小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

パリ・オペラ座バレエ団『マノン』(2/17夜公演)

2024-02-18 11:25:14 | バレエ
来日中のパリ・オペラ座バレエ団の『マノン』の2/17ソワレを鑑賞。マクミラン振付の『マノン』はパトリック・デュポン監督時代にオペラ座で初めて上演され、その公演にはマクミランも招聘されたが、振付家の死の二年前(1990年)のことだった。2022年には『マイヤーリング』もオペラ座のレパートリーになっており、オペラ座でのマクミラン再評価が高まっていると感じた。

幕が開くと、マノンの兄のレスコーがスポットライトを浴びて、いわくありげな表情でこちらを見つめている。最初に観客の目に入るのはマノンでもデ・グリューでもなくレスコーである。この人物の邪悪さと軽率さが物語のさまざまな悲劇を生むのだが、舞台を行き交う娼婦や物乞い、好色な金持ちたちも潜在的な不運を加速させる。ニコラス・ジョージアディスの装置は奥に幾重もの闇を感じさせる重層的な作りで、衣装は全員を見るのが大変なほど豪華で華麗。着飾った女性たちのドレスは18世紀後半の最も華やかなスタイルで、照明が当たっていないダンサーも見事な衣裳をまとっていた。娼婦たちにも階級があり、貧しい娼婦はそれに似合った格好をして快活に踊る。男たちもさまざまで、怪しい紳士、物乞い、スリ、ネズミ捕りが往来する。
その中で、一人だけ純粋で高貴な人間としてたたずんでいるのがデ・グリューで、えも言われぬ上品な姿勢で本を読んでいるエトワールのユーゴ・マルシャンが、「掃き溜めの鶴」ならぬ白鳥に見えた。主役のマノンは今やベテランの域に達したドロテ・ジルベール。可愛い脇役の小娘を演じていた頃から彼女が大好きだったが、16歳のマノン役も登場のシーンは初々しい。デ・グリューとマノンの視線はなかなか合わない。群衆の中で二人がお互いを意識するまで、マクミランはじりじりと観客をじらす。

プッチーニのオペラ『マノン・レスコー』なら、有名な「見たこともない美女」が流れてくるところだが、バレエ版ではマスネの曲が使われ、それもマスネのオペラ『マノン』ではなく、「あまり知られていないマスネの曲」で構成されている。物語はプッチーニ・オペラが参照されているが(ニコラス・ジョージアディスの提案だった)、著作権が切れていなかったのでプッチーニは使えない。クランコが『オネーギン』でチャイコフスキー・オペラを使いたいのに使えなかった苦労を、マクミランも経験したのだ。しかし、マスネの小曲群はバレエで素晴らしい効果を発揮し、特にハープ二台をピットに入れたこの公演でのオーケストラは素晴らしかった。東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団を指揮したピエール・デュムソーは天才的で、すべて暗譜で振っていたという。

ドロテ・ジルベールのマノンとユーゴ・マルシャンのデ・グリューは究極のカップルで、過去のガラ公演で『寝室のパ・ド・ドゥ』を観たときも感動したが、全幕で観るとハイライトのときよりも淡々としている。演技が大げさではなく、もっとハイセンスで秘めたものを感じさせるのだ。マノンに愛を告白する長いデ・グリューの最初のソロは、ダンサーにとって大変緊張するシーンだと思う。クラシック・バレエの技術の正確さが厳密に認められ、男性ダンサーに視線が一気に集中して、他に気を散らしてくれるものがない。ユーゴの白鳥のような優雅さと美しさに目を奪われた。自由で躍動的で、何物にもとらわれない。今活躍している男性ダンサーの中で一番美しいのではないかとさえ思った。

ドロテは踊りに潔さがあり、マノンのような若い役が似合うのも、彼女の中にやんちゃな少年性があるからだろう。一方ユーゴには、恥じらう乙女のような可憐さがある。と言っても本人には何のことか分からないだろうが、客席からステージを見ていると、物理的世界とは違うもうひとつの次元が見えてくることがある。マクミランはそこにこだわった。マノンとデ・グリューの引き合う心には神秘的な魔法が働いている。『寝室のパ・ド・ドゥ』はやはり名場面で、殊更大きな喝采が湧き起こった。

マノンが簡単に心変わりし、厚化粧の老ムッシューに身を売る場面も自然だった。ドロテは『オネーギン』のタチヤーナを演じたときも独特の解釈だったが、マノンもユニークで、自分自身は過剰な心理表現をせず、妹を売ろうとする兄の邪悪さや、毛皮や宝石の輝かしさにものを言わせる。マノンは社会的な犠牲者であり、「空っぽ」であればそれで完璧なのだ。ほとんど表情を変えずに、デ・グリューとの愛を放棄する成り行きは見事で、兄レスコーと老ムッシューと三人で踊るパ・ド・トロワは、マクミランのグロテスクな一面が溢れ出していた。

『マノン』のバレエの根底に流れているのは、ジョージアディスの美術に表れているような「貧困」であり、大多数の人間たちが抱いている貧困(やがて死に行きつく)への恐れである。マクミラン自身が、貧しい階層の出目であり、その上酷い舞台恐怖症だった。マノンは生存するために愛を捨て、その時代の大多数の人々が選ぶように金を選ぶ。そこに「仕方ない」という力学が働き、逃げたマノンを追いかけようとするデ・グリューの首根っこをつかまえたレスコーは、一幕の最後に「金がすべてだって、わかんないのか!」と純情な友人を恐喝する。
2幕の高級娼家でのシーンで、マノンが大勢の男性たちと戯れるようにアクロバティックな動きを見せる件は圧巻である。マノンは男たちの欲望に突き動かされ、欲望は金で満たそうとし、若くて美しい女は自分に無際限な富が流れ込んでくることがギャンブルのように愉快なのだ。少年が残酷な遊びに耽るように、マノンは玩具になった自分を楽しむ。

この高級娼家での乱痴気騒ぎ(?)はことのほか長く感じられた。マノンを目で追い、接近を試みようとするデ・グリューに完全に感情移入してしまったからだ。心で通じ合ったはずのマノンが「私はあなたが見えないのです」「私もここにいません」という態度で、男たちと悪ふざけをしている。自分自身が透明人間になってしまったかのようで、ちょっかいを出してくる娼婦たちもそのうち諦めて、側を離れていく。同じ空間にいながら、違う意識を生きていると相手はこちらを「見えていません」と言う。生きた心地がしないデ・グリューからずっと目が離せなかった。

高級娼婦たちを演じたオペラ座の女性ダンサーと、マダム役のアデライド・ブコーが艶やか。一人「ズボン役」の女性ダンサーがいたが、男装の娼婦という設定らしい。愛を思い出したマノンはデ・グリューの下宿に戻るが、束の間の逢瀬のあと、乱入してくる近衛兵たちと、老ムッシューに銃殺されるレスコーの描写が恐ろしかった。オペラではレスコーのこの場面はなかったように記憶している。

3幕は約25分と短いが、ここにマクミランのすべてが集約されている。生前は毀誉褒貶が激しかったマクミランだが、こういう世界を描いてしまったら、建前主義の良識派は当然激昂しただろう。マノンとデ・グリューの流刑地となったニューオーリンズで、娼婦たち(?)は髪を短く刈られ、僻地勤務の看守は好き放題な暴力を働く。ざんぎり頭の女たちの顔を一人一人確かめて、遊び相手を選ぶ兵士たちの様子は、毎回胸をかき乱される。昨今のデリカシーでは難しいのではないか、と思っていたマノンへの暴力シーンも、これを抜いたらマクミランではない、と言わんばかりにしっかりと演じられていた。
最下層の存在となり、文字通り男の玩具となったマノンが「モノ」のように看守と踊る振付は「これがバレエだなんて」と思うほど特異で、ここまで人間を深堀りしてしまったマクミランは、自分の才能で自分の首を絞めていた。極北の芸術家であり、異能の人であった、と再認識した。
奇異な植物(スパニッシュ・モスと呼ぶらしい)が縄のようにぶら下がるラスト近くでは、これまでの登場人物が幻影のように現れる。マクミランはバレエで、オペラを超えようとしていたのか。これほどの場面は、どんなオペラにもなかなか巻き起こらない。沼地のパ・ド・ドゥはリフトも高く、ダンサーの危険度も最高潮に達するが、オペラ座のペアは最後までパーフェクトで、ピットの音楽も神懸かり的に高まった。マクミランのミューズの一人であったアレッサンドラ・フェリが一度引退を決めたとき(2007年)フェアウェル公演のラストでこの沼地のパ・ド・ドゥを踊ったのを思い出した。ざんぎりヘアで紙吹雪を浴びる姿が再び脳裏に蘇った。

今回の来日公演はジョゼ・マルティネスの監督のもとで行われた「新体制」の公演だったが、ダンサーのキャスティングは適格で、前半の『白鳥の湖』では確実に何かが新しくなっているのだろうと思わせた(こちらの公演は観ていないが新鮮な人選)。前回のパリオペ来日公演はコロナ禍の規制と規制の間を縫って奇蹟的に実現したものだったが、オペラ座はつねに奇蹟を見せてくれる。ドロテとユーゴの黄金コンビの頂点をこの作品で観られた観客は、後々「奇蹟だった」と思い返すことになるかも知れない。





英国ロイヤル・バレエ団『ロミオとジュリエット』(6/29)

2023-06-30 10:20:09 | バレエ
4年ぶりの来日を果たした英国ロイヤル・バレエ団による『ロミオとジュリエット』6/29ソワレを鑑賞。
6/24~6/25に上演された『ロイヤル・セレブレーション』では、優雅で繊細な男性たち4人による『FOR FOUR』、華やかで強靭な女性たち4人による『プリマ』、巨匠アシュトンの英国絵画のような『田園の出来事』、バランシンの絢爛たる『ジュエルズ~ダイヤモンド』が熱狂的に迎えられたが、どこまでも美しくナイーヴな男性ダンサーと、華麗で強い女性ダンサーのコントラストが英国的に感じられ、伝統あるバレエ団の揺るがぬ格式に驚かされた。

『ロミオとジュリエット』は7組のプリンシパルによる7公演が全て完売。驚異的な人気公演となり、高額な転売チケットが流布するなどの悩ましい事態も起こっていたという。6/29のソワレも超満員。映画版にも出演したフランチェスカ・ヘイワードがジュリエットを、同年(2016年)にプリンシパルとなったアレクサンダー・キャンベルがロミオを演じた。

幕が開いた瞬間、ニコラス・ジョージアディスの伝説的な装置と暗いライティング、どこか血の匂いを感じさせる舞台の神妙な空気感に「これがロイヤルのロミジュリなのだ」と襟元を正したくなった。自分にとってバレエのロミジュリは、このマクミラン版が決定版で、92年のABTの来日公演でアレッサンドラ・フェリとフリオ・ボッカのペアを観て大きな衝撃を受けた(そのツアー中にマクミランが亡くなり、海外での追悼公演となった)。意外にも、最近多く観ていたのはクランコ版で、今回のマクミラン版が非常に新鮮に感じられた。現在のカンパニーの姿勢でもあるのか、語り口が上品で、あからさまな残酷さは控えられ、奥に秘められたものを感じさせる舞台だった。

ジョージアディスの美術と衣裳は圧巻で、戯画的なコスチュームをあてがわれることもある婚約者パリスやティボルトの装束も美麗。こうした細部は「ロミジュリ」マニアには深く突き刺さる。パリスのジュリエットへの愛は途中から一方的なものになるが、パリスにも深い苦痛があり、彼の育ちの良さや紳士的な振舞いがそれを暗示する(パリス役はニコル・エドモンド)。ティボルトを演じたベネット・ガートサイドは過去の来日公演でも重要な役を踊っていたが、円熟期(キャリアの終盤?)に入って、演劇性が先鋭化していて、物語の中心に入り込む威力を発していた。

フランチェスカ・ヘイワードのジュリエットは、「可愛らしい」少女を予想していたいたが、蓋を開けたらそんなものではなく、この人は驚異的な天才で、これはすごいロイヤルの宝だと思った。乳母とたわむれる登場シーンから、舞踏会でパリスとお披露目の踊りを踊るシーン、ロミオの出現とパ・ド・ドゥ、そこから再びパリスとの踊り…という短い時間の中で、みるみるうちに「女性」になっていく。この役なら当然だろう、とも思うが、実際に目の前で演じられると衝撃的以外の何物でもなかった。一人の人物を演じているというより、運命そのものを演じているようで、すべての動きに高度に抽象化された閃きがあった。

アレクサンダー・キャンベルは童顔で少年のようなダンサーで、若いロミオを微塵の虚飾もなく等身大に演じた。フランチェスカは当初本当の恋人であるセザール・コラレスとペアを組む予定だったが、コラレスの怪我により初めてキャンベルと踊ることになったという。このペアはユニークなケミカルを感じさせた。マクミラン版のバルコニーのシーンは、踊るダンサーによっては公然とした濡れ場(!)にも見えるのだが、この二人は妖精が空中で踊っているようで、背後からロミオにふわっと身をまかせるジュリエットは空気の精そのもの。人間の姿から蔓枝植物に変化していくギリシア神話の神のようでもあり、男女である以上にふたつの霊であり、絡み合うふたつのメロディだった。この場面をこんなふうに観たのは初めてだった。

マクミランは「うたかたの恋」や「マノン」でバレエ表現のモラルぎりぎりの表現をした人で、「ロミオとジュリエット」のバルコニーのシーンにも性愛のリアルな暗示を盛り込んでいる。と、そう思っていた。実際、そのように踊っても素晴らしいのだが(オシポワ、マリアネラの演技が楽しみ)、さらに若い世代であるダンサーは、思ってもみなかった新しい位相を見せてくれた。フランチェスカ・ヘイワードもマチネの主役ヤスミン・ナグディも1992年生まれで、マクミランが亡くなった年に生まれている。

広場での乱闘シーンでは、マキューシオ(ジェイムズ・ヘイ)を背後から刺し、ロミオと決闘するティボルトが圧巻だった。ティボルトだけが大人の男で、大人をからかうマキューシオは無礼な若僧、自分の親族の城にもぐりこんできたロミオも未熟者、という図式が浮き彫りになった。マキューシオを刺した剣についた血を指でなぞり、「これはなんだ?」と敵に差し出す仕草、逆上したロミオに「お前がそうなるのを待っていた」と年長者の余裕で構える。単純な悪役などではなかった。

ティボルト絶命の場面はキャラクターの見せ所だが、前後の流れも含めてガートサイドは素晴らしく、この夜キャピュレット公を演じたギャリー・エイヴィスも凄い演技をしたと思う。前日はマックレーのロミオとエイヴィスのティボルトという組み合わせだった。そういうことを考えると、全キャスト観なければ気が済まなくなってくる。

2023年のマクミラン版は、過去に上演されたある種の「くどさ」を抜き取り、どぎつい雰囲気を消しながらも、演劇のもっと怖くてミステリアスな位相を示していた。この夜もにこやかなケヴィン・オヘアが客席から舞台を見守っていたが、芸術監督の指針の正しさを尊敬したくなる。

プロコフィエフの音楽は狂気に近いほどドラマティックで、一日二回公演の疲労度を考えると東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団の健闘には感謝しかない。ジュリエットの仮死状態からロミオの死、ジュリエットの本物の死に至るまでの追い込み方は、舞台もピットも鬼気迫るものがあった。
『ロミオとジュリエット』はバレエで演じられるのが一番強烈なのではないか。何種類かオペラがあり、原典はストレートプレイだが、言葉のない次元で最も痛切に突き刺さってくるものがある。自分の分身が「出現」してしまったとき、世界はすべて変わってしまい、理屈では通らない衝動ですべてが崩壊してしまう。なぜそうなるのか、実際のところ本人たちにしか分からない。あるときは悲劇的に描かれ、あるときは滑稽に描かれる。
英国ロイヤル・バレエ団の『ロミオとジュリエット』は東京で残り4回、大阪と姫路でも公演が行われる。



シュツットガルト・バレエ団の輝けるスターたち(3/19)

2022-03-21 11:58:13 | バレエ
予定されていたシュツットガルト・バレエ団のカンパニーでの来日がコロナ禍で中止となり、若手ソリストを中心としたメンバーによるガラ公演が行われた。招聘元は逆境に強く、ベジャール・バレエの来日を三度目の正直で実現したことにも感動したが、「全員がダメなら少人数で」とシュツットガルト・バレエの精鋭を集めた公演を実現したことにも驚かされた。この混沌とした時代にあって、守りに徹するのもひとつの在り方だが、なんとしてでも志を貫く逆境力には、日本の侍の精神を感じてしまう。去年の世界バレエフェスティバルも最初は賛否両論だったが、結果は大成功だった。

コロナ禍の上に、2月末にウクライナで戦争が起こってしまった。バレエダンサーは世界中に友達がいるので、精神的にこれはきつい。ロシアでボリショイからスミルノワが退団したというニュースが伝わってきたが、ロシアのダンサーはもはや西や東の感覚なく何十年もやってきたはずなのだ。時代が逆行し、銃をとって戦ったダンサーの訃報まで伝わってきた。舞台芸術はコロナ、紛争と何重もの困難と向き合っている。

最初の演目が、とてもソ連っぽい「春の水」というバレエだったので、これは鮮烈なメッセージだと思った。ボリショイ黄金期の名教師で振付家のメッセレルが振り付けた短いパ・ド・ドゥで、ラフマニノフの音楽に合わせてエリサ・バデネスとマルティ・フェルナンデス・パイシャが軽やかに踊った。バデネスが舞台に登場しただけで春が訪れたようで、ますます美しくなるバレリーナのオーラに見とれるばかりだった。

続く「ソロ」(ハンス・フォン・マーネン振付)は若い3人の男性ダンサー、ヘンリック・エリクソン、アレッサンドロ・ジャクイント、マッテオ・ミッチーニがバッハのヴァイオリンのためのパルティータに乗せて遊戯的な動きを見せ、一人が舞台上手に入ると次のダンサーが素早く下手から登場する。最初二人のダンサーが踊っているのかと錯覚したが、途中から3人であることが分かり、面白くめまぐるしい振付に笑いがこみあげた。

マクミランの「コンチェルト」を踊ったアグネス・スーとクリーメンス・フルーリッヒのペアは初めて見たが、アグネス・スーはプリンシパル。荘厳な美しさのあるダンサーで、ショスタコーヴィチのピアノ・コンチェルトに合わせてクラシックの基本のポーズを完璧に見せていく。この振付は無表情で踊るべきなのだろう。張り詰めた美しさがあった。マクミランはこういうバレエも作っていたのだ。オレンジ色の男女のコスチューム、太陽を思わせるオレンジ色の丸い照明も印象的だった。

唯一チュチュを着て現れた若手のマッケンジー・ブラウンはプリンシパルのデヴィッド・ムーアと『眠れる森の美女』のグラン・パ・ド・ドゥを踊ったが、初々しさと可愛さが全身から溢れていて好感度が高かった。見るからに緊張気味なのだが、日頃から充実したレッスンを重ねていることが伝わってくる。未知数のバレリーナで、クラシックの規律の中に温かみも感じさせ、理想のオーロラだと思わせた。性格的な魅力が凄い。2019年のローザンヌで1位とコンテンポラリー賞、観客賞を受賞している。同じ若手のガブリエル・フィゲレドと最終日に同じ演目を踊るはずだったが、フィゲレドの来日が叶わなかったためこのペアは今回観ることが出来ない。この日は先輩のデヴィッド・ムーアまで初々しい感じで、「クラシック・バレエって本当にいいですね~」と、映画解説者の水野晴郎さんのように解説したくなった。

第二部は濃厚なパ・ド・ドゥが続いた。エリサ・バデネスとデヴィッド・ムーアの『椿姫』の第2幕のパ・ド・ドゥでは、ピアニストの菊池洋子さんのショパンのソナタ3番ラルゴ楽章の演奏も素晴らしく、バデネスが完全にバレリーナとして充実期に入っていることを感じさせた。オペラ座のドロテ・ジルベールも、可愛い娘役が似合っていた時代から、突然妖艶な花を咲かせた瞬間があったが、同じものを感じる。無敵のシュツットガルト・ダンサーとしての完成形を見た。
コンテンポラリー「やすらぎの地」は、前半にも踊った準ソリストのアレッサンドロ・ジャクイントによる振付で、彼自身とヘンリック・エリクソンが踊った。前半はノイズ・ミュージックで、後半からメロディアスなギター・ポップになるのだが、思春期的な心の疼きを感じさせるダンスで、男性ダンサー二人の絡みがスリリングなほどだった。この日が世界初演の新作だったが、ジャクイントは既に7つの作品を発表している。シュツットガルトはこうした貴重な才能をもつダンサーを何人も輩出しており、カンパニーの土壌の豊かさをつくづく感じさせる。

クランコ作品は『オネーギン』の第1幕のパ・ド・ドゥで、本来ならカンパニーの公演で見られるはずだった。プリンシパルのロシア・アレマンとマルティ・フェルナンデス・パイシャが魅力的なペアだった。タチヤーナが恋文をしたためながら幻影のオネーギンと踊る場面は、何度見ても胸が高鳴る。オネーギンが鏡の世界からふらっと現れる感じは、ニジンスキーが踊る「バラの精」に似ていると気づいた。

フォーサイスの「ブレイク・ワークス1」より「プット・ザット・アウェイ・アンド・トーク・トゥ・ミー」は、クレジットをよく見ていなかったので良く出来たコンテンポラリーだと感心していたのだが、成程のフォーサイス作品だった。アグネス・スーとマッケンジー・ブラウンとマッテオ・ミッチーニの3人が優れた技術とユーモアで、難解で楽観的なダンスを披露し、特に女性ダンサー二人のシンクロする動きが、それぞれ別のメッセージを放っているのが良かった。「フォーサイスもこじれる前はいい作品を作っていたんだな」と思ったら、2016年初演で結構最近の作品だった。
マクミランの奇抜な傑作「うたかたの恋」では、いよいよフリーデマン・フォーゲルが登場。盛大な拍手が巻き起こった。このバレエは昔ロイヤル・バレエで見て、マクミランのある種の猟奇性みたいなものに震撼したのだが、それほど「病んだ」バレエを今こそ観たいという気分だった。ルドルフ公の自己矛盾、精神の痛みが凄まじい表現で、それを篭絡する若き恋人マリーを演じるバデネスの演技がさらに憑依的。言葉で多くを語るのがためらわれるほどの世界だった。昨年行った来日のためのリモート・インタビューで「ルドルフを踊り終わった後は、楽屋で崩れ落ちてしまう」とフリーデマンは語っていたが、生まれつき毒や病をもたない健全な魂にとって、きついバレエなのかも知れない。マクミランは鬼か悪魔か…しかし、シュツットガルトでどうしても全幕を観てみたいと渇望してしまった。

二度目の休憩の後、いよいよフリーデマンがメロディを踊る『ボレロ』。東京バレエ団との共演で、今まで見たことのない驚きのボレロだった。
ギエムや首藤康之さん、ニコラ・ル・リッシュや上野水香さん、柄本弾さんや、BBLの昔の海外公演ではあまりうまくないダンサーが踊るのも見てきた。最新では、ベジャール・バレエのプリンシパル、ジュアン・ファヴローが見事だった。多くの踊り手は生前のベジャールに指導を受け、振付家からダンスのエッセンスを受け継いでいる。
フリーデマンのボレロは、まずシュツットガルト・ダンサーの肉体ということを考えさせられた。皆、どんな技術的・演劇的なニーズにも応えられるよう鍛えられており、柔軟で美しい。前半のコンテンポラリーでも、シュツットガルト・バレエの充実した日常が男性ダンサーのボディを作っているという印象を得た。それはヒューマニスティックで明るいもので、ロイヤルバレエともボリショイとも異なる。

ボレロの細かい動きを、音楽と完璧にあわせて表現するフリーデマンのメロディは、途中で獣か火の龍に「変身」してしまうドンとは異なり、最後まで人間的だっだ。ジュリアン・ファヴローもそうした「削り取った」シンプルなボレロを踊るが、彼にはベジャールとのストーリーがあり、その意味で隠れた重みがある。男性と女性では振付が異なる部分があるという。フリーデマンは何となく中性的で、音楽の昂揚とともにどんどん少年に戻っていく。身体への負荷が大きくなるにつれて、元気いっぱいになっていく。
「これがフリーデマンのすっぴんの魂なのか!」と、何だか笑いが止まらなかった。なんと明るくて正義感に溢れ、真実を疑わない勇敢な魂なのか。
病に憑りつかれたルドルフを踊った後に、ボロボロになってしまう正直さ、ボレロで太陽のように輝いてしまう率直さ。ダンサーは魂を隠せないのだ。
シュツットガルト・バレエは色々なことを教えてくれる。戦争が起こったとき、島国にいるのと国境が陸続きなのでは危機感も違うと思うが、国の地形や歴史は芸術や人間性にも潜在的に影響を与えていると感じた。「人間とは大変なものだよね」というとき、中央ヨーロッパの人々は受け止め方が、すごい。そこには手が届かないほどの崇高な楽観と、ユーモアがあるのだ。自分がバレエや音楽を通して認識したいのは、そうした遠い国の人々の卓越した精神性なのだと思った。フリーデマンの太陽のボレロは、すべての答えだった。






モーリス・ベジャール・バレエ団『バレエ・フォー・ライフ』(10/16)

2021-10-20 13:32:15 | バレエ

全7公演を成功させて帰国したモーリス・ベジャール・バレエ団。Bプロの『バレエ・フォー・ライフ』は3日目の10/16を観た。終演後は1階席総立ちのカーテンコールが巻き起こり、久々の海外バレエ団の引っ越し公演の熱気に圧倒された。少しばかり日にちが経ち、公演の印象が頭の中で整理されてきたように感じる。

一番の衝撃は、過去にもこの演目で何度も目にしてきたラストのジョルジュ・ドンのフィルムだった。道化の格好をして十字架にかけられ、頭から血を流し、泣きそうな顔で酩酊じみたふらふらの踊りを見せる。これは一体どのような状況で撮られたものなのか。雪の中で裸で踊っているような印象だ。ドンの悲鳴が聞こえてくる心地がした。ベジャールは創作を愛し、ダンサーを愛したが、愛された側がこんなに寂しい想いをしているとは知らず、ドンの映像に狼狽したのではないか? 神の視点にいた完璧な人が、初めて相手から突き付けられた予想外の「返歌」のようなものが、あの映像であるような気がした。

『バレエ・フォー・ライフ』の初演は1997年で、振付家の晩年期の10年に作られたものだが、このあたりからベジャールは自分の幼少期を振り返る作品が多くなり、ますます自己のストレートな心情を隠さなくなっていく。かつての20世紀バレエ団には、その名の通り「20世紀のモダン芸術に責任を持つ」という大義があったはずだ。ストラヴィンスキー、ウェーベルン、ピエール・アンリ、テオドラキス、タキシード・ムーンに振付をし、ストラヴィンスキーの「春の祭典」では曲の運命をなぞるかのように、ベジャールのバレエも「炎上」した。

「人は老いると極端にエゴイストになる。若い頃は、自分の可能性を示したいがために、また自らの存在の証として、または人々を感動させ観客を魅了したいという理由でバレエを作る。後には、つもり年をとると、創作は自分自身との関係においてしか存在しない。自分の可能性を見せる必要はもうない。そんなことはもう十分にやってしまったのだから」(モーリス・ベジャール回想録 誰の人生か? 前田充・訳)

ベジャールは恐らくそのような心境から、『バレエ・フォー・ライフ』を作った。クイーンの音楽は奇跡的な起爆剤となり、ロック・スターのフレディのイメージの断片がベジャールの舞踊言語と合致した。ユーモア、道化的、楽観性…ブライアン・メイのディストーションのかかったギターにあわせて、ダンサーが痙攣のような動きを見せるのは、そもそもピエール・アンリの電子音楽を使っていた頃からのベジャールの「語彙」だった。クラシックにはない、面白い動きである。

視覚的にも音楽的にも娯楽的要素が強いといえばそうなのだが、『バレエ・フォー・ライフ』はベジャールの私小説的なバレエでもある。カンパニーのダンサーはほとんどが2010年以降に入団した若者で、生前のベジャールを知らない。カンパニーのスタジオとルードラは同じ建物なので、ルードラの生徒は通りかかったベジャールに励ましの一言をもらっただけで、羨望の眼差しだったと金森穣さんが教えてくれたことがある。そうした経験をしていなくても、ダンサーは振付からベジャールの意志を理解する。皆がベジャールの可愛い子供たちであり、美しい創造物だった。

ジル・ロマンが長年踊った『エジプト王タモスへの前奏曲』と『フリーメーソンのための葬送音楽』はガブリエル・アレナス・ルイスが踊った。ジル以外のダンサーがこれを踊るのは大変なことで、以前この役を踊っていたバティスト・ガオンはジルと全く異なる雰囲気だったが、ガブリエルはジルの分身のようだ。鋭利で悪魔的で容赦なく、空間を刃物で切り裂くような動きが素晴らしい。苛酷なリハーサルの成果を思わせた。じっくりジルに指導されたのだろう。ガブリエルはバレエ団のもうひとつの柱になりつつある。

「ボーン・トゥ・ラヴ・ユー」でのエリザベット・ロスは、今が一番美しいのではないかと思わせるほどで、このダンサーには時間というものが存在していないかのようだ。相当なキャリアがあるはずなのだが、容姿にもダンスにも衰えがない。マリオネットのような動きが特徴的な「ヘヴン・フォー・エヴリワン」はイタリア出身のマッティア・ガリオットが健気に踊った。目に焼き付いたのは「ピアノ協奏曲第21番」でペアのダンスを踊ったアントワーヌ・ル・モアルで、彼を意識したのはこの日か初めてだった。小悪魔のように魅惑的なダンサーで、大胆にも「自分だけを見つめろ」というオーラを放ってくる。「レディオ・ガガ」の箱に密集する(!)男性ダンサーの中でも、彼だけを目で追ってしまった。
 「ウィンターズ・テイル」のソロを踊るのは、カンパニーの中でも誇らしいことだ。クーン・オンズィアや小林十市さんの名演を彷彿させるヴィト・パンシーニのダンスが大変良かった。若手ダンサーもどんどん育ってきている。

『バレエ・フォー・ライフ』は2002年に初めて見て、2004年にはトリノのテアトロ・レージョでも観た。ジュリアン・ファヴローのフレディがどうしても見たくてイタリアまで行ったのだが、レージョ劇場の三日間のうち初日は6割入り、マーティン・ヴェデルがダブルキャストで踊った二日目には8割ほど埋まり、再びジュリアンが踊った最終日は超満員になった。イタリア人の口コミの力はすごいと思った瞬間だった。露出の多いヴェルサーチの衣装を、変わらぬ姿で着こなしてフレディを踊り続けるジュリアンには尊敬しかない。10代からこの役を踊り続けている。

完璧に役を保ち続けているジュリアン・ファヴローを見て、最後にドンのフィルムを見てしまうと、奇妙な思いにとらわれる。これはドンに捧げられたバレエで、ダンサーはドンの追悼のために踊る。ジュリアンも主役でありながら、最後で主役ではなくなってしまう…勿論そうではない解釈もあるだろうが…。ベジャールが亡くなって14年経ち、最後のミューズであったジュリアンに、ベジャールは天から何を語り掛けているのかを知りたくなった。カンパニーのプリシンパルである彼は、現役でまだ踊れる人なだけに、色々思う。マッツ・エクは彼をカンパニーに欲しがったという。ベジャールと仲が良かったマッツは、ベジャールから彼を取り上げることはしなかったが、今もし可能性があるなら何を振り付けただろうか。
「ショー・マスト・ゴー・オン」に現れたジル・ロマンを見て、さらに心が疼いた。ドンとジルは光と闇のような存在で、ドンとベジャールが亡くなった後も、ジルはベジャールのドンへの愛を、監督として全責任を負って再現する。
どんな人生も楽ではない。むしろ、徹底して、完膚なきまでに苛酷なのだ。フランス語の長い原題はよく分からないが、英語で「バレエ・フォー・ライフ」と名付けられたこの作品の含蓄を、繰り返し噛み締めた。




 
 

 

 

 

 


モーリス・ベジャール・バレエ団(10/9)

2021-10-13 06:27:20 | バレエ

2度の延期を経て悲願の来日公演。流れてしまったものの中には東京バレエ団との『第九交響曲』などもあったが、こうして4年ぶりにカンパニーの来日が叶うことは喜ばしい。Aプログラムは芸術監督ジル・ロマン振付『人はいつでも夢想する』、ベジャール振付『ブレルとバルバラ』『ボレロ』。

ジョン・ゾーンの音楽にインスパイアされたという『人はいつでも夢想する』は、過去に日本で上演されてきたジル・ロマン振付作品の中でも大作(上演時間1時間10分)で、彼女(ジャスミン・カマロタ)と彼(ヴィト・パンシーニ)を中心に「族」「天使たち」の群舞が暗示的なストーリーを組み立てていく。ジル・ロマン作品は欧州でも既に評価を得ているが、この作品を見て改めて「ベジャール・バレエは本当に新しくなったのだ」と感じた。4年の間に新しく入ってきたダンサーもいて、若い人たちは生前のベジャールをほとんど知らないだろう。ジル・ロマン作品は、独自の演劇的教養を含みつつ、「ベジャール的な世界」と「ベジャール的でない世界」を往復している印象だった(風の効果音や、シンプルな「壁」はベジャール世界を彷彿させた)。
振付家とダンサーの関係もまた、ベジャールとは異なる。バレエの物語はどこか黙示録的な世界観を感じさせるが、明快な人間関係については一度観ただけでは明確に分からなかった。もう一度観るべきだったのかも知れない。音楽の編集の仕方はかなりサイケデリック(?)で、演劇人としてのジル・ロマンの過激さに驚いた。

『ブレルとバルバラ」はベジャールの2001年の作品で、抜粋は過去の来日公演で上演されたことがあったが、フルヴァージョンは日本初演。親しみがある振付なので意外だと思っていたら、過去にローザンヌで見ていたことがあった。ジャック・ブレルとバルバラの歌とインタビュー音声が使用され、初演からバルバラ役をエリザベット・ロスが踊り続けている。ジル・ロマンが踊っていたブレルのパートは、ガブリエル・アレナス・ルイズが引き継いだ。ベジャールがこのバレエを創作する様子はドキュメンタリー映画『リュミエール』で見ることが出来るが、面白いことに当時のダンサーと面影が重なるダンサーが何人かいる。
エリザベット・ロスは、20年前より若々しくなっている印象があった。二日目の主役も彼女が踊ったという。そのすぐ後に「ボレロ」を踊った(!)。バルバラの役はつねにシングルキャストで、ベジャールはエリザベットに魅了されてバルバラを振り付けたので、他のダンサーに代役は出来ないのだ。舞台はシンプルで、ダンサーの肉体だけが観るべきものとしてある。ジャン・ポール・ノットのシンプルなデザインのコスチュームが長身のエリザベットによく似合っていた。

休憩なしの3分間の転換で『ボレロ』開始。初日のメロディを踊ったジュリアン・ファヴローは2007年からこの役を踊っているが、それ以前は彼と同年代のカトリーヌ・ズアナバールやオクタビオ・スタンリーが踊り、誰が見ても実力のあるジュリアンが赤い円卓の上で踊ることはなかった。2005年の香港公演ではリズム(群舞)を踊っていたが、一番目立つのでどうしてもメロディよりリズムを見てしまった。

『ボレロ』のメロディは「人間スプリンクラー」とも言われたジョルジュ・ドンの野性的なヴァージョン、ギエムのカリスマ的ヴァージョンのインパクトが大きく、見る側にも強い先入観があるが、ジュリアンの『ボレロ』の解釈は意表をつくもので、振付をゼロから見直して厳密に構築されたものだった。
彼は恐らくベジャールにとって最後の霊感の源で、ルードラ卒業後に17歳でカンパニーに入り、忽ち神のような踊り手に成長した。その嬉しい驚きは、振付家を奮い立たせるものだっただろう。ベジャールは多くの主役をジュリアンに与え、2005年にはニーチェの超人思想をテーマにした「ツァラトゥストラ」でタイトルロールを踊らせたが、ボレロは踊らせなかった。何故なのかは分からないが、ベジャールにはベジャールの神がいて、ジュリアンにはジュリアンの神がいたのだと思う。

奇妙な言い方になるが、ジュリアン・ファヴローの『ボレロ』は道徳的な踊りなのだ。野性とか情熱とかを超越した、もっと別の次元に超然としてある。知の神殿で踊られる、すべての肉体表現の祖型のような、神聖な厳密さを表現する。最後に訪れるカタルシスは、どのダンサーよりも激しい。踊り全体に神秘がある。

2002年にジュリアン・ファヴローの演技を観て、自分の人生も変わった。オペラ座の優れたダンサーを観て「不安だ」と思うことはなかったが、彼を見ていると計り知れない神秘に直面しているようで不安になった。ローザンヌやイタリアや中国でも観たが、20代半ばで既に完成された表現者で、踊り手の「魂」ということを初めて考えさせてくれた。ダンサーとは宿命で、避けられない魂の道なのだった。このことを書き出すと、一冊の本になる。

10/14からは『バレエ・フォー・ライフ』(全4公演)がスタートする。