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小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

東京バレエ団『ザ・カブキ』(6/27)

2025-06-29 15:47:46 | バレエ
新国立劇場オペラパレスで三日間行われる東京バレエ団『ザ・カブキ』の初日を鑑賞。大入りの札が出たこの日の会場は、普段のオペラハウスとも違い、いつものバレエの客層だけでもないように見える若い人たちも多く訪れ、和装や袴のお客様もちらほら見えた。このバレエは今はなき五反田のゆうぽうとでも観ている。初演から約40年、過去の東京バレエ団の色々なダンサーが一生懸命に踊ってきた。前回の上演は2024年10月だったので短い間隔での再演となったが、由良之助役の柄本弾さんが芸術選奨文部科学大臣賞を受賞されたタイミングも重なって、祝祭的な雰囲気があった。

ベジャールが異文化の伝統を取り込むとき、それはリスペクトから入るのだが、バレエと融合させる「力技」は大胆で、奇跡としか言いようのないものがある。目の前で見ているのはバレエなのに歌舞伎で(忠臣蔵のストーリーがベースになっている)、歌舞伎のすり足や重心が下にある動きは、天に向かって飛翔していくバレエの動きとは正反対のはずなのだ。ベジャールは相当歌舞伎を研究したと思う。クラシックの「マイム」のようなものも歌舞伎にはないし、ダンサーは声を発しない。しかしながら、すべての瞬間で「歌舞伎を観ていた」という感覚があった。鍛錬されたダンサーたちの身体は、いくつものクラシックの型を見せていたが、それはすべて歌舞伎の印象に変形されていたのだ。

冒頭の80年代の東京の映像や若者たちの群像は、毎回見るたびに驚く。衣裳は少しずつ変化しているが、昔はもっと通俗的な(!)装いだった記憶。現代の青年(柄本弾さん)が黒子によって剣を託され、そこから忠臣蔵の世界が始まるというのもベジャール的だが、黒子にもスポットライトが当たるこのシーンは天才的だと再認識した。ベジャールは自分を賢そうに見せることはしないし、日本の伝統芸能を「理解した」ふりもしない。わざと、西洋の人間がエキゾチックなものに触れている様子を擬態しさえする。もちろん、本当は本質的なものを理解しているし、伝統芸能の神髄部分でバレエと歌舞伎は結婚できることを確信している。トレーナーを着た若者が陣羽織を羽織って急に歌舞伎の登場人物になるシーンを筆頭に、「ザ・カブキ」には垢抜けないシーンがひとつもない。背景に布の浮世絵や平仮名の幕が出てくる場面では、毎回痺れるようなかっこよさに武者震いする。

1986年当時の東京バレエ団のダンサーたちは、凄まじい身体的鍛錬とともにこの作品を完成させていったのだ。ベジャール作品ではクラシックの基礎をより厳しく行う必要があり、一方で誰もやったことのない歌舞伎とバレエのミックスの動き、義太夫に合わせて拍を取る音感覚、着物の早変わりなどをマスターしなければならない。何より、ベジャールは歌舞伎の「スピリット」を求めていたはずで、一人一人の演じ手が背負わされた責任の重さはとんでもないものだったはず。本当に信じられないことだが、若い彼らは完璧にやり遂げた。初演の年には二か月かけてヨーロッパ各都市を巡るツアーを行っている。日本のカンパニーが世界に討ち入りし、大成功を果たしたのだ。

由良之助を演じた柄本弾さんは2010年からこの役を踊っているから、15年のキャリアがある。集中力と観客を巻き込むカリスマ性、男性群舞を率いるリーダーシップには磨きがかかり、初日も見事だった。柄本さんは生前のベジャールには会っていない。ベジャールはこの由良助を観て喜んだだろう。塩治判官の樋口祐輝さん、高師直の鳥海創さん、直義の中嶋智哉さんも見事で、勘平の池本祥真さんとおかるの沖香菜子さんの恋人同士の踊りも見ごたえがあった。おかる役にはベジャールは相当の思い入れがあったのだろう。道化的な装束で八面六臂の活躍をする伴内の岡﨑隼也さんには、ゲッツ・フリードリヒ演出の『ラインの黄金』の登場人物を連想したが、どちらも作られたのは80年代。オペラとバレエの演出の当時の趨勢というものがあったのだろう。「ザ・カブキ」の中では現代劇的な異化効果を果たしていた。

顔世御前の上野水香さんは異次元的で、この役に相応しい幻のような抽象性を演じ切っていた。一切の無駄がなく、四肢の柔軟な動きは奇跡のようで、理想のベジャール・ダンサーがそこに現れたという有難さで胸が詰まった。ベジャールは上野さんを高く評価していた。美しい姿だけでなく、自分の精神や創造性を高い水準で理解している友人として、信頼していたのだと思う。ギエムや元BBLダンサーのシャルキナの幻影が一瞬よぎったが、上野さんしか演じられないベジャール精神の化身だった。

場面と場面の間に、「何も起こらない」真空のような空白があることも、今回初めて気づいた。何度も観ているのに、つくづく自分の目は節穴である。あの殺気に満ちた空隙は、西洋にはない「間」の感覚であり、「無」の時間でもあった。巨大な混沌を抱えて、ベジャールがこの劇でどこに行こうとしているのか、ともに考えるような感覚がもたらされ、記憶にある限りどんな舞台でもそんなことを考えたことはなかった。

ラストの四十七士と由良之助の群舞は、何度見ても何が起こっているのか全体を追いきれない。それでも今回は必死に凝視したが…一瞬のように感じられる結構な長丁場で、人のようで鳥の群れのようなめくるめく男性群舞は世界中のどのカンパニーも真似出来ないだろう。祈りを奉げた後の全員の割腹場面は、ベジャール本人も涙したという圧巻のクライマックスで、バレエでのみ観られる歌舞伎のドラマだった。「歌舞伎」という本物があるのに、バレエにしてしまったベジャールの大胆さ、それが的に刺さった矢のように正確であったことに今更ながら青ざめてしまった。

黛敏郎氏の『涅槃交響曲』は最近では今年4月に下野竜也氏指揮・東京都交響楽団で上演され、生音で聴いて作曲家の底なしの胆力に改めて驚いた。黛敏郎には粘り強い洋の魂があり、ベジャールには洞察的な和の魂があり、共作は自然なことだったと思う。39年前に創られた『ザ・カブキ』は213回上演を重ね、2025年の現在まで,強い衝撃や香りが失われることなく踊り継がれてきた。
ベジャール作品の炎を絶やさぬよう次世代に教え伝え、全力で献身してきた大勢の人々…亡くなった人も含めて…に深く感謝したくなった。軽薄な言葉にはしたくないが、これはバレエにとっても歌舞伎にとっても「国宝」と呼べる宝なのだ。


英国バーミンガム・ロイヤル・バレエ団『眠れる森の美女』(6/21)

2025-06-22 11:55:11 | バレエ
現在来日中の英国バーミンガム・ロイヤル・バレエ団の『眠れる森の美女』の21日マチネ公演。1984年初演のピーター・ライト版はクラシカルな魅力満載で、幕が開いた瞬間フィリップ・ブラウズによる厳かな美術と衣裳に圧倒される。ペローがこの物語を書いた17世紀のバロック様式を意識してか、黄金色の装置は豪奢な城の内部を再現し、歴史画のように重厚で、紳士たちはラモーやヘンデルのような巻き毛のウィッグをつけている。その毛量の凄さも本格的だ。先日からこの演目の上演が続いたせいか、個性の違うプロダクションが面白く映る。ギャヴィン・サザーランド指揮の東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団の演奏も、ピットを深く掘って音風呂効果(?)を演出した幻想的なもので、男性群舞が勇壮に踊るシーンでは英国の軍隊を連想させる厳しい音を出していたのが印象的。
オーロラ誕生に城中が湧くプロローグでは、妖精たちがそれぞれのキャラクターを強調したソロを踊る。「美しさの精」を踊ったシャン・ヤオキアンはバレエ団のプリンシパルダンサーで、明るい表情で観客を魅了した。他の妖精たちのソロは少しばかり仕上がりにばらつきがあったが、群舞はこのカンパニーならではのおっとりとした雰囲気が好ましく、騎士たちの踊りには英国紳士の気品が感じられた。カラボスは美しい魔女として描かれ、城の祝祭の雰囲気を一気に変える。アイリッシュ・スモールという名前のダンサーがハリウッド・スターのオーラでゴシック・ファンタジーな悪役を演じ、対する「善」の象徴であるリラの精をイザベラ・ハワードが毅然として優雅に演じた。

休憩後の第1幕ではオーロラ姫の栗原ゆうさんが、登場の瞬間から空気を一変させた。完璧な姫で、彼女がいるだけで空間全体が優美で平和なオーラで満たされる。プロローグで聞こえた夥しい足音が、オーロラの踊りでは少しも聴こえない。甲の美しさは姫の心映えを表しているようで、16歳のオーロラは城の中が平和であること、自分への愛と祝福で満たされていることを喜ばしく思っている。栗原さんの視線の演技が素晴らしかった。主役として自分だけの追い込み方をして、日々鍛錬していることが伺えた。
緊張を強いられるローズ・アダージョでも冷静で、4人の王子たちを相手にバランスを取り続ける間中、湖面のように静かでぐらつかず、安定感がキープされていた。ロイヤル・スクールの特徴なのか、ただ技術を燃焼させて踊るのではなく、要所要所に抑制が感じられる。足は上げ過ぎてもいけないし、作品によっては感情表現も控えめになる。
オーロラ姫の「役作り」というのは、オデットやジゼルやジュリエットより抽象的なのではないだろうか。劇的な演技は求められないが、祝福された姫として、プロローグで踊った妖精たち全員の美徳が、息のように魂に吹き込まれている。妖精たちの善き特性が結晶化したのがオーロラという存在で、善を憎む闇の女王であるカラボスが姫を憎むのは当然なのだ。

2幕ではオーロラは幻影となり、まぼろしの姿でフロリムンド王子と踊る。王子役のラクラン・モナハンは2012年に入団したプリンシパル3年目のダンサーで、ノーブルな気品に溢れていたが、そうした空気感もこのオーロラとの共演でさらに磨かれたものではないかと思われた。ピーター・ライト版では100年の眠りについたオーロラの前で、リラの精と王子、カラボスが姫救出のための闘い(?)を繰り広げるという場面があり、王子は姫を救うためにキスをするのが通常の段取りだが、「僕は一体何をすればいいの?」と天に問いかけてから、「わかった!」と微笑んでオーロラに近づいていくモナハンがあまりに可愛かった。「寝ている人にキスしていいのか」と奇妙なコンプライアンス問題が浮上してきた現在、とてもデリケートで爽やかなキスまでの道のりだった。

3幕の結婚式のシーンでは、お馴染みペロー童話の登場人物がキュートな踊りを披露し、バーミンガム・ロイヤルの衣裳のクラシカルな魅力、ダンサーのコケティッシュな表情が見事だった。オーロラはますます美しさと輝きを増し、自分の王国のすべての民の平和と幸せを願い、王子とのグラン・パ・ド・ドゥを踊る。子供っぽくなりがちなオーロラのヴァリエーションも、ダンサーの美意識が投影された洗練された表現で、「舞台の上で何をどう見せるか」という研究と、内観を深く静かに掘り下げていく心の作業が同時に見えた。ただ一度のインタビューで、栗原ゆうさんは凄い芸術家なのではないかと直観で思ったが、初めて観る舞台でこれほどまでに感動させてくれるとは予想していなかったので、驚きつつも涙が止まらないのだった。

チャイコフスキーは6曲の交響曲を書き、三大バレエ音楽を書いたが、実存の問いとしての交響曲を書く作曲家は多くとも、バレエへの溢れる愛を渾身の情熱で書き上げた音楽家は少ない。『眠れる森の美女』は子供向けの御伽噺ではなく、もっと宇宙的で哲学的な愛の議論なのではないか。チャイコフスキーはそれを疑わなかった。バレエそのものが、もうとんでもなく青天井な愛のアートであり、先日のオーストラリア・バレエ団の『ドン・キホーテ』でも「ある時代を生きた若者たちの眩しい青春群像」が見えたが、バーミンガム・ロイヤルの『眠れる森の美女』も、ドレスやかつらに彩られた古き良き時代の人々の優雅な群像劇なのだと認識した。

カーテンコール時には、芸術監督のカルロス・アコスタが登壇し、栗原ゆうさんのプリンシパル昇格を発表。ハッピーエンドのバレエにさらに光彩が加わり、舞台がますますまぶしくなった。夏至の日の午後に上演された『眠れる森の美女』は、夏の夜の夢のようなひとときとなった。


ⒸTristram Kenton


シュツットガルト・バレエ団『オネーギン』(11/2)

2024-11-04 07:44:28 | バレエ
6年ぶりにカンパニー全員が来日したシュツットガルト・バレエ団の『オネーギン』の初日を鑑賞。このカンパニーでの『オネーギン』のフルヴァージョンを初めて観たのは2005年11月で、当時26歳のフリーデマン・フォーゲルは繊細なレンスキー役だった。今やすっかり主役のオネーギンが似合う成熟したダンサーとなり、ヒロインの妹オリガのイメージが残るエリサ・バデネスもタチヤーナを素晴らしく踊るようになった。

キャリアの円熟期に入ったとはいえ、美しく若々しいフリーデマンの姿に登場シーンから拍手が起こる。本ばかり読んでいた内向的なタチヤーナは、都会的な青年貴族オネーギンに一瞬で恋に堕ちるが、娘に一瞥をくれるときのオネーギンの眼光の鋭さに震えた。獲物の心臓に矢を放つような目で、視線を向けられた方はすっかり自由を奪われてしまう。バデネスが少し前とは別人のような顔つきで、聖女のようでもありしっとりとした大人の女性のようでもあった。ユルゲン・ローゼの美しい美術(先日の東京バレエ団のクランコ版『ロミオとジュリエット』でも魅了された)は厳かな色彩感で、屋内の暗い雰囲気もロシア風。サンクトペテルブルクの古いホテルがあんなふうだった。

外向的でチャーミングな妹オリガをアメリカ人ダンサー、マッケンジー・ブラウンが踊り、オリガの婚約者レンスキーをブラジル出身のガブリエル・フィゲレドが踊った。22歳と24歳の若い二人で、マッケンジーは全身から明るい光を放ち、技術面でも大変なテクニシャン。Gフィゲレドは13歳でクランコ・バレエ学校の校長先生にスカウトされ、クランコ作品を踊るために育てられたような人。レンスキーはチャイコフスキーのオペラではテノールだが、バレエのレンスキーもトスティの真面目な歌曲を歌っているような規律正しい踊りで、基礎的なポーズを厳密に見せていくが、それがとても初々しい。クールで冷笑的なオネーギンとのコントラストが強調されていく。

タチヤーナが鏡の中から飛び出してくるオネーギンと「相思相愛の」パ・ド・ドゥを踊る場面は何度見ても心を奪われる。この場面の振付はどうやって思いついたのだろう。華やかでアクロバティックで、現実のものではないようだ。軽やかにリフトされる女性ダンサーは宙に舞い上がった後、夢のように地上に滑り降りて、再び無重力空間にいるように持ち上げられる。いかに振付家が天才的であったとしても、この日常から切り離された動きが現実的な意識から生まれたとは思えない。タチヤーナは眠りの中で幻想を見るが、クランコもまた眠りから霊感を得ていたのではないか。ベジャール(クランコと同い年)と同様クランコも不眠症で、常備薬だった睡眠薬のアレルギーで飛行機の中で亡くなった。覚醒しすぎて眠れない体質だったのだろうが、睡眠時に溢れ出す無意識や霊感からヒントを得ていたのかも知れない。

マクミランの「マノン」の土台にプッチーニのオペラ「マノン・レスコー」があったように、クランコの「オネーギン」もチャイコフスキーのオペラ「エフゲニー・オネーギン」を下敷きにして作られている。二つのバレエはオペラをそのまま使えなかったので、クランコはチャイコフスキーの小曲や様々な断片をパッチワークのように繋げてストーリーに沿うようにした。この手工芸的な技が、改めて凄いと思われた。タチヤーナの聖名祝日のパーティで使われる音楽は特に素晴らしく、貴族のうわべの遊びのような「サロン風ポルカ」に合わせて悪ふざけするオリガとオネーギンの踊りは、音楽の軽薄さも加わってレンスキーを苛立たせるのに十分なのだ。

オネーギンとの決闘前にレンスキーが踊るソロは、オペラの『わが青春の輝ける日々よ』を思い起こさせる。フィゲレドに取材したとき、オペラのアリアは聴いたことがないと語っていたが、死を意識した若者の孤独と絶望が無垢なオーラから感じられた。あのシーンは大変緊張するはずだ。決闘に勝ったオネーギンが顔を覆いながら崩れ落ちるシーンでは、フリーデマンの顔色も蒼白だった。毎回少しずつ演技が違っている。

ベテランダンサーであり振付家でもあるロマン・ノヴィツキーが演じたグレーミン公爵が格別の存在感だった。彼もオネーギン・ダンサーで、タフで繊細な悪役が堂に入っていたが、今のノヴィツキーがフリーデマンと並ぶと、シュツットガルト・バレエの宝物が輝いているように見える。若妻タチヤーナと踊るサンクトペテルブルクの夜会では、バスが歌う「恋は年齢を問わぬもの」が聴こえてくるようだった。外見と所作が、これ以上ないという理想的なグレーミンで、原作では傷痍軍人という設定だが、その傷跡まで衣裳の中に見えるようなたたずまいだった。

短い3幕でオネーギンとタチヤーナが再会する場面は、最後の物凄いハイライトで、このシーンのパ・ド・ドゥもアクロバティックの極致。それがすべて男女の情動を表している。バレエでしか表現できないエモーションで、チャイコフスキーの音楽も高揚する。机の前に座って無表情のままのタチヤーナは、かつて自分を拒絶し妹の婚約者をピストルで撃ったオネーギンを追い払おうと心の準備をしている。ところが、追われるように闇から現れた哀れなオネーギンが自分の隣にやってくると、こらえていたものが一気に爆発する。この男の哀れさはかつての自分の哀れさで、鏡で映したような手紙まで送りつけてきた。尊敬と哀れみという一見相容れない感情が入り混じると、狂気の恋になるのだ。
オネーギンは自分の分身であり、二人は元々ひとつの存在であった。情念に陥落する瞬間、髪の毛一本ほどの重さで理性の天秤が勝つ。オネーギンは泥棒のように走り去り、タチヤーナは一瞬追いかけて、舞台中央に戻ってくる。エリサは震えながら泣くラストだったが、あれはダンサーの自然な演技に任されているのだろうか。昔斎藤友桂理さんが演じたときは、涙ながらに「理性が勝った!」と片腕を上げる幕引きだった。

カンパニー全員のコンディションが素晴らしく、一幕で群舞の男女ペアが開脚でジャンプしながら舞台を縦横に横切っていく壮麗な場面は大きな見どころ。ヴォルフガング・ハインツ指揮東京シティ・フィルハーモニックもダイナミックで快活な演奏を聴かせた。初演は1965年でクランコ38歳の傑作。初演から59年後の上演も熱狂的なスタンディングオベーションが巻き起こった。


photo: Stuttgarter Ballett

モーリス・ベジャール・バレエ団『バレエ・フォー・ライフ』(9/21)

2024-09-22 00:31:36 | バレエ
3年ぶりのBBLの来日公演は、「新芸術監督」ジュリアン・ファヴローが主役のフレディを演じる『バレエ・フォー・ライフ』から始まった。ベジャール亡き後17年間にわたって芸術監督を務めてきたジル・ロマンとのリーダー交代劇はカンパニーもバレエ界全体をも驚かせたが(誰よりジュリアン自身も)、バカンスを終えて戻ってきたダンサー達は、新シーズン最初のツアー先となった日本で最高のパフォーマンスを繰り広げた。
このバレエは何回観たか数えきれない。ジュリアンがフレディが踊る姿を初めて観たのは22年前の2002年。眩しい金髪で均整の取れた美しい長身、時々女性のようにも見える妖艶さ、ライトの下で特別な光を放つ目の色など、美しいベジャールダンサーの中でも特に美しく、オーラまで完全に神々しかった。2002年の『ダンス・マガジン』では評論家の渡邊守章先生も彼の美しさを賛美していて、その文章が好きでバックナンバーを保存している。2004年にはジュリアンのフレディを求めてイタリアのトリノのレージョ劇場で三日間このバレエを観た。

2024年でダンサーとしてのキャリアを終え、監督の仕事に専念するジュリアンの「日本で最後のフレディ」はこれまでと同じように素晴らしく、あらゆるシーンが力強く微塵の衰えも感じさせなかった。「これがラストなのだ」と思うと感傷的にもなるが、正式に芸術監督となった彼の統率力も見られる大切な「始まり」の公演でもあり、ダンサー全員がそれぞれの演技を今までのように成功させないと監督の落ち度ということになる。
そうなると、すべてのダンスの細部が目に入って来る。今のカンパニーには魅力的なダンサーがたくさんいて、Bプロで『ボレロ』を踊る大橋真理さんが「ブライトン・ロック」「コジ・ファン・トゥッテ四重唱」「ゲット・ダウン×メイク・ラヴ」「テイク・マイ・ブレス・アウェイ」「ラヴ・オブ・マイ・ライフ」でドキドキするような目覚ましい姿を見せた。ベジャール・ダンサーが素晴らしいのは、「彼女(彼)はこういうダンサーなのだ」というはっきりとした個性を感じさせる点で、それが一番の魅力になる。インタビューしたエリザベット・ロスが「ベジャールはその人の日常の様子を観察して振りをつけるから、他のダンサーに振り付けられたものをみて『そういう姿も振付にしてしまうのね』とヒヤリとしたことがある」と語っていた。面白いのは、昔いたダンサーの面影を宿す新しいダンサーたちもいて、思わず血縁なのかと思ってしまうほどで、要は魂の形が似ている。BBLに集まってくる若者たちは確かに「引き寄せられてくる」のだと確信した。

ジル・ロマンが演じていた狂言回し(?)の役を、2022年にカンパニーに復帰したオスカー・シャコンが踊ったが、今回はさらに悪魔的なカリスマ性を増強し、ところどころジルを見ているような気がした。オスカー自身「BBLで再び踊れるようになったのは、モーリスの天の采配」と語って、それを許可したジル・ロマンに感謝していたが、役者としての技量も求められるこの特殊な役を高いクオリティで演じられるダンサーは少ない。「フリーメイソンのための葬送音楽」は今やオスカーのためのダンスだった。
前回の来日で「モーツァルトピアノ協奏曲第21番」を踊ったアントワーヌ・ル・モアルが今回も同じパートを踊り、小悪魔的な魅力を増していて、見たことのないような細かい即興も入れて楽しませてくれた。相手役のキャサリーン・ティエルヘルムはベテランの域にいるダンサーで、華やかさと安定感があり見ていて心が涼しくなる。アントワーヌは若き日のパトリック・デュポンを彷彿させ、今後が楽しみ。「シーサイド・ランデヴー」ではテクニシャンのソレーヌ・ビュレルが可愛い水着姿で陽気に踊り、日本人ダンサーの武岡昴之介さん(非常に目を引く美しいダンサー)も海辺の若者の一人を踊った。ソレーヌはベジャール・バレエに魅了され、カンパニーに入れるまで他で修業を積んできた信念の人で、Bプロの『コンセルト・アン・レ』でも美しいソロを踊る。

このバレエは好きなところがありすぎて、1時間50分があっという間に過ぎてしまう。かつて小林十市さんが踊った『ウィンターズ・テイル』を大貫真幹さんが踊り、何か目頭が熱くなった。12月のローザンヌ取材では30代のほとんどを怪我の痛みとももに踊り続けてきたと語ってくれた。ジュリアンとの「レディオ・ガ・ガ」を踊ったのは、東京バレエ団から移籍した岸本秀雄さんで、ベジャールがある時期の日本人ダンサーに求めていた永遠の少年性を見事に表していたのに感動した。ジュリアンと掛け合いで踊る姿は「火の鳥」を見ているようだった。

一人一人のダンサーを隅々まで見て、彼らの個性がどう発展していくかを想像している自分は、もしかしたら「ジュリアンと同じ視点で見ているのかな」とうぬぼれた気持ちになった。しかしそれはベジャールがダンサーを見ていたときの視点で、「私のところにいるダンサーたちはなんて素敵なんだ!」という思いで作ったのが「バレエ・フォー・ライフ」なのではないかと思いついた。夭折したジョルジュ・ドンとフレディ・マーキュリーとモーツァルトに捧げるバレエだが、同時にベジャールの目の前にいた輝かしいダンサーのために振り付けたのが、全員が過激なほど魅力的になるこの作品だと感じた。次々と新しい命がやってきて、ベジャールの精神を伝えようと励む姿は「わが子のように可愛い!」に違いなかった。ベジャールがダンサー全員を抱擁で迎える「ショー・マスト・ゴー・オン」は、今回特別演出でベジャールの生前の写真が舞台中央に置かれた。ちゃんと滑車がついていて、ダンサーと一緒に前に出られるようになっている。今日の公演ではジュリアンがかつてのベジャールの役割をやるのかも知れないと思うと、計り知れない気持ちになる。

ジュリアンは個人的に最も魅了されたダンサーで、ベジャールの巨大な哲学を翻訳してくれただけではなく、彼が同化している芸術の世界に届きたいという渇望感から、自分はバレエを始めオペラやオーケストラを取材するようになった。それ以前はポップスのライターで、芸能ライターや三面記事の追跡ライターのような仕事ばかりやっていた時期があり、その後も何かを成し遂げたわけではないが、芸術の多くを学ぼうとする方向へ変えてくれたのは、ジュリアンその人なのだった。
フレディは女装したりバナナの被り物を被ったり、大声で叫んだり笑ったり、よくも毎回あんなに思い切りやれるものだなと思うが、ジュリアンの代表作で、私が観たすべての上演で一ミリも手を抜かなかった。精神力の効果か、不調だった姿を見たこともない。「こんなに呆気なく終わってしまうのか」と呆然としたが、彼がどんなに素晴らしかったか知っている今のBBLのダンサーは、全員ますます急成長するのではないかと思う。カンパニーに長くとどまる人も増えるような気がする。
「ベジャールはあなたを尊敬していたと思う」と伝えたとき「振付でもよく意見を求められた。君はどうしたらいいと思う?と」ベジャールとジュリアンの対話はまだ続いているのだ。


(2023年12月17日 ローザンヌのBBLにて)


パリ・オペラ座バレエ団『マノン』(2/17夜公演)

2024-02-18 11:25:14 | バレエ
来日中のパリ・オペラ座バレエ団の『マノン』の2/17ソワレを鑑賞。マクミラン振付の『マノン』はパトリック・デュポン監督時代にオペラ座で初めて上演され、その公演にはマクミランも招聘されたが、振付家の死の二年前(1990年)のことだった。2022年には『マイヤーリング』もオペラ座のレパートリーになっており、オペラ座でのマクミラン再評価が高まっていると感じた。

幕が開くと、マノンの兄のレスコーがスポットライトを浴びて、いわくありげな表情でこちらを見つめている。最初に観客の目に入るのはマノンでもデ・グリューでもなくレスコーである。この人物の邪悪さと軽率さが物語のさまざまな悲劇を生むのだが、舞台を行き交う娼婦や物乞い、好色な金持ちたちも潜在的な不運を加速させる。ニコラス・ジョージアディスの装置は奥に幾重もの闇を感じさせる重層的な作りで、衣装は全員を見るのが大変なほど豪華で華麗。着飾った女性たちのドレスは18世紀後半の最も華やかなスタイルで、照明が当たっていないダンサーも見事な衣裳をまとっていた。娼婦たちにも階級があり、貧しい娼婦はそれに似合った格好をして快活に踊る。男たちもさまざまで、怪しい紳士、物乞い、スリ、ネズミ捕りが往来する。
その中で、一人だけ純粋で高貴な人間としてたたずんでいるのがデ・グリューで、えも言われぬ上品な姿勢で本を読んでいるエトワールのユーゴ・マルシャンが、「掃き溜めの鶴」ならぬ白鳥に見えた。主役のマノンは今やベテランの域に達したドロテ・ジルベール。可愛い脇役の小娘を演じていた頃から彼女が大好きだったが、16歳のマノン役も登場のシーンは初々しい。デ・グリューとマノンの視線はなかなか合わない。群衆の中で二人がお互いを意識するまで、マクミランはじりじりと観客をじらす。

プッチーニのオペラ『マノン・レスコー』なら、有名な「見たこともない美女」が流れてくるところだが、バレエ版ではマスネの曲が使われ、それもマスネのオペラ『マノン』ではなく、「あまり知られていないマスネの曲」で構成されている。物語はプッチーニ・オペラが参照されているが(ニコラス・ジョージアディスの提案だった)、著作権が切れていなかったのでプッチーニは使えない。クランコが『オネーギン』でチャイコフスキー・オペラを使いたいのに使えなかった苦労を、マクミランも経験したのだ。しかし、マスネの小曲群はバレエで素晴らしい効果を発揮し、特にハープ二台をピットに入れたこの公演でのオーケストラは素晴らしかった。東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団を指揮したピエール・デュムソーは天才的で、すべて暗譜で振っていたという。

ドロテ・ジルベールのマノンとユーゴ・マルシャンのデ・グリューは究極のカップルで、過去のガラ公演で『寝室のパ・ド・ドゥ』を観たときも感動したが、全幕で観るとハイライトのときよりも淡々としている。演技が大げさではなく、もっとハイセンスで秘めたものを感じさせるのだ。マノンに愛を告白する長いデ・グリューの最初のソロは、ダンサーにとって大変緊張するシーンだと思う。クラシック・バレエの技術の正確さが厳密に認められ、男性ダンサーに視線が一気に集中して、他に気を散らしてくれるものがない。ユーゴの白鳥のような優雅さと美しさに目を奪われた。自由で躍動的で、何物にもとらわれない。今活躍している男性ダンサーの中で一番美しいのではないかとさえ思った。

ドロテは踊りに潔さがあり、マノンのような若い役が似合うのも、彼女の中にやんちゃな少年性があるからだろう。一方ユーゴには、恥じらう乙女のような可憐さがある。と言っても本人には何のことか分からないだろうが、客席からステージを見ていると、物理的世界とは違うもうひとつの次元が見えてくることがある。マクミランはそこにこだわった。マノンとデ・グリューの引き合う心には神秘的な魔法が働いている。『寝室のパ・ド・ドゥ』はやはり名場面で、殊更大きな喝采が湧き起こった。

マノンが簡単に心変わりし、厚化粧の老ムッシューに身を売る場面も自然だった。ドロテは『オネーギン』のタチヤーナを演じたときも独特の解釈だったが、マノンもユニークで、自分自身は過剰な心理表現をせず、妹を売ろうとする兄の邪悪さや、毛皮や宝石の輝かしさにものを言わせる。マノンは社会的な犠牲者であり、「空っぽ」であればそれで完璧なのだ。ほとんど表情を変えずに、デ・グリューとの愛を放棄する成り行きは見事で、兄レスコーと老ムッシューと三人で踊るパ・ド・トロワは、マクミランのグロテスクな一面が溢れ出していた。

『マノン』のバレエの根底に流れているのは、ジョージアディスの美術に表れているような「貧困」であり、大多数の人間たちが抱いている貧困(やがて死に行きつく)への恐れである。マクミラン自身が、貧しい階層の出目であり、その上酷い舞台恐怖症だった。マノンは生存するために愛を捨て、その時代の大多数の人々が選ぶように金を選ぶ。そこに「仕方ない」という力学が働き、逃げたマノンを追いかけようとするデ・グリューの首根っこをつかまえたレスコーは、一幕の最後に「金がすべてだって、わかんないのか!」と純情な友人を恐喝する。
2幕の高級娼家でのシーンで、マノンが大勢の男性たちと戯れるようにアクロバティックな動きを見せる件は圧巻である。マノンは男たちの欲望に突き動かされ、欲望は金で満たそうとし、若くて美しい女は自分に無際限な富が流れ込んでくることがギャンブルのように愉快なのだ。少年が残酷な遊びに耽るように、マノンは玩具になった自分を楽しむ。

この高級娼家での乱痴気騒ぎ(?)はことのほか長く感じられた。マノンを目で追い、接近を試みようとするデ・グリューに完全に感情移入してしまったからだ。心で通じ合ったはずのマノンが「私はあなたが見えないのです」「私もここにいません」という態度で、男たちと悪ふざけをしている。自分自身が透明人間になってしまったかのようで、ちょっかいを出してくる娼婦たちもそのうち諦めて、側を離れていく。同じ空間にいながら、違う意識を生きていると相手はこちらを「見えていません」と言う。生きた心地がしないデ・グリューからずっと目が離せなかった。

高級娼婦たちを演じたオペラ座の女性ダンサーと、マダム役のアデライド・ブコーが艶やか。一人「ズボン役」の女性ダンサーがいたが、男装の娼婦という設定らしい。愛を思い出したマノンはデ・グリューの下宿に戻るが、束の間の逢瀬のあと、乱入してくる近衛兵たちと、老ムッシューに銃殺されるレスコーの描写が恐ろしかった。オペラではレスコーのこの場面はなかったように記憶している。

3幕は約25分と短いが、ここにマクミランのすべてが集約されている。生前は毀誉褒貶が激しかったマクミランだが、こういう世界を描いてしまったら、建前主義の良識派は当然激昂しただろう。マノンとデ・グリューの流刑地となったニューオーリンズで、娼婦たち(?)は髪を短く刈られ、僻地勤務の看守は好き放題な暴力を働く。ざんぎり頭の女たちの顔を一人一人確かめて、遊び相手を選ぶ兵士たちの様子は、毎回胸をかき乱される。昨今のデリカシーでは難しいのではないか、と思っていたマノンへの暴力シーンも、これを抜いたらマクミランではない、と言わんばかりにしっかりと演じられていた。
最下層の存在となり、文字通り男の玩具となったマノンが「モノ」のように看守と踊る振付は「これがバレエだなんて」と思うほど特異で、ここまで人間を深堀りしてしまったマクミランは、自分の才能で自分の首を絞めていた。極北の芸術家であり、異能の人であった、と再認識した。
奇異な植物(スパニッシュ・モスと呼ぶらしい)が縄のようにぶら下がるラスト近くでは、これまでの登場人物が幻影のように現れる。マクミランはバレエで、オペラを超えようとしていたのか。これほどの場面は、どんなオペラにもなかなか巻き起こらない。沼地のパ・ド・ドゥはリフトも高く、ダンサーの危険度も最高潮に達するが、オペラ座のペアは最後までパーフェクトで、ピットの音楽も神懸かり的に高まった。マクミランのミューズの一人であったアレッサンドラ・フェリが一度引退を決めたとき(2007年)フェアウェル公演のラストでこの沼地のパ・ド・ドゥを踊ったのを思い出した。ざんぎりヘアで紙吹雪を浴びる姿が再び脳裏に蘇った。

今回の来日公演はジョゼ・マルティネスの監督のもとで行われた「新体制」の公演だったが、ダンサーのキャスティングは適格で、前半の『白鳥の湖』では確実に何かが新しくなっているのだろうと思わせた(こちらの公演は観ていないが新鮮な人選)。前回のパリオペ来日公演はコロナ禍の規制と規制の間を縫って奇蹟的に実現したものだったが、オペラ座はつねに奇蹟を見せてくれる。ドロテとユーゴの黄金コンビの頂点をこの作品で観られた観客は、後々「奇蹟だった」と思い返すことになるかも知れない。