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敗戦を語る俳優たち 3  ラク町のお客?

2020-11-29 14:00:05 | 日記
A.田崎潤・宇野重吉・芦田伸介
  俳優田崎潤は、本名を田中実、1913(大正2)年8月生まれ、亡くなられたのは1985(昭和60)年10月18日。数多くの映画やテレビドラマで、おもに悪役や脇役で印象深い演技は誰もが知っていた。テレビのNHK「連想ゲーム」にも出ていたというが、それはぼくには記憶にない。加藤芳郎と水沢アキはよく覚えているが…。大正生まれの男性は、身体虚弱でない限りほぼ確実に若い兵隊になってあの戦争に行って戦った。運悪く死んだ人も多いが、かろうじて生き延びた人は、戦後を必死で生きることになった。田崎さんは玉音放送を中国大陸、武漢で聴いたという。武漢は今回のコロナ発生で注目された内陸の大都市である。

「田崎潤(1913~1985)は、十九歳のとき、役者を夢みて青森から上京した。ドサ廻りの田舎芝居を皮切りに、無声映画の端役、上海でのレビュー、浅草における喜劇と、下積み生活が長かった。二度にわたる応召と従軍では、死線をさまよった。最初の応召では、手りゅう弾にやられ、北京の病院から内地へ送還された。二度目の応召のときは、傷痍軍人であった。
釜山から汽車で満洲へ向かい、奉天(現・遼寧省瀋陽市)、北京をへて、黄河をわたり、漢口(現・湖北省武漢市)にたどり着く。そこからさらに行軍し、敵の迫撃砲にさらされながら、行軍なのか、退却なのか、いよいよもって心細くなる。そのさなかに、迫撃砲でふたたび負傷する。手当て(赤チンを塗るだけ)を受けたものの傷は悪化し、武漢大学の平坦病院に入院、手術を受けることになった。

 入院して四日目の昭和二十年八月十五日、身体の動くもの、歩けるものは講堂に集合しろとの命令が出た。
 その時、天皇陛下の玉音を聞いた。ときどき音の聞こえないところがあったが、日本が戦争に負けたことはわかった。若い将校で泣いている人もいたが、私は正直いって「これで日本へ生きて帰れる」と思って嬉しかった。
 それから毎日、いろんな噂やデマが伝染病のように広がって大変だった。「日本へ帰る前に皆殺しにされる」とか「帰ってもアメリカ兵や中国兵がいて、われわれは奴隷扱いか死刑だ」とかいう者もあれば、「そんなことはない。現に終戦から何日かたっているが危険なことは一度もなかったじゃないか。蒋介石は日本の軍隊にいたから、日本の武士道を心得ているのだ」と、もっともらしく勝手なことをいうものもいる。 (田崎潤『ズウズウ弁の初舞台 悔いなし、役者人生』サイマル出版会、1983年)

 そののち上海の病院に移されたが、芸者をあげて敗戦のやけ酒をあおる軍医につきあわされ、傷が化膿してしまう。自暴自棄などんちゃん騒ぎのなかで、田崎は泥酔する。舞台内で俳優だった素性は知られていたので、都都逸、さのさ、浪花節と乞われるまま、ありったけの芸を披露した。入院する病院のとなりには駐屯地があり、浅草時代からの田崎を知る軍曹がいた。

 軍曹は浅草時代から私のファンだったらしい。ここでまた役者である故に得をした。
終戦後の毎日の食事は、飯盒のふたに半分くらいのご飯に薄いみそ汁。みそ汁の表面には豚でも入っていたのか、油が少し浮かんでいた。こういう時に、毎日、石油缶に半分のご飯をもらってごらん。天下を取ったような気持ちになると。 (前掲書)

 手術しては酔っぱらい、五回も手術したすえ、待ちに待った内地送還の日がやってきた。戦後は、劇団たんぽぽ公演『肉体の門』で注目を集め、新東宝映画のバイプレーヤーとなる。さらには東宝、大映、東映と各社の作品に出演し、活躍の場を広げていく。この内地送還のとき、田崎は終生忘れえぬハプニングに遭遇している。《もう戦争の話は書きたくない》(前掲書)というそのエピソードは、第五章「葫蘆島の風、冷たく」で後述する。
 田崎潤は、外地で玉音放送を聴いた。同じく外地にいた宇野重吉(1914~1988)は、玉音放送そのものを聴いていない。宇野は当時、東南アジアの北ボルネオにあるクチンという町で、警備のような、戦争準備のような、本人もよくわからない兵役についていた。
 新協劇団から瑞穂劇団へと、戦前から熱心に新劇運動に参加していたこともあり、宇野は軍部にとって要注意の演劇人であった。千葉の佐倉聯隊から赤坂の憲兵隊に送られ、陸軍刑務所へ収監、まもなく元の部隊に戻された。そののちボルネオへ送られ、そこで終戦をむかえた。
 終戦の前後のことを宇野は、「北ボルネオに終戦を迎う」(『光と幕』村山書店、1957年)という文章にしている。執筆したのは、1955(昭和30)年8月、終戦から十年の節目であった。この文章では、《八月十五日が、その辺のどの日だつたか、はつきりしない。》《何処で終戦の日を迎えたかさえ、ハッキリしないのだから、余程ぼんやりしていたのであろう。》と書いている。
宇野は、将校たちが「ポツダム宣言がうんぬん」と、コソコソ話していることを知っていた。それだけでは、くわしいことがわからない。舞台本部勤めの兵士から、「どうやら敗けたらしい」との噂を聞いてまもなく、中隊長が全員を集めて演説をぶった。それを、宇野は目の当たりにした。

 やはり戦争は終わったのである。みんなぽかんとして聞いていた。中隊長の手前、日本軍人である手前、戦争に負けて喜んでは具合が悪いからであろうが、戦争が終わつたという事実が、一向にピンとこないのであつた。この戦争は終わつたが、明日からまた別の戦争にうけつがれていくような気もした。戦争ばかり続いた時に、二十代から三十代に移つた僕らにして見れば、戦争が終わったなどということはとても信用出来ない気持であった。中隊長の言葉は、どんなに悲壮に語られても、僕らには何時もの命令と同じように、虚ろにしか響かなかった。「ハイ、そうですか」と、黙って聞いていればいいようなものであつた。唯、その中で、天皇陛下が敗戦の放送をされた―ーという話が出た時はドキンとした。これなら本当かも知れないという手応えがあつた。それは、兵隊が「天皇恐怖症」にかかつていたからであるが、天皇が放送したというその事が、バカに生々しく本当らしく受け取れたのである。あの人が、マイクロホンの前に立つて、国民に何かしゃべつたということ。それが「戦争は敗けたからもう止める」というような事であつたか「朕は腹が痛い」というような事であつたか、そんな話の内容よりも、天皇が、ともかく国民にジカに放送したという事が、最も手つ取り早く僕らに敗戦をのみ込ませてくれたのであつた。 (宇野重吉「北ボルネオに終戦を迎う」『光と幕』村山書店、1959年)

 たとえラジオの音が悪くても、玉音放送を聴いていれば、宇野重吉も終戦の記憶が刻まれていたかもしれない。俳優による終戦日の手記では、高峰秀子のエッセイや、後述する徳川無声の日記の印象が強いが、玉音放送を聴いていない俳優たちも多かった。
 宇野は戦後、滝沢修、清水将夫、北林谷栄らと劇団民藝を旗揚げした。その民藝に入った芦田伸介(1917~1999)は終戦時、中国の安東にいて、玉音放送を聴いていない。自著『ほろにがき日々』(頸文社、1977年)を読んでみる。

 私たちが安東の土を踏んだのは、八月十五日の真昼だった――。
街には青天白日旗がひるがえり、「朝鮮独立万歳」ののぼりをおし立てた朝鮮人の群衆でわきたっていた。
 日本は戦争に負けたのだろうか―ー。到底信じられることではなかった。(芦田伸介『ほろにがき日々』頸文社、1977年)
芦田はそののち、命からがら引き揚げた。」濱田研吾『俳優と戦争と活字と』ちくま文庫、2020年、pp.29―34. 
 ぼくの父も大正9年生まれだったから、当然のように陸軍兵士になった。ただ外地の戦場には行かずに、本土決戦のため群馬の陣地で玉音放送を聴いた、らしい。父から戦争と軍隊の話はあまり聴いたことはなかった。今思えば、いろいろ聴いておきたかったと思う。


B.肉体の門は有楽町ガード下?
 このコロナ禍で、都心のサラリーマン相手の大衆酒場のような店は、非常に苦しい営業状態を強いられているようだ。戦後間もなく、東京駅から有楽町、新橋と続く線路の下にある飲食街が仕事帰りの勤労者たちの憩いの場として栄えた面影は、いまも雰囲気が続いている。しかし、戦争が終わって焼け野原だった東京中心部に人が戻ってきて、露店が開かれ、闇市が広がった。それは、「進駐軍」が支配する敗戦国の現実を、目に見える形で示していた。

「時代の栞 TOKI NO SHIORI「肉体の門」1947年刊 田村泰次郎 :生きてやる 焼け跡からの叫び 
夜のとばりが下りた。近代的なビルが立ち並ぶ東京・有楽町。きらめくネオンの海に男も女ものみ込まれていく。
 だが75年前は、想像もできないような光景が広がっていた。空襲で焼け野原となった街。闇市ができたが、愚連隊が大手を振って歩き、恐喝やスリ、置き引きが横行。「ラク町」と俗に呼ばれた有楽町のガード下は「夜の女」と呼ばれた街娼たちのたまり場となった。連合国軍総司令部(GHQ)の本部にも近く、米兵たちの袖を引いていた。
 生きるため、やむなく夜の世界に身を投じた女たち。言葉は悪いが「パンパン」と呼ばれた。「パンパン」と手をたたいて招いたという説やインドネシア語で女性を意味する言葉がなまったという説などがあるが、どれも確証はない。だが社会全体が荒っぽかった当時の世相を反映する言葉ではある。
 そのパンパンをテーマに掲げた小説が作家・田村泰次郎(1911~83)の『肉体の門』である。B4判400字詰め原稿用紙にして56枚。同じ三重県出身で、早大の先輩にあたる丹羽文雄が47年、雑誌「群像」の編集部を紹介。同年3月号に掲載され、2か月後の5月には単行本として「風雪社」から出版された。
「乱世のなかのあるがままの人間像をさぐり、人間とはなんであるかを探求しようと思っている」と田村は後書きに記した。売り上げは120万部を超える大ヒット。敗戦後の混乱期を代表する1冊といっていいのではないか。
 この年には「空気座」という劇団によって舞台にもなり、新宿の帝都座で上演された。運営に携わった風俗作家の故・吉村平吉は「半裸の私娼がリンチを受けて天上から宙吊りにされるというラストシーンが話題を呼び、劇場は長蛇の列となったんです」と話していた。舞台を見てショックを受けた女性が、劇場のビルから飛び降り自殺をするという事件も起きたという。
 「戦時中は肉体も精神も国家に帰属するという考えが強かったが、戦争が終わり、大きく変わった。性は個々人が主体性をもって享受すべきものという価値観への転換です」。田村について研究書がある尾西康充・三重大教授(日本近代文学)は語る。
 焦土と化した都市に漂っていたニヒリズムと、戦時統制が解除されてうごめきだした大衆の欲望が作品に巧みに投影された。戦後の世相を反映した記念碑的な小説として高く評価していいだろう。  
 それにしても『肉体の門』とは衝撃的な題名だ。10代の時から仏文学を学んでいた田村が憧れていたレイモン・ラディゲの『肉体の悪魔』と、アンドレ・ジイドの『狭き門』がヒントになったといわれている。
 「この小説には、5年3カ月に及ぶ中国大陸での田村の軍隊生活が色濃く反映されている」と尾西教授は言う。「どんなに崇高な思想であっても、人間を虐げ、あげくの果ては死に至らしめるようなものは不要であるという確信が彼にはあった」。偉そうにしているインテリも戦場では獣になるということを田村は分かっていたのだろう。
 だが腑に落ちない点もある。あの時代、街娼が路上で声をかける相手は主に米兵だったはずだが、『肉体の門』には外国人は出てこない。すべて日本人である。
 背景にはGHQの検閲体制があった。「占領軍の男性と日本人女性が親密に接する場面も検閲の対象になっていた。」(マイク・モラスキー編『街娼』)。娼婦を歌った菊池章子の「こんな女に誰がした」という歌も検閲に引っかかり、「星の流れに」と題名が変った。
 『肉体の門』は、そのタイトルから大衆向けの風俗小説という見方をする人が多かった。だが、コロナ禍で閉塞感が強まり、自殺者も増えつつある現在、同書に描かれたあふれるような生命力、獣のような営みは、もっと注目されていいのではないか。「どんなことがあっても生きてやる」。登場人物たちのそんな叫び声が聞こえてくる。(編集委員・小泉信一)」朝日新聞2020年11月4日夕刊3面。

 敗戦後の東京の焼け跡闇市が、一種の混沌とした闇と光の人間性剥き出しの世界だったであろうことは、その時代を知る人、しかも1945年8月からせいぜい2年くらいの期間の東京にいた人だけの記憶だろう。有楽町は占領統治の中心、マッカーサーのGHQ本部があったから、ここから銀座周辺は米軍など進駐軍兵士にあふれていた。日本人向けの闇市は新橋の方向に広がり、銀座通りの服部時計店、伊東屋、松屋などのビルは米軍に接収されてPX(占領軍専用の売店)となり、占領統治が終わるまで、そこから米軍の放出品が出回った。ぼくの子どもの頃までは、この米軍放出品という物資がよく目について、テントや水筒などその作りは大きくがっしりしていて「アメリカ」の威力を物質的に示していた。「肉体の門」は、鈴木清純の映画でまさに肉体を晒す野川由美子が刺激的だったが、あれが現実には米兵相手の娼婦だったということには気がつかなかった。有楽町のガード下に生きる女たちは、米兵をお客に稼いでいたわけで、それが全部日本人しか出てこない小説や映画の嘘は、占領軍の情報統制、検閲の結果だったんだな。
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