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戦争の経験をふりかえる 3 日中戦争の報道  就任演説!

2021-01-31 23:20:20 | 日記
A.日中戦争の記録
昭和の日本が始めた戦争を、1931年9月の柳条湖事件を起点に1945年8月の敗戦までの、いわゆる十五年戦争は、順にみると、満洲事変、日中戦争、そして太平洋戦争という三段階の戦争に分かれる。空間的にもそれぞれ戦争が行われた場所は、満洲(中国東北部)、中国中央部、
そして太平洋から東南アジア(オーストラリアの一部までを含む)と異なっていた。このように戦争を拡大したのは日本の意思、とくに軍部の積極的な意図のもとに行われた侵略戦争であることは疑う余地はない。
当時の日本国民の主観的認識としても、明治の日清戦争以来、日本が台湾、朝鮮、樺太、満洲と戦争のたびに版図を拡張し、アジアの地図に日本帝国の領土が赤く塗られていくことに、誇りと満足を感じていたということは、ほぼ頷ける事実だっただろう。それは、国民各層に戦争の犠牲、直接には戦争を戦って死んだ身内の兵士、国家のために命を捨てた若者への、敬意と哀悼という心情に裏打ちされていたはずだ。靖国神社に祀られた「英霊」とは、そうした精神の回路で理解されていた。たとえそれが他国の領土を奪い取るために、「敵」の命を多数殺したとしても、それは正義の名において称賛されてしかるべき出来事だ、と多数の臣民(国民)は思っていたことだろう。
しかし、冷静に考えてみれば、それは他人の土地に武力をもって踏み込んで、自分たちの領土だとそこの人たちを支配するということだけをみれば、あまり褒められることとは思えないと、考えた日本人もいたはずだ。そこで、良心のやましさを感じても、なおかつ日本の行為を正当化できるとすれば、これは結局、そこの人々にとっても幸福と平和をもたらす善きおこないなのだ、という説明。つまり、そこの劣った人々の力では達成できない先進的な近代化を、日本が正しく導いてやるのだ、親が子を、兄が弟を助けるように扶育するのだ、という論理である。この踏み込まれた国の人民からみれば、きわめて自分勝手で傲慢な論理も、昭和の日本人には正義の根拠であったし、報道機関が国民向けに記事を書く時、これ以外には拠って立つ場所はなかった。

「つづけて、日中戦争の報道とそこでの戦争像を探ってみよう。同時代的には、日中戦争は、ばらばらの戦闘のつらなりとして伝えられた。発端となる盧溝橋事件からしばらくの報道を見ると、1937年7月7日の日本軍(支那駐屯軍)と中国軍(第29軍)との交戦を、『東京朝日新聞』は7月8日発行の夕刊で報じた。「北平郊外で日支両軍衝突」との大見出しがあり、「不法射撃に我軍反撃 廿九軍を武装解除、疾風の如く龍王廟占拠」との見出しがならぶ。
 1933年5月に塘沽(タンクー)停戦協定が結ばれたあとも、中国軍と日本軍との小規模な衝突は続いており、1934年10月から1935年6月にかけて、張北事件(第一次・第二次)、察東事件(第一次)などがおこっている。華北一体を国民政府の統治から切り離そうと日本軍による「華北分離」の工作がなされ、1936年に天津に司令部を置く支那駐屯軍が増強されるなか、さらに第一次・第二次豊台事件(1936年6月、9月)がおこった(安井三吉『盧溝橋事件』研文出版、1993年)。こうしたなかで起きた盧溝橋事件は、大々的に報じられ、7月9日朝刊の連載小説(深田久彌「鎌倉夫人」)は休載となった。
 7月9日の『東京朝日新聞』朝刊第ニ面は、「支那側の態度強硬」で「現地交渉」が決裂し、再び「交戦状態」に入ったと記している。このあとの報道は、事件の「解決」に向けての現地の交渉の様相が中心となり、いったん7月9日に中国軍が撤退したことを告げる(新聞報道は、7月10日。だが、両軍の対峙は継続している)。また、衝突の「非」が中国側にあることが繰り返された。このときの日本の交渉相手は、現地の中国第二九軍とともに「冀察(きさつ)政権」(宋哲元を委員長とする、冀察政務委員会)であったが、「中央」(南京の国民政府)が登場し、「紛糾」したとされる(『東京朝日新聞』夕刊、7月10日)。
 7月11日の朝刊には、再び「日支全面的衝突の危機!」の大きな活字が躍った。ここでは蒋介石が「進撃令」を下したといい、蒋介石の南京政権の軍隊とのあいだに戦闘がなされたとされる。
 しかし、現地では7月11日に「解決条件」がまとまり停戦が実現し、日本軍の主力も引きあげた。けれども、その7月11日に近衛文麿内閣が、「華北」への派兵を決定する。陸軍中央部の強硬論者が大勢を制したためだが、現地停戦協定の成立は「内地」に伝えられたものの(7月12日)、同日夕刊の紙面には「全面的衝突」の不可避が前面に押し出されることとなった。
 そして、その後は、日中両軍の戦闘の様相が、写真入りで報じられる。新聞社はすぐに特派員を派遣し、戦闘の詳報やエピソード、戦場における美談などを掲載するようになる。『東京朝日新聞』のばあい、特派員たちは、たとえば、北京の城外の「戦線」を「決死的」に視察して回った際のエピソードを掲げ(7月16日夕刊)、戦端が開かれてからは、写真とともに、臨場感ある戦闘の記事がたっぷりと掲載される。7月22日の記事は、塹壕のなかの兵士との会話から始まり、戦闘の現場の生々しさを伝えた。手書きの図や地図も掲げられ、「膺懲進撃」(7月31日)の様相が記されることとなる。
 同時に、新聞は「国運進展の礎石」をいい、「全国民打って一丸」となることを図り(7月12日夕刊)、「銃後の護り」として、明治神宮への祈願や慰問袋作りを紹介する(7月12日夕刊)。また、朝日新聞社は「航空報国事業」として「軍用機献納運動」を展開し、社として二万円の募金活動を7月20日より開始する。
 そうして、大局レベルで中国を批判しつつ(「支那一片の反省なく/形勢俄然緊迫化す」7月20日)他方では身近な銃後の活動を紹介し、その中軸を戦闘の報道が占めるという戦争報道のパターンが、盧溝橋事件の勃発からほぼ10日間のあいだに作り上げられた。かかる内容と組合せをもって、定型化した戦争報道は、以後、上海をはじめとする北京以外の各地の戦線―戦闘ごとに記され、その積み上げにより「日中戦争」が報じられることとなる。
 7月25日の(北京と天津の中間の)廊坊、26日の北京の広安門での日本軍との衝突、さらに7月28日になされた支那駐屯軍と第二九軍とのあいだの本格的戦闘も、こうした定型が形づくられるなかで報道された。
 8月15日に、近衛文麿首相は「支那軍の暴戻を膺懲し以て南京政府の反省を促す」との声明を発表する。新聞報道は、この宣戦布告を行わないという日中戦争の特徴と即応するかたちで、戦闘の推移に従いながら戦争を報道していくものとなっている。戦闘の局面は、詳細かつ扇情的に報じられるが、戦争の大要や目的に関しては、不明瞭のまま投げ出されている。
 兵士たちの手記
 日中戦争では、さまざまな表現媒体による戦闘の表象がみられたが、とくに1937年7月の盧溝橋事件以降の本格化をきっかけとして、従軍した兵士の手による戦争の記述が登場する。「戦時」には、戦争遂行という誰もが異議を挟めない公的で支配的な前提があるなかで、従軍し戦地に赴いた兵士が自らの「個」的な体験や状況を報告する記述が開始される。当初の「特派員」の「ルポルタージュ」から始まった記述は、次第に実践に携わった人々の筆」になった(板垣直子『現代日本の戦争文学』六興商会出版部、1943年)。
小説では、『麦と兵隊』(1938年)に始まる三部作(『土と兵隊』1938年、『花と兵隊』1939年、いずれも改造社)を著した火野葦平や、上田廣『黄塵』(改造社、1938年)らを代表とする、いわゆる「兵隊作家」が輩出し、戦場の日常と戦闘の様相が記された。」成田龍一『増補「戦争経験」の戦後史』岩波現代文庫、2020.pp.30-34.

 戦争がどういうものか、実際に中国大陸で日本軍はなにをやっているのか、国民の多くは知るすべもない。そこで、新聞は特派員を送りこみ、出版社は職業作家を現地に送ってルポルタージや小説を書かせ、あるいは実際に兵士として現地で戦争を経験した兵隊作家の作品を載せた。映像を中心とした現代のマス・メディアの報道と違って即時性もビジュアルな映像も乏しいが、人びとに強く訴える力はあったはずだ。いや、考えてみれば、現代のテレビやネットの映像は、あたかも今そこでぼくたちが現場に立ち会っているかのように思ってしまうけれど、それはあくまでメディアのフィルターを通った作られたイメージの域を出ないのではないか。


B.「大統領演説の翻訳」
 新しいアメリカ大統領の就任演説は、世界の注目を浴び、歴史に記録される発言である。今回のバイデン氏の演説も、世界に報道された。とくに連邦議会議事堂というアメリカン・デモクラシーを象徴する殿堂に、デモ隊が乱入し破壊行為を行ったのが、前大統領の挑発的呼びかけによるものだったという、前代未聞の事態を受けての演説だったから、バイデンが何を語るか、世界は耳を澄ました。ぼくもそれを読んでみた。まずは邦訳で、そして次に英語の原文で。

「バイデン大統領演説 訳し方で違った印象:池上彰の新聞ななめ読み 
 アメリカのジョー・バイデン大統領の就任式は、時差のため日本国内では深夜の中継となりました。実際にどんな演説をしたか知りたい人は、新聞各紙1月22日付朝刊に掲載された日本語訳をじっくり読んだのではないでしょうか。
 朝日新聞や日経新聞は、英文と日本語を対訳の形で同時に掲載しました。読売新聞は、本紙は日本語訳だけで、英文は読売の英字紙「ジャパン・ニューズ」に掲載しました。就任演説は格調が高く、日本語訳だけを読んでいると、「あれ、この部分はどんな英文なのだろう」と知りたくなる人もいるはずですから、ここは対訳にしてほしかったところです。
  •        *        * 
 新聞各紙を読み比べると、バイデン大統領の言葉を「です、ます」調で訳すか、「である」調で訳すかによって、イメージが違ってくることがわかります。たとえば朝日新聞。冒頭に近い部分で、こう書きます。
 〈今日、私たちは大統領候補者の勝利ではなく、大義の、民主主義の大義の勝利を祝福します。人びとの意志は届き、そして聞き入れられたのです。民主主義は大切であることを改めて学びました。民主主義は壊れやすいものです。皆様、今この時、民主主義は勝利したのです〉
 一方、読売はこう訳しました。
 〈私たちが今日祝うのは候補者の勝利ではなく、大義、すなわち民主主義の大義だ。国民の意思が聞き入れられ考慮されたのだ。民主主義とは、もろいものだ。そして皆さん、民主主義は今この時をもって、勝利した〉
 では、日経はどうか。
〈我々はきょう、一候補者の勝利ではなく、民主主義の大義の勝利を祝っている。人々の意思が響きわたり、人々の意志が聞き入れられた。我々は改めて民主主義の貴重さを認識した。民主主義はもろいものだ。しかし今この瞬間、民主主義は勝利を収めた〉
 あなたはどの訳文が好みですか。バイデン大統領の人柄をほうふつとさせるのは、朝日の訳文でしょう。優しい口調になっているからです。でも、なんだか校長先生が生徒に話しているようなイメージもあります。
 読売は「である」調を採用したことで格調高くなりましたが、「考慮されたのだ」という表現はこなれていない印象です。日経は大胆な意訳です。「人々の意思が響きわたり」と訳すとは、ちょっとびっくりです。
  •      *      * 
 アメリカ大統領は代々キリスト教徒ですが、バイデン氏はケネディ以来のカトリック教徒です。それらしい箇所があります。日経新聞はこう訳しました。
 〈何世紀も前、聖アウグスティヌスは人々は愛の共通の目的で定義づけられると書いた〉
 これでは、なぜ聖アウグスティヌスを引用したのかわかりません。これに対して朝日はこう訳します。
 〈何世紀も前、私の教会の聖者、聖アウグスティヌスはこう訳しました。民衆とは、愛する共通の対象によって定義される集団であると〉
 この方がいいですか、さらに丁寧なのが読売です。
 〈何世紀も昔、私が属する教会の聖人である聖アウグスティヌスは、人々は愛を注ぐ共通の対象によって特徴付けられると説いた〉
 「私の教会」より「私が属する教会」の方が、わかりやすいですね。
  •       *        * 
 アメリカはキリスト教が盛んな国だと実感するのは、大統領がほぼ必ず聖書の一節を引用するからです。
朝日訳です。
 〈聖書にあるように、嘆き悲しむことが一晩続くかもしれませんが、次の朝になれば喜びが来ます〉
 ところが、読売訳はこうなっています。〈夕べは涙のうちに過ごしても、朝には喜びの歌がある〉
 これは聖書協会共同訳『旧約聖書』詩編30章からの引用です。朝日も別稿で紹介していますが、やはり演説の日本語訳に聖書の言葉をそのまま盛り込みたいところ。演説のニュアンスが素直に伝わります。
それにしても、日本の総理の演説との格調の差は、どうにかならないものでしょうか。◆東京本社発行の最終版を基にしています。」朝日新聞2021年1月29日朝刊13面オピニオン欄。

 なるほど、英語を日本語に訳すとき、そこに訳者の、この場合は新聞社のスタンスが強く反映しているな。ちなみに、池上氏があげている箇所の原文は以下の通り。
Today, we celebrate the triumph not of a candidate, but of a cause, the cause of democracy. The people, the will of the people, has been heard and the will of the people has been heeded.
We’ve learned again that democracy is precious. Democracy is fragile. At this hour, my friends, democracy has prevailed.
And I promise you this, as the Bible says: “Weeping may endure for a night, but joy cometh in the morning.” We will get through this together. Together.
Many centuries ago, St. Augustine, a saint in my church, wrote that a people was a multitude defined by the common objects of their love. Defined by the common objects of their love. What are the common objects we as Americans love, that define us as Americans? I think we know. Opportunity, security, liberty, dignity, respect, honor and, yes, the truth.
I give you my word, I will always level with you. I will defend the Constitution. I’ll defend our democracy.
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