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写真付きで日々の思考の記録をつれづれなるままに書き綴るブログを開始いたします。読む人がいてもいなくても、それなりに書くぞ

回顧される昭和の歌謡曲 7 また逢う日まで  あのひと

2021-01-01 02:18:30 | 日記
A.イントロの衝迫力
 大晦日。コロナ禍のなかの紅白歌合戦は無観客で行われたが、NHKはここぞとばかりに賑々しく、自己賛美の大宣伝をやっていた。それを、ぼくはただテレビがついていたので観るともなく見ていたのだが、途中で、亡くなった筒美京平の作品を紹介しつつ、約1秒尾崎紀世彦の写真が出た。まあ、なんといっても一曲を選ぶとすれば「また逢う日まで」になるのだろう。なにしろ歌手が第一声を上げる前に、もうこの曲はできあがってしまうのだからな。
  〽ちゃっちゃ・ちゃら~ららん!ドン!ちゃっちゃ・ちゃら~ららん!ドン!ちゃんちゃんちゃんちゃんちゃあ~…らんらんらん‥‥‥ホイ・また逢う‥日まで~というイントロの衝迫力は、一度聴いたら耳にこびりついて忘れない。こんなイントロ書いた作曲家のひらめきは凄い!と思うけれど、実はこの曲は、三度目の焼き直しなんだという。初めはCMソングで曲だけ、次は違う歌詞で孤独な青年の歌だったが売れず、三度目に全然違う歌詞を阿久悠が書いて、結局この大ヒットでレコード大賞を取ることになったという。たぶん、このイントロはその三度目に作られたのだろう。なにがどうヒットするか、作り手も予想できないが、この「また逢う日まで」は歌詞よりも、このイントロのインパクトと、身体をゆすって低く始まる尾崎紀世彦の声が「離しィ~たくなァい~」で顔をゆがめて絶叫する声の異様さだろう。
  1971年にぼくは大学生だったはずだが、ヘルメットの全共闘学生はキャンパスから追い出され、授業は通常に再開されていたけれど、暗い気持ちで講義には出ず図書館で本ばかり読んでいた。吉本隆明、ルター、小林秀雄、江藤淳、そしてマックス・ヴェーバー…。だが、まだ不穏な「過激派」は爆弾事件などを起こしていたし、佐藤栄作内閣が沖縄返還協定を調印するなか、日比谷公園の松本楼が沖縄返還反対派に焼き討ちされたりしていた。

「また逢う日まで:昭和46年(1971)  作詞:阿久悠 作曲:筒美京平 歌:尾崎紀世彦
  〽また逢う日まで 逢える時まで
  別れのそのわけは 話したくない‥‥‥
 作詞家として最初の勲章となったのがこの作品である。
 レコード大賞を受賞した。もっとも、ぼくは作詞賞の方が欲しかったので、いささか憮然としていたが、あとで当日のVTRを見ると、Vサインをしていたから、やはりうれしかったのであろう。
 レコード大賞が有力という声が聞こえるようになった時、何かの席で尾崎紀世彦がポツンと言ったことを覚えている。「俺より、五木の方が残るよ」と、同じ年のデビューの五木ひろしを指さした。
 残るという意味がはっきりしないのだが、流行歌主として人気を保つということなら当たっている。尾崎紀世彦は、その年こそ「また逢う日まで」のヒットで流行歌手の活動をしていたが、実際には、趣味的に好きな歌を、好きな時に歌いたいタイプであったようである。だとすると、昭和四十六年、来る日も来る日も「また逢う日まで」を歌うのは苦痛であったかもしれないと今思う。
 この歌は、数奇な運命の歌である。最初はルームエアコンのCMソングとして筒美京平が書き、二度目は、その曲にぼくが「ひとりの悲しみ」という詩を付けて、ズー・ニー・ヴーが歌った。安保で挫折した青年の孤独の歌である。しかし、売れなかった。
 普通なら、どんなにいい曲でも、二回も失敗すると諦めるものだが、筒美京平の自信か、プロデューサーの粘りか、三度目のお色直しの話が持ち上がり、そこで起用された尾崎紀世彦のために、「また逢う日まで」というまったく別の詩を書いたのである。
 大体このての思い込みは空回りするもので、あまりいい結果にはつながらないのだが、この歌はレコード大賞にまでなってしまったのである。それにしても、いい作品を記憶していて、何度でもトライするようなロマンチシズムが、その頃の音楽界には普通のこととして存在していたのである。
  〽ふたりでドアをしめて ふたりで名前消して
  その時心は何かを話すだろう‥‥‥
 さて、ぼくの父は、古武士のような田舎の警察官であった。口にこそ出さなかったが、ぼくの将来は、警察官僚になれば最高と思っていたはずである。しかし、ぼくは、国立ではなく私立の大学へ行き、法学部ではなく文学部へ入り、卒業後も、広告の世界へ入り、テレビをやり、作詞をやりで、腹の中ではどう思っていただろうか。不安も不満もあっただろうが、「また逢う日まで」のレコード大賞受賞は喜んでくれたようである。
 それからあとは、ひそかに「スター誕生」に出演するぼくも見ていたようである。
 ぼくの仕事について、あれこれ言うことは全くなかったが、ある時、何かの折に、「お前の歌は品がいいね」とポツンと言ってくれた。「また逢う日まで」のことを言ってくれた。「また逢う日まで」のことを言ったように思う。
 その父も、それから間もなく他界した。

 ピンポンパン体操 :昭和46年(1971) 作詞:阿久悠 作曲:小林亜星 歌:杉並児童合唱団
 小林亜星さんと最初に会ったのがこの年、昭和四十六年である。CMソングを一緒に作った。商品名を書くわけにはいかないが、画期的なヌードルの誕生ということで、ぼくは、〽常識というやつとオサラバした時に、自由という名の切符が手に入る‥‥‥という詩を書いた。
 それが気に入ってもらえたようで、その後いくつかのCMソングの注文があり、ぼくはぼくでそれなりに意欲的にこたえた。CMソングに関しては、あちらが圧倒的に業界の巨匠で、ぼくは全面的に仕事を受けるだけだった。そして、何曲か作った結果。この人は音楽の宝庫だと思った。
 だから、この人の最初の大ヒット曲となる「ピンポンパン体操」は音楽の宝庫の一挙公開みたいなものなのである。詩も六十行以上の長いものであるが、メロディーも一曲として数えるのは申しわけないような構成で、五曲分はゆうに入っている。このような手練はCMソングの巨匠でなければできないだろうと思い。また、この人さえつかまえておけば、この先どんな歌の企画も可能だと考えたりした。
  〽とらのプロレスラーは シマシマパンツ
  はいても はいても すぐとれる
  がんばらなくちゃ……
 この歌は題名通り、テレビの幼児向け番組の体操の歌である。同種のNHKのものが有名であったのだが、その人気をひっくり返せるものという民放の注文を受けて、小林亜星さんならということで作った。
 いい子ぶっているものより幼児ならではのエネルギーにあふれたものにしたかったので、「一つ一万円の玩具よりも、一つ百円の玩具が百個あるような歌を」と言った。
 こういう時には、作詞家というより、広告代理店企画課に六年勤務した職歴が生きていた気がする。その結果、思い通りの面白いものが出来たが、まさか、普通のレコードとして記録的なヒットになるとは思ってもいなかった。
 ヒットというのは、生き物だということを実感する。幼児を母の手から一時解放させて楽しく踊らせようと思っていたのだが、それだけではとどまらなかったのである。
 この幼児教育とは全く無縁の盛り場の、お色気を売り物にしていると思えるキャバレーの前に、「本日、ピンポンパン体操大会」などという看板が出始めたのである。どういう風景になるかは想像出来た。
 しかし、別に嫌だとも、困ったことだとも思わなかった。歌は生き物で、作った人間の予想を超えて、はるか遠くにまで行き、はるかに元気に走るということである。それを知った。
 ぼくには息子が一人いて、その時六歳であった。もうピンポンパンの年ごろではなかったが、彼を観察していたことがいくらか役に立っている。その息子が、
  〽ありがとう ありがとう 体操ありがとう
  みんなで いいましょ アリガトウ ゴザイマース!
というのには抵抗を示した。なんで礼を言うのだと文句を付けたのである。

 傷だらけの人生:昭和45年(1970)  作詞:藤田まさと 作曲:吉田正 歌:鶴田浩二 
  〽何から何まで真暗闇よ すじの通らぬことばかり
  右を向いても左を見ても ばかと阿呆のからみあい
  どこに男の夢がある‥‥‥
 マイクを直接握らずに、ハンカチでくるむようにして持ち、鶴田浩二が、甘い声ながら十分にドスをきかして歌う。伸ばす声にバイブレーションがかかって、胸の中に相当に怒りがたぎっていることがわかる。この歌の前段に台詞がある。「古い奴だとお思いでしょうが、古い奴こそ新しいものを欲しがるもんでございます‥‥‥」という者で、これが評判になり、その年の流行語にもなった。
 この歌の発売は昭和四十五年の十二月であるが、昭和四十六年のヒット曲になる。鶴田浩二主演の仁侠映画も作られ、レコード大賞の候補曲にもなった。
 ところで、この年のぼくは、今の流行の言い方をするならブレークした年で、「また逢う日まで」で大賞を狙っていた。当然まだ若く、古い奴と新しい奴に分けると、間違いなく新しい奴の方だと思っていたから、「また逢う日まで」が「傷だらけの人生」に負けるようなことがあれば、それこそ、「右も左も真暗闇じゃござんせんか」と思っていたのである。
それもあるし、大学闘争に「とめてくれるな、おっかさん」が登場するのも、政治の季節の終わりを、深夜映画のスクリーンでくりひろげられる義理と人情と血しぶきを求めるのも、ひどく退嬰的な感じがして厭だった。だから、「どこに新しいものがございましょう」と言われると、「新しいものだらけじゃありませんか」と答えたいくらいに若かったのである。
 「傷だらけの人生」は、藤田まさと作詞、吉田正作曲で、藤田さんは戦前から、吉田さんは戦後「異国の丘」からの巨匠で、敬意は払いながらも、この御両所のような権威に対して抵抗しない限りは、あの時代の新しい歌はなかったのである。
 昭和四十六年度は、「また逢う日まで」「傷だらけの人生」のほかにも、「よこはま・たそがれ」「知床旅情」「私の城下町」など、色あいの違うヒット曲が競り合い、結果「また逢う日まで」がレコード大賞になり、ぼくも尾崎紀世彦らと並んで、高々とVサインをしたのである。
 それから二十七年が過ぎ、平成十年六月十日、吉田正さんは七十七歳で他界された。
 ぼくも若くなくなり、実に素直に敬意を示せるようになっていたから、その衝撃は大きく、通夜の席でも、すべてにがっかりした思いになった。がっかりがあたっている。がっかりとは、代わりがないという気持ちである。
 戦後歌謡史をふり返ると、吉田正という作曲家がいかに重要な存在であるかがわかる。特に、日本の歌にからみついた過剰な湿度を取り除いた功績は、歌に限らず大きいことだと思った。
 ぼくの三十周年のパーティーで主賓の挨拶をして下さり、「阿久さん、歌をお願いします」と強く言われたことが、重く残っている。」阿久悠「愛すべき名歌たち ―私的歌謡曲史―」岩波新書、1999年、pp.162-169. 

 鶴田浩二が耳に手を当てて歌う姿は、東映ヤクザ映画の仁侠ヒーロー風だったが、この人は海軍で特攻隊の生き残りだという伝説があった。そういう噂にご本人も乗っている形勢があったし、のちにNHKのドラマ「男たちの旅路」(山田太一脚本・1976年~)で鶴田が演じた戦中派上司の若者への厳しい台詞は、情感がこもっていた。しかし、鶴田浩二は確かに戦争末期の海軍にいたけれど、飛行機に乗る特攻隊員ではなく整備の担当だったというのは本当らしい。ま、特攻兵士を基地で見送ったわけだから、特別な思いはあったに違いないが。
 阿久悠やなかにし礼など、戦争中は小学生で高度経済成長期に世間に出てきた「戦後派」からみれば、戦争をやっていた上の世代には、共感よりは反撥をおぼえていたのだろう。時代は、かれらの作る新しいポップスがヒットを続ける黄金期に入っていた。それももう、今から見れば半世紀も前の出来事なんだなあ。


B.あのひとのこと
 ちょっと前にこのブログで、戦争が終わる時の8月15日、玉音放送をどう聞いたか、という記憶を、濱田研吾『俳優と戦争と活字と』(ちくま文庫)という本を拾って振り返ってみた。そのとき、戦争に負けて終わったという事実を、当時の人々がどう感じ、受け取ったかは本当にさまざまで、どこにいて、歳はいくつで、どういう環境にあったかでかなり違うということを、不思議に思った。以下は、戦後数々の名曲や映画音楽・劇音楽を書いた作曲家林光さんの随筆『私の戦後音楽史 楽士の席から』(平凡社、2004)の冒頭で、玉音放送のことが書かれているのだが、当時東京の中学生だった林さんは渋谷の自宅で放送を聞いている。これまた、一般の日本人としてはやや特殊な環境にあったわけで、家族と共に同居していた「音楽の師匠」尾高尚忠氏と一緒に、「あのひと」の声を聴いているのである。

 「1945年・夏   あのひとの放送がはじまっていた。私たち、父、母、私、それに師匠の尾高尚忠の四人は、ラジオに背を向けて立ったまま、それを聞いた。ラジオに背を向けてというのは、そうすれば、私たちは、あのひとの住いのある方向に、視線を向けることになり、あのひとに対する臣民としての儀礼にかなうからだ。
 あのひとの声が、ラジオの電波にのるのは、はじめてのことだった。あのひとが出席する式典などの実況が、中継放送されることがあっても、あのひと自身のことばになると、ブーンという雑音で消されて、その声は私たちの耳にとどかないのが、それまでの習慣だったのだから。
 声だけではない。もしも、旅先で、私たちの乗っている列車と、あのひとの乗っている列車がすれちがうことがあれば、私たちは、窓に日除けをおろして、あのひとの姿を見ないようにしなければならなかった。
 こう考えただけでも、こんどの放送が、国家にとって、どれだけせっぱつまった、非常の手段であったか、想像がつく。
 それにしても、あのひとの声、というか話しかたには、たまげた。世の中に、こんな奇妙な、日本語の話しかたってあるのか、と思った。しかも、その、奇妙な話しかたをしているのは、長いあいだ、私たちの団結の中心であった、ほかならぬ、あのひとなのだ。
 それは、やはりショックだった。なにかが、私のなかで、音をたててはげしくくずれた。そして、ああ、これで、教育勅語も御歴代(天皇の系譜)も、暗誦しなくてよくなるのかなあ、などと、考えたりした。
 それが、私にとっての、戦後のはじまりだった。
 あのひとの「声」にくらべれば、放送の内容のほうは、ずっと受け入れやすいものだった。
 たぶん前日か、前々日、あのひとの放送が予告されると、私たちは、おそらく日本じゅうで、その内容をあれこれと想像したが、大きく分ければ、ふたつの解釈があった。ひとつは、戦争ヲヤメル、というので、もうひとつは、イヨイヨ本土決戦ジャ、オ前タチ、シッカリヤレヨ「、というおだが、じつは、このふた種類の「お言葉」には、たいしたちがいがなかった。なぜなら、この時期になって、戦争をやめる、というのは降参するということであり、つまり日本は亡びる、破滅することだ。
 いっぽう、「本土決戦」のその先に待っているのは、十中八九、「全員玉砕」だから、これまた破滅である。要するに、肉体もろとも破滅するか、それとも、とりあえず命びろいをして、破滅がやってくるのをこの目で見とどけるか、といった程度の選択しか、その頃、私たちの前には残されていなかった。
 あのひとの放送が、戦争ヲヤメル、というのであることを、私たち一家は「マリアナ時報」の「号外」で、知っていた。
 「マリアナ時報」とは、その名のとおり、マリアナ群島に属する、サイパン、グァム両島の基地から発進して、日本本土を空襲にやってくる、B29爆撃機が、空から撒いて行く、日本語新聞で、タブロイド判うらおもて二ページ、「フクチャン」の四コママンガまでのっているという、しかし凝っているわりに宣伝効果の悪いビラだった。
 数日前に撒かれた号外は、その「本紙」の約半分の大きさに、こんどばかりは、おおいそぎで刷られたらしい、字体が大きくて不ぞろいなもので、日本政府が「ポツダム宣言」の即時受諾を、連合国(アメリカ、イギリス、ソ連、中華民国)側に申し入れたことを、報じていた。
 もっとも、「ポツダム宣言」なるものの内容を、私たちははっきり知らなかったから(たぶん、日本の新聞では、報道されなかっらか、されたとしてもおおいにゆがめられていただろう)、それがほとんど「無条件降伏」を意味するものとは、正直思わなかった。ただ、ここまで負けがこんできている以上、条件つきにしたところで、そうとうみじめな降参になるだろうくらいは、想像がついた。
 こうして、私たちは、ある予想、というより予断をいだいて、ラジオの前に立ったのだった。
 その予断どおりだった。あのひとの放送のなかみを、私たちは、やっぱりという感慨でかみしめる。

 その前年、1944(昭和19)年の九月、私は、激しくなる米軍の空襲を予測しておこなわれて、「学童疎開」の、第一陣として、東京をはなれている。1931(昭和6)年生まれの私は、小学校五年のとき、病弱のため留年したので、このとき六年生だった。
 行先は、祖父母がひと足先に疎開していた。山梨県東山梨郡勝沼町、学校ぐるみの、いわゆる集団疎開でなく、縁故をたどっての、個人疎開だった。
 慶応の医学部出身だった、父の希望で、というより、なんとなくそうするものだとじぶん自身もまわりのものも思って、その慶応の普通部(中学)に進学するつもりで、受験勉強ちゅうに、盲腸炎にかかる。食糧事情が悪くて、ずいぶんとあやしげなものを食べていたから、喰いすぎか、それとも、食あたりだろうと、腹痛をがまんして寝ていたが、いっこうに治らない。
 もしや、と思ったときは、すでに炎症が進んで、手術できるかどうかも、危ぶまれる状態だった。
 強引に連れ帰られることになり、東京から父がかけつけた。町から駅へ運んでくれるハイヤーなど、あるはずもない。父は私を背負って、坂道を一時間、駅までのぼった。
 かつぎ込まれた先は、信濃町の、慶応病院の別館である。診断の結果は、案の定、手術はもう無理、ここはいったん散らして、おさめる、とのことだった。それがよく1945(昭和20)年三月はじめのことで、まもなくあの三月十日の、東京最初の大空襲がやってくる。絶対安静で寝たきりの私にとっては、なんのことやらわからぬ、ただひたすら、ひと晩じゅう、B29爆撃機の爆音と、迎え撃つ高射砲の音、そして、窓にうつる閃光の連続だった。
 その翌朝、父は、千葉県佐倉の連隊に、軍医予備員という名目で入隊する。1903(明治36)年生まれ、徴兵検査で第二乙(甲種合格、第一乙種合格よりも下位)、星ひとつない日大医学部教授に、赤紙をよこした目的は、不足がちな軍医を急造するためだ。二か月入隊させて、いったん召集を解除する。このつぎ召集されると、たちまち少尉に昇進する。いまでいえばインターンもすまない、学生あがりの中尉などより、はるかにウデの確かな軍医殿が、あっというまにできあがるという計算だ。
 都心の国電は不通で、父は、とにかく電車の動いている駅まで行くために、焼死体が散らばって、なんともいえないにおいがただよっている焼け跡を、歩いて行く」林光『私の戦後音楽史』楽士の席から、平凡社、2004.pp.9-13. 

 尾高尚忠は戦前にウィーンに留学し、指揮者としてヨーロッパのオーケストラを指揮し、日本に戻って今のN響になる新交響楽団を設立指導し、日本のクラシック音楽のトップとして活躍し、戦後のNHKなど放送界でたいへんな仕事をしたのだが、その仕事のあまりにハードだったゆえに病死したという人である。林さんとの師弟関係は、文中にもあるように父親が友人だったことによる。さらにいえば、尾高家は、今年NHK大河ドラマ「青天を衝く」の主人公になる渋沢栄一の渋沢家と江戸時代から深い仲だった、深谷の豪農家であり、明治以後多くの子どもたちを欧州に留学させ、日本の指導的な音楽家や学者を輩出した名家である。これは庶民の家とは違う文化的環境で、少年林光も「あのひと」を冷静に眺める視点をもっていた。
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