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「戦争の経験」をふりかえる 1 卒業式の君が代

2021-01-25 16:29:04 | 日記
 A.どこから振り返るのがよいか 
 日本が20世紀の前半に大きな戦争をやって敗北したことは、日本人なら当たり前に、あるいは世界の人々も、初歩的な世界史を学んでいれば、誰でも知っているはずの事実だと思う。でも、当の日本の歴史教育は、上の学校に行くほど「日本史」と「世界史」に分かれていき、かつては受験準備もあり、日本史は明治くらいまで教え、近現代史はさらっと通りすぎることも多かったという。戦争を経験した人がまだ多く生きていて、それがどんな戦争だったかは簡単な説明が難しい、という事情もあったのだろう。敗戦の記憶には触れにくかったかもしれない。その結果、大学生でも戦争が負けて終わったことは知っていても、どこを相手に戦争したのかほとんど知らない、という恐ろしい無知すら起きてしまった。 
 昭和の戦争は日本史のなかでは、明治維新に始まる近代国家形成の輝かしい歩み、というお話の途中で起きた不幸な失敗あるいは一時的な挫折、のように学校で教えられる(ことが多い)。これに対し世界史では、第2次世界大戦というおおきな世界戦争のアジア篇として、少し違った角度で日本の敗北を捉える。端的に言えば、日本史の中で「太平洋戦争」と呼べば、「アメリカと戦って負けた戦争」のイメージが強く、戦後に生まれたぼくたちも学校で日本史を学ぶと、真珠湾攻撃に始まり、原爆と8月15日の玉音放送で終戦になった戦争、という印象が固着していた。そこには同時に、アメリカのような豊かな大国相手に愚かな軍人が大戦争をやって負けた愚かさ、という説明が納得されていた。 
 しかし、世界史の視点で、つまり日本の戦争を外国の視線を含めて捉えると、日本がなぜアメリカ(だけではなくイギリス、そして中国)に戦争を仕掛けることになったか、もう少し多角的に、冷静に見ることができる。そして、それは昭和の日本帝国が軍事力によって中国大陸や南方アジアに勢力拡張、侵略を行なったことを無視しては、戦争が説明できない。つまり、日本の軍人や政治家が愚かだったから、アメリカの強大な軍事力を甘く見たから負けたのだ、というような理解は、かなり浅薄なものだと思えてくる。いまの中高での歴史教育は、このへんをどう教えているのだろうか? 
 
 「1945年8月15日の敗戦から、すでに60年を超える歳月がたつ。「アジア・太平洋戦争」と呼ばれる戦争の「終結」であるが、この戦争は、渦中から報道されただけでなく、敗戦後もずっと論じられ続けてきた。アジア・太平洋戦争とは、二〇世紀の「日本」にとって、それほどまでに巨大な出来事であり、人びとにとっての壮大な経験であった。そしていま、あらためてこのことが焦点化されながら、異なった視角が出されてきている。 
 「戦時」から勘定すると80年に及ぼうという戦争は、巨大な経験であり、現在に至っても決して完了することなく、直接の経験を持たないものにまで語り継がれ、「戦後」の歴史を規定し続けてきた。本書ではその戦争への認識の推移と、戦争の叙述の時期ごとの特徴を探り、二一世紀初頭―敗戦六〇年を経てのアジア・太平洋戦争の語りの位相とその課題を明らかにしてみたい。 
 戦争の語りは、書き留められ公刊されたものだけでも膨大な数に及び、語られないままに消え去っていったもの、いまだに沈黙の中にあるもの、身近な人々にのみ語られたものなどを考えると、無数に存在する。戦争の経験は、あらゆる意味においてその人の人生を規定するがゆえに、戦争を語ることは自らのアイデンティティを確認する作業となり、戦争とどう向かい合い、戦争をどう受け止めるかによって「主体」が形づくられる。 
 このことは、直接に戦争を生き経験した世代のみならず、戦後に成長した世代にとっても同様である。戦争が、「主体」の形成にとって抜き差しならない世代と時期が存在し、そこでは戦争を軸として、容易に譲れない主張がなされてきた。 
 とともに戦争をめぐる語りは、同世代の人々や、後の世代の人々、あるいは他国の人々といった「他者」との関係が入り込む領域でもある。戦争を語ることは、社会のレーゾンデートルをなす行為であると考えられ、さらには、国家の根幹にかかわるとする議論も少なくない。 
 戦争の経験の歴史的な意味づけをめぐる対抗や対立が見られるのはこうした理由によっており、広義の意味での「政治」が現れる場所ともなっている。しかも、戦争をめぐる議論ではその時々の状況によって論点が呼び起こされたりあらたに創出されたりもする。 
 さて、ここまで「戦争」と規定をしないままに述べてきたが、その内容は、一人ひとりによって異なっている。そもそもが、戦争の呼称がさまざまで統一されていない。 
 1930年前後の中国大陸への日本の侵略の開始、とくに1931年9月18日の柳条湖での南満州鉄道の「爆破」による「満州事変」、そして1937年7月7日の盧溝橋事件をきっかけとする日本と中国との全面的な戦争(日中戦争)から、さらに1941年12月8日のマレー半島と真珠湾への攻撃に発するアメリカ、イギリスなどへの宣戦布告(狭義のアジア・太平洋戦争)という推移を見せることが、これまでの「アジア・太平洋戦争」の認識として共有されている。 
 評論家の鶴見俊輔がこの認識に沿って「十五年戦争」という概念と用語を提起して以来、歴史学研究もこの認識を共有しながら論議を遂行してきた。歴史家の家永三郎はその著作のタイトルを『太平洋戦争』とするに当たって、「この戦争を何と呼ぶか」は「戦争の歴史的意義の理解のし方」と結びつき、その変遷自体に「思想史的な意味」があることを指摘したうえで、「太平洋戦争」という名称が「完全に科学的客観性」を持つとはいえないが、「便宜上、比較級的に不適切の少い」この名称を用いたと述べている(岩波書店、1968年)。 
1931年9月18日以降の戦争は、歴史学が「十五年戦争」と把握し一連の戦争として描くように、決してばらばらな戦争――出来事ではない。だが、同時に、「満州事変」からまっしぐらに一直線に、1937年7月の盧溝橋事件にいたり、1941年12月の真珠湾とマレー半島の戦闘に突入したのでもない。ましてや、アメリカ・イギリス軍によってのみ、1945年8月15日の「終戦」がもたらされたのではない。時間的な屈曲と空間的な拡大のもとで、アジア・太平洋戦争の歴史的な過程がある。 
 歴史家の黒羽清隆は、『朝日新聞』のコラム「天声人語」の用語法が、「大東亜戦争」や「今次の大戦」から、1946年に「太平洋戦争」に変化することを確認している(『太平洋戦争の歴史』上、講談社、1985年)。 
 時間に関し、中国文学者の竹内好は、中国への侵略という意識を払しょくしきれない当時の知識人たちが、1941年12月8日の対英米戦の開始による「胸が轟く」(青野季吉)と述べたことを紹介し、多くの知識人が「戦争肯定」に向かったことを指摘する。 
 1941年12月8日という「特殊な時点」の意味を指摘し、この時点での「特殊な戦争肯定」がやがて「戦争一般の肯定へ発展」したと述べ、竹内はこの日に「抵抗から協力への心理の屈折の秘密」を求める。すなわち、竹内は12月8日を契機とする「戦争の性質」の変化を指摘し、そのことを強調するのである(「近代の超克」『近代日本思想史講座』第七巻、筑摩書房、1959年)。 
 空間にかかわっては、軍事史家の田中宏巳(『BC級戦犯』筑摩書房、2002年)の議論がある。田中は「太平洋戦争」(広義のアジア・太平洋戦争)を「満州戦域」「中国戦域」「南方資源地帯戦域」「太平洋戦域」の「四つの戦域」から成り、それぞれ戦う相手が異なり、戦闘期間、戦闘形式も違う戦争として把握している。「各戦域の戦争」を「日中戦争」「南方資源地帯獲得戦争」「対英米(豪)戦争」「日ソ戦争」とし、「満州」を含め、四つの戦争が「同時併行」していることを強調し、空間に力点を置いて把握する。 
 こうした認識は、1941年12月以降は(田中の用語を用いれば)、「西太平洋戦域」に目を向けがちな戦争認識のもとで、他の「戦域」では異なった形態の戦争が継続していたことへの自覚を促す。また、田中の議論に時間的な契機を入れ込めば、1941年12月8日に始まる対英米戦のもつ歴史的な意味にも踏み込むこととなる。 
 
 以上を受けて、本書では書き留められた戦争と帝国―植民地の記述を手がかりとして、「アジア・太平洋戦争」の語られ方を探り、そこから戦争、および植民地への歴史認識についての考察を試みたい。すなわち、誰が、どの機関に、どのような形態で戦争と植民地を語ったか、また、そのときの「戦争」とはどのような事態を内容とし、誰に向かってどのように語ったか――その推移を書き残されたものを手がかりにして考察してみたい。 
 おおづかみに、戦争の家中で戦争が「状況」として語られた時期(1931年ころから1945年)、「体験」として戦争を語る時期(1945年から1965年ころまで。1949年に活気があり、また、1952年の占領の解除も見過ごせない)、「証言」として戦争が語られる時期(1965年から1990年ころまで)、「記憶」が言われる時期(1990年以降)と時期を設定し、戦闘のみならず植民地認識にも目を配りながら論じてみよう。 
 変化の推移を追跡することは、語り手の状況、聞き手の環境を考察することに通じ、試みそれ自体が一つの戦後史を形成することになろう。「戦争経験」の戦後史の試みである。ここには戦争の経験者が経験の共有を前提に語る(語りうる)という状況から、経験者が少数派になるという状況の変遷がある。また、総力戦としての「アジア・太平洋戦争」が、朝鮮戦争からベトナム戦争、あるいは湾岸戦争やイラク戦争といった「戦後」の戦争のなかで呼び起こされることであり、さらには戦争自体の変化が進行していることに対しての自覚の過程でもある。」成田龍一『増補「戦争経験」の戦後史』岩波現代文庫、2020.pp.8-12.  
 
 1996年に「新しい歴史教科書をつくる会」ができて、それまでの歴史教科書は、「自虐史観」に支配されているので、変えるための運動を始めると主張した。中心となった西尾幹二、藤岡信勝といった人たちの考えでは、戦後の歴史学はマルクス主義や左翼の立場に立って太平洋戦争を悪と決めつけ、日本の子どもたちに日本人がやったことを否定的にしか見ない、誇りの持てない歴史を教えている。「つくる会」は、従来の「大東亜戦争肯定史観」ではないけれども、自虐的な「東京裁判史観」や「コミンテルン史観」には立たない日本人の歴史を教えるような教科書を作るといって、実際に教科書を書いた。それから四半世紀が経ち、日本の学校の歴史教育でなにが変ったか、ぼくはちゃんと調べていないが、歴史修正主義の運動は、少なくとも「日本史」において、「ニッポンすごい!」という程度にはナショナリズムの風をそよがせているのかもしれないと、いまの大学生に接すると感じることがある。 
 日本がアメリカと戦ったことすら知らない若者に、正確な戦争の歴史が理解されているとは思えないが、日本が中国や朝鮮などアジアで戦争の名で行なったことを知り、さらに1930年代からの世界史の理解があれば、日本が中国に負けると思いたくない感情的な心情の源流を冷静に見ることができるし、日本史はそこまで教える必要があると思う。 
 
 
B.卒業式の季節 日の丸・君が代の強制 
 新型コロナウイルスの感染拡大を受け東京都教育委員会は、今春の卒業式で参加者に君が代を歌うよう求めない。「日の丸・君が代」について定めた「10・23通達」を2003年10月に出して以降、教職員に「歌え」という職務命令が出ない卒業式は初めて。ただ、歌唱入りのCD  を流し、起立は求めるといい、通達にこだわる都教委のかたくなな姿勢が浮かび上がった。 
 「都教委の発想は、国際的な基準から逸脱している。国際労働機関(ILO)と国連教育科学文化機関(ユネスコ)は19年、「起立斉唱の強制は、個人の価値観や意見を侵害する」などと都教委を批判。起立斉唱したくない教員も対応できる式典のルール作りのほか、懲戒処分を回避するため教員側と対話するよう求める勧告を出している。 
 これに対し、都教委に加え文部科学省も一切、取り合わず、耳を傾けるそぶりがない。「日の丸・君が代」問題に詳しい東京大の高橋哲也教授(哲学)は「都教委は自己矛盾に陥っている」と指摘する。 
 都教委が起立斉唱を求める根拠として持ち出す「高等学校学習指導要領解説・特別活動編」には、その目的として「(生徒が将来)国際社会において尊敬され、信頼される日本人」に成長するためとうたわれている。高橋氏は「労働と教育、両国際機関の勧告を無視し、生徒の目の前で強制を繰り広げることは、「国際社会から尊敬される人への成長につながらない。自ら構築した論理と矛盾している」と指摘し、こう続ける。 
 「世界のあちこちで台頭している『命令にはとにかく従え』という権威主義が、戦後日本にも根強く残る。不起立で抵抗してきた教職員を懲らしめようと、コロナで歌えなくても起立を強制する都教委の手法に「権威主義の地金」がくっきり見える。昨年来、批判が続く日本学術会議の任命拒否問題とも通底している」 
 「何があっても、強制をやめようとしない。都教委の粘着気質は病的と感じる。起立強制問題は、今の教育現場を息苦しくしている元凶といっても過言ではない」。08年以降、不起立で懲戒処分を受けた教職員にインタビューするなど、「日の丸・君が代」問題を取材してきたルポライターの長尾俊彦氏(63)は、今回の都教委の方針を批判する。 
 長尾氏は教職員らが起こした複数の訴訟の記録を読み込み、たくさんの原告に会って話を聞いた。「教師というのは生徒の心を聞く仕事だ」との元校長の言葉が印象深く記憶に残る。命令と服従は、子どもがそれぞれ備えている唯一無二の個性を伸ばす教育になじまない。それなのに、「日の丸・君が代」の強制は上意下達の思想を植え付ける。 
 「教職員に命令し、服従を強い、『上には何を言っても変わらない』という雰囲気をつくる。教職員も『子どもも命令に従って当然』という意識を形成する。権力側に都合のいい人間を育てる戦前の教育と似ている」 
 懲戒処分を受けると、人事や昇給で不利になる。過酷な研修も科される。定年後の再任用も他の人より早く打ち切られる。「それでも何度も職務命令に従わない教職員がいるのは、子どもを上意下達型の人間にしたくないからだ」と長尾氏は語る。 
 不起立に対し「歌わないのはけしからん」といった批判があるのも事実。長尾氏は、ある弁護士が語った「やりたくないことをやらなかったのではなく、子どものためやってはならないことをやれと言われて悩み苦しみ、できなかった人たち」との言葉に共感するという。 
 長尾氏はこれまでの取材の成果を新著「ルポ『日の丸・君が代』強制」にまとめた。取材に応じてくれた教職員は、子どもと誠実に向き合ってきた人ばかりだった。「自分もそういう先生に教えてもらいたかった。もし今度の卒業式で不起立の教職員を見かけたら、「身をていして教育を守ろうとする先生だ」という目で見てほしい」 
デスクメモ:理屈が通らないと分かっているから、法律や通達で言うことを聞かせようとする。政府がコロナ関連の法改正案に罰則を盛り込もうとしているのもその典型だろう。説明しないのも最近の悪しき風潮の一つ。高橋教授の「学術会議の任命拒否問題とも通底する」との指摘はその通りだ。(千)」東京新聞2021年1月25日朝刊21面特報欄。 
 
 この記事は、「日の丸・君が代」の強制を、教職員と子どもたちへの、都教委の規律訓練的な服従施策として批判している。それはわかるけれど、なぜこんなに「日の丸・君が代」に強権的な執行・処罰を教委がやめようとしないのか、を説明しないと、読者はただ管理主義的な権力の濫用・示威はよくないなあ、だけで終わってしまうのではないだろうか。東京都の姿勢は、「日の丸・君が代」のみならず関東大震災時の朝鮮人殺害被害者追悼式などにおいても、政治的中立を理由に極右勢力が問題にする「反日的」集会や催事への禁圧を強めている。都は、あちこちで炎上する一部の右翼的言論に配慮して、そうしているというよりも、基本的にいまの政権与党の政治家たちの多くが、いわゆるリベラル左派、つまりかつての左翼的言論をまったく生理的に拒否するイデオロギーに深く囚われていることに原因があるようにぼくは思う。これは、冷戦期の思考枠組み、もっといえば戦前からの「アカ=共産主義」への恐怖に淵源する心情的嫌悪感であって、もはや21世紀の世界においてほとんど無意味な世界観(だって、共産主義も革命運動も社会主義国家も消滅している、「共産党」は日本にまだあるけどね…)なのに、長かった安倍政権のおかげで、「バカなサヨクのいうことなんか聞く耳もたなくていい、シカトしておけばいい」という習慣が抜けないのだろう。確かに20世紀のサヨクはバカなまま死滅しかかったけど、もう死んだ幽霊を相手に政権与党がゾンビのような頭のまま生きているのは、この国の終わりじゃないか。
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