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円地文子「二世の縁」つづき  馬毛島!

2019-03-07 20:46:02 | 日記
A.お嬢様の特権をこういうふうに生かす。
 円地文子の短編小説「二世の縁 拾遺」を読んで、そこで現代語訳にされた上田秋成の「春雨物語」も、興味深かったので原文で読んでみた。「二世の縁」の冒頭は、「山城の高槻の樹の葉散りはてて、山里いとさむく、いとさふざふし」とはじまり、結びは「いといぶかしき世のさまにこそあれ」となっていた。江戸期までの日本語の文章は、こうした和文か漢文読み下し文のどちらかで、公文書は漢文脈つまり書き言葉で、読本、草双紙など物語は平安朝以来のかなで書かれたが、これも基本的には話し言葉そのままではない。浄瑠璃や歌舞伎の登場人物のセリフは、当時の話し言葉を想像させはするにしても、日常会話があのようなものであったとは思われない。
  Wikipediaなどによると、作家 円地 文子(えんち ふみこ、1905~1986年。本名圓地 富美)は、東京浅草・向柳原(現在の東京都台東区浅草橋)出身。日本女子大学付属高等女学校(現在の日本女子大学附属高等学校)4年次中退。父は明治日本の国語(仮名遣いの統一、言文一致の日本語表記)を確立し、新村出、金田一京助、亀田次郎らの国語学者を育てた東京帝国大学教授、上田萬年(1867~1937)。富美は次女で、『東京日日新聞』の記者だった円地与四松と結婚。一人娘に素子がいる。素子の夫は、核物理学者の冨家和雄(1928-2005)。
 富美は幼少時より病弱で、学校も欠席しがちで女学校は中退し、その後は父などから個人教授を受け、戯曲及び古典日本文学に深い関心を持つようになったという。はじめ劇作家として小山内薫の薫陶を受けたが、処女作上演の記念パーティーでその小山内が倒れて死去。ひとまず劇作家としての成功を収めるが、その後また数々の病気に見舞われる。小説家としては、当初評価されず苦労した。代表作『女坂』は戦時中に刊行されているが、戦後は少女小説、通俗小説などを生活のために多く書き、1960年代からようやく評価されるようになる。
  日本の古典文学については、平安朝から近世まで詳しく、女を描いた小説と『源氏物語』など古典の造詣により評価され、1985年、文化勲章を受章した。『源氏物語』現代語完訳は、与謝野晶子、谷崎潤一郎に続くもので、新潮文庫に入り広く読まれた。谷崎にはかわいがられ、1965年に創設された谷崎潤一郎賞で第一回から選考委員を務めた。
  戦前からひとまとめに「女流作家」と呼ばれた女性小説家は、さまざまな経歴の人がいるけれど、円地文子は、国学の伝統と西洋留学(ドイツなどに4年間)を経て近代日本語を作り上げた帝国学士院会員、貴族院議員という大物の父から、直接自宅で教えをうけたという極めて特殊な人である。

 「さて、この掘り出された男は、常にぼんやりしている癖に食うものが足りなかったり、人から叱(こ)言(ごと)を言われたりすると、結構、腹を立て、目を三角にしてぶつぶつ言った。下男仲間も近所のものも尊げに扱う風は微塵(みじん)もなくなって、ただ名前だけは一度定(じょう)に入って甦ったのだからと、入定(にゅうじょう)の定助(じょうすけ)とつけて、五年ほどこの家に召使われていた。
 この村に夫にさき立たれて貧しく暮らしている孀(やもめ)があった。これも少し足りない方に数えられている女であったが、いつの頃か、かの入定の定助と親しくなって、女の家の猫の額ほどの畑を定助がせっせと耕したり鍋(なべ)釜(かま)を裏の流れで洗っているのを見るようになった。もとより主人の家でも是非なく飼いごろしていただけのことなので、このわけが知れると、その家の婿(むこ)になるがよいと誰も誰も苦笑いしながらすすめ立てて、定助はついにこの女の夫になった。
 「齢(よわい)はいくつとも自分でわからないと言っていたが、結構男女の道だけは覚えているものと見える」
 「なるほど、こうして見ると定助がこの世に甦って来たのも謂(いわれ)あることだ。あの穴の中で昼夜をわかたず鉦をうち鳴らしていたのは一途に仏縁を願う尊い志とばかり思っていたが、さては浮世に今一度生れ変って男女の交わりをしたい執念であったのか、さてさて気うとい願(がん)だ」
 と人々は噂しあった。
 村の若ものなどは、定助とあの後家(ごけ)と抱きあうさまはどんなであろうと、わざわざ出かけていって、あばら家の板戸の隙間からのぞいて見ることもあったが、別に化物が女と戯れている様子もなく、力ぬけして帰って来た。
 「お寺で説教する因果の理(ことわり)などもこういう例を眼(ま)のあたりにみると信心する気が出ない」
 と噂し合いこの里人ばかりか、近隣の村の者まで檀那(だんな)寺への布施を怠るようになった。
 それを誰よりも気にしたのはこの村でも由緒のある某(なにがし)の院の住持である。
 仏の方便の融通(ゆうずう)無碍(むげ)の相はもとより末世の凡夫(ぼんぷ)の推(お)し量(はか)る由(よし)もないが、眼前の出来事のために仏徳の損なわれるのは見過ごしには出来ぬ。ともかくもかの定助の定に入った時の様子を調べて、せめて愚夫愚婦の迷いを解かねばと思い立って、寺の「過去帳」を繰ったり、近隣の古老を洩(も)れなく訪うたりして、仏前のつとめも怠るまでこの埋もれた事実を探り出そうと骨折ったが、生憎(あいにく)、この里は百五十年ほど前の大水害に人家も住民も皆押し流されたあと新たに枝川が生じて地形が変り、水利の便もよくなってあらためて人の住みついたところなので、その災害以前の村は今は川中になっているという。古曽部ののある辺りは人家もない川辺の洲であったと解って見れば、一層入定の僧の棺がどうしてそこに埋められたのかなど調べる道は絶え果てる次第であった。
 「しかし水害にあったとすれば、高徳の上人もその折耳や口に水がしみ入り、それがまた乾し固まって、今の定助に見るような愚痴にかえられたものであろうか」
 と真顔につぶやくものもあり、それをまたあざわらうものもあって、定助の過去についての不審は一向に晴れないのであった。
 この村の村長(むらおさ)の母なる人は八十まで長生きしたが重い病にかかり、臨終近い際に、かかりつけの医師(くすし)を呼んでこんなことを言った。
 「今度こそ無い生命と覚悟しましたけれど、今ではいつ死ぬとも気づかず、御薬の力でこれまで生きのびました。先生には長い年月よく面倒をみていただきましたが、この後ともに一族の身の上を気をつけてやって下さいまし。息子はもう六十に手の届くというに、しっかりしたところがなくてまことに心もとのうございます。時々には先生から意見して、家運を衰えさせぬようお諭(さと)し下さい」
 きいている息子の村長は苦笑いして、
 「私ももう白髪(しらが)になった歳です。生来愚鈍ではありますが、お教訓は身にしみて忘れず家業に精出しましょう。お母さんも浮世のことは心配なさらずに、お念仏を唱えてよい往生を遂げて下さい」
 というと、病人は苦々しげに医師をみて、
 「あれお聞きなされたか、先生。あの通りの馬鹿者で困りきります。私は今更、仏さまを祈ってまで極楽に生れようとも思わず、不信心から来世は畜生道に落ちて苦しむともさして恐ろしいとも思いません。この年まで娑婆の生きものを見ていますと、牛も馬も例えにひかれるほど苦しそうなことばかりではなくて、結構、うれしいたのしいこともありそうです。人間は十界の中でも牛馬よりはるかに優った生きもののはずですけれども、楽しいと思う時は数えるほどで、その日その日に逐立てられる有様は牛馬よりも暇なく、一年中明けても暮れても着るものを染め変えたり、洗ったり、立働く上に年の暮れともなればお上へ納める年貢を怠れば手の背後にまわる格別の一大事…胸につかえているところへわが家へ米を納めるはずの小作のものが来ては、また貧乏の愚痴をくどくどのべ立てる……ああどこへ行っても、いつになっても極楽などあろうか。ただ、臨終の一つの頼みには棺のまま土に埋めてだけは下さるな。山へ持ってゆき、さっぱり火で焼いて下され。先生もそのことだけは立会人になってしっかりきいておいて下さいまし。あの入定の定助のようにだけはなりたくないのが私の遺言です。もう何もかも面倒!口もきくまい」
 といって目をつぶり間もなく息絶えた。
 遺言に従って、遺骸は山へ運んで荼毘に附したが、入定の定助は小作人や日雇いにまじって柩を担って山へ登り、棺に火をかけて骸は燃えつき、灰の中に白い枝のように細々残る骨を親族がかきあつめて骨壺に納めるまで、穏亡代わりに立働いていた。これも仏の供養に分け与える黒豆入りのこわ飯を少しでも余ぶんに貰って帰ろうとの一心と思えば、あさましく。
 「仏を願って浄土へ生れ変ろうなど、ゆめにも思うな。あのざまを見ては……」
 と村のものはつばを吐きあい、子供たちにも教えさとした。
 「それでも定助は生れかわって、妻を貰ったではないか、二世の縁を果たそうとの仏の思召しかも知れぬ」
 とある人々は言ったが、定助の妻の例の後家は、時々犬も食わぬ夫婦喧嘩をしては近所にかけ込み、
 「何で、あんな甲斐性なしを亭主にしたものか。落穂を拾って、かつかつ孀ぐらししていた時が今更恋しい。前の夫があのようにしてもう一度甦ってくれたならどんなによかったろう。あの男なら米や麦にも事欠かさず、肌をかくす布きれにも、今のように苦労はしまいものを」
 と手放しに泣き恨んでいたという。
 さても、不思議なことのみ多い世の中ではある……」円地文子「二世の縁 拾遺」(紅野敏郎・紅野謙介・千葉俊二・宗像和重・山田俊治編『日本近代短編小説選』昭和編3、岩波文庫、2012.)pp.160-165.

 小説なので、原文の忠実な現代語訳というよりは、円地文子は原文をかなり自由に解釈して部分的に書き加えたり補充したりしている。
 この最後の後家のぼやきは、原文ではこうなっている。
「何に此のかひがひしからぬ男を、又もたる。落穂ひろひて、独(ひとり)すめりにて有りし時恋し。又さきの男、今一たび出でかへりこよ。米麦、肌かくす物も乏しからじ」とて、人みればうらみなきしてをるとなん。
 円地文子は「雨月物語」や「源氏物語」を全部自力で現代語訳をしているわけだが、この小説は、戦争未亡人で出版社で働き、「春雨物語」の現代語訳をしている老国語学者の病床で、口述筆記をする女性を主人公に、「二世の縁」の物語を小説に取り込みながら、最後に主人公にある事件を用意する。それは、この「二世の縁」の最期の部分に重なっているように読める。

「布川先生と話さずに来ただけに、先刻まで筆記して来た「二世の縁」の定助という不思議な男のことがつい眼のさきに生きている人のように生々しく心に浮び上っていた。この物語では定助の定に入る前の生きていた姿にはついに照明が与えられないままであるが、魯鈍な田舎人と変わってしまった後の生で定助を夫に死に別れた孀のもとに入夫させ、いわゆる「二世の縁」を結ばせているのは何か典拠があるのか、それとも老年の秋成自身の作為によるものであろうか、布川先生の言っていたように「雨月物語」の怪異を描いた三十代の秋成であったら、おそらくこの物語を描いても、入定の前に道心の法師が珍しい美色の女を一目みて心乱れ、その妄執が鉦を叩きつづける手に残って輪廻からぬけ出せないさまを凄艶な物語に仕上げたであろう。それに較べるとこの「二世の縁」の定助はいかにもじじむさく間がぬけていて、一つ間違えば落語の種に使われそうである。それにしても、おそらくこれを書いたころの秋成は左眼の明を失い、老妻の瑚璉尼にも死別していたのではないかと思われるが、孤独窮迫の生活の中になお創作の衝動に劣らず性の欲望の埋み火のように消えがたく残っているのを、なかば嘲り、なかば恐れて、この「二世の縁」を書いたのではあるまいか。かつては高徳の聖で死生の一大事について諦悟したかも知れない男が、眼に一丁字も解せぬ痴鈍な男に成り変わりながら、前の生活で果たせなかった性への執着だけをともかくも一人の女の身体をかりて果たすという結末に作者は老耄した性欲の蛆のようにうごめく怪しさを暗示しているのではあるまいか。作中二度までも後生願いの老女にこの事件を機会にして仏教の因果律を嘲笑させているスケプティシズムも昇華のない性の堂々めぐりを憎んでいるように思われる。そう言えば、布川先生があんなに年の違うみね子を手に入れて、みね子も先生の生命の長くないことを勘定に入れてあの古びた家をすでに自分の名に変えているなどという話も、どうやら定助と後家の関係に縁のないこともなさそうである。
 こんなことを考えている中、私はふと思いがけなく、死んだ夫の爆死する前の夜、彼と最後に抱擁したことを思い出した。彼の逞しい胸の中で、仔犬のじゃれるようにもがき、あえぎ、やがて、身も心も消え失せるような官能の快さに萎えしびれた思いが、思い出ではなく、ふと自分の身体に戻って来た。子宮がどきりと鳴った。あっと思った途端私は靴を滑らして二、三歩よろけ、危く膝をつこうとした。
 「危ないですよ」
 という男の声と一緒に、私は傘を持ったままの腕をかいこまれて、危くもとの姿勢を取り戻した。」円地文子「二世の縁 拾遺」(紅野敏郎・紅野謙介・千葉俊二・宗像和重・山田俊治編『日本近代短編小説選』昭和編3、岩波文庫、2012.)pp.166-168.

 儒教や仏教を敵視してやまと心を称揚する国学の思想からすれば、仏教の理想、即身成仏をとげたはずの聖がじつはおぞましい性欲の奴隷になるというこの物語を書いた秋成も、国学の流れにある。しかし、秋成の思想は宣長とはちがって、仏や神といった信仰の根にあるものを、日本オリジナルのシンボルに体系化する観念性ではなく、異界に踏み込む人間のあまりに激しい執着や情念をことばで描いて見せる「自然」にある。円地文子は、そのエッセンスを的確に理解して、さらに現代の小説として自分のものにしてしまう。才能は輝いている。



B.ああそうか。
 沖縄の県民投票結果は、はっきりと米軍海兵隊基地を普天間から辺野古への移設はやめるべきだと出た。しかし、安倍政権ははじめからこれを無視し、黙殺することは間違いなく、結局またもウチナンチューの意志は踏みにじられるのか、と愁いを深めていたところ、いや、そんな悲観しなくても大丈夫、という提案があった。そういえば、先日の新聞でもこの種子島の近くの無人島を、所有者から国が買うという話が出ていた。国の買収に絡んで防衛省が160億円で買うにあたって、20億円が政界に流れたという噂も報道された。どっちみち軍の飛行場にする計画らしい。写真では平たい島ですぐに飛行場ができそうに見える。

 「普遍間基地の移設先 馬毛島に変更 一考を:池澤夏樹
 沖縄の県民投票の結果が出た。
 投票率は5割を超え、普天間基地の辺野古への移設に反対する票が72.15%に上った。ちなみに2,017年の衆議院議員選挙比例区における自民・公明の得票率は45.79%である。どちらも民意の反映。
 それでも安倍政権はこれを無視すると言う。投票の前からそう公言していたのはこの結果を予想していたからかもしれない。国策はどうせ変らないのだから投票など無駄だよという県民への牽制。あるいは軽侮。
 政治の話には他にも論者がいるだろうからぼくは現実論に行こう。
 埋め立てによる辺野古基地の建設は事実上不可能である。
 大浦湾側、予定海面の6割の海底は地盤がマヨネーズと言われるほど軟弱で、いくら土砂を投入しても固まらない。滑走路など造れない。
 工法がないわけではないと政府はいう。まず鋼管を打ち込んで、中の泥土を吸い出し、そのあとに砂を流し込む。突き固めた後で鋼管を抜く。泥土の一部を砂の杭で置き換えるわけだ。
 なるほどと思うけれど、その砂の杭の数が7万6699本。しかも現場は水深30mの海底の下に軟弱地盤が60m超で、国内では前例のない難工事になるという。
 先日の「朝日川柳」欄に「割り箸も楊枝も立たぬマヨネーズ」というのがあったが、正にそのとおり。
 県の推定では予算は2.5兆円に上り、工期は少なくとも13年に及ぶという。その間に普天間で事故が起きたらずさんな計画で移転を先延ばししてきた政府はどう責任を取るのか。
 埋め立てと地盤沈下では関西空港の例が思い出される。あそこも軟弱で完成後も沈下が止まらず苦労した。滑走路一本の空港の開港までに建設費は1兆5000億円に達し、高額の着陸料に跳ね返った。辺野古はそれを超える。
 普天間の移転先として、短期間の工事で実用化が可能、付近住民の危険がなく、騒音問題もなく、使い勝手も悪くないという候補地がある。
 鹿児島県種子島のにし12kmのところにある馬毛島。提案の理由を述べる――
 1 島ながら普天間基地より7割ほど広く、4000mの滑走路が造れる。
 2 西之表市から遠いので騒音はあっても遠雷程度。滑走路は南北方向だから飛行機は市街地の上を飛ばない。
 3 嘉手納から580km、岩国から400km。連絡機で通勤可能な距離だ。
 4 東シナ海にも太平洋にも出やすいのは普天間と変わらない。訓練空域も確保できる。
 5 地形が平坦で小さな丘を削るだけ。たぶん二年で完成。
 6 近々国有地になる見込みで、そうすればすぐにも着工可能。
 普天間基地の危険についてはアメリカだって不安に思っているはずだ。二〇〇四年の沖縄国際大学ヘリ墜落事件は幸い夏休みだったので民間の人的被害はなかった。一九五九年の宮森小学校の時は小学生十一名を含む十八名が亡くなっている。六十年前の話だが、それは六十年に亘って沖縄で危険な事態が続いているということだ。
どんなに用心しても事故は起こる。
すべての事業は事故の可能性を組み込んで運営されなければならない。原発が実用的でないのは事故を想定した時に帳尻が合わないからだ。民間の保険会社は原発を相手にしない。同じように軍事基地も相手にしない。
ここで大浦湾の軟弱地盤の存在が明らかになったのは好機ではないか。マヨネーズの比喩はアメリカ人にもよくわかる。勇猛果敢の海兵隊の足元がマヨネーズではね。
こういう事態になりましたから、辺野古は諦めて馬毛島に行きませんか、と説得してはいかがか、十年以上も待たないで済みますよ。交通至便、環境絶佳、すぐにも入居。こんないい物件は他にありません。
 (ほとんど不動産屋の口調だ。)
馬毛島という具体的な地名は一般の人びとには唐突かもしれないが、ぼくは一九九七年にこの島を地図で見つけて、普天間基地の移転先として提案してきた。
無人島で、島の土地のほとんどが民間所有だが、政府はここを購入して自衛隊の基地にする方針を立てている。在日米軍との共同使用もあるという。もう一歩だ。
日本にアメリカ海兵隊の基地が必要かどうか、その議論は別にしよう。この何十年か喫緊の課題だったのは普天間の危険だ。県外といってもどこも手を挙げない。もっともコストが低くリスクの少ないところを探してぼくが見つけたのが馬毛島だった。
全日本国民諸君、ご一考を。」朝日新聞2019年3月6日夕刊、3面文化欄コラム・「終わりと始まり」

 池澤氏の言う通りなら、辺野古の埋め立ては即中止して、馬毛島に基地を造ることに方針転換するほうが、現実的に大きなメリットがあることは、政府にとっても米軍にとっても国民にとっても疑いない。もし、それを検討に値しないという判断を安倍政権がするのなら、まったくナンセンスで別の利権やしがらみに囚われているとしかいえない。
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