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坂口安吾『堕落論』を読む 4 続堕落論  バイアス?

2021-01-19 19:33:27 | 日記
A.堕ちよ!のエール!
 坂口安吾の「堕落論」は1946年4月(『新潮』)続編「堕落論(続堕落論)」は1946年12月(『文学季刊』)に発表された。今から75年前である。当時、長い戦争を生き延びてこれを読んだ人は、もうほとんどあの世へ逝かれているだろう。まだ幼児でこれを読めなかった人、そして戦後生まれの我々は、この文章の書かれた時代を体験的には知らない。とくに戦前の皇民教育と戦争中の極端ともいえる天皇の神格化を、具体的に経験していないので、なんとなく大変だったんだろうなあと想像はしても、実感はできない。
「堕落論」では、天皇制が大きなテーマとして扱われ、日本人の多くがそれを絶対的な正義として受け容れていたことが、偽善、歴史のカラクリとして痛切に指摘される。戦争の敗北によって天皇を頂点とした価値の体系が崩壊し、人々が天皇と国家の為に自己犠牲と耐乏生活に献身することを讃美していたのに、あっという間にみんな欲望剥き出しの「堕落」に陥った、という現実は誰もが実感していた昭和21年である。それを「堕落」というのは、戦前の無理筋の価値観でみたときに出てくる言葉であって、そういって嘆く戦前の指導者、価値体現者が戦後、潔く責任を取って腹を切りもせず、こそこそと逃げ隠れ、あるいは先を争って醜い保身と私欲の追求に走っているのも、人間とはほんらいそういうもので、自分のことを考えれば同類であるという。「堕落」を嘆いたり、特攻隊の生き残りが闇屋で稼ぎ、戦争未亡人が米兵に身体を売るのも、大和魂とか武士道とかいう空虚な観念のバカバカしさを信じていた愚かさをかなぐり捨てた結果である。だからもっと堕ちよ!堕ちるところまで堕ちることが、今の日本には必要なのだと安吾は叫ぶ。それは、当時の人々には覚醒であり大きな激励でもあったのだろう。

 「天皇制が存続し、かかる歴史的カラクリが日本の観念にからみ残って作用する限り、日本に人間の、人性の正しい開花はのぞむことができないのだ。人間の正しい光は永遠にとざされ、真の人間的幸福も、人間的苦悩も、すべて人間の真実なる姿は日本を訪れる時がないだろう。私は日本は堕落せよと叫んでいるが、実際の意味はあべこべであり、現在の日本が、そして日本的思考が、現に大いなる堕落に沈淪しているのであって、我々はかかる封建遺制のカラクリにみちた「健全なる道義」から転落し、裸となって真実の大地へ降り立たなければならない。我々は「健全なる道義」から堕落することによって、真実の人間へ復帰しなければならない。
 天皇制だの武士道だの、耐乏の精神だの、五十銭を三十銭にねぎる美徳だの、かかる諸々のニセの着物をはぎとり、裸となり、ともかく人間となって出発し直す必要がある。さもなければ、我々は再び昔日の偽瞞の国へ逆戻りするばかりではないか。先ず裸となり、とらわれたるタブーをすて、己れの真実の声をもとめよ。未亡人は恋愛し地獄へ落ちよ。復員軍人は闇屋となれ。堕落自体は悪いことにきまっているが、モトデをかけずにホンモノをつかみだすことはできない。表面の綺麗ごとで真実の代償を求めることは無理であり、血を賭け、肉を賭け、真実の悲鳴を賭けねばならぬ。堕落すべき時には、まっとうに、まっさかさまに堕ちねばならぬ。道義頽廃、混乱せよ。血を流し、毒にまみれよ。先ず地獄の門をくぐって天国へよじ登らねばならない。手と足の二十本の爪を血ににじませ、はぎ落して、じりじりと天国へ近づく以外に道があろうか。
 堕落自体は常につまらぬものであり、悪であるにすぎないけれども、堕落のもつ性格の一つには孤独という偉大なる人間の実相が厳として存している。すなわち堕落は常に孤独なものであり、他の人々に見すてられ、父母にまで見すてられ、ただ自らに頼る以外に術のない宿命を帯びている。
 善人は気楽なもので、父母兄弟、人間共の虚しい義理や約束の上に安眠し、社会制度というものに全身を投げかけて平然として死んで行く。だが堕落者は常にそこからハミだして、ただ一人曠野を歩いて行くのである。悪徳はつまらぬものであるけれども、孤独という通路は神に通じる道であり、善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや、とはこの道だ。キリストが淫売婦にぬかずくのもこの曠野のひとり行く道に対してであり、この道だけが天国に通じているのだ。何万、何億の堕落者は常に天国に至り得ず、むなしく地獄をひとりさまようにしても、この道が天国に通じているということに変わりはない。
 悲しい哉、人間の実相はここにある。然り、実に悲しい哉、人間の実相はここにある。この実装は社会制度により、政治によって、永遠に救い得べきものではない。
 尾崎咢堂は政治の神様だというのであるが、終戦後、世界聯邦論ということを唱えはじめた。彼によると、原始的な人間はとで対立していた。明治までの日本には、まだ日本という観念がなく、藩と藩とで対立しており、日本人ではなく、藩人であった。そこで非藩人というものが現れ、藩の対立意識を打破することによって日本人が誕生したのである。現在の日本人は日本国人で、国によって対立しているが、明治に於ける非藩人の如く、非国民となり、国家意識を破ることによって国際人となることが必要で、非国民とは大いに名誉な言葉であると称している。これが彼の世界聯邦論の根柢で、日本人だの米国人だの支那人だのと区別するのは尚原始的思想の残りに憑かれてのことであり、世界人となり、万民国籍の区別など失うのが正しいという論である。一応傾聴すべき論であり、日本人の血などと称して後生大事にまもるべき血などある筈がない、と放言するあたり、いささか鬼気を感ぜしむる凄味があるのだが、私の記憶に誤りがなければ彼の夫人はフランス人の筈であり、日本人の女房があり、日本人の娘があると、却々(なかなか)こうは言いきれない。
 だが、私は敢て咢堂に問う。咢堂曰く、原始人はとで対立し、少し進んで藩と藩で対立し、国と国で対立し、所詮対立は文化の低いせいだというが、国と国の対立がなくなっても、人間同士、一人と一人の対立は永遠になくならぬ。むしろ、文化の進むにつれて、この対立は激しくなるばかりなのである。
 原始人の生活に於ては、家庭というものは確立しておらず、多夫多妻野合であり、嫉妬もすくなく、個の対立というものは極めて希薄だ。文化の進むにつれて家庭の姿は明確となり、個の対立は激化し、先鋭化する一方なのである。
 この人間の対立、この基本的な、最大の深淵を忘れて対立感情を論じ、世界聯邦論を唱え、人間の幸福を論じて、それが何のマジナイになるというのか。家庭の対立、個人の対立、これを忘れて人間の幸福を論ずるなどとは馬鹿げきった話であり、然して、政治というものは、元来こういうものなのである。
 共産主義も要するに世界聯邦論の一つであるが、彼等も人間の対立に就て、人間に就て、人性に就て、咢堂と大同小異の不用意を暴露している。蓋し、政治は、人間に、又、人性にふれることは不可能なのだ。
 政治、そして社会制度は目のあらい網であり、人間は永遠に網にかからぬ魚である。天皇制というカラクリを打破して新たな制度をつくっても、それも所詮カラクリの一つの進化にすぎないこともまぬかれがたい運命なのだ。人間は常に網からこぼれ、堕落し、そして制度は人間によって復讐される。
 私は元来世界聯邦も大いに結構だと思っており、咢堂の如く、まもるに値する日本人の血など有りはしないと思っているが、然しそれによって人間が幸福になりうるか、人の幸福はそういうところには存在しない。人の真実の生活は左様なところには存在しない。日本人が世界人になることは不可能ではなく、実は案外簡単になりうるものであるのだが、人間と人間、個の対立というものは永遠に失わるべきものではなく、しかして、人間の生活とは、常にただこの個の対立の生活の中に存しておる。この生活は世界聯邦論だの共産主義などというものが如何ように逆立ちしても、どう為し得るものでもない。しかして、この個の生活により、その魂の声を吐くものを文学という。文学は常に制度の、又、政治への反逆であり、人間の制度に対する復讐であり、しかして、その反逆と復讐によって政治に協力しているのだ。反逆自体が協力なのだ。愛情なのだ。これは文学の宿命であり、文学と政治との絶対不変の関係なのである。
 人間の一生ははかないものだが、又、然し、人間というものはベラボーなオプチミストデトンチンカンなわけの分らぬオッチョコチョイの存在で、あの戦争の最中に、東京の人達の大半は家をやかれ、壕にすみ、雨にぬれ、行きたくても行き場がないよとこぼしていたが、そういう人もいたかも知れぬが、然し、あの生活に妙な落付と訣別しがたい愛情を感じだしていた人間も少なくなかった筈で、雨にはぬれ、爆撃にはビクビクしながら、その毎日を結構たのしみはじめていたオプチミストが少くなかった。私の近所のオカミサンは爆撃のない日は退屈ねと井戸端会議でふともらして皆に笑われてごまかしたが、笑った方も案外本音はそうなのだと私は思った。闇の女は、社会制度の欠陥だと言うが、本人達の多くは徴用されて機械にからみついていた時より面白いと思っているかも知れず、女に制服をきせて号令かけて働かせて、その生活が健全だと断定は為しうべきものではない。
 生々流転、無限なる人間の永遠の未来に対して、我々の一生などは露の命であるにすぎず、その我々が絶対不変の制度だの永遠の幸福を云々し未来に対して約束するなどチョコザイ千万なナンセンスにすぎない。無限又永遠の時間に対して、その人間の進化に対して、恐るべき冒瀆ではないか。我々の為しうることは、ただ、少しずつ良くなれ、ということで、人間の堕落の限界も、実は案外、その程度でしか有り得ない。人は無限に堕ちきれるほど堅牢な精神にめぐまれていない。何者かカラクリにたよって落下をくいとめずにいられなくなるであろう。そのカラクリを、つくり、そのカラクリをくずし、そして人間はすすむ。堕落は制度の母胎であり、その切ない人間の実相を我々は先ず最もきびしく見つめることが必要なだけだ。」坂口安吾『堕落論・日本文化史観』岩波文庫、2008.pp.238-244. 

 75年経って、戦争の記憶のある人がいなくなって、ぼくたちは「堕落論」をその書かれた背景と文脈を実感できない。天皇制についても、先年の令和改元の際の議論もさして問題にもされずに、通りすぎてしまった。政権与党も野党も、改憲を目指した右翼首相の退陣とともに、肝心なことには誰も触れなくなった。それで問題が消えたわけではなく、むしろ安吾の時代よりも怪しげなナショナリズムが巷を跋扈しているのに、人々は「堕ちる」どころか、観念的な国家秩序から外れる「堕ちたやつ」を、みんなでバッシングして留飲を下げている。坂口安吾が生きていてこれを見たら、なんというだろうか?「おまえら、もっと堕ちろ!堕ちなきゃ気がつかんのだ」でも、コロナぐらいじゃ堕ちないな。


B.対応バイアス?
 心理学、脳科学、認知科学という専門家が、だいぶ前からいろんなところで引っ張り出されて、その発言にみんなはは~ん、そうなのか、と納得している。それは物理学者や生物学者や医学の専門家が、それぞれの観点から述べるコメントとは少し別の角度なので、なにか目新しく、しかも実践的に役に立ちそうに見えるところが、今の日本にマッチしているのだろう。経済学や社会学は、どうもいかがわしくあてにならないと思われているみたいで、ここまで信頼を寄せられていない。でも、「バイアス」という言葉で心理的傾向を言い当てれば、なにかが解決するんだろうか。近代の実権心理学は厳密正確なサイエンスであろうとする傾向が強いけれど、人間行動のすべてを一般化して単純な原理で説明しようとすれば、一般の素人は納得しても、あまり役には立たないとぼくなんかは思う。

 「コロナ禍「バイアス」どう捉える  鈴木宏昭さん  青山学院大教授
 逃れられない自覚を  他者を「集団」でひとくくりにしない
 人は誰しも偏見や先入観など「バイアス」からは逃れられない。新型コロナウイルス感染が広がる中、知らないうちに物事を色眼鏡で見ていないだろうか。認知科学が専門の青山学院大の鈴木宏昭教授(62)に、その副作用を聞いた。        (服部尚)
 私たちが持ついろんな考え方のクセが、コロナ禍の生活にさまざまな影響を及ぼしている。そう鈴木さんは主張する。
 他人に厳しい発想
 そもそもバイアスとは何か。
 たとえば、同僚が仕事で遅刻すると、「あいつ、いつもルーズなやつだから」と思う一方で、自分が遅刻すると「昨日、仕事で遅かったから」と言い訳する人がいる。
 他者の行動の原因は、性格や態度、知能といった「内面」に求めるのに、自分の行動は「状況」のせいにする。こうした考え方のクセは「バイアス」と呼ばれる。
 「自粛警察」など、コロナ禍における他人への厳しいまなざしには、対応バイアスが隠れている、と鈴木さんは指摘する。
 また、人は「日本人らしさ」や「男らしさ」など、その集団の本質的な要素でカテゴリー化する傾向がある。これは「心理学的本質主義」と呼ばれる。
 「コロナの感染が広がっていない地域では、『あんなところに住んでいるやつらだから』『東京の野郎どもは遊びまくっているからだ』と考える人もいるでしょう」
 こうした考え方は、他者を「個」ではなく「集団」として捉えることにつながる。この延長線上にあるのが「内在的正義」というバイアスだ。不幸なことが起きるのは、悪行や不道徳の結果であり、コロナに感染するのは何かよくないことをしたからだ、という考え方につながる。
 「それが、悪いことをしたやつには懲罰を与えようという考え方につながり、マスクをつけない人を注意する『マスク警察』や、他の都道府県から来た車へのいやがらせなどにつながるのです」
 政策の言葉の作用
 政府の唱える「新しい生活様式」も、個ではなく、みんなでやろうという雰囲気が強い。
 「『新しい生活様式』というおかしな言葉を振りかざして、個人の生活に干渉しようという態度には、強圧的なものを感じます。自分たちが失敗しても『お前たちがしっかり生活しないからだ』と、国民の生活態度が悪いのだという言い訳にもできます」
 国民の側も、こうした考え方を知らぬ間に採り入れてしまっているかもしれない。それが、「お前たちのせいだ」と言われても納得し、自粛警察の風潮がさらにはびこる――といった悪循環につながりかねないと指摘する。
 バイアスから逃れるのは非常に難しい。だが認知バイアスを持つこと自体が開くとは言えない。得られた情報を判断する際に、自分にも他人にもバイアスがあると自覚することが重要だと鈴木さんは話す。
 「ことば」の使い方も重要だ。コロナ禍において政治家は、国民の行動を変えるための政策として、耳慣れない外来語を使ってきた。この戦略は、情報を判断するうえで、人々の考え方に二つの作用を与えたという。
 鈴木さんは、なじみのない外来語の代表例の一つとして「Go To トラベル」を挙げる。日本語にすると「旅行促進・推進事業」。いくらなんでも日本語でこんなことを言うと、多くの人から『こんな状況に何を!』という反論が出てくる。そこを英語を使うことで、あいまいに緩和する効果があったと思います」
 反対に、「オーバーシュート」「東京アラート」などは、訳すとインパクトがなくなる。「オーバーシュート」は「的を外す」、「東京アラート」は「東京警報」だ。「これらの言葉は外来語だからこそ、印象に残ったのだと思います」
 「リスクゼロ」の壁
 感染防止と経済活性化の両立を掲げる菅政権は、「Go To トラベル」にこだわってきた。だが感染拡大が続く中、批判の声が高まり、年末年始を前に一時停止に追い込まれた。政府が一貫性を維持しようと間違ったやり方に固執すれば、迷惑を被るのは国民だ。
 「間違ったと思ったらやめるのは、当然の判断でしょう。ただ政府には、なぜやめたのかをデータに基づき説明する必要があります。トラベルが感染拡大につながったのであれば、裏付けるデータを示したうえで、方針について説明すべきでした」
 物事を的確に判断するには、情報を比較することが大事だ。たとえば、海外では数百万人の感染者が出ている国もある一方で、日本は急増しているとはいえ、まだそのレベルではない。
 「それでも医療が崩壊しつつあると言われています。それは国が、医療システムに負荷をかけるような措置を講じたからだと考えられないでしょうか」
 私たちの社会に広く根づく「リスクゼロ信仰」も、正しい判断をする際の障壁となっているという。
 交通事故が起こるから自動車の運転は禁止、オレオレ詐欺が起こるから電話をしないという生活はありえない。「『ゼロに近づけるためならば何でもやる』という方針は馬鹿げています。感染状況だけでなく、人の生活全般を見据えた政策と、個人の冷静な意思決定こそが、求められているのです」」朝日新聞2021年1月16日夕刊、6面社会・総合欄。
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