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小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

ディーヴァ・オペラ『後宮からの誘拐』LFJ2019

2019-05-06 18:19:22 | オペラ
東京国際フォーラムのホールB7の822席が3日間ソールド・アウト。2006年のラ・フォル・ジュルネに登場して以来13年ぶりの来日となったイギリスの室内オペラアンサンブル「ディーヴァ・オペラ」の公演は、オペラ愛好家からビギナーまでを夢中にさせる、驚きに満ちた内容だった。演目は『後宮からの誘拐』で、モーツァルトの5大オペラに入るものの序曲以外は、一般的にはそれほど耳なじみのない作品。それでも「オペラを聴きたい!」というお客さんが述べ2400人以上も集まった。これは日本の各オペラ団体にとっても見逃せないことだ。チャンスと廉価なチケットがあれば皆がオペラを経験したいと思っている。

ディーヴァ・オペラは1980年代にピアニストのブライアン・エヴァンスとメゾソプラノ歌手のアン・マラヴィーニ・ヤングによって考案され、1997年に現在の形をとるようになった。登場する歌手は平均して6人から7人で、エヴァンス氏のピアノ伴奏で上演される。衣装とヘアメイクへのこだわりが素晴らしく、かなりの費用をかけて「本物の」テクスチャーを再現している。18世紀のオペラなら、18世紀の膨大な絵画を取材して、布地の素材から作り上げていくという。『後宮からの誘拐』でも、男性たちは独特のコロニアル風の良質なリネンやコットンの衣装で、女性たちは目もくらむようなロココのハイセンスなドレスを着用している。舞台には、籐のスクリーンと猫足の小さなソファ、植木などが置かれていて美術そのものはシンプルだが、歌手たちの衣装にはっとするような見ごたえがあり、歌も演技もかなり達者なので空間に隙が出来ない。ベルモンテ役のテノール、アシュリー・キャットリングとオズミン役のバス・バリトン、マシュー・ハーグリーヴスは2006年の『コジ・ファン・トゥッテ』でフェルランドとグリエルモを歌っていた歌手で、声もいいし芝居も芸達者。飛んだり跳ねたり、ダンスを踊ったりと大活躍で、転換場面では自分たちで装置も運ぶ。やることなすことがとにかく魅力的で、観客はいいタイミングで長い喝采を送っていた。普段劇場で聴く形式的な喝采とは別の、正直な反応だった。

女性歌手は二人。コンスタンツェ役のガフリエラ・キャシディは荘厳で凛とした美しい歌手で、コンスタンツェの長丁場でハードなアリアを完璧に歌い、客席を熱狂させた。今でこそ二期会や錦織健プロデュース・オペラ等で上演されるようになったが、『後宮…』のコンスタンツェを歌える歌手が少ないのはどの国でも同じで、ソプラノに超人的な技術と精神力を求める難役。素晴らしいのは、ガブリエラ・キャシディの超絶的アリアがただの名人芸ではなく、すべて演劇的なものと結びついていたことだ。大公セリムの度重なる説得を受けてなお恋人ベルモンテのために操を守るという、頑ななまでに純潔な娘の役だが、歌手があのように真に迫った演技をしなければ、特に面白味のないオペラにも堕してしまうのだ。ダ・ポンテ三部作以外のモーツァルト・オペラには奇妙に道徳的なところがあり、演技がつまらないとただの勧善懲悪の物語になってしまう。ガブリエラ・キャシディはディーヴァ・オペラの教育プログラムを5年受けて脇役から主役を歌う歌手に成長し、今ではイングリッシュナショナルオペラの舞台にも立っているという。

ブロンデ役のバーバラ・コール・ワトソンは理想的な女召使の声で、「コジ…」のデスピーナや「こうもり」のアデーレが似合いそうなコケティッシュな歌手。華やかなコロラトゥーラで柔軟性に富み、軽やかで面白く、身軽に舞台を駆け回っていた。こういう歌手は演出家にとっても理想的だろう。歌手全員が素晴らしい美男美女(!)なのもこのカンパニーの特徴で、最初から最後まで目の喜びと耳の喜びが持続していく。大公セリム役のデイヴィッド・ステファンソンもここでは台詞だけの芝居だが名歌手で、ディーヴァ・オペラの主要メンバーの一人だという。

「イタリア式の、突っ立ったまま歌うような演出はしないんです」と、演出監督のキャメロン・メンジーズ氏が語ってくれた。ゲネプロでも、B7ホールのさまざまなところから舞台をチェックして、歌手の立ち位置を厳しく直していたが、演技へのこだわりは相当なもので、空間をいかに効果的に使うかということをつねに配慮している。800人規模のホールは彼らにとってはかなり大きいほうで、劇場のない田舎や炎天下のアウトドアでも公演をやるので、今までやった一番小さなホールは60名ほどのお客が集まる小さな集会所みたいなところだったという。

振り切れた演技の熱気に圧倒され、以前見た二期会の『フィガロの結婚』の稽古を思い出した。演出の宮本亜門さんとキャストたちは一体化して完成度の高い芝居を作り、そこにやってきたサッシャ・ゲッツェルが「素晴らしい! けどこれはオペラで音楽なんだ。もう少し芝居を緩めてくれ!」とオケが介入する余地を求めたのだった。確かに、オーケストラがあのような歌手たちの感情の高まりに「すべて」ついていくことは難しい。ピアノ一台なら可能かも知れない。ディーヴァ・オペラはまさにそれを実現していた。創始者にして音楽監督のピアニスト、ブライアン・エヴァンスは鋭敏な感受性の持ち主で、歌手たちのグルーヴを即興的に読み取り、完璧な伴奏をつける。「頭の中ではいつもオーケストラの音が鳴っているんだ」(エヴァンス氏)。

「オペラを知らない人々にも、オペラを知ってほしい」という意図で設立されたディーヴァ・オペラだが、実際イギリスではコアなオペラファンにも人気が高く、ロイヤルオペラやグラインドボーンへ詰め寄せるお客もシーズンになるとディーヴァ・オペラを楽しみにやってくるという。3500円で初めてこのオペラと出会ったお客さんは、とても幸せである。ローカル巡りをするオペラハウスには色々あって、以前見たポーランド室内オペラなどは素朴で可愛らしいカンパニーではあったが、歌唱も美意識も全くディーヴァ・オペラに及ぶものではなかった。ただオペラを知ればいいというのではないだろう。良質の、上品で知的で、香るようなオペラが観たい。この誇り高い集団は、ダイヤモンドのように視覚芸術、演劇、声楽、語学のプロフェッショナルを集め、眼もくらむオペラを残していくいたずらな天使たちなのだ。LFJのお客さんたちはどよめくような興奮とともに拍手喝采し、顔を上気させてホールを後にしたのだ。

何がオペラの本質なのか? オペラは芸術だが、教条的になったり表現者のエゴのはけ口になったり、いたずらに難しくなっては台無しなのだ(正直なところ、『ヴォツェック』や『ルル』はよほど体調がいいときしか見たくない)。上演がどんなにコミカルでフレンドリーになっても、歌手たちが知的であればスコアに対する誠実さが気高い形で浮き彫りになる。GWのお祭りに集まった東京のお客さんは、ディーヴァ・オペラのおかげてまたオペラが観たくなり、この楽しく深遠な世界への理解を深めていくだろう。2019年の彼らのシーズン・プログラムはプッチーニの『蝶々夫人』で、本物のアンティークの着物と日本髪をつけたバタフライが渾身のアリアを歌う。シャープレスを歌うのはオズミン役のバスバリトンだろうか?
ルネ・マルタンは一期一会の素晴らしいアーティストをLFJに連れてくるが、ディーヴァ・オペラを一期一会にするのは何とも勿体ない。『蝶々夫人』と『こうもり』と『ドン・ジョヴァンニ』の3演目くらい、東京のどこかのホールで観てみたいと思う。何よりオペラ通が真っ先に見るべきカンパニーがディーヴァ・オペラなのだ。




























東京二期会『金閣寺』(2/23)

2019-02-24 09:48:21 | オペラ
二期会の『金閣寺』の二日目を上野の東京文化会館で観る。ゲネプロではABキャストを前半(Bキャスト)後半(Aキャスト)と見学し、歌手たち全員の出来栄えの高さと、マキシム・パスカルが指揮する東響の繊細で機知に富んだサウンドに関心した。本公演は与那城敬さん主役で観たが、あの美男子の与那城さんが道化のようなメイクでヴァルネラヴィリティの塊である溝口を演じ切っていることに改めて驚いた。柏木役の山本耕平さんも、邪悪で第六感の発達した奇妙な青年の役を見事にこなし、ドイツ語の現代オペラを高いレベルで上演できる今の二期会の実力は素晴らしいと思った。
歌手たちの完成度と、オペラ全体の感想とは分けて考えなければならない。一緒に考えるのが自然なのだが、今回はそうはいかなかった。『金閣寺』は演出がものをいうオペラだと重ねて思ったからだ。三島由紀夫の原作を、黛敏郎さんがベルリン・ドイツ・オペラの委嘱(1976)で作曲した。クラウス・H・ヘンネベルクの台本では、吃音の溝口が「手の不自由な青年」に変更されている。オペラは歌わなければならないので吃音ではダメだということなのだが、それは演出家にとっての大きな課題となる。特に三島の観念小説をよく知る日本人にとっては、デリケートな問題だ。

宮本亜門さんは過去に演劇で『金閣寺』のとんでもない傑作を作った。柳楽優弥さんが溝口を演じたACTシアターでの再演は二回観に行った。ここでは亜門さんの奔放なマジックが全開だった。ホーミーを歌う美しいダンサーが金閣寺である…という手品のような解釈は、他の演出家には真似できない。紛れもない天才の仕事だった。オペラ版を観て、亜門さんはドイツ語で書かれたこの台本に相当苦痛を感じられたか、あるいは最初から「自分のものではない」と突き放したのではないかと思われた。端正で美しい舞台ではあったが、熱が感じられなかった。溝口の分身である、「ヤング溝口」を木下湧仁さんが体当たりで好演したが、演じ手に感謝しながらも、その部分的なナイーヴさに口実じみたものを感じてしまった。

今回の『金閣寺』では稽古を見学するチャンスがなかったが、指揮者稽古が始まったばかりの頃、偶然にも副指揮者の沖澤のどかさんに取材することがあった。指揮者コンクールで優勝された沖澤さんの、コンクールでの心境などを取材する場だったが、そこで偶然これから二期会のお稽古に行かれるという話になった。パリ・オペラ座バレエ団の『ダフニスとクロエ』で指揮者のマキシム・パスカル氏のファンになっていた私は、思わず「パスカルさんってどういう人ですか?」と沖澤さんにたずねた。「とても知的な方で、三島のこともオペラ作品のこともよく知ってらっしゃるので、今回のヴァージョンについては『斧で切ったようなカットだね』と仰ってました」という答え。沖澤さんは2015年の神奈川県民ホールでの『金閣寺』ではプロンプターを務められていたというお話だったが、それ以降は金閣寺についてお聞きすることも、沖澤さんとお話することもなかった。「マキシムさんの『斧で切ったように』というフランス語が面白くて」という沖澤さんに「ふーん。そんなものなのか」と思っていた。この金閣寺はフランス国立ラン歌劇場との共同制作だが、フランスでの上演時は別の指揮者が振っている。

どうして斧で切ったようなカットになってしまったのか…戦後のある時期に書かれたオペラに現代的な意味がなくなった、と判断したのか、作品そのものの難解さをフレンドリーにするためか、それとも「手が不自由な溝口」という台本に価値がないと思われたのか…亜門さんは、つねに「勝つ」演出家だったので、この『金閣寺』は意外だった。亜門さんにも、ぶっ飛んだ『魔笛』もあれば、比較的常識的な『フィガロの結婚』や『コジ・ファン・トゥッテ』もあり、両面性を感じてきたが(それはとても人間的なことだ)「勝つ」ことだけは諦めていない方だと思った。装置・衣裳・照明・映像スタッフは海外のアーティストだが、彼らのスタイリッシュな感性と、映像の衝撃性は確かに演劇的な効果を上げていた。多くの観客が満足する内容のヴィジュアルが、表面的には作られていたと思う。

こう思ってしまうのも、2015年に上演された田尾下哲さん演出の神奈川県民ホールの『金閣寺』の印象があまりに強く、それに比肩する演劇的な「力」が今回のプロダクションには感じられなかったからだ。三島の狂気に近い論理性と作品の美学が田尾下演出には波打っていて、公演を観た後に県民ホール近くの可愛いパンケーキ・ショップでパンケーキを頼んだ自分は、ホイップクリームだらけのケーキを少しだけしか食べられなかった。五感がすべて麻痺してしまうほどの演劇的な衝撃があった。三島の亡霊や、日本の戦死した兵士たちの怨霊、演劇人と演奏家の苦悩が、舞台上に物理的に出現した大きな金閣寺とともに私の精神に食い込んだのだ。「認識か行為か」という『金閣寺』の命題は、そのまま三島の具体的な死へとつながっていくが、あの舞台上の巨大な金閣寺は決闘の申し込みのような凄みがあったのだ。

2015年の『金閣寺』のことを語り出しても詮無きことかも知れない。人は4年前に観たオペラのことをちょうどいい具合に忘れているし、目の前に現れた新しい『金閣寺』にぼうっとなってしまうこともある。いくつかの場面は2015年の金閣寺とだぶったが、演出家が偶然同じイメージを抱くこともあるだろう。
そう思って何も書かずに眠ろうとしたら、夜明けに死ぬような悪夢を見た。誰の声とも分からぬ怨霊のような声で「お前は一度見たものを忘れられるのか?」「見てしまったものから逃れられるのか?」という、感覚とも響きともつかないものが、真綿のように首にからみついてきたのだ。私はこのまま狂って死んでしまうのか…その声はどういう意味があるのか。狂わないために今、この文章を書いている。

悩ましいのは、この二期会の『金閣寺』が決定的な失敗作ではなく、むしろ多くの観客を魅了し、私自身もここで描かれた女性の恐ろしさと溝口のみじめさに再び共感し納得してしまえたことなのだ。もっと悩ましいのは、宮本亜門さんの芝居の『金閣寺』を愛し、亜門さんを信頼している自分が、このオペラで演出家を疑っていることだ。ラストシーンは奇妙だった。突然現れた銀色の大きな坂のような板に向かって溝口が走ってよじのぼり、そこからトスカのように身を投げる。亜門さんのお芝居では、放心した溝口は客席の最前列の席に座り、三島の原作の通り「生きよ…」と言うのだった。生きるべき溝口が、自決のような振舞いをする。ここに秘められたアイロニーを感じ取らないわけにはいかなかった。

































全国共同制作プロジェクト『ドン・ジョヴァンニ』(1/27)

2019-01-29 11:43:02 | オペラ
毎回型破りのアイデアで観客を驚かせてくれる全国共同制作プロジェクトオペラ、今年はモーツァルト『ドン・ジョヴァンニ』の日本語上演、演出にダンサー/振付家の森山開次さんを迎えての上演となった。総監督・指揮は井上道義さん。オーケストラは読響、合唱は東響コーラス。
東京芸術劇場の舞台前方にオーケストラが配置され、オケの両脇と前方にも舞台が続いている。こういうスタイルを「エプロン型」というのだと休憩時間にお話した二期会の山口さんからお聞きしたが、オケが床の下に埋まっていないので大きくていい音が聴こえるし、歌手や合唱も声量があるのでバランスがよかった。黒く光る舞台の床は、ヴェネツィアの運河にも見える。舞台の緊張感のある美しさは、このプロジェクトが入念な吟味によって準備されていることをうかがわせた。

歌手たちは冒頭から素晴らしい歌と台詞を勢いよく聴かせた。レチタティーボ部分も日本語に変えられていて、どこか翻訳調のかぐわしい雰囲気も感じられるのだが、とにかくたくさんのことを喋り、歌う。レポレロを演じた三戸大久さんは飄々とコミカルで、膨大な言葉で状況説明をし、手品のように鮮やかな日本語の魔力を示した。ドン・ジョヴァンニ役のロシア出身のバリトン、ヴィタリ・ユシュマノフも流暢な日本語を語り歌う。ヴィタリは2015年から日本在住の親日家の歌手なのだそうだが、ネイティヴでもあれだけの尺の台詞をものにするのは大変だと思う。
日本語歌詞=日本語の歌手は歌いやすい、という思い込みは素人的なもので、イタリア語で書かれた曲はどの歌手もイタリア語で勉強したのだから、日本語に変わった時点で新しい課題が与えられる。一単語一音符のイタリア語が、文法も発音も全く違う日本語に変わるのだから、自然な歌唱を創り上げていくには高いハードルが設けられる。なおかつ、今はほとんどすたれてしまった日本語上演には「高級でない」という意見を述べる人々もいる。
そうしたハンディをすべて背負って日本語上演を行うことは、明らかに危険な冒険なのだ。怪我も覚悟だし、死も覚悟。
その心意気が、意外にも楽観的に「なんとでもしてやるさ!」という高笑いに聴こえた。なんと、日本語はドン・ジョヴァンニにぴったりの言語で、ロシア人歌手もウクライナ人歌手も日本人歌手も、堂々と輝かしく、美学的にもハイレベルにこのヴァージョンを歌う。聴き手にもすんなり伝わってくる。そして何より母国語なので…このオペラのユーモアも辛辣さも直接「ハートに」響いてきた。演劇としてオペラとして、かつてないほどエモーショナルに胸に迫ってくる物語だった。

コスチュームは息を飲むほど美しいデザインで、赤いドレスを着たドンナ・エルヴィーラ鷲尾麻衣さんは、このオペラに登場する女性たちの「怒」のパートを溌溂とパワフルに演じた。声楽的にも安定していて、日本語のディクションにも上品さとエスプリがある。演劇面では「いくらでもはみ出してみよう」という勢いがあり、ドン・ジョヴァンニやレポレロとの絡みも大胆だった。演出の意図かこちらの思い込みか判然としないのだが、鷲尾さんのエルヴィーラはほぼこのオペラの主役に思えるほどのインパクトだった。
同じくらい強烈な印象を残したのが三戸大久さんのレポレロで、シャイで誠実な東北人である(恐らく)三戸さんが、スペインのお調子者に見えた。バッソ・ブッフォとしての貫禄十分で、アドリブは入っていたのか不明だが、とても自由に物語の中で暴れまわっていた。語学的な面では積極的にヴィタリさんを支えていたのではないか。舞台ではご主人に蹴ったり踏まれたりするが、レポレロでいるときも東北人は献身的なのだ。

髙橋絵理さんのドンナ・アンナは目が覚める思いがした。2012年の二期会「道化師」でネッダを演じられた頃から凄い逸材だと思っていたが、全身で哀しみをふるわせて、内圧された感情を霊感に溢れた超-ソプラノで歌う。木霊のような天からの声のような…髙橋さんのこれまでの演技にはひとつも外れがなかったが(ホフマン物語のアントニアも絶品だった)今回のドンナ・アンナでは度肝を抜かれた。ドン・オッターヴィオ金山京介さんも高貴な演技で、ドン・ジョヴァンニの対極にある「究極の善」をモーツァルト独特の木管の響きとともに歌い上げた。聖なるドン・オッターヴィオだった。こういう立派な役作りは、主役以外でも大事なのである。この役について初めて理解した気持ちになった。

同じ感慨を得たのは、マゼット近藤圭さんの演技で、このマゼットもとても誇り高い…ドン・ジョヴァンニは確かに身分の高い男だが、彼より下の階級の男たちも、自分の女を大切に守り平和に暮らしたいと願っている。その真剣さが既に、悪党ドン・ジョヴァンニに対するアンチテーゼになっていた。ツェルリーナ藤井玲南さんは「百戦錬磨の生娘」を妖艶に演じ、オペラを見ている男性全員を虜にしたと思う。藤井さんもとても声が美しい。ツェルリーナはどこか疑わしい娘だが、歌は聖女そのものなのだ。

ダンサーは10人。全身女性ダンサーで、レビューダンサーのような動きをしたり、ドゥミ・ポワントでほぼバレエの踊りをしたり、家具のように人柱(?)になったり、たくさんの効果を上げていた。二回観ていたら、もっと細部を観察できたと思うが、かなりの稽古を重ねないと出来ないことをいくつもやっていた。愛知トリエンナーレで勅使川原三郎さんが「魔笛」を演出されたときは、東京バレエ団の大勢のダンサーが参加していたが、それよりかなり少ない人数でも『ドン・ジョヴァンニ」は成功していた。

主役のヴィタリは骨のあるバリトンで、演技も暴君の迫力があった。早口の日本語も噛まないでちゃんとやっていて、ユーモアセンスも嫌味がない。「シャンパンの歌」はクレイジーで威厳があり、地獄堕ちまでひとつのテンションをキープしていたと思う。この日本語上演が画期的なのは、キャストに外国人歌手が二人いたことで、彼らは日本語をきっちりとマスターして役作りを完成させた。騎士長のデニス・ビシュニャはウクライナ出身だが、落武者のようにも見える石像の姿で歌う「おまえが晩餐に招いたので…」のくだりは大迫力だった。この人の日本語も素晴らしかったのだ。

大々的な永遠の命題として「オペラは誰のものか」という問いがある。
私がオペラについて書き始めた頃、日本ではイタリア歌手とイタリア指揮者が一番偉く、その頃台頭しはじめていた東欧やロシアの歌手は田舎者扱いされている風潮があった。ヴェルディがプッチーニより偉く(ムーティの受け売りか?)、ウィーンで成功してもスカラ座に乗れないネトレプコ(当時)は三流だと言われていた。オペラは声楽のアートなのだから演出家は要らない、とまで言われていた。そういう「専門的見地」を尊重しなければならないと思いつつ、実はまったくそんなことは考えていない自分がいた。

「オペラはみんなのものだ」

とんちの一休が将軍様に「月をとってこい」と言われて、水を張ったオケに月を映して運んできた話…あれがオペラだ。
ドン・ジョヴァンニという月を、いくつもの水桶や洗面器に映して見せることが出来る。オペラはそれくらい軽やかだ。どこても行けるし、簡単に運べる。小説より演劇より軽い魔法のじゅうたんのようなもので「ドン・ジョヴァンニ」と言っただけで、彼が何者で、どんなことをしでかしてしまった人かわかる。
みんなの無意識に住みついているドン・ジョヴァンニについて、似たようなことを繰り返していても仕方ないのだ。ラストのドン・ジョヴァンニ奈落落ちの後、遺された六人は六重唱を大幅にカットしてスピーディに突っ走った。「楽譜は作曲家の遺書なのだからカットはいけない」なんて、モーツァルトは言わないだろう。自分のオペラが面白く上演されること、新しい命が注がれることのほうがどれだけ喜ばしいか。

人間は積み重ねを大切にする生き物だから、予定調和ではないことが起こると激昂する人もいる。それを承知で冒険する人がいる。
当たり前だと思われてきたことを「更地に戻して」新しく始めることは、勇気がいる。苦労もいる。
「こんなに大変なこと、歌手の皆さんはよくやりましたね」と芸劇の方に話したら「みなさん楽しみながら取り組まれていて、稽古場はいつもすごい活気でした」とのお答え。高山病のリスクを負いながら激しいダンスをしたりホーミーを歌ったりするチベット高地の人々を思い出した。

読響はバロック的な典雅を感じさせるハイクオリティの演奏をし、井上道義さんの音楽作りは確信的だった。作詞家の仕事に換算したら印税生活を送れそうな対訳を作られたのも井上さんだったという。野田フィガロに続いて、道義先生の勝利の声が聴こえたような気がした…「これでいいのだ!」
2月3日には熊本公演が行われる。














新国立劇場『カルメン』

2018-12-06 13:26:42 | オペラ
新国の『カルメン』の千秋楽(12/4)を観た。このプロダクションを観るのは3回目くらい。それぞれインパクトのある主役が記憶に残っているが、今回は特に大きな驚きとともに観た。若いイタリア人メゾ・ソプラノのジンジャー・コスタ=ジャクソンが宿命の女を鮮やかに演じ切った。
 指揮はフランス人のジャン=リュック・タンゴーという初めて名前を聞く人で、プロフィールを見るとオペラ・コミックの指揮補を務めていたこともあったらしい。カルメンはまさに得意芸だろう。指揮台に乗ったかと思うとくるりとオケを向いて、凄まじいテンポで前奏曲を振り始めた。木管がハイテンションな叫びをあげ、オケ全体が動物的で興奮したサウンドをピットから放っていた。カルメンはそういえば、決して上品ではない話だったな…としみじみする。東フィルの切り札の多さに驚いた瞬間でもあった。

幕が開いて、美術の美しさと人物の配置の素晴らしさに感心した。鵜山仁さんの演出はひとつの「決定版」なのだと思った。群衆の動きは細やかで、兵隊たち、庶民たち、子供たち、物乞いが同時に色々なことを行っている。千秋楽のせいか、合唱が惜しみないパワーを発揮し、舞台が素晴らしい声で溢れた。一人一人が気を抜かずに真剣に歌っているのがわかる。新国立劇場合唱団の歌声には高貴なトーンがあり、これがイントロのオケの「俗な」感じと鮮やかなコントラストをなしていた。今年は海外招聘のオペラ公演が比較的少ない年だったが、この夜の新国合唱団は海外のどのオペラハウスの合唱より真摯で優れた声を聴かせた。大人だけでなくTOKYO FM少年合唱団がフランス語の歌詞でたくさんの歌を歌ってくれたのも嬉しかった。彼らは三幕でも大活躍した。

歌詞のとおり「青いスカートを履いた」清純なミカエラを砂川涼子さんが演じ、初日から素晴らしいと話題になっていたが、この日もパーフェクトだった。ムラがなく透明で、フランス語も美しい。そんなことより、命懸けの愛を身体中で表現するミカエラそのものをオペラで生きていたことに胸打たれた。舞台では、我々が思うほど簡単に歌手は嘘をつけない。無防備でピュアなミカエラは、砂川さんの生き方だと思った。底なしの優しさと善良さが歌われ、ホセとの二重唱も豊かだった。
ミカエラとホセの二重唱の前にカルメンが登場するのだが…舞台に飛び出してきた琥珀色の肌のジンジャー・コスタ=ジャクソンがあまりに美しいので、この人は本当に歌手なのだろうかと目を疑った。横から見ると首が白鳥のようにすっとしていて、バレリーナのようなのだ。顔立ちはミック・ジャガーの最初の妻ビアンカ・ジャガーに少し似ている。こういう美女の声はどんなものなのか…第一声で衝撃を受けた。
カルメンの最初の声で、ラストの死のシーンが見えた。宿命的な美声で、生まれつきの声に責任をもって歌っている歌手の努力が有難かった。録音で聴くマリア・カラスのドラマティックな低音部分をさらに低くしたスケールの大きな声で、アンティークな厳かさとミステリアスな華やかさがあり、厳粛で高貴で、物語に登場するどんな男性も叶わない「存在」を暗示している。もうスタートラインが違うのだ。
カルメンは自由を愛するギャンブラーで、究極のスリルを満たしてくれる出来事を待っている…ホセ誘惑のシーンも、異性を翻弄しているようで相手など眼中になく、無邪気なゲームにただ興じているようだった。「ハバネラ」でも「セギディーリャ」でも、基本のメロディに彼女のオリジナルな遊びを加えていて、入念な役作りをしていることがうかがえた。演劇的にもオペラ的にも、そうした役の発展のさせ方は正しいと思う。次から次へと魅了の瞬間を展開していくが、そのことでカルメンは果てしない孤独も表現していた。どんな刺激にも満足できない、どうしようもなく危険な女の姿があった。

ドン・ホセ役のオレグ・ドルゴフも、エスカミーリョ役のティモシー・レナーも好演で、「花の歌」にしても「闘牛士の歌」にしても、相当な鍛錬と度胸がなければ歌えない歌だと思った。男性歌手は脇役として素晴らしい演技をしたと思う。彼らは恋する人間の男で、カルメンは人間の女というより「運命」そのもので、どうにもこうにも等号でつなぐことが出来ない。ホセよりエスカミーリョが優れているという物語でもないのだ。
フラスキータを演じた日比野幸さん、メルセデスを演じた中島郁子さんはカルメンの存在感に遜色なく、エスカミーリョ登場のシーンでの絡みも愉快で、カルタの歌も華やかだった。一幕ではカルメンとの女同士の愛を思わせる演出もあり、その部分は初めて見た気もする。キャストに合わせたのだろうか。客席から見ると素晴らしいチームワークで、内側から喜びをもって取り組んでいることが伝わってくる。劇場は素晴らしい場所だと思った。

カルメンは謎の女で、メリメの原作とビゼーのオペラに触発されて、バレエでもプティ、アロンソ、マッツ・エックがカルメンを振り付けた。シルヴィ・ギエムが踊ったマッツ・エック版のカルメンは、獰猛な昆虫のような存在で、威嚇的でアニマル的だった。一方、ジジ・ジャンメールが踊るプティのカルメンは小鳥のようだ。カルメンとはブラック・ボックスであり、そこに演劇人は「正解」を求めて挑んでいく。鵜山カルメンの演劇的な正しさを何度も噛みしめ、オペラ演出とは人間の真実の姿をいくつもの数式で表していく仕事だと認識した。性や感情やその他さまざまなものを天秤にかけて、その偏りや傾きがしかるべき重力によって流れていく方向を書き留めていく。その「秤」となるものは、とても厳密で道徳的なものだ。カルメンはろくでなしの男女の話であると同時に、その真逆でもある。それぞれ異なるカルマの持ち主が、摩擦を起こしたり傷つけあったり、魅了したりされたりする。
カルメンがホセに殺されるのは必然で、あんなにも超然とした「宿命」に対して、男は触れることもどうすることも出来ないので息の根を止めるしかないのだった。闘牛士たちのパレードから、すごい勢いでラストシーンに吸引されていく時間があった。もう最初からカルメンが死ぬのが分かっているのだが、早く死を見たい…「あんたがくれた指輪」とカルメンが放り投げるときのジンジャーの声がすごかった。「私も苦しい!」と絶叫していた。息絶えたカルメンを見て、劇場とは本当に正しいことしか起こらない神聖な場所なのだと思った。

ジンジャー・コスタ=ジャクソンは思い返せばMETライブビューイングの『カヴァレリア・ルスティカーナ』でローラを演じていた歌手で、ヴェストブルック演じるサントゥッツァに対して意地悪ばかりをする悪役だったが(マクヴィカー演出はそういう内容だった)このカルメンでどういう歌手なのか知らしめてくれた。国際的なキャリアを歩み始めた若い逸材をキャスティングした劇場には「グッドタイミング!」と感謝するしかない。千秋楽でなければ、もう一度観たい舞台だった。









ローマ歌劇場『マノン・レスコー』(9/20)

2018-09-22 10:14:40 | オペラ
神奈川県民ホールでの初日が好評だったローマ歌劇場の『マノン・レスコー』の二日目を上野の東京文化会館で観た。METで大活躍の「新・オペラの女王」クリスティーネ・オポライスの東京初の公演となる。この一週間ほど前にオケつきの歌手の稽古を見学し、巨匠ドナート・レンツェッティの巧みな指揮に驚愕したが、完璧な形で照明が入ったことでキアラ・ムーティの演出の長所も多く発見できた。歌手たちの出来栄えも良く、深く記憶に残る公演となった。

何をおいても作曲家プッチーニの巨大な知性に最初から最後まで驚かされた。個人的にプッチーニといえば「トスカ」「ボエーム」「蝶々さん」と即答するほどこの3つのオペラが好きだったが、この公演で『マノン・レスコー』がマイ・ベストになった。1893年初演(トリノ)でヴェルディはまだ生きていたが、35歳のプッチーニは偉大な先輩と全く違うスタイルの野心作を世に問うたのだ。完成まで9年もリコルディ社に養われていたという。長すぎる年月にも感じられるが、「自分は天才なのだ」という揺るぎない自信があったのだろう。ワーグナーのようなシンフォニックなオーケストレーションにフランス印象派の未来的な和声感が加味され、イタリア的なアリアはポップ・ミュージックを先取りするような親しみやすさがある。

キアラ・ムーティは、絵巻物のようにスピーディに展開するプッチーニの音楽を、巧みな群衆の動きとダンス、芝居で表し、最初から最後まで背景には砂漠があった。照明によってこの砂漠がさまざまに色に変化する。ブルーになったり、グレーになったり、カーテンコールでは初めてチョコレート色になったりもした。心理的な象徴として不毛の地が描かれていたが、それよりも人間関係の描き方のほうが面白く感じられた。オーケストラの些細なきっかけをつかんで、印象的なアクションを起こす。エドモンドとレスコーが「いがみあう仲」として描かれていたのはこのプロダクションで初めて見る。打楽器の面白い音にあわせて、レスコーがエドモンドのお尻に蹴りを入れるのだが、確かにマノンとデ・グリューの駆け落ちを助けるエドモンドは、妹を金持ちに売りつけたいレスコーにとっては不利益な人物で、それを気づかされる面白い演出だ。

グレゴリー・クンデは真っ黒なウィッグで若作りにも見えるデ・グリューだが、演技が本当に初々しい。マノンに一目惚れしたとき「こんなまぶしいものは見ていられない」というように後ろを向き、それでもチラチラと彼女のほうを見る。また後ろを向いて恥じらう。この繰り返しで、ティーンエイジャーそのものなのだ。キアラは記者会見で女性演出家であることのメリットを質問され「強いて言えば、私は女性の初恋の気持ちが分かること」と答えていたが、初恋の初々しさに男も女も関係なく、その言葉はデ・グリューの演技に生かされていた。
元気いっぱいの騒々しい若者群像を描いていたオーケストラは、マノンとデ・グリューの出会いのシーンで急に聖なる教会音楽のようになる。ここからアリア「見たこともない美女」までの流れは格別に美しかった。

ドナート・レンツェッティの音楽作りは非常に大きな呼吸感で、一気呵成にダイナミックな流れを作り、オケはめまぐるしく巨大化したり自在に縮んだりする。弦はふくよかで艶めき、管は機敏で表情豊かで、ハープやきらきらした楽器がダイヤモンドのようにトッピングされる。打楽器のアクセントは雷鳴的で、きっぱりとした読点のように物語の輪郭を浮き立たせる。オペラの物語というのはほとんどが荒唐無稽なものなのだが、そこに説得力を持たせるのは紛れもなくオケなのだ。デ・グリューが恋におちるとき、音楽は一斉に「人が正気を失うような」麻薬的な世界を創り上げる。マノンの美、恋の陶酔…それが善悪の感覚までなくして、人間を狂気の領域に陥れる。
ドナート・レンツェッティは素晴らしい指揮者で、その麻薬的な音楽が「耽溺するような」音ではなく…むしろ徹底して理知的でニュートラルなものであった。プッチーニの音楽の本質にはある厳しさがあって、作曲家はオペラを通じて「これが人間の姿である」という哲学を描こうとする。巨視的な視点から人物を俯瞰し、マノンを妾にして逃げられた老ジェロンテの悔しさや無念さもオケで表す。どの人物にも生きた心があり、矛盾に苛まれる苦しさがある。

キアラ・ムーティ演出では、兄のレスコーの存在感が大きく、これはとても理にかなったものだった。レスコーこそがこの狂った悲劇のシナリオ作者であり、愚かなギャンブラーであり、全部の人間に対する裏切り者なのだった。老いた富豪ジェロンテに妹を売りつける女衒で、デ・グリューの「親友」で、妹を見て「退屈した女の子ほど危険なものはない」とわざわざデ・グリューと妹を再会させる。ハンサムなバリトン歌手のアレッサンドロ・ルオンゴが名演だった。キアラ・ムーティは彼が本当に信用のおけないろくでなしであることを顕すために、ワインでべろべろに酩酊している演技をさせるのだが、勢いあまって椅子ごとひっくり返る芝居には驚いた…彼はゲネプロでも真剣に椅子と一緒に転んでいた。

主役のオポライスは演出家にとって理想の女優だろう。感情表現が巧みで、動きも軽やかでダンスもうまい。声もドラマティックで、21世紀のプッチーニ・ヒロインと呼ぶに相応しい。一昔前の、歌手ののど自慢のような演技はどんどん古臭く感じられる時代になってきている。ネトレプコも演技派というか、一種の憑依的なヒロインの芝居でセンターに出てきた人だが、オポライスはさらに芝居寄りで、共演者と呼吸感を創り上げるセンスに長けている。20日の公演は、飛ばしまくりだった神奈川のゲネプロのときより前半は抑え目だったが、3幕以降は自分を解き放っていた。死にゆくヒロイン役を演じるのが得意なのだ。プッチーニの主人公はほぼ全員死ぬのだから、死ぬのを嫌がっていては演じられない。

『マノン・レスコー』でも、小さな命が死んでいく場面が素晴らしかった。ミミやリューやトスカや蝶々さんが死ぬ場面も好きだが、マノンの死は先日ミキエレット演出の二期会で観た『修道女アンジェリカ』を思い出した。不安でどす黒い音楽が急にサイケデリックで明るくなり、天国の扉が開いたようなサウンドになる。
このオペラには、本当に愚かな人間しか出てこない。蝶々さんにはシャープレスというまともな人が出てくるが、マノンにはお馬鹿さんしかいない。皆が人間の無防備な姿をさらけ出して、間違った道をいく。プッチーニは、そんな凡人たちの人生にも等しく訪れる奇跡の愛の瞬間や、聖なる誓いの瞬間を見逃さなかった。ヴェルディがセレブの悲劇を描いたのとは正反対で、ここにもプッチーニの独自性がある。

イタリアオペラはスカラ、フェニーチェ、トリノが格上でローマは…という批評家の方々は、見聞が広くて素晴らしいと思うが、私はこのローマのマノン・レスコーのプロダクションにはオペラの最良のものが凝縮していたと思う。カーテンコールでは一階席の観客が熱狂して、総立ちになって舞台前方に押し寄せた。オポライスは大喜び。この日はグレゴリー・クンデへの喝采が大きかった。最初から最後まで勇敢で真剣なデ・グリューを演じていた。
オポライスもクンデも、このローマのプロダクションには初参加で、初日のずいぶん前から来日してキアラと稽古をしており、日本のダンサーやエキストラも入念な準備をして本番に備えていた。そうした意味でも、日本と共作の「引っ越し公演」と言える。バックステージにある豊かさや充実感が、本番で炸裂していた。22日にも公演が行われる。