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70歳の知的ヒーロー 石牟礼さんもある意味ヒロイン

2018-04-17 17:32:46 | 日記
A.20世紀は遠くなった…。マルクーゼも遠い…。
 人生50年と言ったのは大昔で、いまは80歳ぐらいまで生きて当たり前といわれているが、還暦前に惜しくも世を去る人もいるし、百歳を越えて元気な人も増えた。しかし、社会的に旺盛な知的活動を続けられるのは、15~65歳の50年間くらいだとすると、その青年時代の思考の基盤を形づくるのは、この世代に20年ほど先行している影響力の大きな思想潮流と高名な思想家・学者の言説だろう。ぼくは1960年代末の「政治の季節」に大学生だった、いわゆる「全共闘世代」の最後にいたので、若い頭を揺さぶられた当時の思想潮流がどんなものだったか、思いだすことができる。それは、~主義…ismと呼ばれることが多く、実存主義から始まってマルクス主義、社会主義、国家独占資本主義、帝国主義、農本主義、国粋主義、ファシズムなどなど、レーニン主義、スターリン主義、毛沢東主義、フロイト主義など人の名前がイズムになるのもあった。それらが何を主張しているのかをひと通り理解するには、かなりちゃんと本を読んで勉強する必要があるのだが、若い頃はやる気と体力はあるが、じっくり勉強する忍耐力と基礎訓練が乏しいので、ざっと読んであとは先輩のあとをついて騒いでいるうちに、分かったような気がしてしまった。結局何も分かっていなかったのだが、だからこそ、その時代に流行していた言説にごく簡単に左右されてしまったと言えるな。
 
「それにもかかわらず、『エロスと文明』はマルクーゼの著した書物のうちもっとも独創的で重要なものとしての位置を占めている。それは、フロイトのメタ心理学のペシミズム的側面――性欲の優越的支配、幼児期の感情的諸事件における将来の振舞いの決定、死の本能(タナトス)、その他――をすべて受けいれながら、フロイトのもっともオプティミスティックな継承者の場合よりも、人間の感性についてのはるかに「積極的・肯定的」な結論へとそれらを向けかえるという信じがたい離れ業をなしとげたのである。同様にまた、性欲の否定よりもむしろ性欲の解放の方が人類を馴致し世界をならしめる道であると論ずることによって、人間の破壊性に関する精神分析の確信を反転させた。要するに、『エロスと文明』はフロイトに本能を妨げることは宇宙的な不正――この不正は根本的な、しかも特殊化されていない社会的変革を求めて叫ぶ――であるとの感覚を帰せしめることによって、フロイトをマルクスよりもはるかに革命的な人物に変形するということをやってのけたのである。
 この変革を通じての思考の過程が次の10年間のマルクーゼの仕事となる。この10年の歳月の末に、『エロスと文明』の1966年の再刊に際して、戦闘的な若者たちの「戦争をではなく、恋をしよう」とのスローガンとして認めることとなった。これによりその書物には明瞭な政治的推進力が与えられたのである。このような推移を示すかすかな発端はすでに、ホルクハイマーとアドルノが1956年にフロイト生誕100年を期して組織したドイツでの記念式典で行った二つの講演にあらわれていた。『エロスと文明』のわずか一年後のことであったが、これらの講演は現代社会における主導的現実として「支配」という概念をさらに明確なものとしている。マルクーゼはこう述べていた、「この支配を承認しているという点で」フロイトは「観念論的倫理学、自由主義的‐ブルジョワ的政治と合致」していた。さらにつけ加えてマルクーゼは言う。精神分析の創始者は「快感原則の全体的要求」、「達成、満足、平和」への有機体の体質的傾向と闘うことが正当だと感じていた。マルクーゼが非抑圧的生存の輪郭の詳細に立ち入るようになると、革命家フロイトというイメージは後退しはじめる。1963年には、かれはフロイトの人間概念が「個人の自律と理性」を強調する点で「廃用」になったものだという結論に達した。現代世界において精神分析のために言いうる最上のことは、それが人間に「既成体制への拒否と反対のうちに生きる」ことを可能ならしめるかもしれないということ、それが「たんに背後に残された過去だけでなく……未来をも奪還するべく」訴えているということである。
 とかくするうちにマルクーゼはついに、かれ自身の幸福像を提起できる地点位まで到達した。すなわち――
 断念からの結果としての、また断念を条件づける生産力耶蘇外労働のない状態、労働の機械化の進行が……本能的エネルギー……のより多くの部分を……その本源的な形につれ戻し……もとの生の本能のエネルギーへと変化させられることを・・・・・・可能にするような状態。そこではもはや、疎外労働に費やされる時間が人生の大部分を占めて、個々人が自分の必要を満足させるために残された自由時間はたんなる残り滓であるといったことはなくなるであろう。そうではなくて、疎外労働の時間がたんに最小限に低減されるだけでなく消失するであろうし、人生は自由な時間から成ることになるであろう。
このような人間の潜在的可能性についてのヴィジョンの何ほどかは、若いマルクスが遠い将来において人びとは「朝には狩りをし、午後には魚を釣り、夕べには家畜を育て、晩餐のあとには」かれらの好みのままに「批評をする」ことになるであろうと考えて以来、社会主義の空想の翼にのって。飛翔してきたものである。けれども、マルクーゼはこのヴィジョンを地上に引きおろし、その現代における実現可能性のために論じたという点でほとんど唯一無比の存在であった。
 1964年の『一次元的人間』の刊行によって、マルクーゼのイデオロギー上の明瞭性への――またフロイトからマルクスへの逆戻りの――10年間にわたる進展は実質的には完成された。
この書物はマルクスを自己流に色づけして再導入した。そしてこれがマルクーゼの読者の範囲をさらに拡大することになった。それというのも、ここでは以前にはヘーゲル風の外囲に包まれてはっきりしていなかった革命的メッセージが、著者を受けいれた国の社会に明白な標的を見出すにいたったからである。1960年代初頭にはアメリカ人の精神的状況は、開放的な社会変革の展望を開くような仕事を迎え入れる準備ができていた。マッカーシズムの恐怖は過去のものとなり、1960年代の終わりにあらわれる市民層の分裂・対立はまだ未来のことであった。そのような雰囲気の中で『一次元的人間』は最大級の効力を振うことができたのである。ホルクハイマーやアドルノの『啓蒙の弁証法』がすでに翻訳されていたとした場合に考えられるよりも、はるかに目新しいものとしてこの書物は出現した。
 マルクーゼは、先進産業文明が到達した極点としてのアメリカ合衆国に「快適で、なめらかで、穏当で、民主主義的な不自由」のあることを洞察する。そこでは、テクノロジーがいたるところで勝利しており、「福祉国家」と「戦争国家」とが一見なにごともない調和のうちに共存し、諸価値の一般的な「平板化」がいかなる真の選択も欠如していることに市民が気づかないことを意味し、人びとが統治者の言っていることを信じない――あるいは、信じないことに十分注意を払わない――が、「それに従って」行為している。そこでは、現状が「一切の超越」を否定しているゆえに、ファシズムはもはや社会的訓練を必要とせず、マルクス主義はいぜん理論的には正しいにもかかわらず、歴史的実行者を欠いている。そこでは、将来に対する唯一のかすかな期待は「浮浪人とアウトサイダーという底層」の間の怒りと、ましな生活への願望にかけられねばならない。マルクーゼが恐怖・嫌悪の対象としてカタログ的に並べ立てたものは、アメリカ生まれの批判者たちが同時に産み出しつつあったアメリカ社会の分析をさほど越え出たものではなかった。かれの労作に一種異なった目覚ましい調子を与えたのは、世紀中葉の文化においては言語と思想がその喚起的性格を喪失しつつあり、それに反映している現実と同様に「一次元的」になりつつあるということを、ホルクハイマーやアドルノと同じく主張したことであった。
 それゆえ、マルクーゼはホルクハイマーが『理性の腐食』でやったように、かれの社会批判を「実証主義」に対する新たな攻撃と組み合わせた――しかもこんどはとくに言語の領域における「実証主義」への攻撃である。アングロ=アメリカ的言語哲学はもちろんかれの第一の攻撃目標となった。したがってまたヴィトゲンシュタインの後期の著作もそうである。アドルノは読まなかったが、マルクーゼは『哲学探究』を読んだ。けれども、かれがこの本を誤解したことは一目瞭然であった。つまり、かれはヴィトゲンシュタインのこの本の要をなす部分の一つからさして重要でない章句を引用し、問題を瑣末なことの連続だとして片づけてしまった。マルクーゼのこの『哲学探究』の誤読は、かれの社会的分析の基本線は進んでうけいれようとしていた多くのアメリカ人たちを遠ざけてしまうことになった。それはまたかれの「一次元的人間」の奇妙な二股的性格を縮図的に示していることでもあった。というのは、この書物はかれの哲学的思弁の四〇年を閉じるものであったと同時に、政治的行動主義の新段階を開幕するものでもあったからである。
 マルクーゼの努力のこの最後の段階はここでの論及の範囲外にある。ヴェトナム戦争の暴行、ドイツの学生運動との親密な接触などが結びついて刺激となり、1967年以後刊行されたかれの著作には鋭い論争的性格が与えられることになった。『一次元的人間』の出た翌年、マルクーゼはブランダイス大学からサン・ディエゴのカリフォルニア大学に移った。かれが戦闘的な若者たちの哲学的偶像という新しい役割を帯びるにいたったのはそこにおいてである。その成年時代の大部分をほとんどまったく世に知られず過ごした――知識人のサークルにおいてもその名を知られるようになったのはまずここ10年くらいのことでしかなかった――思想家にとって、この突然の国際的名声への移行が困惑をもたらしたとしてももっともなことであったろう。マルクーゼは上品にやってのけた。その成功がかれを変えることはなかったのである。かれは半世紀以前に抱いたイデオロギー的信念に老人としてあくまで忠実でありつづけなから、若者たちに小言を食わせねばならぬと思ったときにはかれらを叱責することができた。

 「快楽とは、いわば自然の復讐である。快楽において、人びとは思想を否認し、文明から逃走する。」ホルクハイマーとアドルノのこの箴言は、かれらとマルクーゼとの間にいつまでも存続する差異を要約的に示している。それはたんに、かれらの方が年老いるにしたがっていっそう保守的に――とりわけ革命的実践に関していっそう懐疑的に――なったのに対し、マルクーゼが以前よりもいっそう左翼的になっていったというだけのことではなかった。ホルクハイマーとアドルノが、その個人的幸福への熱望にもかかわらず、文明の運命的なパラドクス――快楽への欲求と生存可能な文化あるいは社会を形成するという奥深い必要との衝突に内在する逃るべからざる苦悩――についてのフロイト本来の見解にとどまっていたということでもあった。アドルノはこのジレンマをついに解決することはなかった。かれは最後まで引き裂かれ、困惑したまま――しかもおそろしく真剣に――であった。マルクーゼは一方で思想的生活と遊びとの両立可能性を説きながら、人類が犠牲にしてきた遊びの要素のうち救えるものを救おうと努力したわけである。
 このように主張することによってマルクーゼは、成年期のマルクスよりは青年ヘーゲル学派ないし左派ヘーゲル学派により類似することになった。人間の性欲からの疎外を強調し、原初の無垢状態の保証を回復しようとするかれの努力は、ルートヴィヒ・フォイエルバッハのようなマルクスの先行者を想起させる。マルクーゼの書くもののこうした左派ヘーゲル学派的――ひょっとしたらさらにロマン主義的――な側面は、1960年代後半の興奮した雰囲気の中でそれが評判となったことを説明するものであるし、また、アメリカ合衆国への移住にもかかわらず、かれがいぜん十九世紀初頭のドイツの観念世界にいかに深く根を下ろしていたかということをも示唆している。
 アメリカの読者の大多数は、現代の産業社会に対するマルクーゼの厳しい批判の背後にある文化的相続遺産などはおよそ感知することはなかった。彼ら自身の知的身支度は大部分お粗末なものでしかなかったから、かれらはマルクーゼの著作の中にある、文学や学術に関する洗練された評価と伝統的ないし「肯定的」文化への攻撃とのアンビヴァレンスを解明せねばならぬなどとは感じなかった。しかしながらいかに注意力の乏しい者にも一つの矛盾は目にとまらないわけにはいかなかった。それはつまり、かれが最終的に引き受けるにいたった行動主義的役割とかれの幸福概念の努力を必要としない受動的・触覚的性格との食いちがいである。マルクーゼ自身、かれの「非抑圧的な・・・・・・価値秩序」が「根本的な意味で保守的なもの」であることを認めている。かれはまた、決して「達成、充満、休息」にまでいたることのない「永遠の投企」としての人間存在というサルトルの考えに同意しないことも表明している。マルクーゼの生涯と仕事には受動性という明らかに生来的な一要素がある――かれが公的な活動舞台に出る決意をするまでの何年もの歳月がその証拠となろう。かれが最後にはそういう決意をしたという事実は、それがかれ自身の性向に反するものであっただけに、まことに異常な市民的勇気の証明なのであった。
 陽光燦々たる海岸で白髪を風になびかせながら、お茶目な笑いを浮かべている、その年齢よりずっと若く見える達者な老人――これが、かれを知りかれを愛する人びとの脳裡を去らないマルクーゼの像である。かれの行動主義という最終段階にはついていけない友人たちでさえ、かれの辛辣な言いまわし、あふれるほどの人生愛、不屈の独立心をいつくしんでいるのである。」スチュアート・ヒューズ『大変貌 社会思想の大移動 1930-1965』荒川幾男・生松敬三訳、みすず書房、1978.pp.135-139.

 マルクーゼが、カリフォルニア大学サン・ディエゴ校(UCSD1960年設立)の教授になったのは1965年、67歳のとき。ちょうど、まもなく当時のジョンソン大統領が北ヴェトナムに空爆を開始し、泥沼化したヴェトナム反戦運動や、続くニクソン大統領のウォーターゲート事件など政府への抗議プロテスト運動が全米の大学を巻きこんだ。70歳を越えたカリフォルニアの老教授は、長髪ヒッピーの反体制を叫ぶ男女学生たちのヒーローになり、世界に知られる存在になった。日本でも、「新左翼の父」などというあまり正確とはいえない言葉でマルクーゼの名が語られた。この人は、フランクフルト学派の亡命学者とはいえ、若くして著名な思想家として知られたアドルノやホルクハイマーなどと違って、60歳くらいまで、一般にはほとんど知られていなかった。70歳過ぎて若者の知的ヒーローになるというのも珍しいが、ヒューズのいう、この人の一種の「受動性」とどこか愛すべきパーソナリティが、そうさせたといえるのだろう。



B.石牟礼道子の感性と文体
 2月に亡くなった石牟礼道子さんの追悼が、さまざまな形で行われている。いわゆる作家、知識人という枠組みで考えることのできない石牟礼道子という存在は、多くの人が語るように、その紡ぐ言葉の背後に海のように広がる名もなき人々、文字を書くこともない、概念で人に語ることもない、世の片隅で暮らしてきた遠い過去から未来にまでにいたる人びとの想いを、言葉にする巫女のような人だと感じさせる実質をもっていたからだろう。

 「深い慈愛を読み継いで 故石牟礼道子さん 交流あった人々が追悼
 水俣病患者の世界を描いた「苦海浄土」などの著作で知られ、2月に90歳で亡くなった作家の石牟礼道子さん。15日に東京都内で開かれた送る会(水俣フォーラム主催、東京新聞など共催)では、批評家の若松英輔さんが「語らざる人たちの言葉を引き受けた」と悼むなど、親交のあった人びとが故人をしのんだ。(中沢佳子)
 「普通の主婦」のあり方 誇りに・他者の痛み 受け止めた
 会場には柔らかにほほ笑む石牟礼さんの遺影。手前の献花台は来場者が持参した花で埋め尽くされた。約千三十人(主催者発表)が訪れたが、会場に入りきれない人もおり、場外のモニターで十人の知己を得ていた人たちが語る追悼の言葉や思い出話に聴き入った。
 「深い慈愛の念で、制度社会からこぼれるものをすくい取ろうとした」。水俣病患者で、石牟礼さんと患者救済に取り組んできた漁師の緒方正人さんは、万感の思いを込めて語った。
 緒方さんは加害企業チッソの責任を問う中、自身も自然をないがしろにして経済効率や人間を第一とする社会の一員であることに気付いて、悩んでいた。そんなとき、石牟礼さんは「命の世界によう帰ってきた」と声をかけたという。
 石牟礼さんの「闘士」としての姿ばかりでなく、かわいらしい一面も披露された。出版された自著を赤ペンで校正しようとしたこと、執筆活動を長く支えた編集者と口論し、新聞記者に仲直りの電話をかけるよう頼んだこと…。会場は笑いと和やかな空気に満ちた。
 批評家の若松さんは、石牟礼さんを「語らざる人たちの言葉を引き受けた」と述べ、若い世代が石牟礼作品を読み継ぐ必要性を訴えた。そして「われわれは石牟礼道子を失ったのではない。これからより一層、彼女と深く、近く生きていくのだ」と語った。
 石牟礼さんは熊本県水俣市で暮らしながら、患者らの言葉にできない思いを表現し続けた。対照的に現在は、政治家や官僚の薄っぺらい言葉にあふれ、その底の浅さは目に余る。
 JT生命誌研究館館長の中村桂子さんは「石牟礼さんは自らを『地方に暮らす普通の主婦』と言っていた。そうしたあり方に誇りを持っていた」と語った上で「霞が関や永田町の男性が二十一世紀をつくるとは思えない。『普通の主婦』にこそでき、その道を導くのは石牟礼さん。私も普通の女の人として、同じ方向に歩きたい」と話した。
 法政大の田中優子総長は石牟礼作品を「近代の前にあった豊かさを感じる。(現代人が称する)『豊かさ』を追求した末に沈んでしまったもの、埋められたものを表した」と評し、その作品は経済優先の社会を問い続けたと述べた。
 取材を通じて石牟礼さんと親交を深め、病床にも付き添った毎日新聞記者米本浩二さんは「石牟礼さんは苦難から逃げなかった。水俣病やパーキンソン病に勝ちも負けもせず、そこに立ち続けることで、絶望的な状況でも道が見えることを示した」と振り返った。
 来場者は何を感じ取ったか。講演などで緒方さんに感銘を受けたのを機に来場したという品川区の会社員春田朋子さん(57)は「生命社会をないがしろにしたところに水俣病がある。緒方さんと石牟礼さんは『命』を共通項に活動していたと分かった」と語る。
 石牟礼作品のファンだという甲府市の元司書の女性(72)は「彼女は他者の痛みを『表現すること』で受け止めたのだと思う」。東京都小金井市の男性大学院生(37)は「世の中に影響されず、変わらないものや優しいものが生きる基盤にあった人と感じた」と話した。」東京新聞2018年4月17日朝刊24面、特報欄。

 ここは石牟礼さん自身の文章を読んでみたくなって、追悼号のような『現代思想』最新号にある初期未発表の文章から、「性愛について」の最後の部分を引用する。

「ダーヰン氏が目を細めているように、戦后の、そして昭和四十年代の女房たちは、こういう風にそのポケットやたもとにそれぞれの御亭主を入れているのではないか。すくなくとも女たちはあの、ちいさい頃のひな祭やあねさま遊びの頃から潜在的に体験しつゞけているところの、自分が中間宿主でない、なにか根源的な意味で種そのものの形成を手にとってためつすがめつしているという性の優位からこれを「ポケット」に所有していることへの満足。そしてそのことにかなう相手を選択する〈自由〉についておもいめぐらしているにちがいありません。蔓脚貝の彼女たちのように。
 もともと家の観念については彼女たちは自分の内質を外界に向けて意志的に開閉するこの貝の二枚の扉ほどの意味で重要なものに考えていたにちがいないのです。
 たとえば家父長制というような、地質学の面からいえばかけらごときものをくっつけてつながる殻の外につづれているもう一本の貝柱まがいのような副産物にとらわれようとは遺憾なことなのでした。そして今日、わが蔓脚貝たちは潮の干満につれて重くなったり軽くなったりする裳の裾のようにこれをひきづっています。1965/5/7」「性愛について」(『現代思想』5月臨時増刊号vol.46-7総特集「石牟礼道子」)pp.15-16.
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