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坂口安吾『堕落論』を読む 2 焼け跡闇市  オリパラ

2021-01-13 21:29:03 | 日記
A.焼跡闇市の本音
 毎日千人を超えるコロナ感染者が出て、緊急事態宣言下の東京だが、空から爆弾が降ってくるわけではない。とはいえ、じわじわつのる感染の不安と行動を制約される不便が、どこまで続くのか人々のストレスは高まる。でも、意外に多くの人はウイズコロナの日常に慣れて、まあなんとかなるだろうと鷹揚に構えているのかもしれない。いや、空襲に逃げ惑っていた戦争末期でも、人々は日常をそれなりに平凡に生きていると思っていた人は多いのかもしれない。でも、それは現実を目を凝らしてみるのをやめ、美化したヒーロー物語に身をゆだねて目を瞑っていた。そのツケが、敗戦とその後の苦難という形で誰の身にも降りかかった戦後のはじまり。
 『堕落論』が書かれ発表されたのは1946年4月、敗戦から8か月後である。東京は焼跡闇市で、浮浪児、闇屋、パンパンが進駐軍兵士にまとわりついて稼いでいた。1年前は、お国のために命を捨てる覚悟の特攻兵だった青年や、銃後を守る国防賢婦人や純潔を守る乙女だった女たちは、飢餓貧困を生き延びるために、闇屋になり娼婦になった。それを高貴だった人間のみじめな堕落というのなら、人を戦争に駆り立てた崇高な理念のほうがインチキだったのだ、と安吾は本音で語った。これは、戦争末期の息をつめて窒息しそうな時代を生きた人々には、一種の自己肯定、堕ちた自分を嘆き呪うのではなく、大日本帝国がしがみついていた虚構から解き放たれる言説だっただろうと思う。

 「敗戦して、結局気の毒なのは戦没した英霊たちだ、という考え方も私は素直に肯定することができない。けれども、六十すぎた将軍達が尚生に恋々として法廷に引かれることを思うと、何が人生の魅力であるか、私には皆目分らず、然し恐らく私自身も、もしも私が六十の将軍であったなら矢張り生に恋々として法廷に引かれるであろうと想像せざるを得ないので、私は生という奇怪な力にただ茫然たるばかりである。私は二十の美女を好むが老将軍も亦二十の美女を好んでいるのか。そして戦没の英霊が気の毒なのも二十の美女を好む意味に於いてであるか。そのように姿の明確なものなら、私は安心することもできるし、そこから一途に二十の美女を追っかける信念すらも持ちうるのだが、生きることは、もっとわけの分からぬものだ。
 私は血を見ることが非常に嫌いで、いつか私の眼前で自動車が衝突したとき、私はクルリと振向いて逃げだしていた。けれども私は偉大な破壊が好きであった。私は爆弾や焼夷弾に戦きながら、狂暴な破壊に劇しく亢奮していたが、それにも拘らず、このときほど人間を愛しなつかしんでいた時はないような思いがする。
 私は疎開をすすめ又すすんで田舎の住宅を提供しようと申出てくれた数人の親切をしりぞけて東京にふみとどまっていた。大井広介の焼跡の防空壕を最後の拠点にするつもりで、そして九州へ疎開する大井広介と別れた時は東京からあらゆる友達を失った時でもあったが、やがて敵が上陸し四辺に重砲弾の炸裂するさなかにその防空壕に息をひそめている私自身を想像して、私はその運命を甘受し待ち構える気持になっていたのである。私は死ぬかも知れぬと思っていたが、より多く生きることを確信していたに相違ない。然し廃墟に生き残り、何か抱負を持っていたかと云えば、私はただ生き残ること以外の何の目算もなかったのだ。予想し得ぬ新世界への不思議な再生。その好奇心は私の一生の最も新鮮なものであり、その奇怪な鮮度に対する代償としても東京にとどまることを賭ける必要があるという奇妙な呪文に憑かれていたというだけであった。そのくせ私は臆病で、昭和二十年の四月四日という日、私は始めて四周に二時間にわたる爆撃を経験したのだが、頭上の照明弾で昼のように明るくなった。そのとき丁度上京していた次兄が防空壕の中から焼夷弾かと訊いた、いや照明弾が落ちてくるのだと答えようとした私は一応腹に力を入れた上でないと声が全然でないという状態を知った。又、当時日本映画社の嘱託だった私は銀座が爆撃された直後、編隊の来襲を銀座の日映の屋上で迎えたが、五階の建物の上に塔があり、この上に三台のカメラが据えてある。空襲警報になると路上、窓、屋上、銀座からあらゆる人の姿が消え、屋上の高射砲陣地すらも掩壕に隠れて人影はなく、ただ天地に露出する人の姿は日映屋上の十名ほどの一団のみであった。まず石川島に焼夷弾の雨がふり、次の編隊が真上へくる。私は足の力が抜け去ることを意識した。煙草をくわえてカメラを編隊に向けている憎々しいほど落ち着いたカメラマンの姿に驚嘆したのであった。
 けれども私は偉大な破壊を愛していた。運命に従順な人間の姿は奇妙に美しいものである。麹町のあらゆる大邸宅が嘘のように消え失せて余燼をたてており、上品な父と娘がたった一つの赤皮のトランクをはさんで濠端の緑草の上に座っている。片側に余燼をあげる茫々たる廃墟がなければ、平和なピクニックと全く変わるところがない。ここも消え失せて茫々ただ余燼をたてている道玄坂では、坂の中途にどうやら爆撃のものではなく自動車にひき殺されたと思われる死体が倒れており、一枚のトタンがかぶせてある。かたわらに銃剣の兵隊が立っていた。行く者、帰る者、罹災者たちの蜿蜒たる流れがまことにただ無心の流れの如くに死体をすりぬけて行き交い、路上の鮮血にも気づく者すら居らず、たまさか気づく者があっても、捨てられた紙屑を見るほどの関心しか示さない。米人達は終戦直後の日本人は虚脱し放心していると言ったが、爆撃直後の罹災者達の行進は虚脱や放心と種類の違った驚くべき充満と重量をもつ無心であり、素直な運命の子供であった。笑っているのは常に十五、六、十六、七の娘達であった。彼女等の笑顔は爽やかだった。焼跡をほじくりかえして焼けたバケツへ掘りだした瀬戸物を入れていたり、わずかばかりの荷物の張番をして路上に日向ぼっこをしていたり、この年頃の娘達は未来の夢でいっぱいで現実などは苦にならないのであろうか、それとも高い虚栄心のためであろうか。私は焼野原に娘達の笑顔を探すのがたのしみであった。
 あの偉大な破壊の下では、運命はあったが、堕落はなかった。無心であったが、充満していた。猛火をくぐって逃げのびてきた人達は燃えかけている家のそばに群がって寒さの暖をとっており、同じ火に必死に消化につとめている人々から一尺離れているだけで全然別の世界にいるのであった。偉大な破壊、その驚くべき愛情。偉大な運命、その驚くべき愛情。それに比べれば、敗戦の表情はただの堕落にすぎない。
 だが、堕落ということの驚くべき平凡さや平凡な当然さに比べると、あのすさまじい偉大な破壊の愛情や運命に従順な人間たちの美しさも、泡沫のような虚しい幻影にすぎないという気持ちがする。
 徳川幕府の思想は四十七士を殺すことによって永遠の義士たらしめようとしたのだが、四十七名の堕落のみは防ぎ得たにしたところで、人間自体が常に義士から凡俗へ又地獄へ転落しつづけている防ぎうるよしもない。節婦は二夫に見えず、忠臣は二君に仕えず、と規約を制定してみても人間の転落は防ぎ得ず、よしんば処女を刺し殺してその純潔を保たしめることに成功しても、堕落の平凡な蛩音、ただ打ちよせる波のようなその当然な蛩音に気づくとき、人為の卑小さ、人為によって保ち得た処女の純潔の卑小さなどは泡沫の如き虚しい幻像にすぎないことを見出さずにいられない。
 特攻隊の勇士はただ幻影であるにすぎず、人間の歴史は闇屋となるところから始るのではないのか。そして或いは天皇もただ幻影であるにすぎず、ただの人間になるところから真実の天皇の歴史が始まるのかも知れない。
 歴史という生き物の巨大さと同様に人間自体も驚くほど巨大だ。生きるということは実に唯一の不思議である。六十七十の将軍たちが切腹もせず轡を並べて法廷にひかれるなどとは終戦によって発見された壮観な人間図であり、日本は敗け、そして武士道は亡びたが、堕落という真実の母胎によって始めて人間が誕生したのだ。生きよ堕ちよ、その正当な手順の外に、真に人間を救い得る便利な近道が有りうるだろうか。私はハラキリを好まない。昔、松永弾正という老獪陰鬱な陰謀家は信長に追いつめられて仕方なく城を枕に討死したが、死ぬ直前に毎日の習慣通り延命の灸をすえ、それから鉄砲を顔に押し当て顔を打ち砕いて死んだ。そのときは七十をすぎていたが、人前で平気で女と戯れる悪どい男であった。この男の死に方には同感するが、私はハラキリは好きではない。
 私は戦きながら、然し、惚れ惚れとその美しさに見とれていたのだ。私は考える必要がなかった。そこには美しいものがあるばかりで、人間がなかったからだ。実際、泥棒すらもいなかった。近頃の東京は暗いというが、戦争中は真の闇で、そのくせどんな深夜でもオイハギなどの心配はなく、暗闇の深夜を歩き、戸締なしで眠っていたのだ。戦争中の日本は嘘のような理想郷で、ただ虚しい美しさが咲きあふれていた。それは人間の真実の美しさではない。そしてもし我々が考えることを忘れるなら、これほど気楽なそして壮観な見世物はないだろう。たとえ爆弾の絶えざる恐怖があるにしても、考えることがない限り、人は常に気楽であり、ただ惚れ惚れと見とれていれば良かったのだ。私は一人の馬鹿であった。最も無邪気に戦争と遊び戯れていた。
 終戦後、我々はあらゆる自由を許されたが、人はあらゆる自由を許されたとき、自らの不可解な限定とその不自由さに気づくであろう。人間は永遠に自由では在り得ない。なぜなら人間は生きており、又、死なねばならず、そして人間は考えるからだ。政治上の改革は一日にして行われるが、人間の変化はそうは行かない。遠くギリシャに発見され確立の一歩を歩みだした人性が、今日、どれ程の変化を示しているであろうか。
 人間。戦争がどんなにすさまじい破壊と運命をもって向うにしても人間自体をどう為しうるものでもない。戦争は終った。特攻隊の勇士はすでに闇屋となり、未亡人はすでに新たな面影によって胸をふくらませているではないか。人間は変わりはしない。ただ人間へ戻ってきたのだ。人間は堕落する、義士も聖女も堕落する。それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない。人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。
 戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄の如くでは有り得ない。人間は可憐であり脆弱であり、それ故愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる。人間は結局処女を刺殺せずにはいられず、武士道をあみださずにはいられず、天皇を担ぎださずにはいられなくなるであろう。だが他人の処女でなしに自分自身の処女を刺殺し、自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだすためには、人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。そして人の如くに日本も亦堕ちることが必要であろう。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。政治による救いなどは上皮だけの愚にもつかない物である。」坂口安吾『堕落論・日本文化史観』岩波文庫、2008.pp.223-230. 

 戦争で国家の美名のもとに命を散らした若者たちを悼むのは、哀しくも美しい記憶かも知れないが、生き残って焼跡のバラックで生きるには、そんな美談に浸っていてはなにもできない。喰うため、金のため、どんな恥かしく情ないことでもして生きていかなければならない。そういう現実に直面したとき、靖国的な観念は幻覚でしかなく、それにしがみつくことは愚かだ。安吾は、「人間は堕落する、義士も聖女も堕落する。それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない」という。堕落したと批判する者こそ、空虚な観念を実体があるかに思いこむ過ちに陥っている。問題はそれが、戦争に負けるまでわからなかったことと、敗けたからみんなそれがわかったことだろう。


B.オリパラ強行したい人たち
 オリンピックはいうまでもなく、世界各地から一流のアスリートが一カ所に集まって、身体能力を競う。それを見ようと世界各地から観客が集まって一定期間滞在して感染する。それが開催できる基本条件は、これもいうまでもなく、安全で平和な環境である。人の移動はまず交通機関が安定的に運行され、もし健康上の問題が起きたら直ちに適切な医療を受けられることも必要だ。今世界はそのような安全で安定した環境ではなく、人の移動自体が感染症の拡大要因になっている。コロナ禍が終息に向かっているならまだしも、むしろ手の打ちようも無いほど拡大しているという事実にぼくたちは直面している。こんな時に、オリンピック・パラリンピックをどうしてもやるんだ、といっている人たちは、頭大丈夫?と考えるのが常識というものだろう。

「撃ちてし止まん:斎藤美奈子
 東京オリンピック・パラリンピックをめぐる関係者の談話は、先の戦争末期を連想させる。
 「東京大会を開催することにゆるぎない決意をもっている」(山下泰裕JOC会長)。「人類がコロナに打ち勝って東京大会を実現することは組織委員会の使命」(森喜朗組織委会長)。「自民党として開催促進の決議をしてもいいくらいだ」(二階俊博自民党幹事長)。「ウイルスとの戦いに打ち勝つ証しを刻んでいきたい」(小池百合子都知事)。「人類がウイルスに打ち勝った証しとして東京で開催する決意だ」(菅義偉首相)
 撃ちてし止まん。ウイルスに打ち勝つ。精神論が先行するのは負けが込んできた証拠である。
 冷静なのはむしろ市民だ。九日・十日のJNNの世論調査では、東京五輪を開催できると思うかという問いに81%が「できるとは思わない」と答えた。同日の共同通信の調査でも「中止すべきだ」と「再延期すべきだ』の合計が80.1%だ。
 昨年来の停滞ムードを払拭すべく、組織委は開催促進の宣伝を四日からはじめたが、気の毒なことに、このキャンペーンの桃田賢斗選手に陽性反応が出て、日本代表は遠征を断念した。
 特攻精神で五輪に突入する気だろうか。ワクチンというカミカゼ頼みの五輪大本営。原爆が落ちる前に中止を決断すべきだよ。」東京新聞2021年1月13日朝刊23面、本音のコラム。
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