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戦争の経験をふりかえる 2 戦中派‼  外国人労働者導入の欺瞞

2021-01-28 23:32:57 | 日記
A.ぼくらにとっての「戦争」
 「戦争体験」ではなく「戦争経験」を考える、という成田龍一氏のこの本、『「戦争経験」の戦後史』は、あえて「戦争経験」という言葉によって、かつて1931年から45年まで日本が遂行した戦争を、これまでは実際に生きて体験し記憶している人と、戦争を記憶もあやふやな幼児期に生きた人や、それすらない戦後生まれのぼくらのような人間との間に線を引き、「体験の記憶」をなんらかの知識や教訓として継承する、という立場が主流だった。しかし、それだけでなく、戦争が終わった時から70年以上経って、もはや「戦争体験」のある人はほとんどいなくなるから、戦争そのものの歴史的事実と合わせて、戦後70年、それがどのように語られ、いかに解釈され変化してきたのかを追いかけてみようという試みだろう。
 それを読みはじめたら、ぼくは大学に入った頃、数人の友人たちと夏休みの一泊旅行で遊びに行くついでに、読書会もやろうということで、そのとき読んだ本のことを思い出した。それは『戦争とはなんだ』(三一書房、1966年)という高校生むけの新書だったと思う(だいぶ記憶は薄れているが)。そこで、戦争を若いときに経験した知識人たちが対談したものを載せていて、当時活躍中のほぼ同世代の安田武、橋川文三、藤田省三、梅棹忠雄という人たちだった(と思う)。細部はもう覚えていないが、青春を戦争のなかで過ごしたこの人たちの話は、それぞれユニークでしかも戦争への立ち位置、評価は互いにかなり違っていて論争的でもあったのが印象的だった。
 戦争体験は一つではなく、その人がどこにいてどういう立場にいたかでも全く違うものなんだな、とそれを読んで思った。その違いが、戦後の生き方や思想に大きな影響を与えている。ただ、この人たちは「生き残った人間」「生き残された人間」で、戦後にそれぞれの分野で活躍していたのだが、同世代の友人知人、仲間や家族を戦争で失っているという共通体験がある。そうしたリアルは、戦後生まれのぼくらにはない。
 
 「1945年8月15日の早暁に、ソ連軍との交戦の中で友人を失った評論家の安田武(1922年生まれ) は、
 なぜ、戦争体験に固執するのか、――そう問われれば、ぼくは当惑するよりほかはない。固執するわけではなく、固執せざるを得ないのだ。なぜならば、その体験を抜きにして、ぼくの今日は無なのだから。(「戦争体験」未来社1963年。初出は、1955年)
 という。隣にいたB (と安田は記す)が「眉間から後頭部を貫通した銃弾」によって即死したことをめぐり、安田は煩悶を繰り返す――「ところで、ぼくが、いま不しあわせでないのは、あの時、ホンの10糎ほど左の方に位置していたからなのだろうか。ソ連の狙撃兵が、ぼくではなく、Bを狙ったからであろうか。それとも、8月15日に、敗戦が決まったからであろうか」(傍点は原文。以下、断りのない限り同様)。
 (安田は「戦争体験」と記すが)戦争経験は、このように個人にとり何ものにも代え難いものであるとともに、何より不条理なものである。それは戦後の過程についても同様である。安田は「学徒出陣」を「不幸」と思い、「汚辱」とし、さらに生き残ったことを「感謝」しなければならないというねじれた心情を吐露する。この心情は「人の生命が、これほど侮辱された時代」はない、という切実な認識と結びついている。戦争経験を「放棄」することによって「単なる日常的な経験主義」に陥り、「その都度かぎりの状況のなかに溺れることだけは、ぼくはもうマッピラだ」との想いを、安田は表明する。
 また、思想史家・橋川文三(1922年生まれ)は、1959年に「戦争体験」論について、「わが国の精神伝統の中に、はじめて「歴史意識」を創出しようとする努力の一環として考えられるものであり、それ以外のなにものでもない」と述べたが(「「戦争体験」論の意味」『現代の発見』第二巻『戦争体験の意味』春秋社、1959年、所収)、戦争経験の論議こそは、現時の歴史的位相を測り、現時の構成を考察する重要な要素として認識されてきた。橋川の言は、安田の想いと行為とに響きあっている。
 こうした体験を「経験」に組み替えようというのが、同じく思想史家で1927年生まれの藤田省三の提言であった。藤田は、「戦後の議論の前提」(『思想の科学』1981年4月)で、「戦後の思考の前提は経験であった」と説き、「いわゆる「戦争体験」に還元し切ることの出来ない色々のレベルにおける経験」に着目する。
 藤田は「戦後経験」の「核心」をあげ、(1)国家(機構)の没落が不思議にも明るさを含んでいるという事」の発見、(2)すべてのものが両義性のふくらみを持っていることの自覚」、(3)「もう一つの戦前」すなわち「隠された戦前」の「発見」(4)「時間の両義性と可逆関係」を指摘する。そしてそのうえで、藤田は「経験固有の相互関係性」を見て取り経験に着目していったのである。
 「体験」は「制度的圧迫の中」で「己の存在」を主張するのに対し、「経験」は「多くの次元と関連」を含み「広い可能性」をもつとした。戦争という「受難(或は「受苦」)」を「生成核」とし、「戦後の経験よ「経験の古典」となって永遠に生きてあれ」と藤田は力説する。
 すなわち藤田は高度成長のただなかで、「体験」が横行することを嘆くとともに、個別に存在する戦争体験を、他者にも通ずる「戦争経験」とすることの必要性を唱えたのである。戦闘経験を持つ人びとと「銃後」を経験した人びとではその内容は違うだろうし、旧植民地の人びとからする戦争はまた違ったものとなる。戦争を、戦闘の局面、戦時生活や戦時統制の側面、あるいは植民地やそれと表裏をなす帝国意識との関係で把握するなど、戦争の体験を経験化することの必要性を藤田は説いた。
 藤田が同時代的に提起した議論は、通時的にみたときにはいっそう重要性を有する。直接に「アジア・太平洋戦争」に直面した世代から、その経験を聞いた次世代、学習によって「アジア・太平洋戦争」を知るさらに次の世代とでは、戦争といったときの内容を事にしよう。
 藤田たちの提起からは、「戦時」と「戦後」という区分、またその「戦後」が絶えず「戦時」(「戦前」を鏡として自己を認定するという戦後の歴史過程があったということがうかがわれる。しかも、それはその時々に様相と構成を変えて現象してくる。
 あらためて整理してみれば、戦争経験といったときに、体験/証言/記憶の三位一体――この三者の織りなす領域がある。体験/証言/記憶の集合体は歴史的な形態を持つが、とりあえず「戦後」という時期を想定しこの射程で考察するとき、「戦争直後におけるこの三位一体では「体験」という語と概念が、他の記憶と証言の概念を統御していた。
 また、1970年前後には「証言」がさかんに言われ、記憶/体験を統御していた。当初は、戦争経験のある人びとが同様の経験を有する人びとに語りかける「体験」の時代があり、経験を有する人びとがそれを持たない人びとと交代の兆しを見せる1970年前後に「証言」の時代となった。そして、戦争の直接の経験を持たない人びとが多数を占める1990年代に「記憶」の時代となる。
 1950年代を中心とする「体験」の時代、1970年代を中心とする「証言」の時代を経て、1990年代から「記憶」の時代が開始されてきた、と考えることができる。体験/証言/記憶は三位一体をなすとともに、時系列的であり、時期によって三者の関係が変化し統御する主たるものが交代すると把握しうる(以下、「 」をつけた場合は、それが、体験/証言/記憶の三位一体を統御すること、またその時代であることを示すこととする)。」成田龍一『増補「戦争経験」の戦後史』岩波現代文庫、2020.pp.17-20.
 
 人間は、思春期から青年期、それを15歳から30歳までとすれば、その15年ほどの時期に生きて考えたことを、人格の中核に抱えたまま、その後の人生を生きるのが普通だろう。だとすると、安田武や藤田省三のような1922(大正11)年生まれの人は、戦争が終わった1945年に満で23歳(当時の数えでは24か5)。彼等の青春はまさに戦争とともにあった。時代の移り変わり、とくに戦争が終わって世の中は正反対ともいえる大変革を遂げたわけだから、その中で彼らの生活も思想も変化はする。でも、この戦中派としての自己の核心は変わらないはずだ。ぼくらには、そういうものは希薄で、知識としての「戦争」についていろいろ学んでも、それを自分の中核とすることはむずかしい。


B.技能実習生という欺瞞
 1980年代後半のバブル時代に、労働力不足を補うには先進諸国と同様に、日本も外国人労働力を導入するしかないという議論が起って、導入論と鎖国論の論者がテレビなどで賛否を競っていたのを思い出す。結局、保守派の外国人労働者を入れたら社会的な負の影響が大きいから、ということで見送られ、それでも南米からの日系人子弟ならOKということにして、抜け穴にした。それも姑息な遣り方だった。ぼくは、出稼ぎの研究が出発点だから、当時の外国人出稼ぎ労働の問題を、ドイツのガストアルバイターなどのデータも集めて、外国人労働力導入のためには、十分な受け入れ整備が必要だと思っていたが、いずれ日本もやらざるを得ないだろうと考えた。しかし、実際にその後日本がとった「技能実習生制度」によって、多数の外国人が日本で働く姿をあちこちで見るようになった。これが、「技能実習」というのは名目で、実質的な底辺労働者導入になっていることは当初から予想できた。80年代末の外国人労働者本格導入論は、結局バブルがはじけてうやむやになってしまった。日本の保守派言論はいつも、日本人だけが勤勉で麗しい伝統の中にあり、外国人は異物だから人権も自由も制限して構わない、というところへ行ってしまう。そのツケがやがて必ず来るのに…。

 「取材考記 人手不足補う「外国人材」不安定な立場  大阪社会部 玉置 太郎 
技能実習生と国民との格差 正そう
 年末年始の連載企画「共生のSDGs」で、外国人技能実習生を取材した。見えてきたのは、「東条国への技術移転」という建前をかかげる技能実習制度の矛盾だ。実際は人手不足の産業に労働者を送る国策なのに、その建前にもとづいて自由な転職が認められず、実習生は弱い立場におかれる。
 実習制度ができて28年。この間、政府は正面から外国人労働者を受け入れず、実習生のほか、留学生のアルバイトや就労を自由化した日系人の派遣労働者で人手不足を補ってきた。日本社会に必要な働き手として正面から受け入れない姿勢が、権利の制限や労働条件の不安定さを生んだ。
 政府はようやく2年前、人手不足の産業に海外から労働者を受け入れる新たな在留資格「特定技能」を設けた。その法改正をめぐる国会論議で、安倍晋三前首相がくり返したのは「移民政策ではない」という言葉だった。保守派の支持層に配慮し、定住につながるイメージを持つ「移民」の語を避けた背景がある。かわりに使った言葉は「外国人材」だった。
 「移民政策とは何か」の編著がある大阪大大学院の高谷幸准教授は、「移民」が「国境を越える移動に焦点を当てた呼び方」であるのに対し、「外国人」は「国民との対比を強調する呼び方」だと言う。『移民』という言葉を避けて、『外国人』と呼ぶことは、この社会の外部の人々だという印象を与え、法や権利の上での国民との格差を正当化することにつながりかねない」
 新型コロナウイルスの感染が広がる中、真っ先に職を失ったのは技能実習生や日系人の派遣労働者だった。言葉や文化の壁がある上、労働条件や権利が不十分な状況におかれているためだ。そうした格差を是正せず、「外国人だからしょうがない」と「正当化」する考えが、私達にないだろうか。
 連載取材では、ベトナムから来日し、コロナ禍で職を失い、各地を転々としたシングルマザーの技能実習生の歩みをたどった。実習生一人ひとりに来日にいたる人生があり、家族や夢がある。同じ社会で暮らす「人」として向き合うことが、政策への議論を起こす第一歩になるはずだ。」朝日新聞2021年1月27日夕刊、5面NEWS+α。

 日本の高度経済成長の下支えになったのは、国内各地農漁村から集められた出稼ぎ労働者だった。それが外国人労働力を入れずにすんだ日本の特殊事情だった。しかし、高度成長はその農漁村を衰弱させて生活水準を高めた結果、出稼ぎをする日本人はいなくなった。日本人がやりたくない3K労働は国民生活に欠くことができないから、誰かにやってもらわねばならない(しかも低賃金で!)。いよいよ外国人労働者を入れざるを得ない、となって、日本社会はきちんと体制を整え、ぼくたちの外国人への意識態度も変える必要があったのだ。でも、政治が用意したのは、姑息な欺瞞的制度だった。そのツケがいま廻っている。
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