東京国際フォーラムのホールB7の822席が3日間ソールド・アウト。2006年のラ・フォル・ジュルネに登場して以来13年ぶりの来日となったイギリスの室内オペラアンサンブル「ディーヴァ・オペラ」の公演は、オペラ愛好家からビギナーまでを夢中にさせる、驚きに満ちた内容だった。演目は『後宮からの誘拐』で、モーツァルトの5大オペラに入るものの序曲以外は、一般的にはそれほど耳なじみのない作品。それでも「オペラを聴きたい!」というお客さんが述べ2400人以上も集まった。これは日本の各オペラ団体にとっても見逃せないことだ。チャンスと廉価なチケットがあれば皆がオペラを経験したいと思っている。
ディーヴァ・オペラは1980年代にピアニストのブライアン・エヴァンスとメゾソプラノ歌手のアン・マラヴィーニ・ヤングによって考案され、1997年に現在の形をとるようになった。登場する歌手は平均して6人から7人で、エヴァンス氏のピアノ伴奏で上演される。衣装とヘアメイクへのこだわりが素晴らしく、かなりの費用をかけて「本物の」テクスチャーを再現している。18世紀のオペラなら、18世紀の膨大な絵画を取材して、布地の素材から作り上げていくという。『後宮からの誘拐』でも、男性たちは独特のコロニアル風の良質なリネンやコットンの衣装で、女性たちは目もくらむようなロココのハイセンスなドレスを着用している。舞台には、籐のスクリーンと猫足の小さなソファ、植木などが置かれていて美術そのものはシンプルだが、歌手たちの衣装にはっとするような見ごたえがあり、歌も演技もかなり達者なので空間に隙が出来ない。ベルモンテ役のテノール、アシュリー・キャットリングとオズミン役のバス・バリトン、マシュー・ハーグリーヴスは2006年の『コジ・ファン・トゥッテ』でフェルランドとグリエルモを歌っていた歌手で、声もいいし芝居も芸達者。飛んだり跳ねたり、ダンスを踊ったりと大活躍で、転換場面では自分たちで装置も運ぶ。やることなすことがとにかく魅力的で、観客はいいタイミングで長い喝采を送っていた。普段劇場で聴く形式的な喝采とは別の、正直な反応だった。
女性歌手は二人。コンスタンツェ役のガフリエラ・キャシディは荘厳で凛とした美しい歌手で、コンスタンツェの長丁場でハードなアリアを完璧に歌い、客席を熱狂させた。今でこそ二期会や錦織健プロデュース・オペラ等で上演されるようになったが、『後宮…』のコンスタンツェを歌える歌手が少ないのはどの国でも同じで、ソプラノに超人的な技術と精神力を求める難役。素晴らしいのは、ガブリエラ・キャシディの超絶的アリアがただの名人芸ではなく、すべて演劇的なものと結びついていたことだ。大公セリムの度重なる説得を受けてなお恋人ベルモンテのために操を守るという、頑ななまでに純潔な娘の役だが、歌手があのように真に迫った演技をしなければ、特に面白味のないオペラにも堕してしまうのだ。ダ・ポンテ三部作以外のモーツァルト・オペラには奇妙に道徳的なところがあり、演技がつまらないとただの勧善懲悪の物語になってしまう。ガブリエラ・キャシディはディーヴァ・オペラの教育プログラムを5年受けて脇役から主役を歌う歌手に成長し、今ではイングリッシュナショナルオペラの舞台にも立っているという。
ブロンデ役のバーバラ・コール・ワトソンは理想的な女召使の声で、「コジ…」のデスピーナや「こうもり」のアデーレが似合いそうなコケティッシュな歌手。華やかなコロラトゥーラで柔軟性に富み、軽やかで面白く、身軽に舞台を駆け回っていた。こういう歌手は演出家にとっても理想的だろう。歌手全員が素晴らしい美男美女(!)なのもこのカンパニーの特徴で、最初から最後まで目の喜びと耳の喜びが持続していく。大公セリム役のデイヴィッド・ステファンソンもここでは台詞だけの芝居だが名歌手で、ディーヴァ・オペラの主要メンバーの一人だという。
「イタリア式の、突っ立ったまま歌うような演出はしないんです」と、演出監督のキャメロン・メンジーズ氏が語ってくれた。ゲネプロでも、B7ホールのさまざまなところから舞台をチェックして、歌手の立ち位置を厳しく直していたが、演技へのこだわりは相当なもので、空間をいかに効果的に使うかということをつねに配慮している。800人規模のホールは彼らにとってはかなり大きいほうで、劇場のない田舎や炎天下のアウトドアでも公演をやるので、今までやった一番小さなホールは60名ほどのお客が集まる小さな集会所みたいなところだったという。
振り切れた演技の熱気に圧倒され、以前見た二期会の『フィガロの結婚』の稽古を思い出した。演出の宮本亜門さんとキャストたちは一体化して完成度の高い芝居を作り、そこにやってきたサッシャ・ゲッツェルが「素晴らしい! けどこれはオペラで音楽なんだ。もう少し芝居を緩めてくれ!」とオケが介入する余地を求めたのだった。確かに、オーケストラがあのような歌手たちの感情の高まりに「すべて」ついていくことは難しい。ピアノ一台なら可能かも知れない。ディーヴァ・オペラはまさにそれを実現していた。創始者にして音楽監督のピアニスト、ブライアン・エヴァンスは鋭敏な感受性の持ち主で、歌手たちのグルーヴを即興的に読み取り、完璧な伴奏をつける。「頭の中ではいつもオーケストラの音が鳴っているんだ」(エヴァンス氏)。
「オペラを知らない人々にも、オペラを知ってほしい」という意図で設立されたディーヴァ・オペラだが、実際イギリスではコアなオペラファンにも人気が高く、ロイヤルオペラやグラインドボーンへ詰め寄せるお客もシーズンになるとディーヴァ・オペラを楽しみにやってくるという。3500円で初めてこのオペラと出会ったお客さんは、とても幸せである。ローカル巡りをするオペラハウスには色々あって、以前見たポーランド室内オペラなどは素朴で可愛らしいカンパニーではあったが、歌唱も美意識も全くディーヴァ・オペラに及ぶものではなかった。ただオペラを知ればいいというのではないだろう。良質の、上品で知的で、香るようなオペラが観たい。この誇り高い集団は、ダイヤモンドのように視覚芸術、演劇、声楽、語学のプロフェッショナルを集め、眼もくらむオペラを残していくいたずらな天使たちなのだ。LFJのお客さんたちはどよめくような興奮とともに拍手喝采し、顔を上気させてホールを後にしたのだ。
何がオペラの本質なのか? オペラは芸術だが、教条的になったり表現者のエゴのはけ口になったり、いたずらに難しくなっては台無しなのだ(正直なところ、『ヴォツェック』や『ルル』はよほど体調がいいときしか見たくない)。上演がどんなにコミカルでフレンドリーになっても、歌手たちが知的であればスコアに対する誠実さが気高い形で浮き彫りになる。GWのお祭りに集まった東京のお客さんは、ディーヴァ・オペラのおかげてまたオペラが観たくなり、この楽しく深遠な世界への理解を深めていくだろう。2019年の彼らのシーズン・プログラムはプッチーニの『蝶々夫人』で、本物のアンティークの着物と日本髪をつけたバタフライが渾身のアリアを歌う。シャープレスを歌うのはオズミン役のバスバリトンだろうか?
ルネ・マルタンは一期一会の素晴らしいアーティストをLFJに連れてくるが、ディーヴァ・オペラを一期一会にするのは何とも勿体ない。『蝶々夫人』と『こうもり』と『ドン・ジョヴァンニ』の3演目くらい、東京のどこかのホールで観てみたいと思う。何よりオペラ通が真っ先に見るべきカンパニーがディーヴァ・オペラなのだ。

ディーヴァ・オペラは1980年代にピアニストのブライアン・エヴァンスとメゾソプラノ歌手のアン・マラヴィーニ・ヤングによって考案され、1997年に現在の形をとるようになった。登場する歌手は平均して6人から7人で、エヴァンス氏のピアノ伴奏で上演される。衣装とヘアメイクへのこだわりが素晴らしく、かなりの費用をかけて「本物の」テクスチャーを再現している。18世紀のオペラなら、18世紀の膨大な絵画を取材して、布地の素材から作り上げていくという。『後宮からの誘拐』でも、男性たちは独特のコロニアル風の良質なリネンやコットンの衣装で、女性たちは目もくらむようなロココのハイセンスなドレスを着用している。舞台には、籐のスクリーンと猫足の小さなソファ、植木などが置かれていて美術そのものはシンプルだが、歌手たちの衣装にはっとするような見ごたえがあり、歌も演技もかなり達者なので空間に隙が出来ない。ベルモンテ役のテノール、アシュリー・キャットリングとオズミン役のバス・バリトン、マシュー・ハーグリーヴスは2006年の『コジ・ファン・トゥッテ』でフェルランドとグリエルモを歌っていた歌手で、声もいいし芝居も芸達者。飛んだり跳ねたり、ダンスを踊ったりと大活躍で、転換場面では自分たちで装置も運ぶ。やることなすことがとにかく魅力的で、観客はいいタイミングで長い喝采を送っていた。普段劇場で聴く形式的な喝采とは別の、正直な反応だった。
女性歌手は二人。コンスタンツェ役のガフリエラ・キャシディは荘厳で凛とした美しい歌手で、コンスタンツェの長丁場でハードなアリアを完璧に歌い、客席を熱狂させた。今でこそ二期会や錦織健プロデュース・オペラ等で上演されるようになったが、『後宮…』のコンスタンツェを歌える歌手が少ないのはどの国でも同じで、ソプラノに超人的な技術と精神力を求める難役。素晴らしいのは、ガブリエラ・キャシディの超絶的アリアがただの名人芸ではなく、すべて演劇的なものと結びついていたことだ。大公セリムの度重なる説得を受けてなお恋人ベルモンテのために操を守るという、頑ななまでに純潔な娘の役だが、歌手があのように真に迫った演技をしなければ、特に面白味のないオペラにも堕してしまうのだ。ダ・ポンテ三部作以外のモーツァルト・オペラには奇妙に道徳的なところがあり、演技がつまらないとただの勧善懲悪の物語になってしまう。ガブリエラ・キャシディはディーヴァ・オペラの教育プログラムを5年受けて脇役から主役を歌う歌手に成長し、今ではイングリッシュナショナルオペラの舞台にも立っているという。
ブロンデ役のバーバラ・コール・ワトソンは理想的な女召使の声で、「コジ…」のデスピーナや「こうもり」のアデーレが似合いそうなコケティッシュな歌手。華やかなコロラトゥーラで柔軟性に富み、軽やかで面白く、身軽に舞台を駆け回っていた。こういう歌手は演出家にとっても理想的だろう。歌手全員が素晴らしい美男美女(!)なのもこのカンパニーの特徴で、最初から最後まで目の喜びと耳の喜びが持続していく。大公セリム役のデイヴィッド・ステファンソンもここでは台詞だけの芝居だが名歌手で、ディーヴァ・オペラの主要メンバーの一人だという。
「イタリア式の、突っ立ったまま歌うような演出はしないんです」と、演出監督のキャメロン・メンジーズ氏が語ってくれた。ゲネプロでも、B7ホールのさまざまなところから舞台をチェックして、歌手の立ち位置を厳しく直していたが、演技へのこだわりは相当なもので、空間をいかに効果的に使うかということをつねに配慮している。800人規模のホールは彼らにとってはかなり大きいほうで、劇場のない田舎や炎天下のアウトドアでも公演をやるので、今までやった一番小さなホールは60名ほどのお客が集まる小さな集会所みたいなところだったという。
振り切れた演技の熱気に圧倒され、以前見た二期会の『フィガロの結婚』の稽古を思い出した。演出の宮本亜門さんとキャストたちは一体化して完成度の高い芝居を作り、そこにやってきたサッシャ・ゲッツェルが「素晴らしい! けどこれはオペラで音楽なんだ。もう少し芝居を緩めてくれ!」とオケが介入する余地を求めたのだった。確かに、オーケストラがあのような歌手たちの感情の高まりに「すべて」ついていくことは難しい。ピアノ一台なら可能かも知れない。ディーヴァ・オペラはまさにそれを実現していた。創始者にして音楽監督のピアニスト、ブライアン・エヴァンスは鋭敏な感受性の持ち主で、歌手たちのグルーヴを即興的に読み取り、完璧な伴奏をつける。「頭の中ではいつもオーケストラの音が鳴っているんだ」(エヴァンス氏)。
「オペラを知らない人々にも、オペラを知ってほしい」という意図で設立されたディーヴァ・オペラだが、実際イギリスではコアなオペラファンにも人気が高く、ロイヤルオペラやグラインドボーンへ詰め寄せるお客もシーズンになるとディーヴァ・オペラを楽しみにやってくるという。3500円で初めてこのオペラと出会ったお客さんは、とても幸せである。ローカル巡りをするオペラハウスには色々あって、以前見たポーランド室内オペラなどは素朴で可愛らしいカンパニーではあったが、歌唱も美意識も全くディーヴァ・オペラに及ぶものではなかった。ただオペラを知ればいいというのではないだろう。良質の、上品で知的で、香るようなオペラが観たい。この誇り高い集団は、ダイヤモンドのように視覚芸術、演劇、声楽、語学のプロフェッショナルを集め、眼もくらむオペラを残していくいたずらな天使たちなのだ。LFJのお客さんたちはどよめくような興奮とともに拍手喝采し、顔を上気させてホールを後にしたのだ。
何がオペラの本質なのか? オペラは芸術だが、教条的になったり表現者のエゴのはけ口になったり、いたずらに難しくなっては台無しなのだ(正直なところ、『ヴォツェック』や『ルル』はよほど体調がいいときしか見たくない)。上演がどんなにコミカルでフレンドリーになっても、歌手たちが知的であればスコアに対する誠実さが気高い形で浮き彫りになる。GWのお祭りに集まった東京のお客さんは、ディーヴァ・オペラのおかげてまたオペラが観たくなり、この楽しく深遠な世界への理解を深めていくだろう。2019年の彼らのシーズン・プログラムはプッチーニの『蝶々夫人』で、本物のアンティークの着物と日本髪をつけたバタフライが渾身のアリアを歌う。シャープレスを歌うのはオズミン役のバスバリトンだろうか?
ルネ・マルタンは一期一会の素晴らしいアーティストをLFJに連れてくるが、ディーヴァ・オペラを一期一会にするのは何とも勿体ない。『蝶々夫人』と『こうもり』と『ドン・ジョヴァンニ』の3演目くらい、東京のどこかのホールで観てみたいと思う。何よりオペラ通が真っ先に見るべきカンパニーがディーヴァ・オペラなのだ。
