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反体制のヒーロー マルクーゼと松元ヒロ

2018-04-15 15:11:46 | 日記
A.69年の思想家
 ヘルベルト・マルクーゼという名前は、60年代末の世界同時「学生叛乱」の一瞬に若者たちを鼓舞する思想として伝染病のように広がった。ぼくも19歳の頃、翻訳の出た『一次元的人間』や『エロス的人間』を読んだことがあった。マルクーゼの主張がよくわかったとはいえなかったが、大雑把にいえば、自分のような名もなき若者でも、心のなかで湧き上がる情念、沸々たるエロスをエネルギーにして大人たちの作っている世の中を変えていいのだ、というメッセージに思えた。フロイトとマルクスという異質なものを融合し、個人の心の底にあるものと社会体制という大きな仕組みとがパズルのように取っ組み合って、実際に世の中がぼくたちの手で動いていくような気がした。ヘーゲルに由来し初期マルクスが論じた疎外論に、リビドーや自我論を組合わせたフロイトの精神分析を接木するマルクーゼの理論は、あのころ先進各国の大学で反体制を謳って暴れまくることになる学生に、ひとつの目標を与えていた。
 あの頃のぼくにはもうひとつ、「日本春歌考」という大島渚の映画がこのアイディアを補強しているように思えた。これは非常にシンプルに、というか乱暴に、性的エロスの追求がそのままストレートに政治体制の変革、つまり革命までつながるという示唆になっていた。しかし、後でよく考えると、これは非常に乱暴な、問題が多い過激な思想だったと思う。もちろん、マルクーゼはそんな単純なことを言っていたのではない。

「マルクーゼはベルリンで1898年に生れているから、年齢的にはホルクハイマーとアドルノの間に位置する。かれらと同じく裕福な同化したユダヤ人の家の出である。かれもまた社会民主党の左派に共感を寄せたが、1919年ローザ・ルクセンブルクの虐殺のあと党をやめる。これ以後はドイツ社会主義の組織的隊列の外部の一批評家としてとどまった。これは、社会民主党を内部から変えていこうとしたフランツ・ノイマンが辿った道筋と顕著な対照をなしている。しかもこのノイマンは亡命時にマルクーゼのもっとも親しい友人となった人である。
 マルクーゼが1933年に社会研究所に加わったとき――このときはジュネーヴの支所勤務であった――、かれはすでに三年以上もフライブルクでフッサールやハイデガーについて正式の哲学研究をやっていた。とくにハイデガーはマルクーゼの思想に強大な影響を与えていたように思われる。若いマルクーゼの最初の労作、ヘーゲル存在論の研究は、ハイデガーの指導のもとに産み出されたものであった。実際、マルクーゼの近代の技術(テクノロジー)に対する抜きがたい敵意はハイデガーに負うものであったのであろう。しかし、1932年には、権力の座への接近が今や大きく浮かび上がってきたナチとの協力の方向に師が動いていったから、フライブルクはもはやマルクーゼに好適な知的環境ではなくなった。この不安な状況において、研究所が避難所を提供し歓迎してくれたわけである。
 マルクーゼは現象学や実存主義に通じ、また同僚のだれよりもヘーゲルについての専門的知見をそなえていたが、さらにある種の気質の相違をもち込んできた。これは以後年を振る経るごとに顕著なものとなっていくことになる。かれはホルクハイマーやアドルノよりもユートピアと無政府主義とに対して近い立場に立った。そしてかられはやらなかったことだが、革命のあとにくる新しい社会が実際に社会が実際にどのようなものとなるかを描き出そうと試みた。そうすることによってかれは、個人の幸福という観念に実質を与えることを自分の特殊的領域とすることになった。つまり、スタンダールやニーチェが美こそ幸福(ユヌ・プロノス・ド・ボヌール)の約束と言ったときに意味していたことを定義づけること――これはかれの仲間たちも絶えずそこに立ちもどりはしたが、曖昧な抽象的状態のままにしておくことを選んだテーマである。
 1934年の夏、マルクーゼは研究所のメンバーのうちで一番早くニューヨークの新しい本部に到着した。ここからかれは一連の主要論文を――パリで、しかもドイツ語で――発表した。これらはまるまる三〇年後に英語訳が出されるまでは、アメリカの読者にはほとんどまったく知られることがなかったものである。これらの論文は、1960年代後半の準革命的雰囲気の中でマルクーゼを有名にした思想の方向線をすでにはっきりと打ち出しており、のちに『一次元的人間』One-dimentional Manで展開される議論の多くを先どりしている。けれども、その形式はもっとおだやかで、文体は一般の読者には近づきがたいものであった。著者自身が言っているように、ふり返ってみるとそれらはなお「十分にラディカルでない」ものと思われたのである。
 そのテーマの大多数は、ホルクハイマーとアドルノが同時に書きつづけていたものと並行していた――自由主義的社会とファシズム支配の到来との間の連関、資本主義体制下における人間の疎外、表面上「無前提的」な実証主義の知的欺瞞、思考の特権的方式としての弁証法の地位。マルクーゼが新しい調子を響かせているのは、これら一連の論文の最後のもの、1938年に発表された「快楽主義について」である。古典古代にまでさかのぼる哲学的一伝統のこの再評価において、かれは快楽主義的倫理学――これはしばしば誤っている――と快楽主義の教説の開放的側面とを区別している。快楽追求の基準は「まさしくそれが誤っているときにも正し」かった、とかれは主張する。なぜなら、それは「あらゆる形の不幸の理想化に対して幸福への要求を保持」していたからである。それは、仕事の礼賛によるにせよ、あるいは美を抽象的な慰藉へと変形した「肯定的文化」の称揚によるにせよ、「享楽の価値を低めること」への平衡錘として働いたのであった。より特殊的には快楽主義は、人類が性を義務、習慣ないしは情緒的衛生の問題に減退させたことで耐えねばならなかった性的幸福を思い起こさせるものとして役立った。そこには、いつの日か驚いている世界に発言してくるかもしれない思いがけぬ革命的潜勢力が含まれている。
 性的諸関係の純化も合理化もされていない解放は、享楽そのもののもっとも強い解放となるであろうし、労働のための労働の全面的な平価切下げとなるであろう。いかなる人間も、それ自体として価値ありとされる労働と……享楽の自由との間の緊張には耐えられない。仕事の諸条件の荒涼たる不公正は個々人の意識に爆発的に貫通し、ブルジョワ的世界の社会体制に平穏に従属することを不可能ならしめるであろう。
 これは数年後にホルクハイマーとアドルノが『啓蒙の弁証法』にオデッセウスと「プロレタリア的」漕ぎ手についての余論を挿入した時に言及することになる問題であった。特徴的なことにかれらはこれを隠喩とプラトニックな抗議のレヴェルにとどめている。そして同じく特徴的なことにマルクーゼは結局それをフロイトの『文化への不満』の全面的な批判にまで推し進めていくことになった。けれども、それにはなお約二〇年の歳月を待たねばならない。その間にマルクーゼはようやく精神分析理論の勉強をはじめることになったのである。かれはいまだヘーゲルとマルクスへのほとんど排他的な忠誠心を抱いていた。この二人の円熟期の著作においては、個人的幸福という目標はあからさまにそれとしては認めがたいほど多くのものによって媒介されている。
 マルクーゼの快楽主義についての論文が『理性と革命』Reason and Revolutionと題されたヘーゲル研究の直前に出されたということは奇妙なことである。『理性と革命』は、アメリカにおける彼の最初期の主要著作であり、かれが、いや実際に社会研究所の指導的メンバーが、英語で刊行した最初の書物であった。それが1941年に出たときには大した反響はなかった。戦争のための準備に緊張していたアメリカにとっては、その本の唯一の直接的な関連はナチズムの遠い先祖の一人として貢献したという非難からヘーゲルを弁護していることだけであるように思われたのである。けれども、マルクーゼがこの弁護を企てたやり方は、かれが以前に書いたものを要約するとともに1950年代の著作を先取りもしていた。事実、かれはヘーゲルのうちに、マルクスがパリ草稿で同じ典拠から獲得した洞察を発見したのである。ヘーゲルの「疎外」という用語の使用は、マルクスがその哲学上の師からの独立の行為と考えていたものにおいて悪戦苦闘して進路を拓いた理解と実質的には同一であったのだ、とマルクーゼは論じた。このようにヘーゲルを革命的思想家へと転換することによってマルクーゼは、のちにフロイトを論ずる場合にとることになったと同じ戦術に従っていたわけである。
「この両者についてかれは、かれらの明らさまな政治的発言を無視してその基礎的な哲学的ないし心理学的な考え方の分析に向かうことによって、自分の主張を明らかにしようと企てた。……そしていずれの場合にも、明らかに保守的な外見の下に、カール・マルクスの著作にはっきりと定式化されることになる批判的原動力をとり出すという結果になったのである。」
 『理性と革命』はマルクーゼの知的生活の第一段階をしめくくるものであった。この著作の刊行の翌年、かれはワシントンへ行った。そしてフランツ・ノイマンと一緒に新設の戦略局に入った。かくして政府機関勤務の10年が始まったわけで、これはかれの伝記に奇妙な不整合を印している。かれの思想について書いた人々にとり、この第二段階は時として「モラトリアム」――のちに、エリク・H・エリクソンがこの語に与えた、心理学的な意味での「モラトリアム」――のように見えた。おそらくこれは、フロイトの潜伏(レイテンシー)という概念によってもっともよくとらえられるであろう。つまり『エロスと文明』Eros and Civilizationにおいてもう一度表面にあらわれてくる考えはマルクーゼが快楽主義論で表明しているのとほとんど同じものであったのだが、その両者の中間期にこの考えが長びいた知的成熟の爆発的な力を獲得するにいたったのである。
 このワシントン時代にマルクーゼがノイマンの軌道へと接近して、ホルクハイマーやアドルノから離れていったのも、これまた奇妙なことである。マルクーゼはホルクハイマーやアドルノとの方がはるかに多くの共通点をもっていたように思われるから。もちろん、物理的な距離も一役演じてはいたであろう。なにしろ戦時中には、カリフォルニアと首都ワシントンの間を旅することは容易ではなかった。けれども、やはりノイマンの人物に人をひきつける力があったということもある。内気なマルクーゼは圧倒的な友人に支配されるにまかせた。この場合には、結局はずっと有名になる男が、またもや後輩という役柄でその交際をはじめたわけである。
 マルクーゼの文官としての地位の異常性は、戦争中はナチズム闘争における全般的な連帯のムードによって包みかくされていたが、その闘いが終わったときにはあまり耐えやすいものではなくなった。ふたたびノイマンとともに国務省に移ってから、かれはドイツ問題の専門家としてノイマンの調査研究の職責を分担した。省みれば――とくにノイマンがコロンビア大学へと去って以後は――1940年代の末に真の左翼、また左翼の嫌疑のかけられた人びとがどんどん公職追放を行なわれていたときに、国務省の中央ヨーロッパ部門の指導的権威が、冷戦を憎みその作用の一切を嫌った革命的社会主義者であったということはまことに辻褄のあわないことのように思われる。確かにマルクーゼは、適当な教授職が提供されれば直ちに政府を去っていたことであろう。こうした選択の自由が与えられなかったものだから、かれはその最初の妻の長わずらいの末の痛ましい死によって麻痺させられてしまったかのように、またドイツに帰ることにも気乗りしないかのごとくに。ひとりワシントンにとどまりつづけたのであった。
 多数の極秘メモ作製――この仕事がかれの英語の文体をいちじるしく単純化することになる――のほかに、マルクーゼはこの時期にはわずかに一つの作品しか公刊していない。それはサルトルの『存在と無』の書評である。かれがそれについて書いたことはほとんどすべて否定的であった。アドルノがのちにそうしたように、マルクーゼはその本の自由概念を「観念論的」で人間の現実から遠く離れているとして拒否した。まことに皮肉なことに、サルトル自身1960年頃には同じ見解をとるにいたったが、このことをマルクーゼはその書評が最後にドイツ語訳で出されるときには適切に注記している。『存在と無』の著者はそこではマルクス主義への転回と植民地世界における革命を支持する戦闘的な立場に対する祝辞を与えられることになったのである。しかし、もとの形でも、「肉」および性的愛撫の存在論的意味に関するサルトルの腹蔵のない議論は賞讃されていた――これはマルクーゼの快楽主義論がいつか続編の書かれることを暗示するものであった。
 ノイマンの死、マルクーゼ自身の再婚、アメリカのアカデミーの世界への仲間入りによって、かれの知的生活の第三の、主要な段階が始まった。コロンビア大学のロシア研究所での過渡的一時期――この間かれはノイマンの家に住んでいた――のあと、マルクーゼは1954年にボストン郊外に移り、ブランダイス大学で教えはじめた。やっとのことで魅力的な教授職が現実化したのである。五〇代の半ばにいたってようやく彼は大学教授となり、こうしてはじめて、長びいた沈黙ののちに発言をなしうる自信を獲得した。
 一年後、『エロスと文明』が公刊された。この書物がマルクーゼに一般の注目をもたらした最初のものである。「フロイトへの哲学的探究」という副題のあるこの労作は十五年にわたる精神分析理論研究の所産であった。そこにおいてマルクーゼは、フロイトのメタ心理学が継承者たちに残した社会の謎――いかにしてエロスという「文化の形成者」が文化の存続のために「不断の昇華」によって抑制され弱められねばならぬ力でもありうるのかという問題――を解き明かそうと企てたのである。『文化への不満』を読んだ人はたいていフロイトの言葉をそのまま受入れて、放棄、自制、有罪、自己懲罰などは文明社会における生活がどうしても支払わねばならない感情上の代価であったし、また代価であり続けるだろうという結論に到達した。マルクーゼはこの結論にとどまっていることを拒否する。かれは「非抑圧」的な文化はありえないというフロイトのペシミズム的言明の底を掘り起こし、「西洋思想の支配的な伝統を粉砕し、その逆転を示唆する」と信じられる「諸要素」をとり出してきた。マルクーゼはこう説明している――フロイトの著作は、

  文化の最高の諸価値や諸業績の抑圧的内容を明示する非妥協的な力説によって特徴づけられていた。かれがそうしている限りにおいては、かれは文化のイデオロギーがその上に構築されている抑圧とり生徒の平衡を否定しているわけである。フロイトのメタ心理学は、文明と野蛮、進歩と苦難、自由と不幸との間の内的なつながり――究極的にはエロスとタナトスとの連関としてあわられてくる内的なつながり――の恐るべき必然性を暴露し問題とする試みの不断の更新である。

 しかしながらマルクーゼは、フロイト自身が人類にこの自ら化した監禁状態から脱する道を示していたとは論じなかった。反対にかれは、この精神分析の創始者が実際に言ったことから「引き出し」た二つの新しい用語を精神分析の武器に導入することが必要だと考えた、それが「過剰(サープラス)抑圧(リプレッション)」と「実行(パーフォーマンス)原則(プリンシプル)」とである。「過剰抑圧」というのは「社会的支配」によって要求された制限であって、これが「文明の中における人類の存続のために必要とされる、本能の基礎的な……“変更(モデイフィケーション)”」の上に据えられる。「実行原則」とは、フロイトの現実原則がとる「現行の歴史的」形態であると定義づけられる。つまり、流れ作業の列においてであれ、結婚のベッドにおいてであれ、社会の期待に応じてことを遂行すべしという強制命令のことである。
 マルクーゼの「過剰(余剰)」という用語は、明敏な読者にはすでにその背景にマルクスがひそんでいることの暗示となっている。このようにマルクスとフロイトのカテゴリーを結びつけながら、マルクーゼはかれ自身の目ざましい知的作業をやってのける――マルクスの名前がこの本には一度も出てこないだけにいっそう目ざましい。過剰抑圧という観念によってマルクーゼは、フロイトの本能論的・生物学的な理論の幹に現代の産業的社会の荒廃化をもたらす社会経済への批判を接木することが可能となった。同様にまた実行原則は、疎外と物象化というマルクスの概念を性的領域にまで拡大した。この原則は「生殖器の優位」を確立したのだ、とマルクーゼは主張する。それはリビドーを「身体の一部分」に集中させ、「他の諸部分のほとんどすべてを労働の道具として自由に使用できるようにする」。それゆえ、人間の完成への道は身体をふたたび性的なものと化することにある。単に生殖器的なもの、あるいは生殖的なものの専制的支配は、いわゆる倒錯、はじめの未分化な性欲の「多形倒錯」的諸傾向の復権によって打破されねばならないし、打破されることができる。これによって、社会が因習的に正常と認めてきたものにより与えられる幸福よりはより大きな幸福の約束が与えられるのではないか、とマルクーゼは考えている。
 あっと言わせるようなユートピア的プログラムである――けれども、フランスの一批評家が生真面目に指摘しているように、フロイトの基礎的カテゴリーを策略で出し抜いたようなプログラムである。」スチュアート・ヒューズ『大変貌 社会思想の大移動 1930-1965』荒川幾男・生松敬三訳、みすず書房、1978.pp.130-135.

 69年の学生の叛乱はあっという間に燃え上がり、まもなく鎮火して、当の学生たちの多くは、そんなことなどなかったかのように「気分を変えて」、愉快な消費社会の方に向きを変えてしまった。「日本春歌考」の主人公の男子受験生たちが、エロスの解放として妄想するのは、憧れのお嬢様美少女を犯す、という男根強姦暴力路線で、それを現実の行為とすることと国家体制を顚覆する革命が二重写しになるというイメージだった。革命の先にどのような社会を描くか、ぼくらは破壊という以外に何も考えていなかったが、性の解放=人間の解放というユートピアは魅力的だった。マルクーゼの理論もそのような誤解を読んでしまう部分があったのかもしれない。



B.「サヨク」は笑いモノか?
 安倍政権は、森友・加計問題が官僚の失態・文書改竄などの暴露に展開して、さすがの世論の支持も大きく後退しつつある。それでも「うみをだしきり」などと財務省・防衛庁・文科省などなどの官僚が職務にゆるみがあった故の失態だといい募って追求を逃れようとしている。後から後からなかった文書が出てきて、「記憶にない」「嘘ではないと信じる」みたいな言い逃ればかり聞いていると、さすがに末期的かなと普通の国民は思う。
 それでも、テレビは政治の話題は徹底して避けるふりをして、相変わらず反政府的な言説を口にする芸人は排除し、右翼的言説を忍び込ませた番組には寛容なのは、大手メディアに「安倍的」な感覚の人がうようよいるということなのかな。

「お笑いで権力斬る芸人 松元ヒロさん「憲法くん」に魂コメ20年 改憲論議で出番増え
 政治風刺が敬遠される日本のお笑い界で、安倍政権の矛盾をこきおろし、爆笑をさらっているのがコメディアンの松元ヒロさん(65)だ。テレビには尻込みされても、ライブは全国で引っ張りだこ。日本国憲法になりきる一人芝居「憲法くん」は20年以上続ける十八番のネタだ。タブーにひるまず、「笑い」で権力に切り込む芸人が、憲法にこだわり続けるのはなぜか。 (安藤恭子)

 「安倍明恵さんが私人だというけど、ならなんで籠池さんは国会に呼ばれたんですか」
 七日に千葉県内で開かれたソロライブで、初っぱなから森友・加計問題に切り込む松元さんに、会場は沸きに沸いた。「籠池夫妻は正月も拘置所で過ごしたんですよ。証拠隠滅のおそれ?あの人たちは何でもパアパア言っているでしょ。何も言っていない名誉校長を入れろ」
麻生太郎財務相の物まねも交えながら次々に飛び出す政権ジョークは、米国の人気テレビショーさながらの痛烈さだ。時事ニュースに合わせ、新鮮な話題を矢継ぎ早に繰り広げた松元さんが、この日最後に演じたのが「憲法くん」。
「五月三日の誕生日がくれば七十一歳になります。まだまだ元気ですよ。でも2020年にリストラになるかもって話を聞きました」
お払い箱になりかけている「憲法」になりきり、日本中が誕生を祝ったことや、国民のために権力を縛る役割を思い出してほしいと切々と訴える。「隠居していいよというけど、わたしを使ってくれたんでしょうか。七十一年間暇こいてましたよ」
スポットライトを浴びた松元さんが、「憲法の魂」という前文を暗唱する場面は圧巻だ。大きな拍手が起こる中で、「憲法くん」は叫ぶ、「僕は皆さんのもの、僕をお任せしましたよ」
初演は憲法施行後五十年を迎えた1997年。イベントで披露しようと、憲法学者の水島朝穂さんらと内容を練った。松元さんは前文の力に感動していた。「公演まで一週間を切っていたけれど、酔っぱらった勢いで暗唱する、と言ってしまった」と笑う。
反響は大きく、作家の故井上ひさしさんからは、とても深い思想を感じました」と握手を求められたこともある。他のネタは移り変わっても、「憲法くん」だけは二十年たっても公演依頼が絶えず、出ずっぱりだ。同じネタを続けるのが恥ずかしくなったこともあったが、落語家の立川志の輔さんに「落語なんか毎日同じ人が同じ場所に座っていることもあるよ」と言われて腹をくくった。「これはもう古典落語だと思って魂を込めてやろう」
開き直って演じるうち、改憲論議が急浮上。皮肉なことに「憲法くん」が求められる機会は増えてきた。2016年には絵本も刊行され、第七刷まで増刷を重ねる。
鹿児島県出身。学生運動の盛んな時代に思春期を過ごしたが、学生時代に打ち込んだのは陸上部、全国高校駅伝で区間賞も受賞している。法政大でも陸上部に入ったが、アフロヘアで走る姿をOBに注意され、「個人の自由だ」と反発して退部。喜劇王チャプリンにあこがれてパントマイムを始め、卒業後はコントの世界に飛び込んだ。85年にオーディション番組「お笑いスター誕生!」で優勝し、売れっ子芸人の仲間入りを果たした。
萎縮進む社会にツッコミ
 転機が訪れたのは、1988年だった。昭和天皇の闘病による自粛ムードで、イベントが次々とキャンセルされた。「こんなご時世ですからと言われたけれど、笑っちゃダメなんておかしい」。仕事がなくなった三つのグループが集まり、結成したのが社会風刺をテーマとするコント集団「ザ・ニュースペーパー」だった。
 「さる高貴なご一家」とうたい皇室を模したコントは大受けし、故筑紫哲也さんがキャスターを務めた「ニュース23」で披露された。98年に独立してから、ソロライブで全国を飛び回り、多くのファンを魅了してきた。
 松元さんの芸を愛した故立川談志さんとの逸話も多い。失言の多い石原慎太郎元都知事を皮肉るネタを、親友の談志さんの目の前で演じもした。内心ドキドキしたが、談志さんはその場で何も言わず、しばらくして別の口座で自らそのネタを演じてみせた。「舞台のそでで見ていた僕にウインクするんです。この『間』でやるんだ、と言わんばかりに、度量が広いんです」
 だが近年、そんな芸はテレビから消えてきた。松元さん自身もテレビとは一線を画しているという。「政権を批判すれば、テレビはカットする。自分が言いたいことは言えなくなる」と考えるからだ。」東京新聞2018年4月14日朝刊、24面、特報欄。
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1 コメント

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歯ね (シネマ・ツー)
2020-01-31 17:16:50
早く死んだほうが身のため
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