gooブログはじめました!

写真付きで日々の思考の記録をつれづれなるままに書き綴るブログを開始いたします。読む人がいてもいなくても、それなりに書くぞ

回顧される昭和の歌謡曲 8 山口百恵と荒井由実の時代  ペンの力 

2021-01-04 21:15:35 | 日記
A.1970年代の伝説
 女の幸福は、可愛い少女としてデビューし、輝く美人として華やかな活躍をし、理想の男にプロポーズされみんなから祝福され羨望されるなか、専業主婦となり子どもを産んで世間から見えなくなる、というコースが「理想のモデル」であった時代が、かつてあった。それは、第2次大戦後の日本では、アメリカから輸入されたロマンチック・ラヴ・イデオロギーの定着によって、1960年代に具体的なイメージができたと考えてよいだろう。つまり、白いウェディング・ドレスをまとった花嫁がキリスト教の教会で彼と愛を誓うのが、夢の「幸福実現」として若い女の憧れになった。キリスト教徒でもないのに、結婚式だけ教会で…というのも宗教などファッションになってしまった時代。それは、有名芸能人がそのような結婚式を演じたことで、それまでの神前式を古臭く感じさせ、全国の結婚式場で花嫁たちが模倣したがったからだ。
 1971年10月から1983年9月までの12年間、民放日本テレビが毎週、後楽園ホールを会場におこなわれた歌謡歌手オーディション番組を放送していたのが「スター誕生」、略称「スタ誕」であった。「スタ誕」開始の翌年12月、出場応募した13歳の中学生・山口百恵(1959年1月生)は、牧場ユミの「回転木馬」を歌い準優勝し、20社から指名を受けた。同年の森昌子がすでにテレビで活躍しているのを見て憧れたのが出場のきっかけだという。審査員の阿久悠から「あなたは青春ドラマの妹役なら良いけれど歌手は諦めた方が良い」と言われたが、1973年4月映画『としごろ』に出演し、5月に同名の曲で歌手としてデビュー。森昌子・桜田淳子と共に「花の中三トリオ」と呼ばれた。当初は、他の二人に比べ地味な印象だったが、次第にヒット曲を連発し、人気はブレイク。1978年には『紅白歌合戦』で紅組トリを務める。白組の沢田研二と共にポップス歌手のトリは番組初のことで、10代の歌手が紅白のトリとなったのも百恵が初で、最年少記録は破られていない。 
1980年3月に俳優三浦友和との婚約を発表。同時に、芸能界引退を公表する。1978年に解散のキャンディーズで定着した引退記念興行は、1980年10月5日に日本武道館で開催された山口百恵ファイナルコンサートで、アイドル歌手全盛時代の終わりを告げた。21歳の山口百恵は11月19日、教会で結婚式を挙げ、大々的に報道された。7年半の芸能人だった。

「ひと夏の経験 ;昭和49年(1974) 作詞:千家和也  作曲:都倉俊一 歌:山口百恵
  〽あなたに女の子の一番
  大切な ものをあげるわ‥‥‥
と訴えかけられると、大抵の人はドキッとする。狼狽するかもしれない。歌はつづいて、
  〽小さな胸の奥にしまった 大切な ものをあげるわ‥‥‥ 
 ややトーンダウンし、というよりは抽象化して、歌い出しの二行で感じた劣情に近い思いに肩透かしを食わせるのだが、それでも当時、かなりの衝撃であった。
 この「ひと夏の経験」は、「としごろ」「青い果実」「禁じられた遊び」「春風のいたずら」につぐ山口百恵五枚目のシングルで、デビューから約一年が経過、これによってオヤと目をみはらせた。明らかに歌手としての大きな変化を感じさせたのである。
 たしか十五歳であったはずである。歌のコンセプトは一貫して「青い性」であったが、この歌になって痛々しい少女の性、大人から見ると危うさを含んだ感傷が、もっと居直ったものとして伝わって来るようになるのである。
 山口百恵は、「スター誕生」という番組から、森昌子、桜田淳子についで世に出た三人目のスターということが言えたが、最初の一年に限って評価すると地味な存在であった。森昌子は可憐な演歌歌手として「せんせい」等で大ヒットを飛ばし、その素朴な個性を愛されていたし、桜田淳子は天性のアイドルで、どこまでも華麗であった。
 ぼくはこの二人の作品を書き、ライバル関係にある山口百恵に対しては、どこか楽観視しているところがあった。まことに不明を恥じるのだが、彼女が、歌のうまい森昌子や、天使の微笑の桜田淳子を超えることなどあるまいと思っていたのである。
 しかし、「ひと夏の経験」を聴いた時には、その思いを修正しなければならないと実感したのである。
  〽愛する人に 捧げるため 守って来たのよ
  汚れてもいい 泣いてもいい
  愛は尊いわ‥‥‥
 一つ間違うとアブナ絵になりそうだが、山口百恵は、アブナ絵と感じさせる愛玩の微笑と媚の健気さを拒んで、あくまでも無表情で、凄味さえ漂わせていた。
 山口百恵の開花は、その二年後の「横須賀ストーリー」からだというのが定説であるが、実はこの「ひと夏の経験」に既にその兆しはあったように思う。
 のちに大人たちが逆上し、信仰に近い存在にまで彼女を高い存在に押し上げ、「時代と寝た女」とか「菩薩」と呼ぶようになるのだが、けはいだけならその時にあった。透明な妖気である。
 「ひと夏の経験」は昭和四十九年六月に発売された。この年あたりから、少女漫画が独自のジャンルを切り開き、少女キャラクターに一種の文芸性が加わって来るのである。同じ頃、『かもめのジョナサン』も発売されてブームを起こす。これらと山口百恵人気が重なる気もするのだが、それはどうかわからない。時代という舞台で見ると関係あるだろうし、人として見ると無いと言える。

宇宙戦艦ヤマト :昭和49年(1974)  作詞:阿久悠 作曲:宮川泰 歌:ささきいさお
 時々「あの歌も阿久さんの作詞だったのですね」と驚かれることがある。「ピンポンパン体操」がそうだし、「ウルトラマン・タロウ」や「デビルマン」もそうで意外な顔をされるが、「宇宙戦艦ヤマト」も、そうだとは思いませんでした、という部類に入る。
この歌は、テレビアニメーション「宇宙戦艦ヤマト」のテーマソングとして作られた。第一話「SOS地球‼甦れ宇宙戦艦ヤマト」が放映されたのが昭和四十九年十月六日となっているから、その数ヵ月前のことだと思うが、プロデューサー西崎義展の訪問を受けて、作詞を依頼された。
そこで、プロデューサーは、企画書や梗概の一節を詠嘆的に朗読し、うっすらと涙さえ浮かべた。さらに彼は、「人は、心の内なる愛を、どこまで高めることが出来るのだろうか。そして、また、それぞれの生に、どこまで真摯になれるものだろうか」と熱弁をふるった。彼は、その当時、流行のように言われていた「シラケ世代」を嘆き、怒ってもいた。
これはかなり異色の打ち合わせであったが、結局ぼくは、涙を浮かべてまで自分の作品を説明するプロデューサーに出会ったことの驚きもあって、作詞を引き受けた。
 〽さらば地球よ 旅立つ船は 宇宙戦艦ヤマト
 宇宙の彼方 イスカンダルへ
 運命背負い 今とび立つ
作曲は宮川泰、歌はささきいさおであった。ささきいさおは佐々木功で、若い頃は和製プレスリーと呼ばれ、その後、松竹ヌーベルバーグの映画などに多く出演していた。ロックンロールと全く違う朗々とした歌い方をした。
テレビアニメの「宇宙戦艦ヤマト」は、当初は視聴率的にも大した数字は挙げられず、プロデューサーの涙も熱弁も茶の間までは届かなかったかと思ったが、それがある時から突然の大ブームになった。何本も映画になり、その都度映画館の周辺に若い客の行列が出来る活況であった。
ブームは、「シラケ世代」の若い人たちが作った。それはちょっとした宗教的集まりのようで、プロデューサーは教祖かと思えたほどである。教祖は泣かずに、「きみたち!」と呼びかけた。
 ぼくは、映画のためにも、「ヤマトより愛をこめて」などの詩を書いた。その時は、悲壮の美に走らないようにと気を遣って、壮大な愛の歌にしたのだが、〽さらば地球よ‥‥‥で「宇宙戦艦ヤマト」が始まっているのに、「ヤマトより愛をこめて」では、〽今はさらばといわせないでくれ‥‥‥で終わらせている。このメッセージが通じたかどうか、それはわからない。
 僕は、プロデューサーが所有する豪華クルーザーで伊豆諸島をクルージングしたのだが、台風の余波に巻き込まれて死ぬ思いをした。プロデューサーは艦長のように奮闘したが、あの時の三宅島と神津島の距離は、地球とイスカンダルよりも遠く思えたものである。

 「いちご白書」をもう一度 :昭和50年(1975) 作詞・作曲 荒井由実 歌:バンバン
  〽いつか君と行った 映画がまた来る
  授業を抜け出して 二人で出かけた‥‥‥
 この詩の中の映画が「いちご白書」である。今になると「いちご白書」の説明が必要かもしれない。この歌が発表される五年前に公開されたアメリカ映画で、当時の解説を引用させて貰うと、スチュアート・ハグマン監督の劇場用第一作で、学園紛争のさなかのある青春をみずみずしい情感で描き、カンヌ映画祭審査員特別賞受賞、とある。
 これだけでは歌とイメージを重ねることが難しいので、多少ストーリーめいたことを書くと、六〇年代の後半、大学紛争で荒れるキャンパスでのこと、ボート部のノンポリ学生サイモンは、ストライキ中の学園内で、活動家の女子学生リンダに逢って、たちまち魅せられる。そして、恋心から政治活動に熱意を示し始める。ラストが涙するところで、バリケードを破って突入して来た警官隊に、二人は引き裂かれるのである。
 アメリカの学園の話であるが、同じようなことが日本の大学にもあったに違いない。悲痛であると同時に、どこか甘美にも思えた青春を、いくらか時過ぎてふり返っている歌である。当時の一つのシンボルであった「いちご白書」が再公開された時、恋人のどちらかが、〽君も見るだろうか「いちご白書」を 二人だけのメモリー どこかでもう一度‥‥‥と歌う。
 昭和五十年の歌である。荒井由実――現松任谷由実――が作詞・作曲、バンバンが歌って大ヒットした。
 ぼくはこの歌を聴いた時、ふとある妬ましさと、ちょっとした後悔のようなものを感じた。ぼくは大学を卒業し、七年近くもサラリーマンをやり、それから放送作家を経て作詞を始めたのだが、その時は三十歳を過ぎていた。しかし、遅れて来た作詞家という自覚はさらさらなく、逆に、あるキャリアののちに詩を書き始めたことが最大の強みであるとさえ思っていたのだが、この歌には、こういう形の青春は書けないと、妬ましさと、スタートの遅さに対する後悔を覚えたのである。
 ぼくも青春を描きはするが、それはかなり遠い過去のことである。ぼくの中で、総括は終わっている。しかし、「「いちご白書」をもう一度」の青春は昨日のことである。作詞者の実体験か監察かイメージかは別として、昨日のことには昨日のことのみずみずしさといたいたしさがあり、それは巧拙を越える。
 ぼくはもう三十八歳になっていて、額縁に入ってしまった青春を思っているのであった。
  〽雨に破れかけた 街角のポスターに
  過ぎ去った昔が 鮮やかによみがえる‥‥‥
 さて、今、街角のポスターから、昨日へ、ある時代へとリップするような上質の感傷があるのだろうか。「いちご白書」の時代は歌になるような感傷を作ったが、それを最後として、二度と感傷が芽ばえない青春に変質させたと言えなくもない。
 そう思うと、これは最後の青春の歌である。」阿久悠「愛すべき名歌たち ―私的歌謡曲史―」岩波新書、1999年、pp.190-203. 
 
 阿久悠は、「イチゴ白書をもう一度」を聴いて、自分たちとは質の違う世代の差の感性に、一種の羨望をもったと語っているが、映画「イチゴ白書」からの連想でいわゆるそこに70年学園紛争の世代をイメージしてしまっている。しかし、大学紛争を経験したぼくたちには、荒井由実の音楽が出てきたとき、むしろこれは政治や社会をきれいさっぱり洗い流して、おしゃれで透明な消費社会の音楽だと少々反撥を感じた。それは、それまでの歌謡ポップスやフォークとは違う、ジャズやアメリカン・フュージュンの匂いが濃いものだったからだ。こういう都会的で私的な曲を自分で作れる若い女が出てきた。これは、東京でも限られた階層の育ちでないと、作成不可能なもので、阿久悠はじめ地方上京者の作る大衆音楽にはまだまだ手の届かないものだったと思う。阿久悠はそれを無意識に感じて、一種の勘違いから嫉妬してしまったのだろう。
荒井由実(1954年1月生)は、八王子の老舗呉服店に生まれ、6歳からピアノ、11歳から三味線、14歳からベースを始め、中学時代には、当時国内外の文化人が集まるサロン的存在だった港区麻布台のイタリアンレストラン「キャンティ」に出入りし、に集まったアーティストからアルファレコードが生まれ、デビューのきっかけを作った。高校は立教女学院に進学。「立教女学院のパイプオルガン、プロコル・ハルムに強い衝撃を受けた」と語っている。また高校にかけては、御茶の水美術学院に通い、年長の同窓生の影響でアルチュール・ランボー、ジャック・プレヴェールを愛唱、17歳で作曲家としてデビューした。染色の専攻を志し、1972年4月に多摩美術大学に入学。荒井は元々作曲家志望だったが、アルファレコードを設立した村井邦彦の勧めで、同年7月5日にかまやつひろしがプロデュースしたシングル「返事はいらない」で荒井由実としてデビュー。しかし同シングルは数百枚しか売れなかった。でも73年、アルバム「ひこうき雲」を出して話題になり、75年のシングル「あの日に帰りたい」が大ヒット。「ユーミン」は、女性シンガーソングライターの輝くスターになっていく。1976年11月29日、松任谷正隆と横浜山手教会にて結婚、その後は松任谷由実として音楽活動を続行。66歳の現在も第一線で活躍する。


B.ペンクラブの歴史観
 文筆で世に立つ人々の、自由な組織として国際ペンクラブがあり、日本のペンクラブも戦前からの長い歴史を持ち、国際ペンクラブに加盟して言論の自由を守る活動をしている。現在の日本ペンクラブ会長の吉岡忍氏が、いまの日本と世界の言論と政治の状況をめぐり、一種の危機感と、日本が戦争に向かっていた時代の歴史を、若い世代に凝視してもらう必要を語る文章が、岩波『世界』(1月号)に載っていた。その最後の部分だけ、引用させていただく。

 「(承前)国家と権力が牛耳る時局に個人として、作家としてどう対応するか。対照的だったのは菊池寛と石川達三である。
 菊池寛はこのとき日本文藝家協会会長であり、マスコミ界の大御所だった。芝居「藤十郎の恋」「恩讐の彼方に」で大向こうをうならせ、新聞連載小説『真珠夫人』で人気作家となり、雑誌『文藝春秋』をヒットさせ、芥川賞、直木賞を創設し、とつねに話題のただなかにいて、多くの社員を抱えてもいた彼が戦時体制から離れられるはずもない。
 石川達三は1935年、その第一回の芥川賞を、ブラジルに移民していく棄民たちの群像劇のように描いた『蒼茫』で受賞した。彼は日中戦争が始まると、『中央公論』特派記者として南京に向かった。「ゴロゴロと死体が転がっていて、死の町という言葉がピッタリ」だった国民党政府の首都で日本兵とともに起居し、見聞きしたことを小説化して『生きてゐる兵隊』を書いた。開戦に興奮する国民に戦場の実情を知らせたい、というのが意図だった。
 しかし、検閲を恐れて各所を伏字にしても、「皇軍兵士の非戦闘員殺戮、掠奪、軍規弛緩の状況を記述」したことは社会秩序を乱すとして、石川と出版社は起訴され、有罪となった(ちなみに1970年代、第七代会長となった石川は性風俗の乱れを批判する「二つの自由」論を展開し性表現の自由を主張する野坂昭如らと激しい論争になった)。 
 日中戦争から太平洋戦争へと、世の中はそっくり戦争に向かって動いていた。言論は治安維持法や国民精神総動員法で十重二十重に統制された。もう一方の菊池寛は著名文士を引き連れて戦場を視察し、文学報国会ができると議長に就任した。だが、彼自身の信条はあくまで自由主義者たることだった。
 この曲芸のようなねじれ、あるいは分裂をとうに見抜いていた人物がいた。若い頃からの親友で、昭和の悲惨な行く末を予感したかのように早々に自殺した芥川龍之介である。芥川は書いていた。「自由思想家の弱点は自由思想家であることである。彼はとうてい獰猛に戦うことはできない」と。
二世代半後の「若い世代へ」:吉岡忍
 思えば、足かけ十五年におよんだ戦争期は、 生々しく獰猛でリアルでありながら、国を挙げて大東亜の共栄や五族協和という壮大なフィクションに踊ったダークファンタジーだったか。のようもちろん誰もがそこで一生懸命考え、律義に働き、必死に生きたことは疑い得ない。だが、誰もその悲惨で大規模な結末を見通すことはできなかった。
 さて、冒頭の起題にもどれば、こうした文学世界のあれこれを、私は別段、菅首相に知ってほしいと思っているわけではない。しかし、同じようなことは政治の世界にも確実にあった。当時の軍人、政治家が文字通り総合的、地政学的に考えたつもりがどうなったか。現実を所与のものとして俯瞰するだけでは何が足りないか、きっとおわかりになるに違いない。
 と言いつつ、いささか私は悲観的である。
 数年前、大化改新について調べたことがある。645年、中大兄皇子(のちの天智天皇)は天皇の前で豪族のボスを斬殺し、同類を震え上がらせたうえで土地と人民を取り上げ、公地公民の中央集権国家をつくり上げた。しかし、この古代史最大の改革は大寺院などが荘園を持ち、貴族豪族もまねするにおよんで元の木阿弥。おまけに荘園の用心棒だった武士連中が力をつけ、貴族社会そのものがきりくずされていくことになる。
 公地公民制が虫食い状態になるまで七、八十年しかかからなかった。人の働き盛りを三十年とすれば、二世代半。祖父母が信念を持って始めた国づくりを、働き盛りになった孫の世代がチャラにしてしまう計算だ。そう思って年表をめくると、あてはまる事例はいくつもある。
 労働者の新天地だったソ連が、独裁と錆びついた官僚制で自壊するまでが七十四年。自由と平等と幸福の追求を天賦の人権と謳って独立したアメリカは、八十五年後には奴隷制度をめぐる内輪もめから南北戦争に突入した。それより日本である。大政奉還によってスタートした近代日本の七十八年後に広がっていたのは、一面の焼け野原だった。
 菅首相は、もっと若い人を、と言った。わが身を振り返れば、若いということが、ルールも知らずに、すでに始まっているゲームに飛び込むようなものであることは身に沁みている。敗戦と新日本建設から二世代半、どうか若い人には目先の課題に全集中の呼吸で取り組んで、モグラ叩きのようなことをするのではなく、現実を奥深くで動かしている歴史に目を凝らして欲しい、と私は思っている。
 自分で課題を立て、自分で調べ、自分で考える。自主も自立も自治も、そこからしか始まらない。」吉岡忍「ペンと権力 歴史に目を凝らし考える」雑誌『世界』2021年1月号、岩波書店、pp.30-31. 

 安倍晋三前首相も、菅現首相も、日本の言論や思想の担い手については、非常に大雑把に考えて、いわゆる戦後左翼の影響が色濃い50代以上の言論人、さらにその左翼的偏見を教条的に信じる悪しきエピゴーネンの多い中年層は、語り説得する相手ではなく、説明したって無駄な連中だと決めつけている。だから無視して、そういう護憲左翼的言論の影響が薄く、国家やナショナリズムを素直に受け入れる20代30代を、もっと増やすことに力を注げば、自分たちのやりたい方向にもっていける、と考えているように見える。この世代観は、かなり自分たちに都合よくできていて、それが20年前から教育の中にもちこまれた歴史リヴィジョニズムの成果だと思っているなら、彼らの歴史観自体がおおいにいい加減なものだと思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする