小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団(11/7)

2023-11-14 17:14:10 | クラシック音楽
ファビオ・ルイージ指揮ロイヤル・コンセルトヘボウ管の来日公演、サントリーホールでのBプログラムを聴く。チケットは高価だが客席はほぼ満員と思われるほど埋まっており、在京オケの定期会員より若い聴衆が多い印象。開演前のアナウンスはルイージの声で、マエストロからのもてなしの挨拶の言葉に和んだ気分になる。
ウェーバー オペラ『オベロン』序曲は薫るようにエレガントな響きで、ドタドタしたところがない(!)軽やかな演奏。Bプロは謎めいた曲並びで、前半の二曲目はリストの『ピアノ協奏曲第2番 イ短調』がイェフム・ブロンフマンのソロで演奏された。楽章の区切りがなく、ひとつらなりの幻想曲のようなつくりのコンチェルトだが、リストのエッセンスが凝縮された個人的に大好きな曲。体格のいいブロンフマンは身体をびくりともさせず、指先だけが鍵盤の上を煌びやかに踊った。秘密の扉を開けて別次元に吸い込まれるような導入部から夢心地に誘われるが、いつしかオケもピアノもクレイジーなほど勇壮な展開に入り、「いったい何を聴いていたのか」よくわからない面白い余韻が残る。この曲はルイージとブロンフマンが1988年に初めて共演した曲で、今回はブロンフマンからこの曲をやりたいというリクエストがあったという。重苦しさの全くないクリアなオーケストラと、魔術師のようなピアニストのパフォーマンスが、金糸銀糸の糸で織られた絨毯のような時間を作りだした。アンコールはショパンのノクターンop.27-2で、サントリーホールでショパンを聴くのは(奇妙なことに)久々で、宝石の響きに陶然となる。夜が長い11月に相応しい、星空のような夜想曲だった。

後半はチャイコフスキー『交響曲第5番 ホ短調』。前日がチャイコフスキーの命日だったこともあり、面白い偶然が重なるものだと思ったが、130回目の作曲家の命日の週は4回もサントリーでチャイコフスキーを聴くことになった。チェコフィル弦楽アンサンブルでの弦楽セレナーデ、東フィルと高関健さんの3大コンチェルト、東フィルとバッティストーニのオール・チャイコフスキー・プログラム、オケ公演ではないが上野では東京バレエ団の『眠れる森の美女』でもチャイコフスキーを浴びた。高関さんのロックでソリッドな煽り、バッティストーニの煮込みが効いた激情、それぞれの指揮者がチャイコフスキーに魅了され、一部憑依されるような表情を見せていたのが面白く、完璧に対象化された冷たいチャイコフスキーの指揮というのもあるのだろうかと思った。作曲家のほうでそれを許さないような魔性を放っている。
ルイージは指揮棒なしでこの5番を振り、ベテラン奏者も多いコンセルトヘボウ管のメンバーが、何かを思い出すように滋味深い音を奏でた。「指揮とは錬金術である」という言葉を聞くたびに思い出すのはヤンソンスのことで、私がこれまで見た中でオケを完全に魅惑する指揮者の一人がヤンソンスだったが、11年の在任期間の間に彼がこのオーケストラに遺していったアウラのようなものを感じずにはいられなかった。僅か2年で終わってしまったガッティの在任時にも来日公演を聴いているが、オケが(印象として)ほとんど鳴っていなかった。楽員全員がヤンソンスを懐かしんでいるようで、思うままにならないガッティの焦りが伝わってくるようで気の毒だった。
ルイージとコンセルトヘボウ管の相性は、お互いの繊細な部分で和解しているような調和があり、そこにチャイコフスキーの霊魂が加わって、彫りの深い豊かな響きが流れ出した。ルイージは自分自身のことを毒々しく語るタイプの芸術家ではなく、演奏会の数日前に行われた記者会見でも、次期首席のマケラを賞賛したり、軽くプログラムの解説をしたり淡々として、こちらも何かを深く詮索しようという気にはならないのだった。
チャイコフスキーとルイージがつながることで、ルイージの秘められた感情が爆発した。「ここでしか私は本当のことを語らないのです」という指揮者の声が聴こえたような気がし、そういう微妙なものに反応するコンセルトヘボウ管のセンスが活きていた。指揮者はふだん隠していることも、オケの前では「ただそこにいる」ことで開示しているのだと思う。
チャイコフスキーの5番も6番も不幸の只中で書かれたが、そこには悲劇を美化するような色合いもあって、誘惑的で瞬時に人の心を奪う生身のチャイコフスキーの個性というか、媚態というものも感じられた。人間は矛盾に満ちていて、ひとつの側面からだけでは語り尽くせない。チャイコフスキーは明らかにマザコンだったと思うが、実母は14歳のときに亡くなっている。その埋められない寂しさも音楽には書かれていると思った。混沌へダイブするような激しい指揮も見られ、いつもと違うルイージの姿を見た。

思い出したのは、何年か前の松本での『エフゲニー・オネーギン』で、恐らく譜読みをする前のルイージに色々質問したところ「オペラについてはまだ質問を受けたくない」という不機嫌な反応で、大いに当惑したのだった。松本でのオペラは素晴らしい出来栄えで、歌手たちも大健闘。あのオネーギンがきっかけで、ルイージの中でもチャイコスキーへの共感が高まったのではないか。オネーギンに恋文を渡したタチヤーナと、現実に現れた若きアントニーナの影が重なって、間違った結婚をしたチャイコフスキーが傷心の中で書いたのが交響曲第5番だった。
「すべては私の妄想なのかも知れない」と思いつつ、「妄想以外の聴き方があるだろうか、妄想がなければ、歴史の授業のレポート提出と同じではないか」とも思った。音楽は妄想を加えて聴くべきで、小学校の鑑賞教室でももっとイマジネーションで聴くことを推奨すべきなのだ。そう声を上げなくても、自然とそういう時代がやってくる。
アンコールに『エフゲニー・オネーギン』のポロネーズが演奏されたので、「あっ」と少し嬉しくなった。



チャイコフスキー 3大協奏曲の饗宴 (11/6)

2023-11-09 00:50:08 | クラシック音楽
「チャイコフスキー130年目の命日に捧ぐ」とサブタイトルがつけられたオール・チャイコフスキー・プログラム。前半に『ロココの主題による変奏曲 イ長調』『ヴァイオリン協奏曲 ニ長調』、後半に『ピアノ協奏曲第1番 変ロ短調』が演奏された。高関健さん指揮 東京フィルハーモニー管弦楽団。
『ロココの主題』でソロを弾いたスペイン人チェリスト、パブロ・フェランデスの演奏が大変魅力的。素晴らしい音感で音程を取り、ひとつひとつのフレーズを有機的につなげていくので、ソロパートがひとつの生き物のように感じられる。地味でおっとりしているようで、秘められた情熱があり、オケとの対話も繊細だった。プロフィールを見ると、大変人気の演奏家でスター並みの注目度の人らしい。演奏は堅実で、むしろ禁欲的な雰囲気さえある。しかしながら音楽の輪郭は魅惑的で、聴き手をくつろいだ気分にもさせてくれる。一言では語り切れない、何層もの神秘的な資質をもったチェリスト。チェコフィルの来日公演にも参加して協奏曲を弾いたらしい。謙虚さを感じさせるステージマナーも好感が持てた。コンサートマスターの三浦さんが賞賛するように握手していた姿が印象的だった。

 『ヴァイオリン協奏曲』では長身のヤン・ムチェクがスマートに現れ、ヴァイオリンがとても小さく見えたが、弾き始めると楽器と身体が完全に一体化して、情熱的な音楽が溢れ出した。この曲は数えきれないほど聴いているはずなのだが、こんなにも凄い技巧が詰まっている曲だということに改めて驚愕した。ソリストの集中力が並大抵でなく、ピッチも正確なので、旋律のピュアさが瞬間瞬間に飛んできて「一体こんなものを書いたチャイコフスキーは、演奏家に何をさせようとしたのだろう」と思ってしまう。オーケストラはこの曲では大変野性的で、高関さんが引き出すサウンドはロックのようで、一楽章のアッチェレランドはソリストの情熱とシンクロしたのだと思うが、型破りなほどだった。こんなに密度の濃いヴァイオリンコンチェルトは聴いたことがない。

後半の『ピアノ協奏曲第1番』ではキリル・ゲルシュタインが登場し、オケがソリストが囲むように配置された前半の2曲と、全体から隔絶された前方に楽器が置かれるピアノ協奏曲とはやはり違うものだなと思った。ゲルシュタインの大きな手が、冒頭の和音を分散和音で弾いていたのが鮮烈だった。力強い打鍵というより、雅やかで女性的な雰囲気になる。サンクトペデルブルクの優雅な街並み、オペラ『エフゲニー・オネーギン』の3幕の舞踏会の場面を連想した。しかしすぐさま男性的な低音が押し寄せるように鍵盤から唸り出し、大きなグルーヴを生み出していく。ゲルシュタインはもうひとりの指揮者のようにチェロや管楽器を目で制し、オケをコントロールしているように見えた。この協奏曲では、指揮者が二人いたように見えたのだ。否定的な意味ではなく、それが素晴らしい効果を上げていた。ゲルシュタインはカリスマ的で、チャイコフスキーの音楽から人間の矛盾や苦悩まで引き出して、聴き手の心臓に触れてくる音楽を創り上げていく。演奏家の知性と霊性によって、未知の印象が膨大に引き出されていた。ところどころ新鮮に聴こえる箇所があり、プログラムを見ると「1879年版 チャイコフスキーが所有していたスコアに基づく」と記載されている。

ソリスト3人の莫大な才能と精神性が、異様なほどの幸福感をもたらしてくれたコンサート。ただの幸福感ではなく、作曲家が抱えていた苦痛や悲哀こそが人間の貴重な感覚なのだということも教えてくれた。チャイコフスキーの130回目の命日を偲ぶのに、サントリーホールは確かに相応しい場所で、シャンパンの泡を模した素敵な照明のあたりに、作曲家の霊魂が飛来してきたようにも感じられた。イタリアオペラのピットに入るときはイタリアのオーケストラの音を出し、チャイコフスキーでは完全なるロシアのオケに変身する東フィルのサウンドにも、改めて感動した晩だった。