新国立劇場オペラパレスで三日間行われる東京バレエ団『ザ・カブキ』の初日を鑑賞。大入りの札が出たこの日の会場は、普段のオペラハウスとも違い、いつものバレエの客層だけでもないように見える若い人たちも多く訪れ、和装や袴のお客様もちらほら見えた。このバレエは今はなき五反田のゆうぽうとでも観ている。初演から約40年、過去の東京バレエ団の色々なダンサーが一生懸命に踊ってきた。前回の上演は2024年10月だったので短い間隔での再演となったが、由良之助役の柄本弾さんが芸術選奨文部科学大臣賞を受賞されたタイミングも重なって、祝祭的な雰囲気があった。
ベジャールが異文化の伝統を取り込むとき、それはリスペクトから入るのだが、バレエと融合させる「力技」は大胆で、奇跡としか言いようのないものがある。目の前で見ているのはバレエなのに歌舞伎で(忠臣蔵のストーリーがベースになっている)、歌舞伎のすり足や重心が下にある動きは、天に向かって飛翔していくバレエの動きとは正反対のはずなのだ。ベジャールは相当歌舞伎を研究したと思う。クラシックの「マイム」のようなものも歌舞伎にはないし、ダンサーは声を発しない。しかしながら、すべての瞬間で「歌舞伎を観ていた」という感覚があった。鍛錬されたダンサーたちの身体は、いくつものクラシックの型を見せていたが、それはすべて歌舞伎の印象に変形されていたのだ。
冒頭の80年代の東京の映像や若者たちの群像は、毎回見るたびに驚く。衣裳は少しずつ変化しているが、昔はもっと通俗的な(!)装いだった記憶。現代の青年(柄本弾さん)が黒子によって剣を託され、そこから忠臣蔵の世界が始まるというのもベジャール的だが、黒子にもスポットライトが当たるこのシーンは天才的だと再認識した。ベジャールは自分を賢そうに見せることはしないし、日本の伝統芸能を「理解した」ふりもしない。わざと、西洋の人間がエキゾチックなものに触れている様子を擬態しさえする。もちろん、本当は本質的なものを理解しているし、伝統芸能の神髄部分でバレエと歌舞伎は結婚できることを確信している。トレーナーを着た若者が陣羽織を羽織って急に歌舞伎の登場人物になるシーンを筆頭に、「ザ・カブキ」には垢抜けないシーンがひとつもない。背景に布の浮世絵や平仮名の幕が出てくる場面では、毎回痺れるようなかっこよさに武者震いする。
1986年当時の東京バレエ団のダンサーたちは、凄まじい身体的鍛錬とともにこの作品を完成させていったのだ。ベジャール作品ではクラシックの基礎をより厳しく行う必要があり、一方で誰もやったことのない歌舞伎とバレエのミックスの動き、義太夫に合わせて拍を取る音感覚、着物の早変わりなどをマスターしなければならない。何より、ベジャールは歌舞伎の「スピリット」を求めていたはずで、一人一人の演じ手が背負わされた責任の重さはとんでもないものだったはず。本当に信じられないことだが、若い彼らは完璧にやり遂げた。初演の年には二か月かけてヨーロッパ各都市を巡るツアーを行っている。日本のカンパニーが世界に討ち入りし、大成功を果たしたのだ。
由良之助を演じた柄本弾さんは2010年からこの役を踊っているから、15年のキャリアがある。集中力と観客を巻き込むカリスマ性、男性群舞を率いるリーダーシップには磨きがかかり、初日も見事だった。柄本さんは生前のベジャールには会っていない。ベジャールはこの由良助を観て喜んだだろう。塩治判官の樋口祐輝さん、高師直の鳥海創さん、直義の中嶋智哉さんも見事で、勘平の池本祥真さんとおかるの沖香菜子さんの恋人同士の踊りも見ごたえがあった。おかる役にはベジャールは相当の思い入れがあったのだろう。道化的な装束で八面六臂の活躍をする伴内の岡﨑隼也さんには、ゲッツ・フリードリヒ演出の『ラインの黄金』の登場人物を連想したが、どちらも作られたのは80年代。オペラとバレエの演出の当時の趨勢というものがあったのだろう。「ザ・カブキ」の中では現代劇的な異化効果を果たしていた。
顔世御前の上野水香さんは異次元的で、この役に相応しい幻のような抽象性を演じ切っていた。一切の無駄がなく、四肢の柔軟な動きは奇跡のようで、理想のベジャール・ダンサーがそこに現れたという有難さで胸が詰まった。ベジャールは上野さんを高く評価していた。美しい姿だけでなく、自分の精神や創造性を高い水準で理解している友人として、信頼していたのだと思う。ギエムや元BBLダンサーのシャルキナの幻影が一瞬よぎったが、上野さんしか演じられないベジャール精神の化身だった。
場面と場面の間に、「何も起こらない」真空のような空白があることも、今回初めて気づいた。何度も観ているのに、つくづく自分の目は節穴である。あの殺気に満ちた空隙は、西洋にはない「間」の感覚であり、「無」の時間でもあった。巨大な混沌を抱えて、ベジャールがこの劇でどこに行こうとしているのか、ともに考えるような感覚がもたらされ、記憶にある限りどんな舞台でもそんなことを考えたことはなかった。
ラストの四十七士と由良之助の群舞は、何度見ても何が起こっているのか全体を追いきれない。それでも今回は必死に凝視したが…一瞬のように感じられる結構な長丁場で、人のようで鳥の群れのようなめくるめく男性群舞は世界中のどのカンパニーも真似出来ないだろう。祈りを奉げた後の全員の割腹場面は、ベジャール本人も涙したという圧巻のクライマックスで、バレエでのみ観られる歌舞伎のドラマだった。「歌舞伎」という本物があるのに、バレエにしてしまったベジャールの大胆さ、それが的に刺さった矢のように正確であったことに今更ながら青ざめてしまった。
黛敏郎氏の『涅槃交響曲』は最近では今年4月に下野竜也氏指揮・東京都交響楽団で上演され、生音で聴いて作曲家の底なしの胆力に改めて驚いた。黛敏郎には粘り強い洋の魂があり、ベジャールには洞察的な和の魂があり、共作は自然なことだったと思う。39年前に創られた『ザ・カブキ』は213回上演を重ね、2025年の現在まで,強い衝撃や香りが失われることなく踊り継がれてきた。
ベジャール作品の炎を絶やさぬよう次世代に教え伝え、全力で献身してきた大勢の人々…亡くなった人も含めて…に深く感謝したくなった。軽薄な言葉にはしたくないが、これはバレエにとっても歌舞伎にとっても「国宝」と呼べる宝なのだ。
ベジャールが異文化の伝統を取り込むとき、それはリスペクトから入るのだが、バレエと融合させる「力技」は大胆で、奇跡としか言いようのないものがある。目の前で見ているのはバレエなのに歌舞伎で(忠臣蔵のストーリーがベースになっている)、歌舞伎のすり足や重心が下にある動きは、天に向かって飛翔していくバレエの動きとは正反対のはずなのだ。ベジャールは相当歌舞伎を研究したと思う。クラシックの「マイム」のようなものも歌舞伎にはないし、ダンサーは声を発しない。しかしながら、すべての瞬間で「歌舞伎を観ていた」という感覚があった。鍛錬されたダンサーたちの身体は、いくつものクラシックの型を見せていたが、それはすべて歌舞伎の印象に変形されていたのだ。
冒頭の80年代の東京の映像や若者たちの群像は、毎回見るたびに驚く。衣裳は少しずつ変化しているが、昔はもっと通俗的な(!)装いだった記憶。現代の青年(柄本弾さん)が黒子によって剣を託され、そこから忠臣蔵の世界が始まるというのもベジャール的だが、黒子にもスポットライトが当たるこのシーンは天才的だと再認識した。ベジャールは自分を賢そうに見せることはしないし、日本の伝統芸能を「理解した」ふりもしない。わざと、西洋の人間がエキゾチックなものに触れている様子を擬態しさえする。もちろん、本当は本質的なものを理解しているし、伝統芸能の神髄部分でバレエと歌舞伎は結婚できることを確信している。トレーナーを着た若者が陣羽織を羽織って急に歌舞伎の登場人物になるシーンを筆頭に、「ザ・カブキ」には垢抜けないシーンがひとつもない。背景に布の浮世絵や平仮名の幕が出てくる場面では、毎回痺れるようなかっこよさに武者震いする。
1986年当時の東京バレエ団のダンサーたちは、凄まじい身体的鍛錬とともにこの作品を完成させていったのだ。ベジャール作品ではクラシックの基礎をより厳しく行う必要があり、一方で誰もやったことのない歌舞伎とバレエのミックスの動き、義太夫に合わせて拍を取る音感覚、着物の早変わりなどをマスターしなければならない。何より、ベジャールは歌舞伎の「スピリット」を求めていたはずで、一人一人の演じ手が背負わされた責任の重さはとんでもないものだったはず。本当に信じられないことだが、若い彼らは完璧にやり遂げた。初演の年には二か月かけてヨーロッパ各都市を巡るツアーを行っている。日本のカンパニーが世界に討ち入りし、大成功を果たしたのだ。
由良之助を演じた柄本弾さんは2010年からこの役を踊っているから、15年のキャリアがある。集中力と観客を巻き込むカリスマ性、男性群舞を率いるリーダーシップには磨きがかかり、初日も見事だった。柄本さんは生前のベジャールには会っていない。ベジャールはこの由良助を観て喜んだだろう。塩治判官の樋口祐輝さん、高師直の鳥海創さん、直義の中嶋智哉さんも見事で、勘平の池本祥真さんとおかるの沖香菜子さんの恋人同士の踊りも見ごたえがあった。おかる役にはベジャールは相当の思い入れがあったのだろう。道化的な装束で八面六臂の活躍をする伴内の岡﨑隼也さんには、ゲッツ・フリードリヒ演出の『ラインの黄金』の登場人物を連想したが、どちらも作られたのは80年代。オペラとバレエの演出の当時の趨勢というものがあったのだろう。「ザ・カブキ」の中では現代劇的な異化効果を果たしていた。
顔世御前の上野水香さんは異次元的で、この役に相応しい幻のような抽象性を演じ切っていた。一切の無駄がなく、四肢の柔軟な動きは奇跡のようで、理想のベジャール・ダンサーがそこに現れたという有難さで胸が詰まった。ベジャールは上野さんを高く評価していた。美しい姿だけでなく、自分の精神や創造性を高い水準で理解している友人として、信頼していたのだと思う。ギエムや元BBLダンサーのシャルキナの幻影が一瞬よぎったが、上野さんしか演じられないベジャール精神の化身だった。
場面と場面の間に、「何も起こらない」真空のような空白があることも、今回初めて気づいた。何度も観ているのに、つくづく自分の目は節穴である。あの殺気に満ちた空隙は、西洋にはない「間」の感覚であり、「無」の時間でもあった。巨大な混沌を抱えて、ベジャールがこの劇でどこに行こうとしているのか、ともに考えるような感覚がもたらされ、記憶にある限りどんな舞台でもそんなことを考えたことはなかった。
ラストの四十七士と由良之助の群舞は、何度見ても何が起こっているのか全体を追いきれない。それでも今回は必死に凝視したが…一瞬のように感じられる結構な長丁場で、人のようで鳥の群れのようなめくるめく男性群舞は世界中のどのカンパニーも真似出来ないだろう。祈りを奉げた後の全員の割腹場面は、ベジャール本人も涙したという圧巻のクライマックスで、バレエでのみ観られる歌舞伎のドラマだった。「歌舞伎」という本物があるのに、バレエにしてしまったベジャールの大胆さ、それが的に刺さった矢のように正確であったことに今更ながら青ざめてしまった。
黛敏郎氏の『涅槃交響曲』は最近では今年4月に下野竜也氏指揮・東京都交響楽団で上演され、生音で聴いて作曲家の底なしの胆力に改めて驚いた。黛敏郎には粘り強い洋の魂があり、ベジャールには洞察的な和の魂があり、共作は自然なことだったと思う。39年前に創られた『ザ・カブキ』は213回上演を重ね、2025年の現在まで,強い衝撃や香りが失われることなく踊り継がれてきた。
ベジャール作品の炎を絶やさぬよう次世代に教え伝え、全力で献身してきた大勢の人々…亡くなった人も含めて…に深く感謝したくなった。軽薄な言葉にはしたくないが、これはバレエにとっても歌舞伎にとっても「国宝」と呼べる宝なのだ。
