙の票数で試算すると、公明票の半数でも離反すれば自民党議員が百人は減るという(➋)。
 都議選では、公明党が小池新党支持に回った。しかも東京は農業団体など自民党の固定票が少ない。結果は、公明票に離反された自民が総崩れになった。
 図3で都議選の得票を単純化した。投票率は51%で棄権5割。公明の支援を得た小池新党と公明党の合計で2.5割。東京は無党派が多く自民もリベラルも固定票が少ないので、自民系が1.2、民進・共産・社民などが合計1.2.こうみると、1.2を凌ぐ程度かそれ以下の「小池効果」で自民に勝てたとわかる。小池ブームは意外と小さかったのだ。
 今回の選挙に公明の離反はない。冷静に考えれば、夏の都議選は大阪での維新ブームの変形版にすぎない。ならば都知事が党首の政党が地方でブームを起こす理由もない。自民党茨城県連幹事長は、「希望」立党直後から、地方に大きな影響はないと述べていた(➌)。初めから「希望」の大勝など幻想だったのだ。
 ではなぜ「希望」は過大評価されたのか。これはメディアの責任が大きい。維新が国政に出た時、東京のメディアは冷静にうけとめた。だが彼らは、自分の地元の東京で起きた小池ブームを相対化できず、東京で起きたことは全国で起きると誤断した。「永田ムラ」の記者は、永田町の現象を全国的現象と考えがちだ。小池の「排除」発言がなければ勝っていたという意見は、幻想に惑わされた「永田ムラ」と「報道ムラ」の責任回避だと思う。
 それでも、小池自身はまだしも冷静だった。彼女が党首に出た理由は、すでに65歳で、首相の座を狙う最後の機会だったからだといわれる(➍)。それで党首になっても、知事を辞任して国政に出る判断は世論調査の支持率を見たあとで十分だから、都知事の座は確保できた。
 軽率だったのは、支持率調査さえ出ないうちに自滅行為に走った前原誠司だ。彼は民進党支持者が希望支持に移行すると考えたかもしれないが、あんな独断的なやり方で支持者が離反しないはずがない。党の公式サポーターすら「前原誠司に詐欺られた」と非難した(➎)。
 あるいは前原は、民進党内のリベラル派を切り、保守二大政党を実現する好機と考えたかもしれない。だがリベラル層を切りながら自公に勝つには図2の達成が必要だ。実際には、非自民・非リベラルの票を狙った維新や「みんな」、そして希望は、約10%の保守系無党派層を奪い合うニッチ政党にしかなっていない。
 逆に立憲民主党の健闘はリベラル層の底堅さを示した。自公に勝ちたいなら、リベラル層の支持を維持しつつ無党派票を積み増す図1の形しかない。保守二大政党など幻想であることを悟るべきだ。
 選挙は終わったが民主主義の追求は続く。政治家はブームや幻想に頼らず、現実の社会の声に耳を傾けてほしい。

 ❶記事「『安倍政治』を問う:3 選挙中は『こだわり』封印」(本紙9月29日)
 ➋記事「衝撃シミュレーション もし今、衆参ダブル選挙なら 安倍自民、大敗!」(週刊ポスト15年8月21日・28日号)
 ➌記事「うねる政局、手探り衆院選」(本紙9月29日朝刊)
 ➍記事「小池“緑のたぬき”の化けの皮を剥(は)ぐ!」(週刊文春10月19日号)
 ➎北原みのり「騙(だま)された…選挙に行くしかない」(週刊朝日の連載、10月20日号)」朝日新聞2017年10月26日朝刊15面、オピニオン欄、論壇時評。

 
 大手メディアもわれわれ有権者も、なんかポピュリストの一言で風が吹いたり止んだりして、選挙で番狂わせが起こることを無責任に期待している心情が漂ってしまったが、冷静に選挙の現実を見れば、投票行動はもっと地に足がついていたのであるというわけだ。自公圧勝といっても、それが安倍という人がどれほどヘマをやっても自民党を後押しする人が増えたというわけではなく、たんに自公は堅実な選挙区調整をやって臨んだのに、野党側は「希望」というバクチに浮足立って、分裂したからこうなっただけだ。もし公明党が自民党を見限ればいつでも、自民党はガクッと議席を失うし、保守二大政党で政権を争うなどという構図こそ現実離れして自滅するのは、いわば当然だということだな。


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