カウンターテナー歌手の藤木大地さんが主演する歌劇『400歳のカストラート』を東京文化会館小ホールで鑑賞。2020年2月初演の再演で、上野の小ホールの649席は完売(感染症対策で前方席の一部は開放せず)。400年のときを生きる虚勢歌手「ダイチ」を演じる藤木さんは、ルネサンスから現代までの歌曲やオペラアリアを20数曲披露する。企画原案と選曲は藤木さん自身、脚本・演出・美術は平常(たいらじょう)さん。2年前と大きく変えたところはないというが、コロナや戦争が起こった後の世界では、通底する主題である「命」ということがより真に迫って感じられた。
藤木さんは台詞は語らず、大和田獏さん大和田美穂さんの朗読によって4世紀の物語のあらましが語られる。朗読の二人は時々飛び出すように、物語の登場人物になったりする。この作り方が、改めてうまいと思った。「ダイチ」は貧しい家に生まれ、歌の女神に導かれ、カストラートとしてスター歌手になる。そこでは色々な人々に会う。初恋の女性、辣腕マネージャー、裕福なパトロン…永遠の命をもたない彼らはつねに先に死んでいく。前半のラストのラフマニノフ『ヴォカリーズ』は、胸掻きむしられた。
藤木さんには平常さんとの対談の司会と、対面インタビューと2回お話を聞いたことがある。とても現実的で客観的にご自身を見られている方で、そのことを考えるとカストラートの「ダイチ」は、フィクショナルな創造物なのかなとも思うが、舞台では藤木さん自身も存分に投影されていたように思う。「歌手は孤独に強くなければならないと欧州での最初のマネージャーに言われた」と藤木さん。ダイチも絶望の淵に沈んでは蘇り、次の時代のステージで軽やかに歌う。声の限りに歌うカストラートが、声を失う場面は見ていて辛かった。あれほど研ぎ澄まされた歌を歌う藤木さんだから、つねに「余計な時間などどこにもないのだ」と思いながら、磨いているのだろう。ある日声が出なくなる恐怖、というのもご本人が深層心理で感じていることなのではないかと思った。
面白いのは、美声の持ち主であるダイチは色々な人から愛され、物語中では男性の恋人がいたり女性の恋人がいたりするのだが、そこに加えて歌手の才能をプロデュースしようとする黒幕的な存在も、性的なこと以上に執拗に関わってくるのである。「その才能を、粘土のように自分が形作りたい」という欲望は、何なのだろう? 余計なおせっかいのようで、強烈な愛でもあり、支配欲や金銭欲とも関わり合いがある。恋愛よりある意味、危険な香りがする。平常さんの脚本は、このあたりの執着も巧みに匂わせていた。
音楽監督の加藤昌則さん(ピアノ)率いる弦楽アンサンブルも素晴らしく、ヴァイオリンには成田達輝さん、周防亮介さん、ヴィオラに東条慧さん、チェロに上村文乃さんが名演を聴かせた。初演からこの作品に関わる成田さんは遊び心たっぷりのジャブも飛ばし、魅力いっぱいだった。加藤さんは今年の「虫めづる姫」でもハイセンスな演奏と楽曲提供に驚かされたが、この小ホールのシリーズに登場する人は皆、芸に色気があるのだ。平常さんも凄く、色っぽい人。演劇・音楽はこれがなければダメだ。プロとはそういうことなのだろう。藤木さんの色気も、このチームでは最高に発揮される。ゲネプロと本公演、両方観たけれど、どちらも本気の演技で、本番はさらに最高だった。
歌の合間にマーラー『交響曲第6番』の3楽章のピアノ五重奏版が演奏される件では、溺れるような幸福感にとらわれた。永遠の命を与えられたカストラートの物語は、逆説的に、死すべき運命の自分や他の人々の儚さと、その合間に蜃気楼のように見える幸福の強烈さを想起させた。芸術家たちのすごい芸が、刹那の命のように燃え、それが客席に伝播する…649席があっという間に満員になるという「魔」は、そういう芸がなくてはダメなのだ。今後行われる地方公演も見たくなった。
藤木さんは台詞は語らず、大和田獏さん大和田美穂さんの朗読によって4世紀の物語のあらましが語られる。朗読の二人は時々飛び出すように、物語の登場人物になったりする。この作り方が、改めてうまいと思った。「ダイチ」は貧しい家に生まれ、歌の女神に導かれ、カストラートとしてスター歌手になる。そこでは色々な人々に会う。初恋の女性、辣腕マネージャー、裕福なパトロン…永遠の命をもたない彼らはつねに先に死んでいく。前半のラストのラフマニノフ『ヴォカリーズ』は、胸掻きむしられた。
藤木さんには平常さんとの対談の司会と、対面インタビューと2回お話を聞いたことがある。とても現実的で客観的にご自身を見られている方で、そのことを考えるとカストラートの「ダイチ」は、フィクショナルな創造物なのかなとも思うが、舞台では藤木さん自身も存分に投影されていたように思う。「歌手は孤独に強くなければならないと欧州での最初のマネージャーに言われた」と藤木さん。ダイチも絶望の淵に沈んでは蘇り、次の時代のステージで軽やかに歌う。声の限りに歌うカストラートが、声を失う場面は見ていて辛かった。あれほど研ぎ澄まされた歌を歌う藤木さんだから、つねに「余計な時間などどこにもないのだ」と思いながら、磨いているのだろう。ある日声が出なくなる恐怖、というのもご本人が深層心理で感じていることなのではないかと思った。
面白いのは、美声の持ち主であるダイチは色々な人から愛され、物語中では男性の恋人がいたり女性の恋人がいたりするのだが、そこに加えて歌手の才能をプロデュースしようとする黒幕的な存在も、性的なこと以上に執拗に関わってくるのである。「その才能を、粘土のように自分が形作りたい」という欲望は、何なのだろう? 余計なおせっかいのようで、強烈な愛でもあり、支配欲や金銭欲とも関わり合いがある。恋愛よりある意味、危険な香りがする。平常さんの脚本は、このあたりの執着も巧みに匂わせていた。
音楽監督の加藤昌則さん(ピアノ)率いる弦楽アンサンブルも素晴らしく、ヴァイオリンには成田達輝さん、周防亮介さん、ヴィオラに東条慧さん、チェロに上村文乃さんが名演を聴かせた。初演からこの作品に関わる成田さんは遊び心たっぷりのジャブも飛ばし、魅力いっぱいだった。加藤さんは今年の「虫めづる姫」でもハイセンスな演奏と楽曲提供に驚かされたが、この小ホールのシリーズに登場する人は皆、芸に色気があるのだ。平常さんも凄く、色っぽい人。演劇・音楽はこれがなければダメだ。プロとはそういうことなのだろう。藤木さんの色気も、このチームでは最高に発揮される。ゲネプロと本公演、両方観たけれど、どちらも本気の演技で、本番はさらに最高だった。
歌の合間にマーラー『交響曲第6番』の3楽章のピアノ五重奏版が演奏される件では、溺れるような幸福感にとらわれた。永遠の命を与えられたカストラートの物語は、逆説的に、死すべき運命の自分や他の人々の儚さと、その合間に蜃気楼のように見える幸福の強烈さを想起させた。芸術家たちのすごい芸が、刹那の命のように燃え、それが客席に伝播する…649席があっという間に満員になるという「魔」は、そういう芸がなくてはダメなのだ。今後行われる地方公演も見たくなった。