gooブログはじめました!

写真付きで日々の思考の記録をつれづれなるままに書き綴るブログを開始いたします。読む人がいてもいなくても、それなりに書くぞ

回顧される昭和の歌謡曲 9 ピンクレディ  コロナとSEX

2021-01-07 01:20:17 | 日記
A.「あざとさ」の変革力
 1970年代、あの頃の人々はみな「昭和〇年」という元号をあらゆるときに使っていて、なにか永遠に昭和が続くように思っていた、かのようだった。「昭和〇年」で歳月を数えるとき、戦前と戦後はひとつながりのものに見えて、実際70年代には明治大正生まれの人は、もう年寄りの部類に入っていて、世の中で活躍している人間は赤ん坊まで含めてみんな「昭和生まれ」だから、それで困らないわけだった。NHKをはじめ国営企業から私企業まで、公文書の日付はみな昭和で書くことになっていて、ただパスポート持って外国行く時だけ、今は西暦何年かを思い出していた。たぶん、音楽でも「洋楽」を聴くときだけ、西暦を使わないと面倒くさかった。
 昭和が終った時、ぼくはヨーロッパに住むことになって、西暦だけの世界に生活してみると、日本国内だけしか通用しない元号というものの不便さを痛感した。考えてみれば、天皇という身体を持つひとりのひとが、生きている間だけある「元号」が使われて、そのひとが亡くなると元号は変わるという一世一元制は、明治からはじまったわけで、その前は、天皇の生死にかかわらず何か気分を変えたくなるとしょっちゅう元号を変えていた。新しく創作された明治国家が、天皇の身体と時間を一体化させて、人々の時代感覚を支配しようと考えてそうしたのだと知ってから、ぼくはできるだけ元号を使わずに時間を考える方が、理にかなっていると思っていた。昭和が終って平成になってから、日本人はグローバル世界に出て行って生きるのが当たり前だ、といわれるようになり、相変わらず元号を使う人はいたけれど、しだいに出版ジャーナリズムも放送メディアも西暦表記を中心にするようになってきた。昭和は西暦と25年違いでまだ計算しやすかったが、平成も令和も計算上ひどくメンドクサイのだ。いまだに元号にこだわるのは、一種のイデオロギー上の右翼保守派だけ(産経新聞はいまも元号表記を基本にしているところは一貫している)になる。
 思えば昭和の50年代という言い方には、たしかにある懐かしさがある。歌謡ポップスという世界でも、1970年代なかばにおそらく、大きな転換が起き、それまでの紅白歌合戦的な伝統的お約束が、思わぬかたちで壊されてしまったのだが、誰もそれをおやおやと思いつつ大歓迎してしまったのだ。そのシンボルが、ピンクレディという「あざとい少女デュオ」だった。 

「ペッパー警部 ;昭和51年(1976)  作詞:阿久悠 作曲:都倉俊一 歌:ピンクレディー
 「スター誕生」の本番中、審査員席に並んで腰掛けていた松田敏江さんに、ちょっと怒られた。言葉は正確ではないかもしれないが、「あれ、少し下品じゃないかしらね」といったようなことである。ぼくは、はあと言い、そうですか、下品ですかと答えた。
  〽ペッパー警部 邪魔をしないで
  ペッパー警部 私たちこれからいいところ‥‥‥
 下品と指摘されたのは、この「ペッパー警部」でデビューしたピンク・レディーの足を開くアクションであった。大股開きのように言われたが、それほどのことはない。せいぜいが屈伸運動程度のこと、具体的に似た動きを探すとすると、自転車のチューブにポンプで空気を送り込んでいるような姿であった。
 しかし、健康的な太腿も露に若い女性が二人これをやると、結構扇情的に見えるらしく、あんなことをやらせてもいいのか、という声もかなり上がった。
 松田さんが、ちょっと怒った顔をしたのは、「スター誕生」出身の根本美鶴代、増田啓子の二人がピンク・レディーとなり、初めて出身番組でデビュー曲を歌った時のことであった。松田さんに怒られたものの、ぼく自身はこのアクションに色っぽさを感じていなかったので、謹んで拝聴しただけにとどめ、振付の土井甫には伝えなかった。 
 昭和五十一年のことである。レコードデビューは八月二十五日であった。新人としては妙な月を振り当てられたもので、新人賞でも狙う気なら、春先にでも出ていなければ勝負にならない。それを見てもわかる通り、あまり期待されていなかったということである。その分、ぼくや作曲の都倉俊一は、何の遠慮もなく自由に創作出来たということで、幸運であった。
 その夏から秋にかけて、日本はロッキード事件で沸き返っていた。何しろ、前首相が逮捕されたのであるから、ニュースは連日これで埋め尽くされていた。
 それにこの歌がぶつかったものだから、「ペッパー警部」とはこの逮捕劇を想定しての作詞かとよく問われた。しかし、ぼくは、予言者ではないので偶然ですよ、と謙虚に答えていた。それは事実で、ただ面白い歌の世界を作りたいだけであった。その思いはずっと最後までつづく。
 「ペッパー警部」は突然ひらめいた。ひらめいてみると結構その根拠のようなものが説明出来るもので、この詞には、「ピンク・パンサー」のクルーゾー警部も、「若いお巡りさん」も、落語の「くしゃみ講釈」も、その頃売れていた清涼飲用水も、ザ・ビートルズの「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」も含まれているということである。
 とにかく、これから始まったピンク・レディーとの数年間は、作詞家を超えて、イメージの世界をデザインしつづけていたようで、面白い時代であった。ぼくも、都倉俊一も、土井甫も、ディレクターの飯田久彦も夢を食った。

津軽海峡・冬景色:昭和51年(1976) 作詞:阿久悠 作曲:三木たかし 歌:石川さゆり
  〽ごらんあれが竜飛岬 北のはずれと
  見知らぬ人が指をさす‥‥‥
「津軽海峡・冬景色」の二番の歌詞のアタマの部分である。人の息で乳白色にくもった船の窓を、おそらくは毛糸の手袋をはめたままの手で、丸く丸く拭って視界をつくり、波しぶきの彼方を見やると、その岬もまたかすんで見える。竜飛岬である。
 この情景は、この歌の中でも好きな部分である。もちろん、〽北へ帰る人の群れは、誰も無口で‥‥‥という待合室の場面も一行でよく表せたと自賛するものがあるが、くもったガラス、手で拭いた丸い視界、彼方の風景、これに心情を重ね合わせた動きのある一景として気に入っている。
 竜飛岬が登場するのは、〽ごらんあれが竜飛岬‥‥‥の一行だけであるが、竜飛の三厩村という所には、この歌の歌碑が立っている。
 そもそもは、青森港に「津軽海峡・冬景色」の立派な歌碑が作られ、その除幕式に出席した折、三厩村の村長さんから、「うちにも作りたいな。作ってもいいですかね」と言われた。半分はパーティーの席の社交辞令だと思い、「いいですよ」と答えていたのだが、その一年後に本当に出来た。
 別に「竜飛岬」という歌ではなく、しかも、二番の歌詞に一行出て来るだけである。歌碑にまでして納得されるものかと心配していたが、これがなかなかのものであった。まず、代表して除幕式に出席した三木たかしが驚いた顔で帰って来、つづいて、その地をたまたま訪れた友人から、「あれは大変なものだ」と手紙が来た。大変なものというのは、一番の歌詞は小さく、〽ごらんあれが竜飛岬‥‥‥からドンと大きくなっているというと言うのである。なるほどその手もあったかと、感心もし、安心もした。
 おそらくは強風吹きすさぶ岬に立っているであろうこの歌碑が、風景にもよく馴染み、そこへ来た人の心を和ませる存在になってくれればと祈っている。
 「津軽海峡・冬景色」は昭和五十一年十一月二十五日に発売され、まだ十代だった石川さゆりの、一生歌える歌となった。三木たかしとともに、アルバム一枚分、十二冊もの作品をつくり、ようやく彼女に似合い、しかも、時代を匂わす歌が出来たのである。当初は手探りであったが、出来てみると、これしかないことは初めからわかっていたような気がしたものである。
 ところで、この歌の正式表示は「津軽海峡・冬景色」と“・”が入っている。もちろん、ぼくが入れたのだが、その魂胆は何であったか、どうもよく思い出せないのである。
 今は、「津軽海峡冬景色」と一つの言葉にした方がずっといいと思っている。津軽海峡の冬景色という意味ではなく、津軽海峡冬景色という抽象語であるのだから、・は不要である。
 もしかしたら、春景色も冬景色も書くつもりであったのだろうか。いずれにしろ、青函連絡船も夜行列車ももうなく、しかし、歌碑はある。

 思秋期 :昭和52年(1977)  作詞:阿久悠  作曲:三木たかし  歌:岩崎宏美
  〽足音もなく行き過ぎた 季節をひとり見送って
  はらはら涙あふれる 私十八‥‥‥
 この歌は今でも名曲だと思っている。曲もいいし、自分のことながら詞もいいと自慢できる。また岩崎宏美が、少女から女への移ろう時の中で揺れる心を見事に歌った。かつてはこのように静かに聴き、じっくりと噛みしめ、自身の思いと重ねてみるという歌も、よく売れたのである。今はどうか。歌う歌、踊る歌はあっても、聴く歌は求められなくなった。だから、少々歌文化は痩せている。
「思秋期」は昭和五十二年九月の発表であるから、レコーディングはそのほぼ三カ月前、夏前だったと思う。別の言い方をすると、岩崎宏美自身が高校を卒業して三カ月後であった。
 珍しくレコーディングの立ち会いでスタジオへ行っていたのだが、歌のうまい彼女にしては考えられないミスの連発で、その日は中止になった。ミスと言っても、歌い間違いとか、音がズレるということではなく、泣いて、泣いて、歌えなくなってしまうのである。何度やっても気持ちが異常な昂りを示して、彼女は嗚咽するのである。
 こんなときは、ぼくも長い作詞家生活の中でも初めてであった。薄暗いスタジオの中で、少女歌手がさあ歌いますとしっかりと立ち、イントロが鳴り、歌い始めると、たちまち激情に支配されて泣いてしまうのである。
 ぼくは途中ですジオの外へ出て、なるべくプレッシャーをかけないようにと気遣ったが、それでも駄目で、ディレクターの飯田久彦と作曲の三木たかしが、今日はやめにしました、と言いに来た。
 涙の理由を尋ねるわけにはいかなかったが、高校卒業から三か月であり、何か詩の内容と自身の経験が重なったのじゃないだろうか、とぼくたち大人は話しあった。
  〽卒業式の前の日に、心を告げに来たひとは
  私の悩む顔見て 肩をすぼめた‥‥‥
 後になって、岩崎宏美はぼくに、おじさんの年齢のひとが、なぜ私の生活や心情がわかるのか不思議でならなかった、と話したことがある。しかし、泣くほどの激しい思い出については語らなかった。多分、具体的な何かというよりは、感傷に同化してしまったということだろうと思う。「思秋期」を書いたころ、ぼくは四十歳で岩崎博美は十八歳、理解を超えた年齢差で、ぼくとしては祈りに似た思いで少女から女へを書くしかなかったのである。その祈りが通じたのであろう。
 その年の作曲賞は、三木たかしと都倉俊一が激しく争った。二人ともぼくとは兄弟のように信頼し合っていた仲で、嬉しくもあり困りもした。
 「思秋期」「津軽海峡・冬景色」対「ウォンテッド」ほか一連のピンク・レディ作品の争いで、レベルも高く、話題性も大きく注目されたが、結局は一票差で三木たかしが受賞した。いずれも、まさに“歌の黄金時代”の晴れがましい記憶である。」阿久悠「愛すべき名歌たち ―私的歌謡曲史―」岩波新書、1999年、pp.212-224. 

 阿久悠が作詞家として絶頂に達したこの昭和の末期、伝統的抒情演歌「津軽海峡冬景色」を書き、戦後的情緒ポップス「思秋期」を書きながら、同時にピンクレディ「ペッパー警部」を書いていたということは、彼の私的な動機はともかく、ピンクレディの曲と動きの振付と衣裳のもつ「あざとさ」の確信的革新性、に無節操に乗りまくれたということであり、それはすでに「ピンポンパン体操」で実現していた。ピンクレディという名前も、若い女の身体を露出した衣裳と踊りも、戦後的常識ではひどく露骨にあざといのに、それを喜んで真似したのは、小学生たちだった。オジサンたちはピンクレディのふたりに卑猥な刺激を受けて、思わず家族の前で恥ずかしいと思ったが、子どもたちは素直に楽しく喜んだのである。歌詞の内容などにではなく、リズムに乗ったダンスというものが、いかに人をワクワクさせるかを、ピンクレディは幼児のいるお茶の間に持ち込んだのだ。これはいまに繋がるひとつの革命だったと思う。


B.コロナの中のセックス
 二度目の緊急事態宣言が出される事態になり、コロナ感染が拡大を続けて、医療崩壊の危機が迫るということで、高齢者には恐怖がつのるお正月である。しかし、東京の街には人が溢れているし、若者たちの多くは自分が感染したとしても、重症化する心配はなく、じいちゃんばあちゃんに会わないようにすればよく、自分にはたいした危険はない、というご都合心理に慣らされているかに見える。でも、ソーシャルディスタンスを保ち、テレワークでことが済む人間関係なら問題ないとしても、人間にとってかなり精神的に意味のあるセックスという身体行為は、オンデマンド遠隔では不可能なほぼ唯一の行為である。コロナが蔓延する世界中で、今夜もセックスは行われているはずだとすれば、コロナウイルスとセックスという問題は、考えるべき重要性をもつからだ。

 「恋人との関係性 問う試験紙: 金原ひとみ さん 作家
 恋愛はコロナ禍の中での「聖域」であるはず。私は、そう思っていました。さまざまなことがオンラインに切り替わり、「人に会うな」「マスクをつけろ」と言われるなかでも、恋愛相手となら、直接触れあうことが許されるはずだと。
 でも実際には、家族だけが「聖域」と考える人が多かった。2020年5月に発表した小説「アンソーシャルディスタンス」には、恋人と出かける息子を批判する母親が出てきます。「家族とは密に接してもいいけど、それ以外はだめ」という規範です。カップルと、大人になった息子と母、どちらの方が互いにとって近しい存在なのか。
人によってこの解釈には大きな差が出ることを、私も痛感しています。

 コロナ禍の中での恋人たちの物語を、二つ発表しました。人間の何かが変わったわけではないのに、突然激突してきた新型コロナによって、家族や恋人との関係性が変ってしまうことがある。その現実に直面したからです。
 緊急事態宣言下の5月に出した最初の作品には「コロナなんて自分たちには関係ない」という若いカップルが出てきます。コロナで騒いでいる社会にいる自分たちは、ゾンビの世界に迷い込んだようなもの。感染する不安よりも、好きなライブが中止になった絶望感で「死にたい」という気持ちになる。ある種の人々にとっては、生きていくために「生きていく」以外の何かが必要なんです。
 セックスはオンラインではできません。人との接触が「悪」とされる中で、彼らはセックスをし続けます。オンラインで代替することが新しい社会のあり方だという空気のなかで、私はセックスに引きずられる人たちのことを、今こそ書きたい、と感じました。芸術や映画、ライブ。生きるためにそれがどうしても必要だ、という人もいれば、不要不急と思う人もいる。大切にしてきたことが禁止された人たちの苦しみは、計り知れません。
 私自身の中にあった、閉塞感への反発が、この小説に向かわせたところもあります。社会全体がコロナをおそれ、正しさの圧力が強まるなかで、「みんなが苦しい思いをしないといけない」という社会への憤りを、まだ失うもののない若者の視点で描きたかった。

 人を狂わせるような熱量で襲いかかってくる「正しさ」のなかで、恋人との関係が変わる人もいます。12月に出した小説では、コロナへの不安が大きすぎて恋人と会えなくなった女性を描きました。5月の「コロナなんて関係ない」という主人公とは正反対です。恋人が外に飲みに行くのがムリ、自分に触れる前にお風呂に入ってくれないとムリ。
 いろいろなムリのなかで恋人と会えなくなった時、彼女は恋人と自分を映したセックス動画を見ることに夢中になります。動画が生きる支えになっていく。久しぶりに会えた時さえ、動画を撮ろうと必死になる。彼女にとって、彼氏は慈しむような存在ではない、「自分を支えるためのもの」でしかなかったことが露呈しました。
 そして、好きなはずの相手と本当の意味では関わっていなかった、と気付きます。そもそも、人と関わるとはどういうことなのか、コロナ禍にこそ考えるべき問いなのではないかと思います。
 密に会えなくなった恋人や家族に対して、似たような感覚を抱いた人は、少なからずいたのではないでしょうか。悪い面ばかりではない、と私は思っています。「会えなかければ意味がない」というのであれば、会うことで自分は何を得ていたのだろうか。そんなふだんは気付かないことを考える新しい思考回路が生まれたと思います。
 より親密になった人もいれば、別れた人もいる。コロナは「この恋愛は本当に大切なものなのか」を問うリトマス試験紙のような役割も果たしているように思います。 (聞き手・田中聡子)」朝日新聞2021年1月5日朝刊、11面オピニオン欄。

 いままでぼくたちは、いつでもどこでも誰にでも、会いたければ会い、行きたければ行き、抱きあいたければハグしてよかったのだが、コロナ禍はそれが生命のリスクを覚悟しなければできない行為になった。これは奇禍、いや貴貨なのかもしれない。人に会って、親密な関係を求め、距離をなくして密接するセックス。それをいままで、安易にやっていたのかもしれない。このさい、それをよく考えてみるよい機会だと作家は言う。ぼくもそう思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする